二度目のスタートライン
視界を覆う眩い光が消え、あたしは辺りの様子を探る。洞窟を削って作ったと思われるけど、壁も床もきちんと滑らかに整えられ、照明もおしゃれなランプ型などといったこだわりの装飾が施されている。たぶん雰囲気的にギルドの中である事は間違いない。
「きゃっ!!」
背後から女性の叫び声がする。後ろを振り返ると、水のような青の体色をした耳の長いポケモンがいた。
「ちょっと君っ! そんな大怪我で大丈夫!?」
カウンターから飛び出し、彼女はあたしの下へ駆け寄ってきた。どうしたんだろうと不思議だったけど、自分の今の状況を思い出したら理解した。包帯まみれのポケモンが急に現れたら誰だってびっくりするよね。
「うん、あたしは大丈夫。……えーっと、ワープ装置管理者のマリルリ?」
「そうだけど……何故私の事を知ってるの?」
「ピカチュウに『バッジで送った先にいるマリルリさんを頼って』って言われたの」
ピカチュウって名前を聞いた瞬間、マリルリの顔色が変わった。
「へぇ、やけに帰りが遅いと思ったら……。カワイイ子をお持ち帰りなさるとは、ピカっちも隅に置けないね」
マリルリがあたしの顔を見てニヤニヤ笑っている。ピカチュウが言ってた通り、クセのあるポケモンなのかもしれない。
「あの……、ここでケガの治療をしてもらえるって聞いたんだけど……」
「パピナスの事ね。……ねえ、あなたを見れば見るほど心配になるけど、ホントに大丈夫なの?」
「体が丈夫な事だけが取り柄だからね」
唯一の取り柄をちょい誇らしげに言って元気アピールをしたけど、マリルリに「無理しちゃダメ。搬送用ベッドを用意するから乗って」と返される。あたしはマリルリにされるがままにベッドに乗せられ、医療室に向かってゆっくりと走り出した。木製のベッドだけど、高さや角度が調節可能という凝った作りをしている。
「そういえば君の名前は?」
「ツタージャよ」
「ツタージャね。それと、今の君は色々目立つからこれを被ってて」
そう言ってマリルリは質素な麻色をした毛布を手渡してきた。あたしはそれを身体を隠すように被せる。
「急ピッチで行くよ!」
マリルリの掛け声と共に、車輪が音を立ててベッドが走り出す。ベッドの揺れ具合からそれなりのスピードが出ているようだけど、床が舗装されているのか大して揺れず、傷に響かない。
「どいてどいて! 急患が通りますよ!!」
ガヤガヤと話し声がしている様子から、ギルド内には結構なポケモンがいるらしい。マリルリが毛布を被せてくれなかったら、あたしは好機の目で見られてたかもしれない。マリルリには後できちんとお礼を言わなくちゃ。
「到着!」
ベッドが止まった事から、医務室の前にやってきたらしい。毛布から顔を出すと、目の前に意味深な張り紙がされている扉が見えた。マリルリが曇った表情を浮かべているので、ベッドから身を乗り出して張り紙を見てみると、どうやらハピナス先生は外出してしまっているそうだ。
「こんな時に限って出張診療とはね……。でも安心して。もう一匹腕のいい医師がいるから」
そう言ってマリルリはドアノブに手をかける。心なしか、彼女の顔はちょっと不安そうに見えた。
「急患です! タブンネ先生はいらっしゃいますか!?」
扉を開け、部屋の隅々まで響く声で言うマリルリ。部屋の奥でデスクワークしていたポケモンが「き、急患ですか!?」と慌てた様子で答えた。恐らく、このポケモンがタブンネだろう。ぱっと見た感じ、あたしと同年代だ。
「この子はツタージャって言うんだけど、診てくれる?」
マリルリが搬送用ベッドを部屋の中に入れ、あたしとタブンネが対面する。
「えーっと……よ、よろしくね」
信じられないと目をぱちくりさせている彼女にあたしは軽く手を振り、ぎこちない挨拶をした。無論二匹の距離は縮まる事なく、「こ、こちらこそ……」とよそよそしく返された。
「ピカっちがこの子を救助してね。あらかた処置はやってるそうだけど、念の為に診てくれない?」
「……でも、ハピナス先生は今出張診療中でして。もうすぐで帰って来ますから……」
「あら、先生はもう一匹いるじゃないですか?」
マリルリの青い指がタブンネに向けられる。
「わ、私ですか!? 駄目ですよ! 私は見習いで、まだ現場に立てません!」
「そろそろ実践研修をやってもいい頃だとハピナス先生が言ってたのに? タブンネが毎回『実力不足だから』と断ってるそうじゃない?」
「だって、実力不足なのは確かですし……。未熟なままで患者と接するのは失礼……」
「もうじれったい!!」
タブンネが話している最中マリルリが急に扉へダッシュし、部屋の外へ出た。そして扉の隙間から顔を半分出した状態でこう言った。
「私まだ勤務中だからツタージャの事お願いね!」
足音が遠ざかっていくので、本当に職場に戻ったに違いない。マリルリはこのままでは埒が明かないと悟って、こんな強引な方法を取ったのかもしれない。
「…………」
急に静かになった部屋の中、不安そうな顔でこちらを見るタブンネ。医師としてはちょっと性格に問題があると彼女が言ってた意味が分かった。
「……つかぬ事を伺いますが、ツタージャさんで間違いないですよね? どうしてそんな大怪我を?」
「一匹で探検してたら森を縄張りとしているポケモンに襲われてね」
「この右腕の傷は?」
「たぶん、シザークロスを右腕で防いだ時の傷」
あたしがバランスを崩した隙をついて、首元目掛けて放たれたシザークロスを右腕で止めた時にできた傷だったと思う。腕が真っ二つにへし折られるような痛みで意識が飛びかけたっけ。
「背中の針の跡は?」
「敵に背後を見せて逃げた時、敵からの追撃で毒針をもろに喰らって……」
襲われた時の事を思い出していく内に、背筋がだんだん凍り付いていくのを感じた。あたしが今、こうしてタブンネと話しているのは何重にも積み重ねられた奇跡によるものだと気付いたから。
「…………」
手足の末端からあたしの存在が消えていく感覚が襲いかかる。……あたしが力尽きて意識を失う瞬間と全く同じ。痛みすら遮断され、感情すら全て奪い去られ何もない暗闇に落ちていく感覚。
「ツタージャさん! 大丈夫ですか!?」
タブンネの呼び声により、はっと目が覚める。取り戻した感覚を辿っていくと、タブンネが優しく包み込むように右腕を取っていた事に気付いた。あたしの顔を見るタブンネの目は焦りの色はあったもの、紛れもなく真剣だった。……理由は分からないけど、タブンネが触れている部分の傷の痛みが少し引いた気がする。
「うん、ちょっと傷が開いてね。……あの時は本当に怖かったよ。もう少しであたしは……痛っ……!」
右腕の傷の痛みが酷くなり、あたしは思わずタブンネの腕を振り払って傷口に手を当てる。針で刺されたような痛みが走ったが、押さえずにいられなかった。命を奪われかけた、忌々しい傷なんてもう見たくないから。
「……私なんかで良ければ診ますね」
タブンネがあたしの目元を優しい手付きでなぞり、再び右手を手に取った。どうやら、無意識に泣いていたらしい。
「……うん、お願い」
あたしは左手を傷口から離し、全幅の信頼を込めて右腕を預ける。それを見たタブンネが机の引き出しから道具一式を取り出し、一息ついてからこう言った。
「……始めますね」
タブンネは私に巻きついた包帯を手早く丁寧に取っていく。ぎこちなさを全く感じさせない、なめらかな動きだ。
「思ったより傷が深いですね。……生きてたのが不思議なぐらいです」
包帯の下から現れた傷だらけの私を、心配そうに見つめるタブンネ。改めて見るけど、体のあちこちに傷があって、その一つ一つが痛々しい程深い。こうして見ると、あたしは紙一重で助かったんだと痛感する。
「でも、傷がほとんど塞がってます。すごい回復力ですね」
タブンネの言う通り、自分でも信じられないぐらい痛みもほとんど感じない。一部の傷はすでに塞がっている。指で傷をつついてみても何ともなかった。
「あっ! 傷に触らないで下さい! 菌が傷に入りますから」
注意された私は手をさっと引っ込め、体の横に置く。子供みたいな注意を受けて、少し恥ずかしくなった。
「今から薬を塗ります。オボン果汁ベースの消毒液ですので多少染みると思いますが」
タブンネは棚から薬瓶二本とピンセットとガーゼを取り出す。 消毒って、やたら傷にしみるから苦手だ。今も子供の頃と変わらず息を呑んで身構えてしまう。
「一番ひどい右腕から塗りますね」
横に大きく切り込みが入った右腕を、タブンネが優しく取る。
「ツタージャさん。そんなに染みる薬じゃないですから、力を抜いていいんですよ」
「えっ? う、うん」
無意識の内に力が入ってたらしい。あたし自身も分かってない事を触れるだけで察するなんて、流石医師のタマゴだ。
「それでは塗りますよ」
消毒液をたっぷり含んだガーゼが傷口に触れる。思わず目をつぶってしまったが、覚悟していた針で貫かれるような強烈な痛みは全く感じなかった。
「全然痛くない……」
「一応『いやしのはどう』を放ちながら塗ってますが、どうやら上手くいってるみたいですね。今から包帯を巻き直しますよ。薬草を混入させた特別製なので、すぐ治るはずです」
そう言ってタブンネは慣れた手付きであたしの腕に包帯を巻き付けていく。巻き目も等間隔で美しく、巻き加減も丁度いい。
「右腕は終わりましたよ。違和感ないか確かめてください」
右腕を軽く動かし、手のひらを握ったりして感触を確かめる。包帯を着けてる違和感はほとんど無いし、これなら今まで通りの生活が出来そうだ。
「凄い……。痛まないし、動きやすい。こんないい腕なのに、どうしてタブンネは自信が持てないの?」
あたしの言葉により、新しいガーゼを取り出しているタブンネの手が止まる。そして消毒液入りのビンを置き、こっちの目を見てこう言った。
「……怖いんですよ。他人の命を預かるのが」
「命を預かる?」
あたしはその言葉の意味が分からなかった。タブンネにとって重大な言葉なのは分かるけど、たぶんあたしが思っている以上に重大なんだろう。軽々しく、分かるなんて考えちゃいけない気がした。
「……はい。少し昔話しますね。私の父も医師だったんですよ。それもどんな病も治す神の手を持ったポケモンと評されてました。……その父の背中を間近で見てた私は、父と同じ道を歩む事を決意し、必死に勉強しました。ある日、父の所にあるポケモンから依頼があったんですよ。不治の病を治してほしいって。父なら何とかしてくれると思って訪ねたみたいですけど、患者はもう末期でして……。手術しても助かるのは父の腕を持ってとしても14%ぐらいでした」
「14%って、それは……」
後に続く言葉を言えなかった。医師にとって成功確率14%の数字がどれ程のものなのか、あたしみたいな一般ポケモンが口にしてはいけない気がしたからだ。
「でも、父はそれを引き受けたのです。確率を高めるため、各方面のスペシャリストを集め、手術方法を模索したりして、できる範囲まで成功率を高めたんですが……」
タブンネは急に話をやめ、表情に陰りが見え始めた。手は固くにぎられ、目には涙が滲み始めている。
「辛いなら、もう話さなくてもいいよ」
これが、不器用なあたしが出来る精一杯の配慮だった。彼があたしにしてくれたように、タブンネにも同じ言葉をかけた。
「……ありがとうございます。でも、もう少しだけ話してもいいですか? 私の心は弱いから、誰かに話して楽になりたいんです」
「……聞くだけしか出来ないけど、それでいいかな?」
それに対してタブンネは、ほんの少しだけ優しい笑みを浮かべ、「ありがとうございます」と照れくさそうに言った。
「治療しながら話しますね。……その手術の時、私は父のそばにいました。とは言え、手術しているのをただ黙って見てただけですけど。たぶん父は見せたかったかもしれません。どんな難病にも僅かな可能性をかけて戦う父の姿を。そして、医師としての使命を私の心に刻むために」
タブンネは話しながらも、傷を正確に治療していく。あたしは真剣に話す彼女の一言一言を心に刻むのに集中してるせいか、傷の痛みは全く感じない。
「でも、私の心に刻まれたのは動かなくなった身体、そして涙を流して父に殴りかかるポケモンの姿でした。……どんなに確率が低くとも、100%成功しなくてはならない。ポケモンである限り、絶対不可能な使命を常に果たしてきた父が涙を流しながらメスを置くのを見て、私は命を預かる事の責任を知りました」
「命を預かる……」
その言葉の意味が、二回目にしてようやく分かった気がする。
「ツタージャさん。私、怖いです。私の手で命の灯火を消すのが。……医師を目指す者が言うセリフじゃないのは分かってます。でも……怖くて、ずっと足踏みするしか出来ないんです」
「ねえ、あたしってタブンネに取って初めての患者なの?」
「えっ……、私一匹で診るのはツタージャさんが初めてですけど」
「そうなんだ。……何だか誇らしいや。名医タブンネが最初に治療したポケモンがあたしだなんて」
天井を向いて、タブンネにわざと聞こえるように独り言を呟いた。
「そんな! 名医なんて大げさですよ!」
タブンネが顔を真っ赤にさせながら全力で否定してくる。でも、あたしは聞こえないふりをして話を続けた。
「十年後、みんなに自慢するつもりだよ。右腕の傷跡を見せながら『この傷はタブンネ医師が治した』って」
右腕を慎重さすりながら、あたしは言った。本当にタブンネとピカチュウには感謝してもしきれない。
「タブンネはみんなに慕われる医師になるよ。あたしが保証する」
「……ありがとうございます」
照れ隠しだろうか、タブンネはあたしから目線を逸らした後、耳を澄まさないと聞こえない声でお礼を言った。
その後、治療が終わるまであたし達の間に会話はなかった。真剣に取り組むタブンネを邪魔しちゃ悪いと思ったから。……心なしか彼女の表情が凛々しく見えたけど、たぶん気のせいじゃない。
「……ツタージャさん、終わりましたよ」
最後の傷の処置が終わり、タブンネは包帯のロールを机に置いた。比べるのは畑違いだと思うけど、ピカチュウがやったのと雲泥の差だ。
「今日はここで泊まってください。……ツタージャさんは治ったら、これからどうするのですか?」
「あ、あたしは……」
いつもなら『自称探検家』って答えるけど、タブンネの医師としての問題と向き合ってるのを見て、探検家って名乗るのが恥ずかしくなった。無計画、ただがむしゃらに放浪するだけ。タブンネの夢に向けて努力してるのを聞いて、あたしのはただの「遊び」にしか思えなくなってきた。
「……探検家としての活動を続けるつもり。ギルドに所属してないソロだけど」
でも、あたしはまた虚勢を張ってしまった。あたしから探検家の夢を取ってしまっては何も残らない、息をするだけの抜け殻になってしまうから。
「そうですか。……ツタージャさん。医師は命を助ける仕事をしてますが、命の補助をするだけで最終的には本人次第なんです。前を向いて新たな一歩を踏み出すか、自分の殻に閉じこもるか。もちろんアフターケアも全力で尽くしますが、心って理論や法則で片付けられない複雑な分野ですから一筋縄ではいきません。患者の運命を大きく変える『きっかけ』に偶然出会うまで、根気よく献身的に接するしかないんです。その『きっかけ』が実は既に自分の中にあったり、誰も予想してなかった所からやってきたり。……医師が一番頼ってはいけない奇跡に頼るしかないのがもどかしいですね」
あたしはタブンネの話を黙って聞いていた。紛れもなく、あたしに向けられた話だから。耳が痛くても、胸が痛くても言葉の裏の意味を汲み取り続けた。
「長話をしてしまいましたね。偉そうに語りましたが、さっきの話は全部父からの受け売りです。……私は不器用なのでこれしか言えませんが、頑張ってくださいね」
「……それだけで充分だよ。ありがとう、タブンネ」
あたしはタブンネの言葉を『表面の意味』で受け取り、笑顔をむりやり作ってお礼を言った。彼女は自分は弱虫だって言ってたけど、本当の弱虫はあたしの事を言うんだと思う。見苦しく、探検家としての殻にしがみついているから。
「タブンネ、入っていいかな?」
突然誰かが扉をノックし、聞き覚えのある声が聞こえてきた。タブンネはどうぞと部屋の中に招き入れた。
「ツタージャ、ケガの調子は?」
「おかげさまで良くなったよ。心配してくれてありがとね」
ピカチュウが心配そうな顔してあたしの傷を伺ってくる。それに対して笑顔で応える。
「タブンネ、ツタージャと二匹で話がしたいから、席を外してもらってもいい?」
「分かりました、ピカさん」
そう言ってタブンネは扉に向かって歩き出す。ピカチュウとすれ違いさまに「お願いします」と小声で話したのを、あたしは偶然聞いてしまった。
「…………」
部屋の中を沈黙が包み始める。ピカチュウもあたしと同じように緊張しているのか、表情が固い。
「ツタージャ、ケガを治ったらまた探検家として活動するの?」
タブンネと同じ質問をしてきたが、口で答えず首だけで答える。こんな質問されるのは予想していた。でも本物を前にして、はっきりと口で答える事は出来なかった。
「……絶対絶命の目に遭ったのに、ツタージャは怖くなかったの? もう少しで命を落とす所だったのに……」
「怖かったに決まってるよ!!」
タブンネとは違って、ピカチュウはどんどんあたしの踏み込んでくる。……あたしの本心に触れられるのが嫌で嫌でたまらなかった。だからピカチュウの話の腰をへし折った。
「でも、夢を捨てる方がもっと怖いの。この夢はあたしの全てだから」
「……僕が来なかったら、ツタージャの夢も全部消えてたんだよ」
「夢を諦めろって言うの? あたしから夢を取ったら……もう何も残らない。たった一つ残された夢にすがるしかないんだよ。……あたしは、それすらも許されないの?」
自然と目頭が熱くなった。あたしの考えはどこか間違っているのは分かっている。でも、その間違いを認めたら、夢を追っていた自分を否定する事になる。そんなの絶対に認めたくない。
「……鏡を見てよ」
ピカチュウに言われた通り、部屋に備え付けられている鏡を見る。なんか、久々に自分の姿を見たような気がする。あたしって、こんな顔してたっけ……。
「今のツタージャの姿をよく見てよ。ツタージャが憧れてた探検家としての自分が、そこに映ってる?」
以前のあたしなら探検にケガは付き物だと気にしなかった。でも、今こうして自分の姿と向き合うと、よくそんなバカな事言えるものだと情けなくなる。
「…………違う、こんなんじゃない」
見ているのが辛くなって、鏡から逃げるように目線を下げる。明らかに自分のものじゃない白色に汚れたあたしの体に、心が拒否反応を起こしたからだ。あたしの惨めさにより肩が震え、ぽたぽたと涙が包帯を灰色に染めていく。
「……ちょっと恥ずかしい昔話をするけど、聞いてくれるかな?」
そんなあたしを慰めようとしているのか、ピカチュウはあたしの小刻みに震える肩に手を添える。今の状態で声なんか出せそうにないので、あたしは小さく頷いて答えた。
「僕も、入門当時は理想の自分ばっか思い浮かべていてね。その妄想が明らかに自分の技量を遥かに超えていて、思い出すのも恥ずかしいぐらい酷かった。でも、その妄想は現実によって脆くも崩れ去ったよ。失敗ばっかでボロボロになって、ルカリオさんの助けがなかったら何一つ出来ない。そんな無力な僕と妄想の僕との差に何度も絶望した」
ピカチュウの話を聞くのに集中してるせいか、涙はいつの間にか止まっている。あたしと同じ三ヶ月間なのに、ピカチュウは既に遥か先の段階を踏み出している。それなのに、未だ入り口で探検家と言い張っているあたしは何なんだろう。
「自分は向いてない、夢は諦めようと何度も思った。でも、完全に夢を諦める寸前の僕にルカリオさんがこう言ってくれたんだ。『夢は厄介な物で、光の部分しか映してくれない。影の部分を知り、理想を打ちのめされて、それでも夢と正面から向き合えた者だけが夢を現実に出来る』って、落ち込んでた僕に声をかけてくれた。……ツタージャ、探検家って職業は楽しい事ばかりじゃない。探検家には依頼を受ける義務があるし、責任も伴う。無事に帰ってこれる保証もどこにもない。その事を踏まえて、自分の夢と向き合ってみて」
「……う、うん」
あたしは目を閉じて、過去の記憶の負の部分だけを思い浮かべた。その辺の雑草で餓えを凌いだり、縄張りに入って一方的にやられたり……。理想で押し込めていた記憶と正面から初めて向き合った。あの時の痛みや苦しみが蘇って辛いけど、自分を変えるチャンスは今しかない。タブンネが言ってた、『予想もしてなかった所からやってきた"きっかけ"』を無駄にはしたくない。今まであたしが振りかざしていた弱い自分を隠すための勇気じゃない、本当の意味の勇気を振り絞って口を開いた。
「……あたし弱虫だから、現実と向き合うのが怖かった。心の支えが失うのが本当に怖くて、命を危機に晒してまでも間違いに気付かないフリをしていた。ホント、あたしって大バカ野郎だよね。……でも、やっぱりあたしは諦めたくない。救いようのないバカだって笑われてもいい。名前の知らない探検家から聞いた世界を、実際に見てみたいから。……あの時のわくわくや興奮をもう一度味わいたいの」
「誰も笑わないよ。ツタージャはもう、バカでも弱虫でもない。だって、君は立派に次のステップへ踏み出せたから」
ピカチュウの優しく、そして少し照れくさそうな笑みが心に染みる。……あたしって、こんなに泣き虫だったっけ。止めたはずの涙がまたこみ上げてきた。
「……ねえ、泣いていいかな? 赤ん坊みたく、声を上げてみっともなく」
「……外に出とくよ」
「いや、ここに居て。一匹で泣くのは虚しいから」
ピカチュウにとってははた迷惑な話かもしれない。でも、一匹で泣きたくなかったから適当な理由をつけて彼を引き止めた。
「分かった」
ピカチュウの返事を聞いた後、あたしは声を上げて泣いた。それまで抑え込んでいた感情を全て吐き出すために。みっともなく、惨めに泣き続けるあたしを、ピカチュウは静かに見守っていた。
どれくらいの時間が経ったのかは分からない。人目をはばからず泣いて、気持ちの整理をつけて、あたしはようやく涙を止める事が出来た。
「……ありがとう、落ち着いたよ」
目に残った涙を左腕で拭い去る。ふと鏡をもう一度見てみると、あたしの目には泣いた跡がくっきりと残っていた。泣いてる時は気持ちよかったけど、泣き止んだら何だか微妙な気分になった。自分から言ったクセに涙を流す所を見られて、……何だか恥ずかしい。
「ねえ、ツタージャ。まだ本気で探検家を目指すつもりなら、僕達のギルドに入門しない?」
「えっ!?」
思ってもなかった展開に、あたしは驚いてピカチュウの顔を見上げる。今のあたしの顔はみっともない状態である事を忘れて。
「……迷惑じゃないの?」
「ルカリオさんの許可は取っているから。後はツタージャの返事次第だよ」
ピカチュウの言葉に、あたしは顔をうつむかせる。せっかく止めた涙がまた溢れ出しそうになったからだ。……答えは決まっている。あたしは涙腺を固く閉じ、顔を上げてこう言った。
「あたしは本物になりたい。嘘偽りじゃない、ピカチュウみたいな本物の探検家に」
ピカチュウの顔を真っ直ぐ見つめて、あたしの決意を伝える。しかし、彼はなかなか口を開かず、どこか緊張している様子だった。
「ねえ、こんな時で言うのもあれなんだけど……。一つだけ、ツタージャにお願いしたい事があるんだ」
ピカチュウは一旦口を閉じ、大きく深呼吸する。ちょうど気になる所で切ってるから、非常に見ててもどかしい。
「僕と……チームを組んでくれないかな?」
ピカチュウのお願いは、これまで生きてて一番衝撃的な言葉だった。あたしは、今日この時を一生忘れない。
「あたしでいいの?」
探検家にとって、パートナー選びは今後を決める重大な選択のはず。あたしみたいな素性もよく知らないポケモンを選ぶなんて、ピカチュウには悪いけどとても信じられなかった。
「僕もツタージャと同じで、今日は初めて一匹で探検する特別な日なんだ。ルカリオさんが次の段階へ行けると押してくれて、僕にとっても大きな一歩になるはずだった。でも現実は思い知らされただけ。僕は一匹じゃロクに探検出来ない半端者だって」
ピカチュウがこの部屋で出会ってから、初めて目線を下げる。数分前の凛々しく話してた彼は徐々に陰りだした。
「探検家について偉そうに話してたけど、僕はツタージャが思っているような本物じゃない。僕は、誰かに引っ張って貰わないとどうしょうもないポケモンなんだ」
ピカチュウがさっきから言いたい放題しているから、こっちだって何か言ってやりたくなった。
「ピカチュウは半端者じゃないよ」
ピカチュウに向けてたった一言。その一言でも、彼の顔を上げさせるくらいの力はあった。
「ピカチュウはあたしを見捨てずに助けてくれたじゃない。誰かの命を救うなんて、そうそう出来る事じゃないと思うんだ。……世界の誰もがピカチュウの事を否定しても、あたしは声高々に言うよ。ピカチュウは立派な探検家だって。それに、あたしは引っ張れる程強くない。でも、歩調を合わせて歩く事なら……出来るよ……たぶん」
話している内に恥ずかしくなって、口が回んなくなる。自分でもよくクッサイ台詞を吐いたなって、そう考えると顔が真っ赤になって仕方ない。ホント、言わなきゃ良かったって後悔している。
「これ以上、あたしを泣かせないでよ。もう……」
また感情が高ぶってきたから、ピカチュウのせいにして話を逸らす。昨日まで、あたし自身の事を強いって自負してた。でも、実際はこんなにも脆かったなんて思ってもなかった。でも、まだピカチュウに伝えてない事が一つある。涙なんかに負けてたまるもんか。
「……あたしを必要としてくれてありがとう。これからも、よろしくね」
涙を無理やり奥に引っ込めて、ピカチュウにあたしの返事を伝えた。そして、自分で出来る限りの笑顔を添える。出来栄えは微妙だと思うけど、彼は照れくさそうに笑ってくれた。
「さて、結果をルカリオさんに伝えないと。ツタージャ、一緒に来てくれる?」
「うん。早く行こ!」
行かない理由なんてない。あたしは流行る気持ちを抑え切れず、ピカチュウよりも先に扉を開けた。
「おっ、来たか」
あたしの視界に、タブンネと廊下の壁に暇そうに寄りかかっているポケモンの姿が見えた。恐らく、ピカチュウの話に度々に出てたギルドマスターのルカリオだろう。
「いつからそこに居たんですか?」
「ついさっき来たばっかだ。ピカが上手くやってるかちょっと気になったもんで、盗み聞きをしに来たんだが……」
「盗み聞きって……聞いてたんですか?」
「そりゃあもう……なぁ」
ルカリオさんとタブンネが互いに顔を合わせて苦笑いを浮かべる。それを見て、あたしは条件反射で顔を両手で隠した。手のひらから熱が伝わって、まるで焼石に触れているようだ。
「聞いてたんですか! こっちは真剣だったのに! いい大人がやる事じゃないですよ!!」
「安心しろ、マリルリには詳細を伏せておく」
「そういう問題じゃないですよ!!」
「彼女なら、隠しマイクを仕込みそうですけどね」
「タブンネっ! 怖い事言わないでよ!」
二匹の茶化すような話に、ピカチュウは全力で対応していく。その会話内容がちょっと面白かったから、思わず両手の隙間から笑いがこぼれてしまった。マリルリに関する怖い話題も出たけど、そんな事するイメージは全くない。あたしの彼女の印象は少し元気が過ぎるお姉さんで、ストーカー紛いの行為なんかしそうにない。
「さて、無駄話はここでストップ。二匹とも、本物になる覚悟は決めたんだな」
「……はいっ!」
あたしとピカチュウは声を揃えて返事をする。かなり細部まで盗み聞きしてたんだってツッコミを入れそうになったけど、ここは空気を読んで黙っている。
「ツタージャ、探検家は就くのは簡単だが、続けるのは非常に難しい職業だ。昨日までは普通に過ごしていた仲間が、突如としてバッジを残して失踪するのが日常茶飯事の世界に、お前はこれから挑もうとしてる。もう一度言うぞ。覚悟は出来てるんだな」
「はい!」
本気で向き合うって決めたから、あたしはもう一度ルカリオに決意表明をした。自分の未熟さを認めつつ、前に進むと心に誓いながら。
「よし、早速手続きをしたい所だが今日はもう遅い。問題はツタージャが住む部屋だが……。ピカ、お前のとこでいいか?」
「えっ、僕のとこですか?」
ピカチュウが少し驚いた様子でルカリオの顔を見る。あたしもまさか彼と相部屋になるとは思ってもなかった。むしろ場所をいただけるなら、倉庫でも廊下でも構わないと考えてたぐらいだ。
「他にマトモな部屋は残ってないし、何よりあの部屋は本来二匹用に設計してあるからな」
「……通りで一匹の部屋にしては広すぎると思ってたんですよ」
「ツタージャさんも、気心が知れたポケモンと一緒の方が安心するでしょうし、今夜はお互いの思い出話に花を咲かせてみてはどうでしょう?」
「僕は同室は賛成ですし、話したい事もまだまだあります。でも、その……ツタージャはどう……かな?」
ピカチュウが遠慮がちにチラ見しながら聞いてくる。雨風凌げたら廊下でも玄関でも構わないと思ってたのに、部屋まで用意してくれるなんて感涙ものだ。もう一匹で孤独に寝なくていいと思うと、嬉しくて今にも喜びが口から溢れ出しそうになる。
「うん! 凄く嬉しい!! みんなありがとう!!」
たった半日で、あたしの世界は一変した。冷たく暗い孤独な夜から、暖かくて明るい笑顔溢れる夜へと。
「早速僕の部屋に行こうか。まだツタージャと話し足りないし」
「うん!」
あたし達はルカリオとタブンネに見送られながらピカチュウの部屋に向かった。
今日はあたしにとって特別な記念日にしよう。あたしが二度目のスタートラインを踏み出した日として、ずっと忘れないように。