3 ◎◎○
モモカがガルーラに出会って一週間ほどが過ぎた。
腐った子供から漏れ出る悪臭のピークは終わっていた。今は干からびつつあるんだろう、とクサナギは言った。モモカが顔をしかめたので、あまり想像するなよ、と付け足された。
ガルーラ自体はずっと落ち着いていて、子供が死んでいることと人里に下りてきていることを除けば、普通のポケモンだった。
だからその日もモモカは、いつも通りモクローを頭上に乗せてクサナギの隣に並び、他愛ない雑談をしながらガルーラのいそうな場所に向かっていた。
二人の会話は、突然とどろいた大きなうなり声に中断された。
「なんだ?」
異常を察知したクサナギはすぐに声の元へ急行する。モモカも後に続いた。
深い草むらを抜けると、一本の大木の下、怒りもあらわに対峙するガルーラとマケンカニの姿を発見した。
「けんかだな。大方、きのみが原因か。」
「そんな……。ガルーラいつもおとなしいのに。」
「小競り合いしているうちに、マケンカニが子供に手を出しちまったのかもしれん。」
クサナギの言う通り、確かにガルーラは常に腹を守る形でマケンカニに攻撃を繰りだしていた。マケンカニも負けじと応戦し、拳をガルーラに命中させる。ガルーラは大木にぶつかってもんどりうった。これはチャンスと、マケンカニは追い打ちをかけるため構える。
「ああっ、ガルーラ! やめてマケンカニ! モクちゃん、止めて!」
モモカが木の葉を飛ばすよう指示したのと、モクローが実際に技を繰り出したのと、クサナギが「ばかよせ!」と叫んだのとが同時だった。
マケンカニの動きは確かに止まった。しかしその標的は、明らかにモクローに定められた。島巡りを始めたばかりのモモカたちは、こんなに激しい敵意に満ちた野生ポケモンの目を初めて見た。あのマケンカニの攻撃をまともに食らったら、モクローは怪我では済まない。肌が粟立つほどそう感じるのに、モモカは唇さえ動かせなかった。
モクちゃんに何か指示しなきゃ。
モクちゃんを助けなきゃ。
その考えばかりが、すくってもこぼれ落ちる水のようにモモカの頭をぐるぐるめぐる。ハンマーにも似たマケンカニの拳が、モクローの脳天めがけて振り下ろされる!
「カガミ、トーチカ! モクローを守れ!」
モンスターボールが放つ閃光と共に、クサナギの声が飛んだ。
次にモモカが見たのは、水色のトゲトゲした物体がドーム状になってモクローを包みこんだところだった。ハンマーの殴打はドームに弾き返され、マケンカニは地面に転がって泡を吹いた。
ドヒドイデだ。
クサナギのドヒドイデの絶対防御技、トーチカがモモカのモクローを守ってくれた。
マケンカニはドヒドイデのとげに触れて毒を食らったらしく、草陰にふらふら退散した。
「クサナギさん、ありが――」
「逃げろ、モモカ!」
お礼の言葉はクサナギの怒声にかき消された。
モモカの背後で、怒りに我を失ったガルーラが両手を振りかざして立っていた。
悲鳴すら上げられなかった。血走ったガルーラの目を見たと思ったその瞬間、モモカの体に鈍い衝撃が走り、モモカはクサナギと並んで地面に倒れ伏した。
「ぐっ……!」
「クサナギさん! 大丈夫!?」
クサナギがモモカにほとんど体当たりする形で、モモカをガルーラの爪からかばったのだった。
答える暇もなく、クサナギは二個目のモンスターボールを握っていた。
「タマ、峰打ち!」
ガルーラに向かって放った一閃――召喚されたのは、ジュナイパーだった。
ジュナイパーはボールから出た直後にはもう臨戦態勢を整えていて、鋭い蹴りをガルーラに食らわせた。ひるんだガルーラに、クサナギは懐から別のモンスターボールを取りだして投げつけた。ガルーラが吸いこまれ、ボールは数度揺れた後、捕獲完了を示すランプを点灯させて動かなくなった。
静けさが戻ったフィールドに、モモカの呼吸と心音だけがやたら大きく鳴り響いている気がした。
ガルーラを収めたボールを拾うクサナギに、ジュナイパーとドヒドイデが近寄った。ありがとう、よくやったと、クサナギが手持ちポケモンたちを労う。彼らにもクサナギにも、怪我はないようだ。
「君たちも無事か。」
クサナギがモモカに尋ねた。
ドヒドイデの足の中に隠れながら戻ってきたモクローが、モモカの胸に飛びこんだ。ぽろぽろと甘えるように鳴いて、大事なさそうだ。モモカはうなずいた。
「そうか。ならいい。」
クサナギは小さく息を吐くと、ジュナイパーとドヒドイデをボールに収納した。それからガルーラのボールと一緒に、ベルトのホルダーに装着した。
捕獲による保護は最終手段。以前クサナギが話していたことを、モモカは思い出していた。その手段を使わせてしまったのは、モモカのせいだ。
「あの、クサナギさん……ごめんなさい……。」
しゅんとするモモカとモクローを見てクサナギは、今度ははっきり聞かせることを意図してため息をついた。
「君は俺の側を離れてはいない。指示も与えていなかった。適切に注意しなかった俺の責任だ。怖い思いをさせてすまなかったな。早くポケモンセンターに戻ろう。」
モモカは何も言えなかった。謝罪の言葉も、感謝の気持ちも、承知の返事さえ、どんな声で口にすればいいのかわからない。ただ黙って小さくうなずいた。クサナギがそれで十分とみなして歩きだしてくれたのが幸いだった。モモカは重い足をなんとか踏みだした。
その拍子に、こつんと何かがモモカの靴先に当たる。
空っぽの古いモンスターボールだった。
(クサナギさんのだ。)
モモカは直感して、それを拾いあげた。ガルーラに襲われた時にホルダーから外れたのだろうか。ボールは二つに割れ、中身が見えていた。
(何だろう、これ……紙?)
ペーパークラフトだと、モモカは思った。しかし異様だったのは、それがズタズタに切り裂かれていたことだ。せっかく作った物に、誰かがむちゃくちゃに刃を当てたような。元はどんな形だったのか、モモカには見当もつかなかった。
そこでモクローがモモカの頭をくちばしで突いたので、モモカは顔を上げた。クサナギはもうだいぶ先まで行ってしまっていた。クサナギの側を離れてはいけない。モモカは拾ったモンスターボールをペーパークラフトごとポーチに入れ、急いでクサナギの後を追った。