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そのガルーラは、死んだ子供を腹袋に抱えていた。
モモカがそのガルーラに会ったのは、島巡りを始めたばかりの頃だった。
アーカラ島の北端、八番道路。パートナーのモクローを頭に乗せて、海辺の潮風が心地よい道を歩いていたら、崖下の岸辺に大きな塊が寝転がっているのを見つけた。それは波が打ち寄せる岩ばかりの場所にうずくまって、全く動かない。
「モクちゃん、なんだろうあれ……。もしかして、ガルーラ!?」
ガルーラは子供を腹袋に入れて育てるので有名なポケモンだ。モモカは本物のガルーラを目にするのが初めてだったから、あかちゃんを一目見てみたいと思った。ガルーラの腹袋に視線を向けて首を伸ばしたりひねったりするモモカを真似て、モクローも首を九十度ひっくり返す。
しばらく観察を続けた後、モモカは「あれ?」と口に出した。
確かに袋の中に子供がいる。けれど見えそうで見えない。いや、そもそも。
子供は、動いていない。
「モクちゃん、大変! ガルーラのあかちゃん、なんか様子がおかしい……!」
モモカは助けを求めるため、急いで近くのポケモンセンターに走った。
慌てるモモカにまず対応してくれたのは、受付の女性職員だった。事情を説明し終えると、担当者を呼んできますと言われる。モモカがモクローを抱きしめてそわそわしていると、現れたのは五十代くらいの壮年男性だった。看護服ではなく作業着姿だが、ポケモンセンターの職員を示す名札を付けているので、待っている相手だと知れた。
彼はモモカが件の報告者だと確認すると、淡々とした口調で「あのガルーラの子供はもう死んでいる」と告げた。
「二、三日前からこの辺りをうろついてるガルーラでな。要観察個体だ。見つけた場所はどこだ? 様子は?」
問われるままにモモカが答えると、男はうなずいた後、「変化なしか」とつぶやいた。
「報告ご苦労、島巡りトレーナー。じゃ、ちょっと確認してくるわ。」
「はい、クサナギさん。お気をつけて。」
受付職員がぺこりと頭を下げた。
クサナギと呼ばれたその男性職員の背中にモモカが声をかけるまでに、悩んだ時間は数秒だった。
「待って! あたしたちも行く!」
モクローも同じ声音でぽっぽろと鳴いた。
振り返ったクサナギの片眉が、けげんそうにつり上がった。
「ガルーラは子供が死んだことに気づいてないの?」
「どうだろうな。ポケモンは賢い生き物だ。おそらくわかっているとは思うんだが。」
「この辺りに住んでるガルーラなの?」
「いや、もともとの生息地はヴェラ火山の奥深くだ。人前には滅多に姿を現さない。それがこんな場所に居ついてるから、要観察なんだよ。」
「クサナギさんはガルーラの専門家?」
「違う。ただのポケモンセンター救急部員だ。」
「救急部員ってどんなお仕事するの?」
「こうやって異常行動を取る野生ポケモンへの対処とか、手持ちポケモンが動けなくなったトレーナーの救助とか、その他諸々の雑務担当だよ。知りたがりの島巡りトレーナーのおしゃべり相手とかな。」
「へえー。救急部員ってすごいね!」
「…………。」
嫌味のまったく通じていない無垢な子供に、クサナギは心の中でため息をついた。
それからモモカたちはガルーラに視線を戻した。一行は八番道路の岩陰に身を隠し、岸辺に居座ったままのガルーラを観察していた。
「ガルーラ元気ないね。けがしてるのかな。」
「いや、大きな外傷はない。」
「病気とか。」
「採餌行動は減ってないから、その線も薄いだろう。」
「サイジコードーって?」
「飯はちゃんと食えてるってこと。」
答えた後クサナギが小さなノートに何かを書きつけだしたので、モモカはいったん口をつぐんだ。
八番道路に吹く潮風は穏やかで、キャモメがのんびりと鳴き交わしながら沖に出ていった。
モモカはクサナギがメモを終えたことを確認すると、「あのさ」と話し始めた。
「ガルーラ、ゲットするのはどうかな。そしたらポケモンセンターに運べるでしょ。けがも病気もないって、ちゃんとわかれば安心だし。」
それに、とモモカはクサナギのベルトに取り付けられたボールホルダーを見る。三個のモンスターボールがそこにぶら下がっていた。
「クサナギさん、ポケモン連れてるんだよね? 三体もポケモンいるなら、野生ポケモン一体くらい簡単にゲットできるでしょ。」
なるほどそいつは名案だと賛成されることは、モモカも期待していなかった。しかしクサナギはにこりともしないどころか表情を動かしもせず、ぼそりと返事をした。
「二体だ。」
「え?」
「俺が連れているポケモンは二体。こっちのモンスターボールは、空。」
「ふーん……じゃあなおさらいいじゃん。その空いてるモンスターボールにガルーラを入れれば」
「駄目だ」
ぴしゃりと返ってきたクサナギの口調が予想外に鋭くて、モモカは思わず息を飲んだ。
クサナギ自身、そこまで強く言うつもりはなかったようだ。少しやわらげた声音で言葉を続けた。
「これは……空のままでいいんだ。それに保護目的であったとしても、できるだけ野生ポケモンは捕まえたくないと俺は考えている。」
「どうして?」
「よかれと思ってポケモンセンターで治療しても、それがトラウマになることがあるからさ。極端に攻撃的になったり臆病になったりして、元の生活に差し障るケースもある。捕獲による保護は最終手段だ。野生ポケモンに対しては可能な限り手を出さず、見守りで終えたい。ガルーラは当面、観察継続。」
モモカは大人しくうなずいた。クサナギの意見は筋が通っている。反論を許さないオーラがひしひしと伝わってきた。
だからクサナギが空のまま腰に下げているモンスターボールについては、それ以上聞けずじまいだった。