砂の夢
ここはどこだろう。一面の砂丘、一面の青空。終わりのない砂の道が諾諾と続いている。
わたしは誰だ。姿を認知するすべもなく、またわたし以外は存在しないために無限に個が拡散する。わたしという存在を証明する手だてはない。
――わたしは居ないのか。
――それとも居るのか。
わからない。
だが、ここにこうして立っているのも無意味だろう。柔らかな砂を蹴り、宇宙を飛ぶ。ざあざあと風に吹かれて砂塵が舞った。わたしは飛べるらしい。ならばわたしは鳥なのだろうか。両腕に羽毛はないが、そういう鳥もいるのかもしれないので明確な判断はくだせなかった。
しばらく飛んでいくと、モノトーンのなかに色がぽつりと現れた。紫色のかたまりだった。よくよく近寄って見てみれば、大きな目がぎょろりと動いた。それはわたしを仰ぎ見てにこやかに手を振ると、突起のある背を向けてずぶずぶと土中に消えた。驚いたことに、ここにはわたし以外の生き物がいたらしい。
地上に降り立ってみたが、先ほどの生き物はもう移動してしまっていた。いろいろなことを聞きたかったのだが、居なくなったのならしかたがない。これから先は疲れるまで歩いて行くことにしよう。もしまた逢えたなら、徒歩の方が接触しやすいだろう。
そうして歩いているうちにわかったことがある。わたしは二足歩行が可能であるということ。尻尾があり、わたしの細やかな意志がなくとも勝手に揺れ動いている時があること。少なくとも歩くという行為だけで判明する事柄もあるようだ。
足の裏に砂があたって気持ちがいい。
次に出逢ったのは小さな生き物だった。体毛が全身をびっしりと覆っているが、手足と尾はひふを晒している。特徴的なのは突き出した前歯で、常に研いでいるのか非常に鋭利である。
トコトコと走り回るそれは降りかかるわたしの影にひげをひくつかせ、目を上げた。自分の何倍も背丈のあるわたしを見ても物怖じしていない。それとも知性が欠けているのか。否、そんなことはないだろうという確信がわたしにはあった。どこから来る確信かは知らないが、なんにせよ質問をすることは無益ではあるまい。
「ここはどこなんだ」
「ここはここさ」
「わたしはどうしてここに居る」
「ここに居るから居るのさ」
甲高い声でけたたましく笑うと、生き物は右の前足を指し上げた。
「知りたければずっとずっと先へ行くといい。みんな先へ行くよ。だけど戻ることはできないんだ。知りたくないのなら進むのは止した方がいいと思うね、実際」
「わたしは知りたい。なにも知らずにいるより、なにかを知った方がいい」
「そうなのかな。知らずにいた方がいいことって多いと思うよ。知らなければ知った気でいられるもの。でも行きたいのなら止めないさ」
それだけ言って生き物は、もう話したくないと言わんばかりに歯を研ぎだした。
わたしは再び歩き始める。思っていたよりもここには沢山の生き物が存在しているらしい。みんな先へ行った、ということはこれからも他のものと遭遇できるのだ。そうすれば知りたいことがわかるかもしれない。
次に出逢ったのは翼の生えた大きな口の生き物だった。それはバタバタとせわしなく飛び回り、顔のすぐ下にある足を踊らせていた。わたしが近づくと降下してきた。
つくづく奇妙な生物だ。胴がなく、全身が顔面で構築されている。この姿で果たして意志の疎通が可能なのだろうかと思案していると、あちらから声をかけてきた。
「あなたこの先に行くおつもり?」
「ああ、そうだ。知りたいことがある」
「あらそう。わたくしも知りたいことがあったように思うのだけど、ここにいるとなにが知りたかったのかわからなくなってきてしまって。それを知るために進もうかとも思ったのだけど、なんだかどうでもよくなってきたのよねえ。でも戻る道もわからないし、そうこうしてる内にどっちが来た道なのかもうやむやになっちゃたのよ。そのうちどっちが上か下かも関係なくなるんじゃないかしら」
よく喋る生き物だ。
「ところであなた、お名前はなんとおっしゃって? わたくしは――あら、なんだったかしら」
「名前?」
「そうよ、名前。あの人に貰った大切な名前よ。でも思い出せないの。しょうがないからゴルバットと呼んでちょうだい」
ゴルバットは悲しそうに遠くを見つめた。遠くといっても終わりがないのでどこを見ても同じなのだが、なぜだかそういうふうに見えた。ゴルバットは大切なものを無くしてしまったようである。この広大な砂漠では、どんなものでも埋もれてしまうだろう。
わたしの名前も埋もれてしまったのだろうか。探せば見つかるのか、あるいはもう一生戻ってはこないのか。ひどく不安になる。
「あら。あなたも悲しいのね。あなたもあの人に逢いたいのね。ならきっと先に進むべきだわ。立ち止まっていれば自分のなかのあの人と一緒にいられるけど、それはしょせん本物のあの人じゃないもの」
「あの人とは誰だ。そいつに聞けば知りたいことがわかるのか」
「逢えばわかるわ」
ささやいてゴルバットは急上昇した。高く、高く、青空に向かって飛翔する。すっかりゴルバットの姿が見えなくなってから、わたしは足を踏み出した。
砂の道はとぎれない。
隆然とした山々も草木が生い茂るでもなく、ただただ砂を一箇所に集めたにすぎぬ。つまらない景色だ。漠々たる砂路は生命の息吹というようなものを一切持ち合わせていないようである。そのせいか、どことなく息苦しい。
ゴルバットの向かった空は地上よりも善い処なのだろうか。
しかし、わたしは地を行く。あの人というのがどのような生き物か想像もつかないがこのまま先へ、ひたすらに直進すれば逢える、そのような気がするのだ。
「ここは寂しい場所だァな」
またしても出逢いが訪れた。
今度は二匹同時である。彼らは球状の体をお互いに密接しあっているようにみえた。密接ではなく、癒着しているのかもしれない。
丸い体からは筒状のちいさな突起があちこちから突き出ており、そこからはガスが絶え間なく漏れでている。ガスは非常に強烈な悪臭がした。思わずせき込むと、彼らはぐるりと回転し、浮遊した状態でのろのろと近づいてきた。
「あんたも寂しそうだなァ」
「わたしが寂しそうにみえるのか」
「おうおう。あんたは砂よりずっと寂しいんだな。砂粒には仲間がどっさりいるけどもあんたにゃ仲間がいねェんだ。どこに行ってもどこを探してもいねェのよ」
衝撃的な言葉にわたしはひどく動揺する。
「あんたはずっとひとりッきりなんだな」
「なぜおまえにそのような事がわかる。おまえがゴルバットのいうあの人なのか。ならばわたしの質問に答えてくれ」
「おいらァ、あの人じゃねェ。マタドガスって呼ばれてるポケモンだぞ」
「……ポケモン」
「おうおう。ポケモンだ」
ポケモン。マタドガス、ゴルバット、その前に出逢った生き物たち。それらがポケモンという総称で表される生き物だというのか。では、わたしは、ポケモンなのか。
ならば仲間はいるはずだ。彼らもわたしもポケモンだというのならば、仲間であろう。
「マタドガスよ。わたしに仲間がいないというのはどういうことだ」
「それはわかんねェ」
「わからないか」
「先に進めばわかってる奴がいると思うがな。なにせここはゆゆゆゆゆゆゆゆゆ」
マタドガスが緩慢に回り出す。くるりくるり。煙をまき散らして踊っている。わたしは唖然と、回る二つの球体を眺めていた。止める術もわからない。回転の速度が上がっていく。
次第にマタドガスの姿は霞んでいき、わたしが見守るなかで液状化を始めた。あっという間にマタドガスは粘着質な液体へと変貌をとげ、ばたばたと砂地に落ちた。マタドガスはみるみる内に砂地に吸収され、消えてしまった。
彼がなにを言おうとしていたのか、わたしはとてつもなく気にかかった。ゆの後に続く言葉はなんだ。彼はこの場所のことをわたしに教えようとしてくれていたのではないか。なぜ、突然マタドガスは液状化し、消えてしまったのだろう。
砂に食われた、のか。
ばかげた発想だが一度考えてしまうとあり得そうで恐ろしいものがある。わたしは足をあげ、まとわりついてくる砂塵を執拗にはらい半ば無意識のうちに浮かびあがった。しかし、マタドガスも浮遊していたのだ。いくらこの忌々しい砂から逃れようとしても無意味なのではないだろうか。
「先へ、進むしかないのか」
知りたければ前へ、前へ。後戻りはできぬ。
恐怖を意識しないように全力で飛んだ。ごうごうと耳元で砂がうなる。わたしを絡めとろうと追いついてくる。そうはいかない。わたしには知りたいことがある。
それまで砂しかなかった風景のなかに、ふいに亀裂が入った。空が割れる。地が裂ける。
そしてわたしは砂に飲み込まれた。
「シンクロ・オペレーション、作動率八七パーセント」
無感情な声を聞きながら、彼は己の腕から、足から、全身から伸びる色とりどりのチューブをぼんやりと眺めていた。ほの暗い場所のせいか、はたまた自分の意識がもうろうとしているのか、世界が均衡を崩しかけているように見えた。チューブのなかをのたうつ液体が腐敗しているような気がする。硬いはずのベッドが浮き沈みしているような気もする。
砂が眼前を舞っている。
空はぬりたくられた青色だ。
目の前に、彼より大きな生き物が見える。
「わたしはどこにいる」
幻視が語りかけてくる。高圧的だが不安げな声だった。
ついに幻聴まで聞こえるようになったのかと呆れた。実験に支障を来したのではないかと思い、研究員たちを見やるが慌ただしい様子はない。ではこれは予定調和に過ぎないのだろう。変なものが見える、変な声が聞こえるというのは実験には付き物なのかもしれない。彼は普段実験などという理解の及ばない行為とは縁を切っているため、どうにもすべてがあやふやだった。
幻覚の生き物はどこかを歩いているようである。進んでいるふうなのでそう思ったに過ぎないが、こちらへ到達することはなさそうだというのが残念だった。しょせんはまやかし、現実に進むわけではないのだ。
「作動率九〇パーセントを切りました。カウントダウンに入ります」
辺りがざわついた雰囲気に包まれた。当然だ、この実験が成功すれば組織は強大な力を手にいれることになる。そうすれば研究者たちはさらなる研究資金を与えられ、本来彼らがしたかった実験を開始することが可能なのだ。
彼らでは語弊があるか。正確に述べれば現場責任者であるフジ博士が望む研究、であろう。ポケモンの遺伝子を利用した複製人間の誕生。それが博士の夢であり、希望なのだ。これはもちろん凡人には理解されないものであり、人道的道徳的にも道を逸している。だが、そんなことは彼の属する処では通用しない。力こそがすべて、暴力こそが支配力を持つのだ。
彼はもうろうとする意識のなかで、生き物を見ることに集中した。幻であるからこそはっきりと見える。
生き物は砂を攻撃しながら叫んだ。
「なぜわたしはひとりなんだ」
問いかける声はより一層強く、大きく耳に届く。
どれほど周囲が人の声で満ちていようとも、彼の耳にはっきりと届いていた。ともすれば幻影はわずかな微風、人の通過によって姿をおぼろげにさせたが、声だけは鮮明にまるで心に直接投じるように響いた。
カウントダンをする声が感極まって震えている。
目の前の生き物も震えている。
世界が、白く塗り固められていく。
「わたしは誰なんだ!」
悲痛な声音に彼は思わず口を開いた。
「 」
わたしは砂に飲まれた。あたりは黒一色である。
上も下も、右も左もなかった。
誰かがわたしを呼ぶ声がする。
――そしてわたしは覚醒する。