4 ◎◎
ポケモンセンターの窓から外を眺めれば、空も海も大地もすっかり闇に沈んでいた。
モモカはロビーのソファに腰かけて、ガラスに映った自分の姿をぼんやりと見つめた。腕の中でモクローが寝息を立てていた。
クサナギとガルーラが治療室に入るのを見届けた後、モモカは何もできないと知りながらもポケモンセンターを離れられなかった。それでロビーのソファに腰かけていたのだが、モモカも少し眠っていたようだ。
「気分はどうですか?」
顔を上げると、センターの受付職員が心配そうにこちらをのぞきこんでいた。湯気の立つカップを手に持っている。
「エネココアです。飲めそう?」
モモカはうなずき、カップを受け取った。ありがとうと言ったつもりだったけど、声はかすれてほとんど音にならなかった。
一口すすったココアはモモカを熱く満たし、心も体も芯からほぐしてくれるようだった。夢中になってその甘味を享受した後、やっと一息ついてモモカは尋ねた。
「ガルーラは無事なの? クサナギさんは?」
「大事ありません。今、ガルーラは療養室にいて、クサナギさんが付き添ってくださっています。クサナギさんから聞きました。あなたにすごく怖い思いをさせてしまったって。」
「ううん。あたしが悪かったの。よく考えもせずに飛びだしちゃったから。クサナギさんが助けてくれた。とってもカッコよかったんだよ。クサナギさんも、クサナギさんのポケモンたちも。」
受付職員は微笑んだ。
「ええ。彼らはクサナギさんの長年の相棒です。島巡りの頃からの付き合いだって。」
「じゃあクサナギさんの最初のポケモンって、モクローだったんだ。あたしたちと同じ!」
モモカの大声に驚いて、モクローが目を覚ました。
「そうね。大大試練も彼らと一緒に突破したって仰っていたわ。」
「大大試練を……!? すごい。」
「クサナギさんはこのポケモンセンターの中で一番強いんですよ。それでよく他の職員から他地方のバトル大会への出場を誘われたりするんだけど、アローラの外にはあまり興味がないみたいで……。」
「そうなんだ。絶対優勝できそうなのに。」
「ねえ。きっとクサナギさんにはクサナギさんのお考えがあるんでしょう。」
クサナギの「お考え」はモモカには全然わからなかった。そんな彼の奇妙な落とし物を拾っていたことを、モモカは思い出した。切り裂かれた紙片の入った、空っぽのモンスターボール。以前これについて尋ねた時は、はぐらかされてしまった。クサナギの考えも、このボールが何かも全然わからないが、
(やっぱり返すべきだよね……。)
モモカは「あの」と受付職員に言った。
「ガルーラの所に……クサナギさんに会いに行きたいんだけど、お願いできますか? 渡さなきゃいけない物があるの。」
受付職員は少し意外そうに目を開いた。だがモモカの真摯な思いが通じたのか、ややあって「いいですよ」と応じた。
ガルーラの療養室は廊下の突き当りにあるそうだ。本来なら従業員しか入れない場所にいるのはちょっとドキドキして、モモカは意味なくひっそりと歩いた。定位置――モモカの頭上に収まっているモクローも、心なしか息をひそめている様子だ。
目的の部屋にはすぐたどりつけた。扉が半分開いており、クサナギの姿が見えたのでそこだと分かった。しかし「クサナギさん」と言おうとして、モモカは思わず口をつぐんだ。
「……まない。いや、初めから期待なんてしていなかったか。」
クサナギの話し声がする。しかもかなり込みいった雰囲気だ。彼の他に誰かいる? モモカはそっと扉に忍び寄り、中をのぞいた。
「君は本当によく頑張ったと、俺は思うよ。すべてわかったうえで子供を抱え続けていくのは、さぞ苦しかったろう……。」
どうやらクサナギが床に座り、柵の向こうのガルーラに話しかけているらしい。療養室は頑丈な鉄柵で二分されていた。手前側の人間用スペースは全体の三分の一ほどだ。
ガルーラは力なく横たわっていたが、その目がぱっちり開いて耳もクサナギの方に傾いているのが、モモカのいる場所からでも知れた。腹袋には白い布の塊が入っている。おそらく治療の際に子供の死体をいったん取り出し、布に包んで返したものだろう。
クサナギは静かに話し続けた。
「理解できるなんておこがましいことは言えないが、それでも少しは想像できると思う。俺も似たようなもん、持ってたからさ。もう使えないモンスターボールを……。」
モモカはどきりとして、手中のボールを確認した。
「俺は死んだお守りをそこに入れて、ゼロだとわかっている可能性に長い間しがみついていた。けど、さっき失くしてるのに気づいたよ。たぶん君が殴りかかってきた時に落としたんだろう。ありがとな。おかげで……。」
彼の言葉はそこで途切れた。
沈黙。
モモカは、入室するなら今しかないと思った。クサナギはこの落とし物を探している。返さなければならない。
モモカは療養室の扉を大きく開けた。
「クサナギさん。」
クサナギは、少なからず驚いたようだった。「君か」となんとか発した彼の声が続きを紡ぐ前に、モモカは空のボールをクサナギに突き出した。
「これ、拾ったから返しに来たの。大事なもの……なんでしょ。」
クサナギはボールを受け取り、黙ったままだった。もしかして余計なお世話だったかとモモカは不安に思ったが、怒られたり断られたりする気配はない。モモカはクサナギの様子をうかがいつつ、そっと隣にしゃがみこんだ。クサナギは制さなかった。
「どこから聞いてた?」
何から話そうかモモカが考えていると、クサナギのほうから口を開いた。
「俺の独り言だよ。聞こえてたんだろ」
クサナギが薄く口角を上げた。隠すことに意味はないとモモカは悟った。
「ええっと……似たようなもの持ってるって辺りから……。」
疲れたように笑いを引きずって、クサナギは頭をかいた。気分を害してはいなさそうだ。それでモモカは思いきって尋ね返した。
「そのモンスターボールが、そうなの?」
「ああ。」
クサナギはボールを開くと、中からボロボロの紙片を取り出した。
「で、これが死んだお守り。」
ガルーラも体勢は変えないまま、じっとクサナギの手元を見つめていた。
続きを促していいものかモモカが思いあぐねていると、代わりにモクローがぽっぽろとさえずった。それを契機に、モモカは聞いた。
「それはどういうものなの?」
クサナギは目を閉じ考えた。人もポケモンも、お互いの呼吸や拍動が間近にあると感じるような、静寂の時間だった。
「これは元々、俺の作ったペーパークラフトだった。俺が島巡りする二、三年前の話だ。」
クサナギが語り始めた。
昔のクサナギは細かい手仕事遊びが好きで、よくペーパークラフトや木彫り人形の製作にふけっていたのだと言う。
「でも親父が嫌がってな。男らしくないとか思われてたんだろう。だんだん、夜に部屋でこっそり作るようになった。そんな頃、不思議な友達に出会ったんだ。」
「不思議な友達……?」
うーん、とクサナギは難しい顔をする。
「正直、いまだによくわからない。動くペーパークラフトと言うか……白くて、紙で出来たような見た目で、大きさはこのくらいで」
とクサナギは両手でモクローが入るくらいの空間を示した。
「とにかくそいつが窓から俺の部屋にやってきてな。俺の作品の周りを興味深そうに飛ぶんだ。変なやつだなあと思いながら俺は、即興でそいつの姿を真似たペーパークラフトを作ってやった。そしたらそいつ、大喜びしてなあ。それから毎晩、俺の所に遊びに来た。」
その時モモカはクサナギの表情を見て驚いた。彼は今までに見せたことのない、優しくて悲しい目で、手元の紙片を眺めていた。死んだ子供を腹に抱き続けたガルーラと同じ目だと、モモカは思った。
「そいつの腕らしき部分が剣みたいだったから、俺はそいつをツルギって呼んだ。ツルギは俺のペーパークラフトがずいぶん気に入って、新しいのを作るたび喜んだ。俺も嬉しかった。俺の作品を認めてくれるのは、ツルギだけだったから。だが……」
クサナギの声が落ちる。
「やがてツルギの存在が親に見つかった。親父はツルギを、ペーパークラフトにゴーストポケモンが憑いたのだろうと言って嫌悪した。お前がそんなものを作っているからだって、かなり責められたよ。作品全部と一緒に、ツルギを燃やしてこいと命じられた。」
「えーっ、ひどい!」
モモカと同時にモクローが短い悲鳴を上げ、ガルーラもうなった。
だよなあ、とクサナギは苦笑した。
「俺も今ならそう思う。けど子供だった俺は、泣きながら従うしかなかった。ツルギはもちろん状況を理解できなかった。ツルギに顔はなかったが、次々と作品を火にくべる俺を信じられないって目で見ていたのはわかったよ。」
クサナギは苦しそうなため息を一つ吐いた。
「だけど俺はどうしても、最初にツルギを真似て作ったペーパークラフトとツルギだけは、燃やせなかった。それで俺はツルギに、そのペーパークラフトを持って元いた場所に帰れって言ったんだ。ツルギは聞かなかった。だから俺は、火の点いた薪を拾って、ツルギに……」
それを振りかざしたと、告白するクサナギの声はひどく弱々しかった。
「ツルギはとても怒った。あるいは怯えた。当然だよな。そしてその剣のような腕でペーパークラフトを滅多斬りにして、二度と姿を現さなかった。」
クサナギの手の中で、切り刻まれた紙片がかさりと音を立てた。
「俺は深く後悔した。ツルギの正体はわからず終いだが、ゴーストポケモンが憑いてるならボールに招けばよかったんだ。俺はツルギに……謝りたい。そしてボールを差し出したい。身勝手な願いだとわかっちゃいるが、俺は常に空のモンスターボールを持ち歩くようになった。アローラにいれば、いつかツルギに再会できるかもしれないと……。」
長い沈黙が続いた。
それを破ったのはクサナギ本人だった。
「はい、おじさんのつまんない過去語りは以上! 悪かったなガルーラ。そんなことがあったから、勝手に君に共感してしまっていた。でもおかげで吹っ切れたよ。俺はようやく、この空っぽのモンスターボールを手放せると思う。」
ガルーラに感謝を込めた微笑みを向けるクサナギの姿を見て、モモカはいたたまらない気持ちでいっぱいだった。ポケモンたちも同じのようだ。ガルーラはじっとりした目でクサナギを見つめ返し、モクローは何か言いたげに喉を鳴らした。
「あのさ、クサナギさん……。」
気づいたらモモカは、言葉がまとまる前に声を発していた。
「別に手放す必要、ないんじゃないかな。」
クサナギはきょとんとした。モモカは少し語気を強めた。
「だって大事な物なんでしょ。だったら、無理に捨てなくていいじゃん。ガルーラのあかちゃんを布で包んで返してあげたみたいに、ツルギとの思い出のことも、ずっと大事にしていいんじゃない? 無理に奪われたら苦痛なんでしょ?」
クサナギはモモカを見つめた後、はは、とため息とも自嘲ともつかぬ呼気をこぼした。
「まいったな……。」
そして、切り裂かれた紙片の入ったモンスターボールを、抱きしめるようにぎゅっと握った。
「ありがとうな、モモカ。」
モモカは首を振った。
「ポケモンたちも心配してると思う。」
「そうだな。君たちも、ありがとう。」
モクローは胸を張り、ぽっぽっと返事をした。ガルーラは声を上げることはなかったが、ゆっくりと敷きわらが準備された寝床に移動し、丸く寝そべって満足そうに目を閉じた。
きっともう、大丈夫だろう。
布越しに子供をなでるガルーラの愛しげな手つきを見て、モモカとクサナギはそれぞれにそう思った。