2013年
かみかくし
 息子が浚われた――。
 そう言って女性が交番に駆け込んできた時、シノミヤはインスタントラーメンの夕飯を食べていた。ずるりっと音を立てて麺と汁を吸い込み、呆気にとられて弛緩した間抜け面を向けた。何拍か遅れてようやく言葉の意味を理解し、錯乱状態の女性をひとまず空いたイスに座らせた。
 三十代か、はたまた二十代かといった妙齢の婦人である。シノミヤのような三十路にもなって職務第一の女っ気がない男には、女性の年齢はよくわからない。少女、若い女、熟女、老女くらいなものである。なので妙齢の、というのも漠然とした推測だった。わかるのはこの女性が一般的な美人に部類されるだろうということぐらいである。乱れ髪と泣きはらして腫れたまぶたであるにも関わらず、シノミヤはみとれてしまった。すっと通った鼻筋と、くっきりとした目、透き通るような陶器の肌――目の毒である。
 一時ぼんやりとしていたシノミヤの思考を呼び戻したのは女性の甲高い声であった。
 彼女は息子が浚われた、自分のせいだ、などと文脈の汲めとれない言葉を繰り返す。どういうことかと問いただせば泣きだし、まるで少女のようにぐずぐずと要領を得ない。誘拐事件かもしれないのに、なんだか緊張感がなかった。すすり泣く女性を前にシノミヤは馬鹿馬鹿しいほどうろたえ、助けを求めるように食事中のガーディを見やった。犬を思わせる四足歩行のポケモンはちらりと主人を見上げ、小首をかしげる。かわいらしい仕草だが今は役に立ちそうもなかった。
 ごほん、と咳払いをひとつして気を引き締める。怖じ気付いてどうするのだ。ここは女性から供述をとり、すぐにでも事を起こすべきではないかと心を鼓舞する。
「奥さん、奥さんでよろしいでしょうか……ともかく奥さん。息子さんのお名前と、それからどうして居なくなったのかを教えていただけますか」
「シロウ、シロウは夏に家を出たんです。私が目を離してる隙にあの子は居なくなって、それで、やっと帰ってきたと思ったら、また」
「息子さんはシロウ君とおっしゃるんですね。それでシロウ君はええっと、家出していたと? で、帰ってきて誘拐されたんですか?」
「あの男はシロウを連れていってしまったんです」
「シロウ君を誘拐した犯人を見たんですか!」
「ええ……」
 女性は遠い目をして、とつとつと語り始めた。
 シロウが家出したのは去年の夏だった。ユキコが再婚を決意し、ここトキワシティからコガネシティまで引っ越すその日であった。
 前々から再婚相手をシロウが嫌っているのは知っていたが、まだ十歳であるし、いくら疎んじているとはいえ男親は必要であろうとそう思っての決断である。女手ひとつでシロウを育てて六年、辛いことの方が多かった。片親だからと後ろ指を指され、暮らしの為に働けばシロウがかわいそうだと何も知らない他人から批判された。だれもユキコを可哀想だと労ってはくれなかった。
 だから、労ってくれてユキコを支えてくれる相手はユキコにとっても必要だったのだ。彼は理解のある人で、子連れでもかまわないと言ってくれた。
 しかし、息子が行方をくらました。
 置き手紙にはポケモントレーナーになるから心配しないでほしいと書かれており、ユキコは不安ながらもひとりジョウトへと旅だった。シロウを束縛するのはよくない、と思ったからである。十歳といえばポケモンを所持していれば旅立つことのできる年齢だ。シロウは小さな頃からゴースというポケモンを所持していたし、最近はコラッタも捕まえていたからそうそう危険な目には遭わないだろうと思った。事実、たまにかかってくる電話越しの声は明るく元気で、旅は順調に行われているようであった。
 先日かかってきた電話でシロウはやや興奮気味に、
「母さん。オレ、母さんに伝えたいことがあるんだ。来週の月曜にトキワシティに来てほしいんだけど、来られるかなって思ってさ……」
 そう言われてユキコは了解し、今日トキワに到着した。最近は交通便もよくなってコガネから来るのにも差ほど時間はかからない。待ち合わせ場所のポケモンセンターに到着した時、懐かしさに誘われてユキコは荷物を置いて散歩に出かけた。
 なんとはなしに北へ足を向けるとトキワジムが見えてくる。現在はジムリーダー不在のため閉鎖されていると聞いている。だが、なぜかジムから音が聞こえてきたのだ。それは確かにポケモンバトルが行われている壮絶な音であった。ユキコは不審に思い、ジムを覗いてみることにした。しかし扉は堅く閉ざされており入ることはできない。仕方なく周りを歩いていると突然建物の壁が突き破られ、巨大な陰が前方を塞いだ。
 石のような頑健な皮膚に、長くのびた角。太く大きなしっぽが地面をえぐる。ニドキングである。
 ニドキングを追撃するために長い体をうならせて新たなポケモンが躍り出る。岩をつなげた蛇を思わせるその生き物はイワークであった。やはり誰かが戦っているのだ。
「ドン、そのままたたきつけるだ!」
 その声は確かにシロウのものだった。一年離れていてもすぐにわかる。戦っているのはシロウなのだ。
「そうはいかない。つのでつく!」
 巨体で押しつぶそうと体をのけぞらせたイワークの下で、ニドキングは横たわった状態のまま力を込める。岩の肌に叩きのめされたかと思いきや、ニドキングはその強靱な角でイワークの節目をえぐり、絶妙なバランスで攻撃を止めている。しかしイワークの重量を角一本ではそう長くは持ちこたえられないだろう。
 再びシロウとは違う声が鋭く響いた。
「どくばり」
「ドン! だめだ逃げろ!」
「終わりだ」
 近距離から毒々しい無数の針が射出される。角が食い込んでいるために逃げ出せないイワークの、えぐれた体にすべての毒針が狙いをはずさず命中した。イワークが絶叫を残して大地に伏す。轟音とともに地面が大きく揺れた。
 もうもうと立ちこめる砂煙のなか、少年がイワークへ走りよろうと駆けてくる。一年前より大きくなったシロウだった。記憶のなかにいる天真爛漫な子供ではなく、そこにいたのは恐怖に顔をひきつらせながらも相手に立ち向かう強い意志を持ったひとりの人間であった。息子はいつのまにか大人になっていたのだ。ユキコはシロウに声をかけようとした。その時、ニドキングの爪が子供の細い首に押し当てられた。
 シロウは足を止め、悔しそうな、驚きの隠せない表情で壁の向こうをにらんだ。
「降参か?」
「いやだ!」
「ずいぶんと強気だな。いいだろう、それでこそだ」
 ため息混じりに声は言い、ニドキングは腕をおろした。シロウは首に手をやりかけてからイワークを見やり、ぽつりと死んだのかとこぼした。一見するとわからないが、イワークはもう二度と動かなくなっていた。普通のポケモンバトルでは相手のポケモンを殺すようなことは滅多にない。ポケモンバトルは一種のスポーツのようなものである。サッカーで死人がでることがないように、ポケモンバトルでも死亡事故はあり得ない。はずなのだが、ユキコのみる限りイワークはそのあり得ない事象を覆していた。
 シロウがうつむく。赤い野球帽の影になって表情はうかがえない。数秒後に上げられた顔は想像していたものとは違っていた。ぎらぎらと闘志に燃えたぎる瞳、やや口角のあがったぎこちない笑み、小さく漏れる獣のごとき唸り声。
 息子の恐ろしい姿に思わずユキコは叫んでしまった。シロウ、と。
 とたんシロウの表情はぬけ落ちたかのようになる。じわりと浮かんできたのは驚愕だった。なにが起こったのかわからないという子供らしい、人間の顔が母を見た。
「母さん!?」
「おまえの母親か」
 振り返ったシロウの背後、ジムの暗闇の向こうからぬっと影がはいだしてきた。ダークスーツに身を包んだ壮年の男だった。浮かべられた笑みにユキコは悪寒が走った。得体が知れない恐怖とでもいうべきだろうか。この男とシロウは戦っているのだ。
 よく見ればシロウはぼろぼろだった。額からは血が流れ、左腕を押さえている。満身創痍である。対する男も衣服が裂け、おびただしい擦過傷をこしらえていた。まるでポケモンだけでなくトレーナーも勝負をしているかのようである。ユキコの知るバトルはここには存在していない。
 覚えずユキコは後ずさった。
 男が手をすっと前へつきだした。ニドキングがシロウではなく、ユキコの方へ爪を伸ばす。あれは、毒針の姿勢ではないか。そう気づいたユキコの視界は微かに反転する。
「やめろ! 母さんは関係ない!」
「この勝負はなんでもありだ、と初めに警告しておいたはずだぞ、シロウ。今更待ったもないだろう」
「それはあんたとオレの間での取り決めだ。この人には関係ない。それに一般人に手を出すのがあんたたちの矜持なのか」
「我々の誇りを語るか。ふふふ……いいか、俺が手をおろせばニドキングはどくばりを撃つ。ただ手をおろすだけでいい。おまえがその手のモンスターボールを放つ前にけりは着く。だが、おまえが負けを認めれば俺はニドキングをこのモンスターボールに戻す」
 ユキコからニドキングに視線を移し、シロウはおし黙った。母親の命と敗北。それは天秤にかけるまでもないはずだ。なのに少年は迷いを浮かべ、握りしめたモンスターボールを腰のホルスターに戻そうともせず、じっと物思いにふけっている。まるで男が言っていたとおりに攻撃を止められないのかと考えているようだった。
 恐慌のまっただなかにありながら、息子の母を軽んじるような態度に腹が立ったのだと思う。混乱していたせいかもしれない。向けられた凶器のせいかもしれない。ユキコのなかに怒りがふつふつと沸き上がってきた。
「負けたっていいなさい、シロウ!」
「え……?」
 思いがけない言葉だとばかりにシロウは狼狽する。
 本当に母親と敗北を同じ土俵に持ってきていたのだと、わかった。たかが戦いの勝ち負けと比べられているのかと思うと目頭が熱くなる。こんな子に育てたつもりはない。
「あんたもあの人と同じね。私よりバトルの勝ち負けの方が大事なんだわ!」
「ち、違う、違うよ母さん! オレは今は、今だけは負けられないんだ。頼む、オレを信じてくれ」
 わかってよ、と瞳が訴えかける。それを無視してユキコは首を横に何度も振った。男がおもしろいものでも見物しているかのように目を細める。
「どうする。オカアサマはおまえに負けてほしいそうだが」
「オレは」
「シロウ、お母さんが大切なら、負けたと言ってちょうだい。ね。いい子だから。お願いよシロウ」
「――わかった。オレの負けだ」
 シロウがそう言った瞬間に男は手を振りおろした。ニドキングが忠実に毒針を発射する。ユキコの体は恐怖に硬直する。どうして、とそれだけが頭の中を占める。数え切れない針が眼前に迫ったとき、ユキコの影がぐにゃりと屹立した。
 紫色の影だ。とげのついた背中は子供の背丈と変わらないが、揺らめいているせいか自分よりも大きく見える。それはいともたやすく毒針を吸収してしまった。ダメージがまったくないのだろうか、気味の悪い笑い声を上げている。
 男は肩をすくめてニドキングをボールに戻した。攻撃が防がれるのを予期していたのか、特に感情を乱すこともなかった。シロウが握っていたボールを向けるとユキコの前からポケモンは消えた。
 虚ろな目でこちらを見つめるシロウに気づき、ユキコはようやくすべてを理解した。息子は初めからポケモンをもう一体自分の影に忍ばせていたのだと。どういう原理かは知らないが、あのポケモンは影から影へ移動できるのではないだろうか。だからシロウは信じてくれと言ったのだ。自分を信じてくれればきっと大丈夫だからと。突然乱入してきた母親に憤るでもなく、信じてくれと言った息子を、裏切ってしまった。
 でも、それならそうと言えばよかったのではないか。
 ユキコは当然の反応をしたにすぎないのである。責められる謂われも、落胆される覚えもない。誰だってポケモンに襲われそうになれば怖じ気づくのが普通なのだ。
 シロウは何か言いたげに口を開いたが、けっきょく視線を逸らして黙り込んでしまった。男がシロウに耳打ちすると、弱弱しくうなずいてユキコに背を向けた。イワークの死骸がモンスターボールに吸い込まれる。そのまま男とシロウは連れだって歩き始めた。
 ――子供は浚われてしまった。
 女性の話しは唐突に終わった。シノミヤは供述を書き取っていた手を止め、書面から女性へと視線を移す。
 誘拐事件だと思って聞いていたのだが、どうにも違うような気がする。彼女の息子とその男とは明らかに顔見知りであり、やや違法であるとはいえポケモンバトルをした後に本人の意思で行動を共にしたふうにも受け取れる。シロウ少年は無理やり連れ去られた訳ではなさそうである。とんでもない勘違いだったのではないだろうか。
「奥さん、シロウ君は自分からその人についていったんでしょう? それなら誘拐とは言いませんよ」
 シノミヤが言うと、女性は恐ろしい形相で彼を睨みつけた。思わずたじろいでしまう。
「いいえ、あの子は浚われたんです! 連れ戻してください! あの子をもう一度私のところへ帰して!」
 狂気である。
 あまりの事にシノミヤが困惑していると、身回りに出ていた先輩警官がひょっこりと顔を出した。シノミヤより十歳ほど年上のタノである。タノはどうしたんだぁい、と間延びした声で訊ねた。女性が振り返る。
「実はですね」
 簡潔に説明するとタノは深刻そうな顔をして女性を見やった。
「それは大変ですな、すぐに捜索届けを出しましょう」
 女性は気の抜けた声で相づちをうち、あれこれとタノが手際よく出してきた書類の上に屈みこんだ。先ほどの恐ろしい様子はみじんもない。夢だったのかと疑ってしまいそうである。
 書類の提出はこちらですることになり、女性はどこか憑き物が落ちたふうに帰っていった。
 タノに茶を入れてやり、シノミヤはほっと息をついた。
「上はちゃんと捜査してくれますかねえ」
「さぁどうだろうな」
「……シロウ君はお母さんに何を伝えたかったんでしょうか。けっきょく何も伝えられてないじゃないですか。そんな状態でいなくなっちゃうなんて、ちょっとさびしいですよね」
「いや、言いたい事は言ったんだろうよ」
「え? それじゃあまさか、お母さんが嘘をついていたと」
「そうじゃないよ。ただな、あの人が自分のせいだと言った理由があるだろうと思うんだわな。たぶん全部洗いざらい話してはないだろ」
 シノミヤは供述書に目を落とした。欠けた供述。そこには何があったのだろうか。



 母さん。母さんに認めてほしかったんだよ、オレ。ジムバッジを八個集めてポケモンリーグで優勝して、一番強いポケモントレーナーになったら母さんが喜んでくれる、そう思って今まで頑張ってきたんだ。でもダメだった。ごめんな、母さん。どうしようもない息子でごめん。
 オレはこの人と一緒に行く。今までありがとう。
 それから――



 さようなら




カエル師匠 ( 2013/03/17(日) 23:35 )