2013年
夏のスバメ
 こんなもんだよな、と言ったてっちゃんの表情は今でも鮮明に思い出せる。
 テッカニンの声がうるさい真夏の朝。ぼくはバカみたいに道に突っ立って、バカみたいに泣いていた。てっちゃんは難しい顔をしてぼくの隣に立っていた。ふたりの前には三日前に助けたスバメが転がっている。ゴミみたいに転がっている。スバメはポケモンで生き物なのに、どうして道の真ん中に転がされているんだろう。なんで。なんで。
 熱射でこがされたコンクリートの、あぶるような温度がせったの裏をじりじりと這い上がってくる。はたりはたりと水がこぼれ落ちて、コンクリートにしみこむ前に蒸発して消える。はたりはたり。テッカニンの鳴き声。はたりはたり。波の音。
 波の音、か。
 俺はうっすらとまぶたを開く。見慣れた海はそこになく、あるのは見たこともない青い海を映しているテレビだった。待合い室の大きな液晶テレビに音はない。俺が聞いたと思った波の音はどこにも存在していない。なんとはなしに辺りを見回す。平日の午後だというのに院内はたくさんの患者たちであふれかえっている。普段ならば十分に座れるはずの長いすも、今日に限っては満員だった。
 受付横の電光パネルに数字が表示される。俺は手元に視線を下ろし、またパネルをみやって一致を確認した。151番、間違いなくこれだ、やっと許可が通ったのか。
 ここ数日ろくに睡眠をとれていないせいか、すぐに動きだす気になれない。一度、二度と深呼吸をしてから目をこすり、立ち上がって伸びをした。数歩進めば椅子取りゲーム顔負けの勢いで、俺が最前まで座っていた場所をババアが陣取った。でかい尻をねじ込んで、周りの迷惑を顧みずにうちわで仰ぎまくる。香水のニオイと汗のニオイが混ざって強烈な異臭を放っていた。俺は逃げるようにその場を離れ、受付へと急ぐ。別に急がなくても受付自体が整理されているので順番待ちの必要もないのだが、一刻も早くここから離れたかった。
 香水と汗のニオイは厭な思い出をなんなく引き出させる。夏は、きらいだ。
「ホオズキさんの見舞いに来たんだけど」
「はい、こちらのカードを持って五階の505号室へどうぞ」
「はいよ、どうも」
 セキュリティ完備の名声は伊達ではないらしい。他の患者や見舞い客に見えないようにカードを手渡され、俺はちょっとばかり感心した。受付の女はとても朗らかで純真そうに見えるのに、これで実は俺たちと同じ穴のマッスグマだとは到底思えない。うちの女連中もこれくらい演技が上手ければきっと楽に仕事ができるだろう。
 五階まではエレベーターで向かう。途中、ポケモンを肩に乗せた子供が乗り合わせた。ふと、肩のポケモンと目が合う。黒い目に、赤い顔。
「スバメ」
 つい口からでたその名前に、ボタンを押そうとしていた子供が振り向く。茶色の髪をおさげにした、あか抜けない女の子だった。子供はうれしそうに笑ってスバメをなでる。
「おじさん、スバメ知ってるの?」
「あー……まあな」
「この子、カントーじゃぜんぜん知ってる人いなくって。でも良かったぁ。おじさんみたいに知ってる人、ちゃんといるんだね」
「嬢ちゃんはホウエンから来たのか」
「うん」
 にこにこと笑う子供はチカと名乗った。俺が名乗り返すと変な名前だね、と屈託なく言い放つ。失礼だとかそういうことはまったく頭にないらしいその言葉に、不思議と怒りは感じなかった。
「ねえ、せっかくだからジュースでもおごってよ、おじさん」
「はあ? なんで俺がおまえみたいなガキんちょにおごらねぇといけないんだよ。自分で買いなさい」
「いいじゃんいいじゃん。スバメのよしみで、ね?」
 引きずられる形で俺はチカに連れられ、五階の自販機まで来た。しかも一番高いミックスオレをねだってくる。財布を開ければ給料日前だから、というわけでもなく相変わらずの貧相っぷりが目につく。なけなしの小銭が軽快な音を響かせながら吸い込まれ、代わりにミックスオレが二本、取り出し口に放りだされた。
 俺はそれを見舞いの品が入ったコンビニの袋に一本入れ、もう一本をチカにやった。チカは喜んでタブを上げ、礼を言いながら飲みだした。よほど喉が乾いていたのか止まらずに一気に飲む。すさまじい飲みっぷりだ。
「スバメはね、おとうさんがくれたの。おとうさん昔ね、スバメを助けたんだけど、トレーナーズスクールの悪い子たちにひどくされてスバメ、しんじゃったんだって。それが悔しくって今は鳥ポケモンの保護をしてるの。カントーは都会が多いからいっぱい仕事しなくちゃいけないって言ってたよ」
 トレーナーズスクールの悪い子たち、だって?
 頭のなかに昔の光景が立ちのぼりかける。いや、でもスバメはホウエンだとどこにでもいるようなポケモンだし、よくある話じゃないか。
 ぼくたちのスバメ。羽をケガしていたからてっちゃんとふたりで助けて、おこづかいできずぐすりを買って、一生懸命手当をした。はじめはけいかいしてご飯も食べなかったけど、二日目にはすっかり安心して食べてくれるようになった。スバメはぼくの肩と、てっちゃんの頭の上がお気に入りだ。ぼくは他の子たちと比べて背が高いから、スバメにとってはちょっとした留まり木みたいなもんなんだろうなって、てっちゃんは言う。そうだと嬉しいな。
 ぼくをいじめるやつらがスバメに石を投げたからケガしたって、他の子たちが話していた。どうしてそんなことをするんだろう。ポケモンだって石を投げれば痛いし、ケガだってする。ポケモンはともだちだ。たいせつにしなきゃいけない。
 てっちゃんはいじめっ子をこわがって、スバメを助けるのはやめようって言いだした。てっちゃんは弱虫だ。ぼくはこいつを見捨てたりなんかしないぞ。
 おかあさんがぼくをぶった。スバメのためにれいぞうこの中身をかってに出したからぶたれるのは、とうぜんなんだって。こうすいのニオイがするおかあさんはキライだ。そういう時のおかあさんはぼくを痛くする。ぼくにはスバメだけだ。スバメがいればつらくない。こいつとぼくとでいつかとおい町へいこう。
 だけどスバメはしんだ。ころされた。ぼくをいじめていた年上のやつらが、スバメを箱から持ち出して、道路に捨てたんだ。ぼくのせいでスバメはしんでしまった。てっちゃんが言う。こんなもんだよな、おれたちもこいつもこうやってやられるんだ。
 まだ傷が完全に癒えていなかったスバメは道路を走ってきた車にひかれ、見るも無惨な姿になって俺たちの前に現れた。俺はあのときから、やつらより強くなろうと思った。強くて、力があれば、見返してやれる。そうだ、今ならあんなやつらに負けるはずがないんだから。
「あ。おとうさん!」
 チカの声に呼び戻される。スバメを見て、さらに自分の境遇に近い話を聞いたせいか昔のことを思い出していたようだ。頭を振り、リセットする。よし、今の俺はたかが一匹のスバメごときにめそめそするような男じゃねぇ。
 まえを向き、俺は殴られたみたいな衝撃を受けた。
 ――てっちゃん。
 角から歩いてくるのは確かに、てっちゃんだった。昔より腹がでかくなって中年太りしているけど、あのイシツブテみたいな顔は間違いなくそうだった。チカが手を振っておとうさんと呼ぶ。てっちゃんは娘の姿に相好をくずして小走りでこっちへ向かってくる。スバメがきゅうと鳴いた。
「母さんにちゃんと電話できたか、チカ」
「うん。ばっちりだよ!」
「そっかあ。ところで、この人は」
「おじさんね、スバメ知ってるの!」
 どうも、とさし障りのない言葉でにごすと、てっちゃんは難しい顔をした。あからさまに疑っている。俺は変質ロリコン野郎じゃねぇと言ってやりたいが、この姿じゃどう弁解しても無駄だろう。俺は剥げた四十絡みのおっさんの姿を借りている。汚いよれよれのシャツに短パンじゃ、変質者です疑ってください女の子ダイスキーと宣伝して歩いてるようなもんだ。
 しかしまさか、あの恥ずかしがり屋のてっちゃんが子持ちになってるとは思いもしなかった。そもそもてっちゃんが年とって働いているなんてことすら、考えていなかったくらいだ。まじまじと見ていたのか、思いっきり嫌そうな顔をされる。
「あー、そろそろ面会に行かないとなあ、なんて。それじゃ!」
 慌てて走りだすと、すれ違った看護婦ににらまれた。
 目当ての病室のロックを解除し、すべりこむように中へ入る。風に孕むカーテンがざあざあと波音を立てた。
 白い部屋にぽつりと置かれたベッドのうえには小さな人影がある。そいつは窓へ向けていた顔を俺の方にやって、びっくりしたように紫色の目を見開いた。
「なんだ、ラムダ。なんで泣いてんだよ」
 はたりはたり。リノリウムに水が跳ねた。


カエル師匠 ( 2013/03/25(月) 22:12 )