代替わりの話
兄が他界した。
わたしより良くできた兄はなにをやっても熟達し、誰にでも好かれる人だった。幼少の折りより天才と呼ばれ、将来は偉大な人物になるであろうと言われた。
だのに、あっけないものである。人はどれほど良くできていても、ほんの些細な事故で壊れてしまう。白樺の棺に眠る故人は眠っているようにみえる。だが、この中にはなにも入ってはいないのだ。
兄の中身が失われた原因は病であった。
体内に悪性の腫瘍ができ、気づいた時には処置の施しようがないまでに飛散肥大していた。医者は痛みがあったはずだと言い、兄は痛みなど今日までなかったと言う。余命はたったの三ヶ月だった。兄は絶望した。それというのも、彼にはちょうど三ヶ月後に結婚式が控えていたのである。
夫婦となる相手は兄とわたしの共通の友人であるミナコ嬢であった。彼女は非常に品があり、才色兼備で、まさに兄と添い遂げるために現れたような女性である。ミナコとわたしは同級生だから、満二三歳であろう。兄とは八つの歳の差があった。
兄は自宅療養を望み、手の施しようもないということで要望は受け入れられた。兄のために寝床を整えている家人をしりめに、わたしはミナコに茶を運んだ。うつむくミナコは白紙のように色が抜けきっており、しおれた花を思わせた。
「ミナコさん、こんなことになって君もずいぶん気落ちしていることでしょう」
「ええ。ですけど私、お兄さまと必ず結婚いたしますわ。お約束いたしましたもの」
さみしそうに女はほほえむ。
兄と添い遂げたところで、果たしてミナコはしあわせになるのだろうか。――いや、ならない。明白なことではないか。ミナコの艶めかしい白い肌も、鈴を転がすような声も、余命いくばくの男に捧げるのは冒涜ですらある。
わたしは帰宅するミナコを見送ったあと、こっそりと兄に面会した。兄は天井に目を向けたまま、ミナコは帰ったのかと静かに問うた。ああ帰ったと答えると、それっきり黙ってしまった。いつも健全と輝いていた顔は消沈し、病人のそれへと変わっていた。
何を話せばよいのかわからず視線をさまよわせ、わたしは枕元に置かれた、手のひら大の玉を見つけた。
「サーナイトはどうなさるんです」
「わからん」
「ぼくにくれはしませんか」
兄がようやくわたしを見た。瞳にはなんの感情もみつけられない。
「ほしいか」
やっと投げかけられた言葉は問いかけというよりは念押しのようであった。ほしいと言えば、一度うなずき、また遠い目をした。
「持っていけ」
「ありがとうございます」
あの問答から数日後に、兄とミナコの祝儀が執り行われた。ずいぶんと前倒しになった式ではあったが、夫の残命を考えればそうならざるをえない。兄夫婦は別宅に移り、余生を過ごしていたようであった。
祝儀以来、わたしは兄と顔を合わせていなかった。兄が他界したと聞き、慌てて馳せ参じたのである。それまでは会社勤めで病状のいかなる進行も知らなかったので、ずいぶんと呆気ない死にざまだと思った。
兄の遺体と向き合いながら、わたしはサーナイトの入ったモンスターボールを取り出した。兄が一番大切にしていたポケモンで、その凛々しい姿には惚れ惚れする。
「ご満足ですか、これで」
後ろに控えていた女がそう呟く。
「ああ。助かったよ」
「それは何よりです。件のご契約は執行させていただきますのでよろしくお願いいたしますわ、社長様」
喪服の女は幽かに笑った。同じ女だというのにまるでミナコとは違う種類の笑みだ。ミナコを光とすれば影だろう。妖しくつややかな笑みである。わたしは暫し女にみとれた。ヤミカラスのような黒髪がはらりと揺れる。
不意にわたしの手のひらからモンスターボールが転げ落ちた。かがんで拾い上げると、サーナイトがボールの中で暴れているのがわかった。やはり彼らの言っていた道具が必要になるだろう。そのことを伝えると女は懐から黒いモンスターボールを取り出した。本来赤の塗料であるはずの部分が黒くなるだけで、これほどまでに禍々しくなるのか。受け取った手が心なしか震えてくる。
他人からゆずられたポケモンは、新しいトレーナーにすぐには従わないと聞く。このモンスターボールは既製のものの数十倍近い精神制御装置が導入された特別製で、一般には出回っていない希少なものだ。これさえあれば、兄のサーナイトも従順になるそうである。兄の栄華の象徴ともいえるサーナイトがわたしの意のままに動く様は、きっとこの上なく素晴らしい光景だろう。
帰宅後、さっそく試してみることにした。
はじめサーナイトは思いの外苦悶の声を上げたが、しばらくするとおとなしくなった。ボールから出してやれば兄にしていたように頭を下げ、わたしから命令を下されるのを待つ。かんぺきな仕上がりである。これが彼らの科学力なのか。だとすれば、兄の会社など足下にもおよばぬ。
いや、わたしの会社、か。
父から兄へ受け継がれた会社は、どちらも鬼籍に入った今、わたしの所有物となっている。巨万の富、名声、権力。すべてが思いのままだ。
「ふふふ……ははははは! どうだ兄さん、わたしはすべてを手に入れたぞ! あんたの物も全部奪い取ってやる!」
愉快だ。とてつもなく愉快だ。
今まで兄の影に隠れてばかりだったわたしが、ついに兄を押しやって光の当たる場所へ立ったのだ。それもこれも、あの組織のおかげだ。ロケット団――ポケモン市場では必ず裏で一枚噛んでいると言われている闇の組織である。彼らがわたしに接触してきたのは一年前のことだった。
――お兄さまよりあなたの方が社長にふさわしいと思いになりませんか。
そう言って声をかけてきた男にわたしは運命のようなものを感じた。彼らはロケット団と名乗り、わたしが兄に代わって社長に就任するべきだと力説した。彼らはよくわかっている。兄は確かに優秀で堅実な人だが経営は慎重すぎるきらいがあった。わたしならばもっと会社をもり立てて、揺るぎない基盤を作り上げられるというのに。
ロケット団は支援を要求する代わりに、わたしにひとつの薬を手渡した。
――これを飲めばたちどころに病になり、痛みは手のつけられないようになるまで出てきません。これをお兄さまの食事にお混ぜになってください。
ポケモンの毒で作ったというそれは本当に効き目があった。兄は病にかかり、わたしが疑われることなく死んでくれた。医者もただの病気だと診断したのだ、これからも罪に問われるようなことはないだろう。
「なあ、サーナイト。もう誰もわたしをバカにできないぞ」
サーナイトは頭を垂れたままぴくりとも動かない。なんだか変だ。どうしたんだろう。
「サーナイト?」
赤い瞳がきらめいた。
社長の座に一番近い男が死んだ。
その報を受けたイシミはすぐに指定の場所へと足を運ぶ。彼女の前をしずしずと先導するのはダークポケモン、ヘルガーである。悪魔の角を持つ地獄の猟犬は主人から片時も離れない最強のボディーガードだ。
繁華街の人混みも、ヘルガーには道を譲る。切り開かれた人の道を悠々と歩きながらイシミは笑みを隠しきれなかった。まあ、隠す必要もないのだが。今のイシミを普段のイシミと重ね合わせて考える者はいないだろう。
仲間のひとりに高度な変装技術を持つ者がいる。こうして昼間に堂々と歩かねばならぬ時など、非常に重宝する技術である。ただし演技力は伴わないのですぐにばれる。イシミのように女優顔負けの演技ができなければ宝の持ち腐れである。
「あら、ずいぶんいいホテルだこと」
指定された場所は都内でも随一と言われる高級ホテルであった。もう一度暗号文に目を通す。間違いなくこの場所だ。仰ぎみるが空を突き破る高層ビルの頭はまったく見えない。
「女社長もきっとあなたに感謝するわよ、ドロ」
喉元を掻いてやると満足げにヘルガーは目を細めた。
ホテルに入るとドアマンに恭しく礼をされた。ヘルガーは嗅ぎなれない香水やらのいい香りに、半ば混乱状態になっている。ヘルガーの尻のあたりを叩いてやり、イシミは歩を進めた。
案内された部屋には先客がいた。豪奢の限りを尽くした最上階のスイートルーム。どっしりとしたソファーに身をゆだねているのは、黒いドレスに包まれた細身の女性であった。未亡人とは思えぬほど華やかなその女を見るや、イシミは他人の面を素早くかぶった。
設定はなんだったか。そう、確かタマムシ大学の女教授だった。それらしい声と仕草をとっさに引き出す。
「ご無沙汰しております、ミナコさん」
「ご機嫌よう、先生。さあ、お座りになってくださいな」
促されるままイシミはソファーに腰を降ろした。
ふうむ、これは恐ろしいまでに柔らかなソファーだ。イシミのマンションにある硬い安物のそれとはまったく違う。ここで寝ても腰が痛くなるということはないだろう。
「先生のおかげで事も順調に進みました。お約束通り、支援は惜しみませんわ」
「ミナコさんのお役に立てて光栄です。わたくし達の研究もこれで捗る事でしょう。感謝いたします」
「いいえ、感謝するのは私の方。あのバカな男達を一掃できるなんて夢のようだわ……」
うっとりと遠くを見るミナコにイシミは微笑みかける。
片方にパラスの痛み止め、片方にヘルガーの毒を。
そう指示された時は本当に上手くいくものかと思ったものだが、彼女たちの隊長は存外人心掌握に長けているらしい。それに情報を集めた仲間の手腕も大したものだ。こういう薄暗くて腐ったニオイを嗅ぎ分ける事に関しては、ヘルガーよりも鼻が利く。
ミナコは男嫌いだ。そしてかなりの野心家でもある。貞淑な女性を演じていたがそれはあの兄弟の資産を狙ってのことで、本来はずいぶんと強かで傲慢な性格だった。兄の方を毒殺し、弟の方を生前分与されたサーナイトで事故に見せかけて殺害する。そんな綱渡りを素っ気なくこなしたくらいだから面の皮はイシミよりも厚い事だろう。
イシミはミナコに資金援助の承諾書類にサインを貰い、ほっと胸をなで下ろした。一年がかりの任務だったがその分の報酬は大きい。隊長に報告するのもやや楽しみである。
ミナコがにこやかにヘルガーへ手を差し伸べた。
「このヘルガーがあの薬を作ってくださったのね」
「ええ、そうです。ドロといいます」
「そう。ありがとう、ドロ」
女社長に頭を撫でられ、ヘルガーは満更でもないといった風に一声鳴いた。