薬の味
椅子から立ち上がった瞬間、ぐらりと視界が傾いた。いつもは丸さを感じさせない地面が急速に湾曲し、宇宙空間を無理にでも認識させてくる。
平均感覚の揺らぎに男は舌打ちし、腰のポシェットから注射器らしき棒状の物体を取り出した。普通の注射器と違い、プランジャ部分がT字になっている。紫色の液体が容器のなかをたっぷりと満たしている。中に空気が入っているようには見えない。
男は躊躇することなく先端を上椀に打ち付けた。収納されていた針が衝撃によって飛び出し、慣れぬ痛みがするどく走る。液体が注入されて体が弓なりに反れ、一度大きく痙攣したのち、浮遊感に襲われた。
世界が回転木馬のように回ることはなくなったが、視野から色味が失われていく。いつもなら気にも止めないような衣服の繊維が肌を刺す刺激さえ、とても気持ちが悪い。男はここに(辺りはがらんどうとしている。緑の壁が圧迫感を放っていた)誰もいないのをいいことに服をすべて脱ぎ捨ててしまった。そうすると次に空気が肌に触れる感触まで気になってきた。こればかりはどうしようもないと思ったのか、それとも神経の昂りが頂点に達してトリップしてしまったのだろうか、男はだらりと両手をたらして弛緩する。
あぶナイくすりダ、と声がする。
男は液体と同じ紫の瞳を瞬かせた。(みどり、みどり、みどり)部屋には誰もいない。もし誰かがこの部屋に侵入したのだと過程しても(それはあり得ないことだったが)隠れられるような場所などなかった。窓のない部屋。椅子と机が一脚ずつ。硬いベッドに薄い毛布。読みかけの本。それから便器がひとつだけ。(便器までみどりだ。いやになる)どうしても隠れたいのだとしたら便器のなかに小さくなって入っているに違いない。便まみれになったこどもより小さなおっさんを想像する。ふたを開けると目があう。そいつは糞尿のにおいをこれでもかと放散させながら、にたにたとやけにうれしそうに笑っていた。
腹の底からものすごく大きな笑いが爆発した。
げらげらと男は笑い転げ、床を這いずり回り、ついに頭を椅子の足にしたたかぶつけた。それでも笑う。顔の筋肉が強ばるくらい笑い続ける。
危ないクスリだ、と声がした。
ふつりと笑いが収まる。なにが面白かったのかよくわからないまま、天井を見上げる。ここまで緑とは(せっかくならもっと派手な色にすればいいのに)まったく凝り性の者がいたのだなあと感心すらする。
危ない薬だ。
みたびの声。
寝ころんだまま視線をさまよわせる。頭のすぐ上に紫色と白を着込んだ生き物が立っていた。長い尻尾はなかば腹部と一体化しており、いびつなバランスを生み出している。あれではきっと自立するのも厳しいだろう。だが、そのような予想に反してその生き物はしっかりと立っていた。
同じ瞳の色が互いを映しあい、永遠に虚像を作り出していく。男は再び全身に浮遊感と抗いがたい恍惚に包まれようとしていた。両手を本能に従って下半身に伸ばす。後少しでめくるめくスペクトルの解放が訪れるのだ。歓喜に身を震わせる。
しかし、またしても声が聞こえた。
「激シイ幻カク作用――」
自覚すればその世界は意図もたやすく崩れてしまう。生き物は掻き消えた。それとともに理由のない、甘くてとろけてしまう喜びのうごめきすら跡形もなく滅した。冷静な自分が頭の片隅でため息を吐いた。(何がめくるめくスペクトルだ)男は呆気にとられた。
こうなると誰もいなくても裸でいることの方が気になってくる。恥ずかしいという気持ちが帰ってきたようだ。
意味不明な神経系の誤認。そして五感の増幅。
何度も読みなおしたレポートの文字が反芻される。そのなかからこの状態でも読みとれる単語だけを繋ぎあわせ、ようやく男は立ち直った。痛む頭を手で押さえ、喘ぎながら服を回収する。手足が小刻みに痙攣するのを、不快感を隠そうともせず見やる。
「くそったれ」
悪態を吐く声も心なしか震えていた。
実験の終了を告げるアナウンスは痴態からゆうに二時間を隔てて部屋に流れた。壁に埋め込まれたスピーカーから聞きなれた無感情な女の声がする。ホオズキはぼんやりと壁を見つめていた目を、おそらく扉があるであろう方向へと向けた。室内に入ってから五時間。彼はすっかりしょげていた。
薬の副作用は一種の麻薬的な脳内トリップを引き起こす。何度か薬の実験を繰り返しているうちに彼は彼自身のいわゆる「いっちゃってる」状態の記憶を思い返すことができるようになっていた。それゆえの脱力である。
それにモニタールームに映像はすべて垂れ流しなのだ。見ているのはお堅い研究員だけだとわかっていても腹立たしかった。しかも、幻覚に浸っている間はそれすら甘美な刺激だと思えるのだから余計に胸がむかついた。
「どうぞ外へ」
白衣姿の研究員が部屋にぽっかりと穴を開ける。ホオズキはふらつきながらも緑だらけの悪夢を抜け出した。世の中がホワイトアウトする。次に目に入ってきたのは何もない、真っ白な空間だった。彼がいた部屋ですら申し訳程度の家具が置いてあったというのに、ここは見事なまでにからっぽだ。
そのなかに一体の生き物が浮かんでいた。
「M2をボールへ戻してください」
壁のなかから指示が聞こえてくる。
ホオズキは研究員から手渡された拳大の球体を、今初めて見たかのように驚きすら秘めながらとっくりと眺めた。馴染みのある黒いボールは光を反射せず吸収しているのか、光沢といったものを感じさせない。まるで大地の切れ目を覗いているかのような黒。この真っ白な空間のなかでもっとも異彩を放つ物体だった。
「M2をボールへ戻してください」
繰り返される命令にホオズキは息を吐いた。
M2と呼ばれた生き物はゆっくりと目を開いた。彼と同じ目。そこに映るのはやつれた、どうしようもなくふがいない男だけだった。虚像が永久に続くわけでもなく、恍惚感をもたらすわけでもない。
――やっぱり意味不明だ。
ボールを向け、体に染みついた順序で起動させる。赤い光が一直線に生き物に飛びかかり、あっというまにその姿を粒子に変えた。粒子はボールのなかに吸い込まれ、そこに生き物がいた痕跡をきれいに払拭してしまった。モンスターボール。怪物を人がねじ伏せるための道具である。
研究員の手によって、ホオズキのポシェットから使い終わった注射器が取り出され、代わりにM2という怪物が入ったボールが入れられた。帰ってよしの合図である。
幾重もの消毒室を通りぬけ、すっかり体中から菌という菌が撲滅された。服を着たままどうやって殺菌消毒をしているのか理屈がわからないのだが、どうせどの機材についても知識が追いつかないのだからとホオズキは切り捨てた。理解したところで何があるでもない。この実験の意義も、用途も、自分がどうなるのかも。
研究所を出ると刺すような太陽光に目がくらんだ。おぼつかない足取りで飛行場へと急ぐ。
とにかく今は家に帰って泥のように眠りたかった。
「申し訳ありません。今、そこまで飛べるやつはいないんですよ」
鳥型の怪物を調教している団員のひとりが心底残念そうにそう言った。
飛行場の畜舎は羽毛と糞尿にまみれており、到底清潔とはいえない有様である。ホオズキは思わず噎せかえり、袖口で鼻を覆った。いまだに薬の余韻を引きずっているホオズキには一秒足りとも長居したくない場所なのだが、調教師は鼻が鈍感になっているのかけろりとしていて、彼の気持ちなど察する様子はない。ぐるりと見渡せば、確かに持久力の高い鳥怪はいなかった。数羽借りて帰ろうかとも考えたが、そうすると他の団員がこの研究所から帰る手段を失なってしまう。
心配そうに見つめてくる調教師に気づき、ホオズキは苦笑しながら頭を振った。よほど顔が強ばっていたのだろう。
「とりあえずホテルまで行ければいい」
そう言って貸し出してもらったピジョンに飛行ハーネスを取り付け、ホオズキは空へと飛び立った。
どこまでも青い空。あの部屋と条件を共有しているのに、一面の青空は気分がいい。眼下にはグレンの街が広がっている。はてさてどこのホテルにしようかとホオズキが悩んでいると、ポシェットがかすかな振動を伝えた。
メールだよ! メールだよ!
幼児向けアニメを彷彿とさせる声が受信を知らせる。ホオズキはピジョンに減速の合図を出すと手綱を手首に巻き、器用にポケギアを取り出した。
「セキエイに新しい挑戦者ね」
メールはセキエイポケモンリーグに新たな挑戦者が来たことを告げていた。まだ十歳を過ぎたばかりの少年が挑んできたらしい。
数年前と比べてずいぶんとポケモントレーナー全体が幼くなったものだ。昔などは二十五歳を越えないとジムリーダー試験を受けられなかったし、もし若くしてジムリーダーになったとしても周りのリーダーたちから冷ややかな目で見られたというのに。今では免許を取り立てのこどもがトレーナー界の頂点ともいうべき「ポケモンリーグ」に挑戦できるのだ。
否、ホオズキが幼少の頃も挑戦できないわけではなかった。ただ、今よりもトレーナーに対する経済的支援や、少年トレーナーへの理解がなかった時代である。
もしこの少年がチャンピオンとなれたなら――トレーナー界はさらなる変革の道を行くこととなるだろう。老いも若きも才能こそが物を言う、とんでもない世界になるかもしれない。しかしそれこそが彼らの目指す未来である。理想である、野心である。
「返信、しといた方がいいよな」
呟き、ホオズキは面倒くさげに笑った。
セキエイリーグ決勝戦の前日、ついにホオズキは重度の薬物中毒と過労によって倒れた。ボスの命令で実験は急遽凍結となり、ホオズキはヘリで病院へと搬送された。当面入院という診断が下された時、もうろうとした意識のさなか、ホオズキは必死の形相で出かけると言い張ったという。今無理をすればどうなるかわからない、命の保証はできませんと言われても行くといって聞かなかったそうである。最終的に医師が鎮静剤を処方した。最後まで彼は寝まいと抵抗を続けていたようだった。
その理由を知っているがために、ラムダは非常に気まずかった。なんとなく見舞いに行くのもイヤで、決勝戦がチャンピオンの不戦敗となった今ではさらに足が重かった。しかし、周りの同僚たちに今日は行ったのか明日こそ行くのかと突っつかれては行かざるを得ない。
しぶしぶ腰を上げ、病院まで来たものの――。
「なんだ、ラムダ。なんで泣いてんだよ」
病室に入ったとたん、ずいぶんな声がかかった。
ラムダは慌てて頬をぬぐい、普段と変わらない人をくったような顔をしてドアを閉めた。病室はこじんまりとしているが、贅沢なことに一人部屋である。当たり前だがセキュリティー完備で、ボタンひとつ押せば「しんそく」で白衣の天使が駆けつけてくるという優れものだ。
ラムダは病人の枕元に座り、しばし口をつぐんでいたが、風がカーテンをはらませるのを見てようやく話を始めた。
「体調はどうっすか」
「うん、ずいぶんよくなった」
快活に笑うホオズキにラムダは思わず目をそらす。
ホオズキは今のように自力で起きあがる程度は回復しているが、万全ではないことは一目瞭然である。顔は蒼白で覇気もない。どことなく目も暗い。
「リーグ戦、残念でしたね。隊長なら――」
「もう終わったことだ。それにお前が気にすることじゃねーよ。まさかそれで泣いてたんじゃないよなァ」
「ち、違いますって!」
「ふうん……まあ、いいか。ところでボスから話は聞いてると思うが、オレたちもついに解散だ。お前、ラムダ、行くあてはあるのか」
そう、ラムダがここ数日寝不足ぎみだった原因はそれだった。彼らが所属する組織の、突然の解散。あまりの衝撃に団員たちは打ちのめされた。彼らの多くが社会からのはみ出し者で組織以外に居る場所もないという状態である。しかしボスは大勢を率いていくための己が力量を疑い、見極めるために旅に出てしまった。組織は事実上瓦解したのである。
ボスほどの人物を打ち負かしたのが、これまた十歳程度の少年であったらしい。
最近のガキは化け物じみてやがる、とラムダは思う。目の前の隊長しかり、今のチャンピオンしかりである。ホオズキこそ「ホオズキではない自分」の居場所をすっかり失っておきながら、なぜラムダなどを心配する余裕があるのだろう。
「大丈夫すよ、なんとか食っていきますから」
「そうだな。お前の腕ならどこででも生きてける、か。心配したオレがバカだったな」
「隊長はどうするんですか」
「故郷に帰って余生を過ごす。こいつとうまくやってかなきゃならねェし」
そう言って黒いモンスターボールを両手で包む。
「エムツーでしたっけ」
「いや、正式名称はミュウツーだよ。とはいえこいつは失敗作だそうだが――成功作なら組織はまだ保ってたかもな」
遠い目をするホオズキを見て、ラムダはある事を思い出した。すっかり忘れていたが研究室から届け物を託されていたのである。抱え持ってきていたポーチをベッドの上に置く。ホオズキの眉がつり上がった。
本当に勘のいい人だ。
おそらくその中身がなんであるかも、言付けがどういうものかも察したのだろう。やや諦観の漂う表情にラムダは気が気でなかった。
ホオズキの手が慎重にポーチの口へと動く。チャックが開けられ、中から注射器と液体で満たされたシリンジが数本出てきた。不気味な色合いのそれを陽に透かし、ホオズキが幽かな笑みを浮かべる。先ほどまでの疲れてはいるが健康的なそれではなく、ぞっと寒気がするようなものだった。
これをホオズキに渡すべきではなかったのかもしれない。
例え上からの指示とはいえ、どうせもう組織はなくなるのだし無視してしまえばよかったのだ。懲罰を受けるわけでも、減棒されるわけでもない。ただ、もしラムダがこのポーチを破棄してしまったとしても別の誰かが渡すのは目に見えていた。ならばいっそこの手で、と思ってのことではあった。しかし、今、こうして渡してみると後悔ばかりが押し寄せてくるのであった。
彼を人ではないものにしてしまうかもしれない。
「薬の――」
ホオズキがうつむいて呟く。
「薬の味が、忘れられないんだ」
ゆらりと顔が上げられる。ラムダは顔を背けた。
だから、彼の顔が人のものだったか、それとも化物のものだったかわかりはしなかった。