自称探検家との出会い
両足に柔らかい草が触れる。さっきまでなかった優しい香りがする。目を開けると見慣れた森の木々達が僕を迎えてくれた。後ろを振り返ると森の中にぽっかり空いた緑色の広場に場違いな白色のワープ装置がある。白色の輪の向こう側にも、年季の入った樹木が立ち並んでいた。
どうやら僕は無事に『精霊の森』に到着したようだ。始めて探検したこの地で、僕は一匹旅という新しいのスタートを迎えた。
「取りあえず、何したらいいんだろ……」
着いても結局、何したらいいか分からないまま。僕は真上から降り注ぐ春の日差しの暖かさに包まれながら立ち尽くす。……心なしか、胸のもやもやが大きくなった気がする。不安や緊張に似ているけどちょっと違う、別の負の感情の何かが。
「取りあえず進もう。このまま何もせずに帰るわけにはいかない」
風のない静かな広場で、僕は自分に言い聞かせた。それでも胸のもやもやが消えないので赤いほっぺを強く叩いて自分を激励する。
「い、痛い……」
パチンといい音が辺りに広がっていった。ほっぺの鈍い痛みにより、僕はその場でうずくまる。もやもやは消えず、ただヒリヒリと痛いだけだった。
うだうだしてても仕方ないので、僕はわずかな木漏れ日が降り注ぐ暗い森に足を踏み入れる。自分から進まないと、何も始まらない。僕の腕を引っ張ってくれるポケモンはもう居ないんだ。
木々が並ぶだけの変わり映えのない景色を横目に森の奥へ進んでいく。僕は途中で何となく拾った石コロを手で弄びながら、湿った土の匂いの中を歩く。なるべく前来た時と同じルートを辿ろうとしたけど、特徴のない木々ばっかだから正しいか間違ってるかの判別が付かない。ただ唯一分かっているのは、僕の知っているワクワクとドキドキにあふれた光景はここにはないって事だ。今歩いているこの道は同じ風景を単調にコピーしたつまらない光景に過ぎない。
「こんな場所だったっけ……」
変わってないはずなのに、変わってしまった森。胸のもやもやも少し前とは比べ物にならないぐらい大きく広がっている。
ふと地面にキノコが生えているのを見つけた。小さくて、薄汚れた茶色のまずそうなキノコだけど、僕はしゃがみ込んでじっと見つめる。珍しくもないキノコだけど、見つめているとあの時の感覚を取り戻せるような気がする。どんなささいな発見も心から喜んだあの時の感覚を。
「…………」
穴があくほど見つめていたけど、結局あの時の喜びを取り戻す事は出来なかった。ただ心に無理やり喜ぼうとした虚しさだけが残る。
このつまらない光景も、ルカリオさんと来た時はポケモンの足跡などいろんな発見があった。そしてその発見を心の底から喜んだ。あの時は何もかも新鮮だった。でも、今の僕には何も見つけられない。森に咲いている花も無関心だ。
「このままでいいのかな……」
僕は木々や草にも聞こえないほど、小さくつぶやいた。僕から存在の忘れられた石コロが、右手に寂しく握られている。
森の中をさまよっていると、切り株があるだけの小さな広場に出た。ちょっと休憩しようと、切り株の上に大の字になって寝転がる。
意味も無く森の木々に囲まれた水色一色の空を眺めてみる。雲も飛んでるポケモンもない、退屈な空だ。ただ時間だけが過ぎていく。何で、こんな滅入った気分になってるんだろう。昨日までの探検でそんな気分に一度もならなかったのに。
「何か、思ってたのと違うなぁ……」
今思うと恥ずかしい話だけど、探検家は華麗に罠をかいくぐって、宝を護る守護者を知恵を駆使してやっつける。そんなお話でしかないイメージを持っていた。無論、そんなアホ臭いイメージはルカリオさんと一緒に探検している内に粉砕された。罠は一度作動させてしまったら熟練者でも容易くかわせる物ではなく、守護者なんて大層なものはそうそう居ない。
でも、探検は楽しいものという考えは何一つ間違っていなかった。ルカリオさんも「辛い事も多いけど、それに実合う喜びがあるから探検家を生業にした」って言ってたし、実際に僕も探検してて楽しかった。しかし、今の現状によりその思いも揺らぎつつある。
その原因をあれこれ考えてみたけど、決定的なのは何一つ出てこなかった。探検してる地域があまりにも平和なせいだと真っ先に考えたけど、何故かそうだとは思えなかった。
「……ふぅ」
切り株に手を付き、天を仰ぎ見てため息をつく。ルカリオさんが今の僕を見たらがっかりするだろうな。手塩にかけて育ててきた弟子が、こんな事を考えてるなんて。
一匹で物思いにふけっていると、突然僕のお腹がぐう〜っと非常に情けない音をあげる。僕は空気の読めない腹の虫を黙らせようと、腹に両手を添える。こんな精神状態の中、よく欲求に正直になれるなと笑えてきた。
「……取りあえず、何か食べよう」
僕は体を起こして、バッグの中から真っ赤に熟れたリンゴを取り出した。
「いただきます」
ほのかに甘い香りを放つリンゴを一口かじると、”しゃり”っと心地よい音をたてながら、優しい甘さが口一杯に広がる。沈んでた気持ちも、食べる事により少しだけ明るくなった気がする。お腹が満たされるだけで気持ちが明るくなるなんて、僕ってなんて単純なんだろう。
かじりかけのリンゴを見て、ルカリオさんとの会話を思い出す。リンゴを食べながら、何気ない会話をした時を。話の内容は覚えてないけど、あの時のリンゴの味は忘れられない。普通のリンゴなのに、数倍おいしく感じたんだ。
……このまま抱え込むより、ルカリオさんに相談しよう。迷惑かもしれないけど、心からの本音をルカリオさんに伝えたい。でなきゃ、夢に向かって歩けなくなる。
「……ん?」
黙々とリンゴを食べていると、突然背後の茂みがガサガサと音を立て始める。何だろうと思い振り返ると茂みが不規則なリズムで揺れていた。
「な、なんだ!?」
その光景に驚いた僕はリンゴを右手で持ったまま立ち上がって、風も吹いてないのに不自然に動き続ける茂みに注目した。茂みをかき分ける音もだんだん大きくなる。僕はカラカラの喉を潤すためツバを飲み込んだ。
しばらくした後、甲高い鳴き声をあげて茶色の影が飛び出した。鋭い目に赤い羽、鷲掴みした獲物を絶対に逃さないと思われる足のツメ。間違いない、オニスズメだ。
「うわっ! で、出た!」
僕は突然の襲来に右手のリンゴのを持ったまま戦闘態勢を取った。いつ襲いかかられてもいいように、ほっぺに電気を貯め始める。
しかし、オニスズメは一点を見つめたままピクリとも動かない。僕はオニスズメの視線を辿っていくと、その先には食べかけのリンゴがあった。試しにリンゴを動かしてみると、オニスズメもそれに合わせて視線を動かしている。どうやらリンゴが欲しいみたいだ。
「これをあげれば満足するかな?」
僕は食べかけのリンゴをオニスズメの目の前に投げてみた。それを見たオニスズメは地面に落ちた食べかけのリンゴに近づいてく。思った通りだ。
オニスズメはリンゴの前に立ってじっと見つめている。しかし、食べるかなと期待した僕をオニスズメは盛大に裏切ってくれた。オニスズメは足を振り上げて、食べかけのリンゴを思いっきり踏み潰す。砕け散ったリンゴのかけらがいくつか僕の顔に命中した。
オニスズメが視線をリンゴから僕に移す。そして”食べかけのリンゴなんていらねーよ”と言わんばかりの鋭い目で睨みつけている。
「や、やばいよ……」
オニスズメの睨みに圧倒される僕。僕より小さいはずのオニスズメの体が何倍も大きく見える。
オニスズメはニヤリと笑った後、甲高い鳴き声をあげて、翼を大きく広げて飛び上がる。そして黄色く光るクチバシで突き刺そうと一直線に突っこんできた!
「うわっ!」
僕はとっさに横にジャンプする。不安定なジャンプだったために草の上に倒れこんだ僕の横を、オニスズメが矢のように通り過ぎていった。
「うっ……なんだよもう……」
慌てて起き上がろうとする僕の耳に、だんだん大きくなる羽音が聞こえてくる。きっとオニスズメが旋回して背後から再び襲いかかろうとしてるに違いない!
振り返って確認してる時間は無さそうだ! 僕は両手両足に力を込めて、直感で高くジャンプする!
天が味方したのか、オニスズメが宙に浮いている僕の下をくぐっていった。超低空で飛んできたためか、茶色の矢に刈られた草が辺りに舞い、額の汗に草が張り付いていく。……このままじゃ切りがない。そろそろ反撃に移ろう。
着地した僕はほっぺに電気を溜め直す。ほっぺから漏れる電撃が、舞っている草を焦がしていく。オニスズメが三度襲いかかろうと旋回して突っ込んできた。でも、今回は敵の姿ははっきり見えている。タイミング合わせて迎撃するだけだ!
「今だ! くらえ!」
ほっぺから放たれた淡黄の光がオニスズメを一瞬包んだ。僕の技により痺れたのか空中でフラフラと失速している。
「もう一発!」
僕は再び失速しているオニスズメに”でんきショック”を浴びせる。二発連続で食らったオニスズメは悲鳴を上げず真っ逆さまに落ちていった。
草むらに落ちたオニスズメはピクピクと痙攣している。この様子だともう襲いかかってこないだろう。
「疲れた……」
僕はその場に座りこんだ。初めて一人で戦った事による緊張と疲労のせいか、呼吸が荒い。明らかな経験不足で勝利の余韻に浸る余裕もなかった。
心臓を落ち着かせようと深呼吸しながら顔をあげると、僕の目に衝撃の光景が映し出される。オニスズメがおぼつかない足取りながらも立ち上がってきたのだ。
「まだ戦えるの!?」
疲れきった体を無理やり起こし、身構える。どっから見ても戦える状態じゃないけど、絶対何か仕掛けてくる。何故なら相手の目は僕の事を恨めしく映しているからだ。
オニスズメは最後の力を振り絞って翼を大きく広げる。そして、甲高い声で空に向かって泣き始めた。
「うわっ!」
オニスズメの耳をつんざく鳴き声に僕は思わず耳を塞ぐ。オニスズメは誰かに知らせるかのように鳴き続けている。……知らせる? まさか!?
僕の頭に最悪のシナリオが浮かぶ。その通りなら、無事に済まないだろう。予想通り、森の奥が急に騒ぎだす。風は吹いてないのに木々が揺れてるという不自然極まりない光景だ。
「そんな事ないよね……絶対にないよね!」
そんな事言っても無駄だと分かっていても、認めたくない最悪のシナリオを必死に否定する僕。だが、森のざわめきが非情にも近づいてくる。まるで森全体が僕を喰らおうとするかのように。
「あ……ああっ……」
本能がこの場から逃げろと知らせているのか、僕は自然と後ずさりする。僕は見上げてた視線をおろすと、オニスズメが勝ち誇った笑みを浮かべていた。お前の負けだと……。
けたたましい鳴き声と共に、森の奥から黒い影が幾つも飛び出してきた。数なんて知らない。
「うわあああああ!!」
僕は自分の不運を嘆きながら、一目散に森の中へ逃げ込む。空から迫る黒い陰の集団から無事逃げ切るために。
「うるさい! 黙ってよ!」
かすかに見える空から悪魔の鳴き声が聞こえてくる。イライラと恐怖により叫んでしまったが、相手に黙る気はないようだ。
甲高く耳障りな鳴き声が絶えず聞こえてくる。どんぐらい来ているのか気になって空をチラ見したが、視界一面に映るオニスズメを見て僕は正面を向き直した。見なきゃ良かった。追いつかれた瞬間どうなってしまうか、考えただけで背筋が凍る。
「ん?」
一際目立つ二つの鳴き声がした後、空だけでなく森の中からも羽音が聞こえてくるようになった。まさかだと思い、恐る恐る後ろを向いてみると、薄暗い森の奥から四つの黒い陰の姿が見える。
「う、嘘!?」
さっきの命令は森の中からも追いかけろという意味だろう。しかも針の穴を通すかのように木々の間を華麗にすり抜けてくる。
「もう勘弁してよ……」
思わず漏れた本音。僕は無事に逃げ切れるだろうか。……五体満足で帰れる気が全くしない。
「いやいや、捕まってたまるか! 絶対に逃げ切るんだ!」
僕は足にムチを打ってスピードをあげる。しかし、そんな僕をあざ笑うかのように木の根っこに足をすくわれた。
「うわっ!」
目の前が二転三転と目まぐるしく変化する。そして木に鈍い音を立てて激突した。
「いててて……」
僕は天に足を向けた状態で木に仰向けに寄りかかっていた。激突の衝撃により少し頭がぼんやりしている。でも、体を労ってる余裕はない。オニスズメの鳴き声が今まで以上にはっきりと聞こえてきたからだ。ボケた意識を無理やり覚醒させると、天地が逆さまな世界でオニスズメが目の前に接近してるのが見えた。
「うりゃ!」
僕はとっさに体をひねりオニスズメの攻撃を紙一重でかわす。乾いた嫌な音がするとともに木の破片が降り注ぐ。体を起こして木を見てみるとオニスズメのクチバシが木に深く突き刺さっていた。オニスズメがクチバシを木から抜こうともがいてる。足をバタバタさせながら翼を木に押し当ててる姿は言っちゃ悪いけど少し滑稽だ。
残りの三匹もクチバシを尖らせて、横に並んで突っ込んでくる。一匹ならまだしも三匹同時に突っこんでくるのは避けきれない。
僕はオニスズメが刺さってる木の後ろに身を隠す。二匹が僕の横を突風のように通り過ぎた後、後ろから再び乾いた嫌な音がした。どうやら残りの一匹はさっきのオニスズメと同じ末路を辿ったようだ。
四匹の猛攻をかわした僕は木に寄りかかったまま息を整えようとする。ノドが痛くて苦しいけど、早く整えないと追手が来てしまう。どれくらい距離を詰められたんだろうと、空を見上げてみると黒い陰の群がもう真上まで迫っていた。息切れが回復してない体を無理やり起し、再び生に向けて走り出す。
オニスズメから追われ始めてどれくらいの時間が経ったのだろう。体が溶けそうに熱くなって、息もたえだえの状態だ。さすがにこれ以上走れそうにない。
幸い、森が深い所に来たのか深緑の葉が空を完全に覆い隠してる。空から見つかる心配は無い。しかし、奴らは僕がこの辺りにいることが分かっている。現に森の中から鳴き声が聞こえて来てる。地上に降りてきて、見つけ次第袋叩きしてくるだろう。
「どっか隠れる場所は!?」
キョロキョロ見渡すと、向こうにちょうどいい大きさの茂みが並んでいるのを見つけた。
「一か八かだ!!」
僕は並んでいる茂みの一つに隠れることにした。見つかる可能性は高いが、このまま逃げ続けるよりマシだ。
「それっ!」
目を枝や葉で傷つけないように目を閉じて頭から茂みに飛びこんだ。けど、何かがおかしい。茂みに飛びこんだはずなのに、まだ体が宙に浮いているようだ。枝や葉が体に当たってる感覚は全然ない。まるで体が地面に吸い込まれるように落ちていく。……嫌な予感しかしない。ゆっくり目を開けてみると、光の反射によりキラキラ輝いてる水面がだんだん近づいてる光景が見えた。
「えっ?」
なんでこんな事になってるのか理解できないでいる僕。そりゃそうだ。だって僕は飛べないくせに空中にいるんだから。頭から垂直急降下していく僕の体。何かが水面に叩きつけられた音が響くと同時に見事な水柱が立ち昇った。
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川に落ちた僕は、仰向けに浮いてオニスズメが飛び交う空を眺めてる。あの様子だと僕を完全に見失ってるだろう。
僕の両側に切り立った岩の壁が見える。どうやら茂みの先は崖だったらしい。勢いをつけすぎて茂みを貫通した結果、川に落ちてしまった。
「とにかく……助かったんだ」
命の危機が去った安心感により、力ない笑みが勝手に浮かんでくる。冷たい水がまるで地獄の追いかけっこからの生還を祝うかのように、熱くなった体を冷やしてくれた。僕の体は落ち葉のようにプカプカと川を下っていく。とにかくこのまま川に流され続けるのはマズいので、バタ足で近くの岸辺に向かった。
岸辺についた僕は燃え盛る下半身を冷やすため、水につけたまま寝転がって辺りを見回す。丸い石コロが並ぶ岸辺の奥に森があり、崖に囲まれた川がある全く知らない場所だ。
「何で初日からこんな目に……。神様に見捨てられたのかな……」
天を仰いでぼやいていると、ふと水面に何かが浮いているのが見えた。丸い物らしいけど、もしかしたら……。
「バッジ?」
とっさに自分の胸を見てみる。あるはずのバッジが無く、ただ黄色一色の寂しい胸しかない。
僕は慌てて川に入りプカプカ浮かぶバッジを回収する。やっぱり僕のバッジだった。……思えば、これを使って帰還してれば、あんな大変な思いをせずに済んだのに。あの時はパニックになってワープの事を完全に忘れていた。
「やれやれ。今日はもう帰ろう……」
僕はワープしようと川に浮いたままバッジのボタンを押そうとする。しかし、灰色の岸辺に不釣り合いな緑色の何かが僕の指を止めた。
「あれは何だろう?」
無償に気になるのでバッジを胸につけて岸辺に向かって泳ぐ。岸辺につくと僕はハッと目を見開いた。尻尾の先に大きな葉っぱがついた女の子のポケモンだと分かったからだ。女の子はうつ伏せのままピクリとも動かない。
「ねえ! しっかりして!」
僕は近付いて濡れた手で揺すりながら呼びかけるが反応はない。顔色もだいぶ悪く、体温もかなり奪われている。全身傷だらけだ。特に右腕の傷が直視出来ないほど酷かった。
「とにかく、応急処置しなきゃ!」
バッグから探検家に常備が義務づけられている応急処置セットを取り出す。耐水性に優れているから、水に落ちても中身は無事だ。
「まず右腕の傷を……」
手当てに必要な道具一式を用意して、モモンの果汁ベースの消毒液を傷口に塗る。応急処置の仕方は探検家として当然の知識で、僕も頭に焼き付くまで勉強した。そのかいあってか、自分でも驚くぐらい落ち着いて傷と向き合っている。
「……ううっ」
消毒液が結構染みたのか右腕が跳ねるように動き、女の子が目を覚ました。曇りのない茶色の瞳が僕を見つめてる。
「……君……は」
口をほとんど動かさないで声を出す女の子。腹の底から、かろうじて絞り出したような声だ。
「僕はピカチュウ。待ってて、今治療してるから」
消毒した傷口に新品の包帯を巻いていく。緩すぎず、血管を絞めすぎないように巻くのは難しい。指標が無い今、頼れるのは自分の感覚だけ。助かるかは、僕の行動次第だ。
「毒消し……持って……ない」
「モモンの実ならあるよ。今食べさせるから」
バッグの中からモモンの実を取り出して、そのまま飲み込める大きさに千切って女の子の口に入れた。女の子はゴクリとのどを鳴らしてモモンの実を飲み込む。モモンの実が効いたのか、ほんの少し表情が柔らかくなった。
「あ……ありがとう」
女の子はかすかに笑ってお礼を言う。でも、相変わらず苦しそうだ。
「まだ動かない方がいいよ。これから他の傷口も消毒するから」
僕は痛々しい傷達に消毒液を塗る。女の子は僕を気遣ってか、顔を歪めながらも声を出さなかった。苦痛に顔を歪めているのを見て居た堪れない気持ちになったけど、今は処置を終えるのが先決だ。
何とかして、全ての傷に消毒液を塗り終える。満タンだった小瓶はいつの間にか空っぽになっていた。後は主な傷に包帯を巻くだけ。でも、全ての傷に巻いていたら包帯が足りない。出来るだけ、大きな傷を優先的に、ぎこちない手つきで残りの傷に包帯を巻いていく。不思議にもこんな状況なのに、緊張や不安は感じない。ただこの子を助けるという責任感が僕を動かしていた。
……それにしても、この女の子は一人でこの森に来たんだろう? 探検家にしてはバッグも無いし、バッジも着けてない。装備は腰の小さいポーチのみだ。さっきの紋章もちょっと気になるし。
そもそも僕がこの場に来なかったら、オニスズメに追われなかったらこのポケモンはどうなってた? この場で倒れたまま……。いいや、考えるのは後だ。助ける事だけに集中しよう。僕は全身全霊をかけてこの女の子に応急処置を施した。
「これで最後っと」
主な傷全てに処置が完了した。使い込んだせいで、包帯はほとんど残っていない。しかし、改めて見ると本当に痛々しい。主な傷だけを包帯したつもりだけど、体の半分以上包帯の白で覆われていて、まるでミイラみたいだ。息があった事自体、奇跡と言うしかない。
腰を下ろして一息つく。取りあえず、自分の出来るだけのことはやった。後はギルドにいる医者に任せよう。
「君、終わったよ。もう大丈夫だから安心して」
「…………」
全く反応が無い。まさか! 僕は立ち上がり、口に耳を近づけて息をしてるか確かめた!
「すう……すう……」
……杞憂だった。女の子は穏やかな寝息を立てて気持ち良さそうに寝ている。その姿を見て僕は胸をなで下ろす。後は女の子をギルドに連れて行くだけだ。
だけど、一つのバッジでワープ出来るのは一匹まで。二匹以上は技術の都合上無理らしい。取り敢えずこのポケモンをバッジで送って、僕はワープ装置まで歩けば万事解決。夜道は怖いけど、この子を助けるのに贅沢なんて言ってられない。マップを広げて見てみると、幸いにもここからワープ装置まで遠くない事が分かった。歩いて二十分ぐらいだろう。
しかし、この気持ち良さそうな寝顔を見ると起こすのは気が引ける。でも本人がバッチを起動させないと駄目だし……、そもそも寝たまま転送するのもこの子が混乱するし……。
「ん?」
どうするべきか悩んでいると、森の中の茂みから誰かが覗いてるのがチラッと見えた。まさか女の子を襲ったポケモン?
向こうもこっちが見てる事に気づいたようだ。茂みに身を隠しながらも、僕を警戒している。取り敢えず、この子の安全を確保しよう。ほっぺに電気を溜めてから一気に接近して、牽制の電気ショックを放った。謎のポケモンに電撃が直撃したが、大したダメージにはならなかったようで森の奥に飛んで逃げていく。どうやら追い払う事に成功したようだ。
「う、うーん……」
さっきの電撃で目が覚めたのか、女の子から声が聞こえてきた。早速何者かを聞くために僕は女の子の側へ駆け寄る。まだ意識がはっきりしてないのか、目蓋を重そうに動かしているだけで起き上がってこない。
「おーい、大丈夫?」
僕は女の子の顔を覗き込んで、手を振りながら呼びかけた。すると今まで焦点があってなかった茶色の瞳が、僕を真っ直ぐ見つめてきた。良かった、起きたみたいだ……。
「きゃあ!」
女の子は急に勢いよく起き上がり、僕の顔面に”ずつき”をくらわした。鈍い音と共に鼻に激痛が走り、僕の体は後方に大きくぶっ飛んだ。声を上げる事すら出来ず、受け身も出来ず、砂利の味を背中からもろに味わうはめになった。
「あっ、君! 大丈夫!?」
”ずつき”をくらって鼻を押さえながら倒れてる僕に、女の子が駆け寄ってきて左手を伸ばしてくれた。
「うん……大丈夫」
僕は片手で鼻を押さえながら手を取り、起こしてもらう。口でああ言ったけど全然大丈夫じゃない。ホントに痛い……。
「ごめんね。襲ってくると勘違いしちゃって」
僕の鼻を心配そうに見ながら謝る女の子。これ以上鼻の心配されたくないので押さえてる手を放した。
「気にしないで。それより体は大丈夫?」
女の子は包帯だらけの自分の体を見回す。動けないほどの重傷に見えるけど女の子は普通に立っていて、包帯だらけの自分の姿を見て驚き戸惑っていた。
「……君が助けてくれたの?」
「うん。ヘタクソな応急処置だけど」
改めて見ると、包帯の結び目がかなり目立っている。本当にヘタクソだ。巻き方のコツを友達に教わっていたのに、そのノウハウが全く活かされてない。
「とりあえず……ありがとう。ところで、君の名前は?」
どうやらさっき名乗った事は忘れてるらしい。あんな状態だったから、仕方ないか。
「僕はピカチュウ。探検家をしてるんだ」
「あたしはツタージャよ、助けてくれてありがとう!」
ツタージャというポケモンは笑顔で答えた。ケガ人 だと思えないほどの元気な声だ。
「ねえ、ピカチュウはさっき探検家って言ったよね」
「ん? 確かに言ったけど?」
「本当!? 奇遇だね!」
ツタージャは包帯をしているのにも関わらず、満面の笑みを浮かべる。そして、間髪入れずに彼女は衝撃な言葉を放った。
「あたしも探検家なんだ」
その言葉に僕の頭の中に疑問符が乱立する。ツタージャの体に、探検家を表す要素が何一つ無いからだ。包帯をなかった事にして彼女の体を改めて見ると、森を散歩しに来た普通のポケモンにしか見えない。
「でも、探検隊バッジつけてないよ。バッジはどうしたの?」
探検家なら必ずバッジを持ってるはずだ。しかし、ツタージャは僕の問いかけに首をかしげた。
「探検隊バッジって何?」
ツタージャの思いがけない返答に言葉を失う。首を傾げているけど、傾けたいのはこっちの首だよ。
「ああ、ピカチュウが胸につけてるバッジの事ね」
手をポンと叩いて勝手に納得するツタージャ。どうやら本当に分かってないらしい。
「……ホントに探検家?」
僕は失礼承知でダイレクトに聞く。バッジの知識もないツタージャが探検家なんて信じられない。この子、絶対ワケありだ。
「まあ、自称だけどね」
目の辺りをかきながら苦笑いを見せるツタージャ。自称って……、言っちゃ悪いけどもう呆れるしかなかった。
「……無謀なのは分かっているんだ。本職から見ればあたしがやってる事は遊びに過ぎないって」
ツタージャが僕の顔を見て、表情を曇らせながら吐き捨てるように言った。どうやら僕の思ってた事が、知らない間に表に出てしまったらしい。
「でも、私どうしても探検家になりたかった。ずっと追い求めてた夢だったから」
ツタージャは真っ直ぐ僕を見つめながら話した。ツタージャの目から強い意志を感じる。きっと、彼女は遊びでやってないだろう。でも、その夢を追いかけた結果、ツタージャは大ケガして死にかけた。
「君は夢を追いかけて死にかけた事に対してどう思ってるの?」
取りあえず僕はツタージャの意図を知るために質問する。すると彼女は目線を一瞬ずらし、こう言った。
「何年も見続けた夢を諦めたくなかったの。……今の私には、この夢しか残されてないから!!」
ツタージャの声が夕闇の空高く響いてく。その声は力強く、そしてどこか悲しく聞こえた。
「……君は家族とかの許可をとって探検家になったの?」
僕はこの言葉を口走った事を後悔した。ツタージャの目にうっすらと光る何かを見たからだ。
「…………」
こっちを見てから、オレンジ色の空を見上げるツタージャ。僕は言ってはいけない発言に対して申し訳なく思っても、口に出せずに一緒に空を見上げる事しか出来なかった。
「ゴメン……」
せめて一言だけでもと思い、無理やり口を開いて言った。もっとマシな言葉があったかもしれない。けど、僕の頭にはそれしか浮かばなかった。それを聞いたツタージャは空を見上げたまま首を振る。そしてゆっくりと僕の方に顔を向けた。
「ううん。謝る必要なんてないよ」
にこりと優しい笑顔を見せる。だけど、どこか少し無理をしているようだ。
「君の言いたいこと分かったから。君が来てくれなかったら、あたしはこうして立っていないもの。……心配してくれてありがとう」
ツタージャは沈みかかった夕日を見上げた。白い包帯を巻かれた頭に、オレンジの光が映える。
「あたしが助かったのは、偶然以外の何者でもない事も」
ツタージャは腰のポーチから何かを取り出した。左手の中にある何かを大切そうに眺めている。
「それは?」
「あたしが探検家を志すきっかけ。”再会のアミュレット”よ」
ツタージャは僕に再会のアミュレットを差し出して来たので、僕はそれを両手で受け取った。普通の星型をした、変哲も無い銀色のアミュレットだ。彼女が付けたと思われる赤色のか細い糸
「面白いものを見せてあげよっか?」
「面白いもの?」
僕はその手に再会のアミュレットを置いた。ツタージャはそれを両手で持って、突然真っ二つに折った。
「な、何してるの! 君にとって大切な物だよね!」
突然の出来事に驚いてる僕を見てツタージャは大丈夫だよと少しだけ微笑んだ。
「こういう物なんだよ。この破片を持ったポケモン同士は”会いたい”と願えばどんなに離れても、必ず再会出来る」
ツタージャは真っ二つに割れたアミュレットを再びくっつけた。割れた痕跡が見当たらないほど、きれいに元通りになってる。どうやら普通のアミュレットではなさそうだ。
……会いたいポケモンに必ず再会出来る。夢のような話だけど、もし本当なら凄い宝だ。でも、どうしてツタージャが持っているのだろう。
「どうして君がそれを持っているの?」
僕の質問に対し、少し恥ずかしそうに笑うツタージャ。
「貰ったんだよ。名前の知らない探検家に」
名前の知らない探検家、その言葉に僕は首を傾げる。名前も教えないのに、再会のアミュレットという凄い宝を簡単に渡すかな。疑うつもりはないけど、何か引っかかる。
「その話聞かせてよ」
駄目元で聞いてみたけど、ツタージャは首を縦に振ってくれた。
「そのポケモンは、私に探検について語ってくれたの。歴史が眠る遺跡、秘境の謎や宝物の番人。探検家の語る様々な話を、毎日ワクワクしながら聞いてたんだ」
ツタージャが上を向いて懐かしそうに話す。かなり感情が込められている話し口なので、単なる作り話ではなさそうだ。
「そして別れるとき、探検家はこう言ったの。『俺のかわりに世界を見てほしい』って。これが名前の知らない探検家があたしに託してくれた意志よ」
そう言って再会のアミュレットの赤い紐を持って僕に見せつける。銀色の星が月光を浴び、より一層輝いて見えた。
「でも、これを貰った時の私は色々あったから探検には行けなかった。本当はすぐにでも行きたかったけど」
ツタージャは再会のアミュレットを腰のポーチにしまいながら話す。
「だから私は待ち続けた。探検に行けるようになるその時をね」
「今が、その時なの?」
しかし、ツタージャは黙ったままだった。うつむいた表情に暗い影が映る。
「ちょっと早かったけど、いろいろあってね……」
ツタージャの声が少し震えてる。相当話しづらい内容のようで、彼女は表情を悟られないようにそっぽ向きながら話した。
「もういいよ、これ以上話さなくてもいいから。もう空も暗くなってきたしね」
僕はツタージャの話の腰を折った。これ以上、ツタージャの悲しい顔を見たくなかったから。それに、早く帰らないとルカリオさんを始めとしたギルドメンバー総動員の大捜索が始まる。
「じゃあ、あたしはもう行くね」
「ちょ、ちょっとどこ行くの!?」
「寝床を探しに行くの。怪我の手当てありがとう」
僕の呼び止めに振り返って笑顔を見せるツタージャ。薄暗いせいか、その笑顔はどこか寂しそうに見えた。
「その怪我で野宿は危険だよ!」
「大丈夫よ。ホラ!」
ツタージャは飛び跳ねて元気をアピールする。しかし二、三回跳ねた後右腕を押さえてうずくまった。
「どう見ても大丈夫じゃないね」
「ゴメンね……でも私の事はもういいから」
「そういうワケにはいかないよ。最後まで君の面倒をみると決めたからね」
ツタージャは豆鉄砲をくらったかのように驚いた表情をする。僕なんか変な事言ったかな?
「なんでそこまでするの!? あたし達初対面じゃない!」
なんでって言われても、理由あって行動したわけじゃないし。ただ、助けないといけない使命感でとっさに応急処置しただけで……。取りあえず黙っとくワケにはいかないので、何か言おう。
「ホラ! たまたま君が倒れてるのを見つけただけで、その、あの、このまま知らんぷりするのも道徳的にどうかと思うし、ちょうど薬や包帯も持ってたから、手当てしなきゃってもう一人の自分が訴えてたし……」
思いつくままの理由らしき言葉を吟味せずに口から吐き続ける僕。ツタージャは対応に困っているようだ。
「僕も下手したら大ケガしてたし、なんか君と親近感が……」
「よく分かんないけど……取り敢えずありがとう。流石にこのケガじゃマトモに応戦できそうにないしね」
ツタージャの一言により僕の口が強制的に閉じられる。黙ったままの方が良かったかな?
「ところで、どうやって面倒を見るつもりなの?」
「君を僕が所属しているギルドに連れて行って医者に看せようと思う。腕のいい医者がいるから安心して。後、ケガが治るまでギルドに滞在していいから」
「迷惑じゃないの?」
「迷惑じゃない。君の事は僕から言っておく。それにみんな優しいし、居心地は悪くない と思うよ」
しかし、ツタージャからの反応は無い。どこか気に触る事を言ってしまったかもしれない。暗すぎて様子がよく分からないため、僕はそろりそろりと彼女に近づいた。……彼女はシワが出来るぐらい目を強くつむって、肩を震わせていた。その姿を見て、僕はただ立ち尽くす。少しでも触れたら、ツタージャが抑える感情が、津波のように溢れ出してしまいそうだったから。
しばらくすると、ツタージャの目が静かに開いた。潤んだ目が夕闇の中はっきり見える。
「そんな顔しないでよ」
ツタージャが僕の顔を見つめて言う。僕はそんな心配されるような表情をしてないと思うけど。
「……久々だよ。そんな優しい言葉をかけられたの」
空を見上げるツタージャ。夜空の星に照らされた笑顔が輝いて見える。特に目元にある白い光のアクセントが美しかった。
「あたし、探検家って言ってたけど実際は放浪の旅だった。食べ物も現地調達。野宿が当たり前の毎日」
僕は黙ってる事しか出来なかった。夜空の星々も黙って、見上げてるツタージャを照らしている。
「そしてずっと一匹だった。君と会うまで、誰も手をさし伸べてくれなかった」
明らかに僕と違う。僕が恐れていた『ひとり』をツタージャはずっと耐えていたんだ。
「ねえ、思いっ切り泣いていいかな? 出会ったばっかりの君にこんな事頼むのは変だと思うけど……」
ツタージャは宝石のように輝く星々から、暗がりに立っている僕に視線を移す。その目は、夜空に匹敵するぐらい澄んでいて、そして輝いていた。
「……いいよ」
「ありがとう」
ツタージャの口から出た、たった五文字の言葉だけど、優しくて暖かい言葉だ。その中に色々な思いが込められているからだろう。
感情を抑えきれなくなったからか、ツタージャの目から透き通った涙が零れ落ち始める。僕は彼女に背を向けた。泣いている姿は誰にも見せたくないはず。僕なりに考えた精一杯の配慮だ。声を殺し、静かにむせび泣いているのを僕は黙って聞いていた。
「ありがとう、もう……大丈夫だから」
どれくらい時が経ったんだろう、ツタージャが再び話しかけてきた。でも、彼女の声にはまだ涙の跡が残っているような気がする。
「……顔、洗ったら?」
僕は振り返る事もせず、ただ一言だけ言った。ツタージャは「ありがと」と小さく変事をして、星が映る川に向かって歩をすすめる。僕は彼女を出来るだけ見ないように、あえて目を逸らした。
バシャバシャと水の跳ねる音がはっきりと聞こえてくる。僕は夜空を見上げ、星座探しをして彼女を待つ事にした。なるべく、その声が耳に入らないように。
「ねえ、君。奇跡って、信じる?」
水の音が止み、ツタージャが急に話しかけてきた。
「きせき? えっと……」
奇跡なんて意識して考えた事なかったから答えが全く出てこない。
「信じるような信じないような……」
とにかく、あいまいな言葉で返す。それを聞いたツタージャはこっちを振り返り、くすりと笑った。
「あたしは信じてる。名前の知らない探検家から言われたんだ。『夢を信じ、希望を持ち続けろ。そうすれば奇跡が起こって道は開ける』って」
そう言ってツタージャは左腕に巻いてある包帯で、顔に残った水分を拭き取る。涙を洗い流した彼女の顔はとても凛々しく見えた。
「現にあたしは、奇跡の積み重ねによってこの場所に立っている。たぶん、あたしの過去は誰がどう見ても、奇跡という言葉でしか説明出来ないぐらいと思うんだ」
聞く限りだと、ツタージャは見かけより壮絶な経験をしているようだ。恐らく、僕の想像よりも。つい「例えば何?」って聞きそうになったけど、これ以上彼女の古傷を抉るのは良くない。
「僕と君が出会ったのも、その……奇跡の中に入るかな?」
「……入るよ。それもあたしの中でとびっきりでね」
ツタージャが僕を見て、微笑みながら言った。それは普通のポケモンの少女が浮かべる、少し照れくさそうな笑顔だった。
……夜が更けていくせいで、体が冷えてきた。日が出てる内は川から流れてくるひんやりとしたマイナスイオンが気持ちよかったけど、今となっては肌寒い。ルカリオさんも心配してるだろうし、もう帰らないと。
「そろそろギルドへ送るよ。このバッジを手に取って」
僕は胸のバッジをツタージャに手渡す。初めて見るのか、彼女はバッジを裏返したりして物珍しそうに見ている。
「これでギルドに行けるの?」
「うん、転送先にマリルリっていう耳が長くて青いポケモンがいるから、彼女に事情を説明して。僕は少し遅れて戻るから」
「うん、分かった。先に帰って待ってるね。まだ君と話したい事があるから」
そう言って、真ん中にあるボタンを押すツタージャ。そして光が彼女を包み込み、空へ勢い良く昇っていった。
さて、僕も急いで帰らなきゃ。ワープ装置に向けて、夜の森を全力で駆け抜けた。
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ツタージャが先に帰ってから30分後、ワープ装置前に戻ってきた。途中、暗い夜道のせいで迷いかけたけど、大事に至らなくて本当に良かった。月明かりのない夜だったら、完全に積みだったのかもしれない。
とにかく、ワープ装置を起動してさっさと帰ろう。ツタージャの様子も気になるし、ルカリオさんにも色々と報告しないといけない。急いで起動させ、さっさと飛び込んだ。
「やっと帰れた……」
光のトンネルを抜け、ギルドに帰ってきて早々、僕は口から疲れを漏らす。そんな僕をマリルリさんが笑顔で出迎えてくれた。
「お帰り! まさか初探検で救助するなんてね、お疲れ様。これでも飲んで一息ついたら。そうそう、リーダーにも説明しといたから」
マリルリさんはそう言って、オレンソーダのビンを差し出してきた。相変わらず、各方面の配慮に抜かりはない。マリルリさんは、本当に仕事が出来るキャリアウーマンだ。そこん所は本当に頼りになるし、大人として尊敬している。
「ツタージャはどうしたんですか?」
「あの子はハピナス女医に診てもらおうと思ったんだけど、外で診察を行ってて今は居ないの。でも安心して、タブンネに引き渡したから」
「タブンネがよく引き受けましたね。性格的に断りそうですけど……」
「そりゃあ、断られる前に無理やり引き渡したからね。我ながら妙案を思いついたと思うよ」
マリルリさんが腰に手を当て、得意げに言う。タブンネが相手なら、少々強引に攻めるのは得策だと思う。けどマリルリさんの強引は予測できないから、そこんところが内心不安だ。
「ああでもしないと、引き受けてくれないからね。この件をきっかけに自信をつけてくれればいいんだけど……」
「そうですね……。腕はあるのに勿体無いですよね」
タブンネはハピナスの元で医師を目指して勉強してて、腕も知識も確かだから心配はない。ただ、自分に自信が持てない性格だから、実践を怖がってなかなか次のステップへ進めないでいる。
「まあ、何とかなると思うよ。それよりもピカっち、一つ聞いていいかな」
「ん? 何ですか?」
マリルリさんが質問しつつ、こちらに接近してきた。……彼女の顔が若干にニヤついているのを見て僕は察した。ああ、また彼女の悪い病気が出ちゃうのか。
「ツタージャって子とピカっち、どこまで進展してる?」
……予想通りの質問だ。しかも肘で僕をにくいねと言わんばかりに肘で小突いてくる。こういった恋バナ、マリルリさんの大好物だからなぁ。
「……全く進展してませんから」
「ふーん、チョイと頼りないピカっちにピッタリだと思うけどなー。……で? あの子の事どう思ってるの? やっぱ気があるんじゃないの?」
意地の悪い笑みを浮かべて、マリルリさんの質問攻めがヒートアップする。確かにツタージャって子、よく考えたら可愛いけど、恋愛的感情を抱いてるか聞かれたら答えは『ない』だ。
「あっ、ありませんから! そもそも出会ったばっかじゃ発展もクソもないですよ!!」
後ろめたい事は考えてないのに、何故か言葉が早口になってしまった。それを聞いたマリルリさんが「初々しい、実に初々しいね」と更に追い詰めてくる。今頭の上にヤカンを乗せたら一分で沸かせられそうだ。
「さ〜て、この話は打ち切り打ち切り。リーダーが『ピカが帰ってきたら俺のとこへ来るように』って伝言を預かってるから早く行ってあげて。リーダー結構心配してたからね」
「あっ、はいっ!! ではさようならっ!!」
僕は逃げるようにそそくさと立ち去った。マリルリさんが僕の事をどういう目で見ていたのかは知らない。たぶん滑稽に見えてるんだろうなぁ。
それにしても、マリルリさんから話を打ち切ってくれて本当に助かった。あのままだと顔が火照りすぎて卒倒してたかもしれない。彼女の事は嫌いじゃないし、むしろ話してて楽しいけど、どこか調子が狂わされてしまう。
早く鼓動している心臓を落ち着けながら、僕はルカリオさんの部屋の前に到着する。何の装飾もされておらず、非常に素っ気ない扉に手を伸ばす。初見でここがギルドマスターの部屋だと見抜けるポケモンは居ないだろう。
僕は極力音が鳴らないように扉を開ける。そしてルカリオさんの様子を伺いながら、部屋の中へ体を忍ばせていく。ルカリオさんが紙の山に囲まれながらペンをせっせと動かしている所を見ると、どうやら本部に送る報告書を作成している最中のようだ。ちなみに部屋の中はワークデスクと書類棚しか置いておらず、ルカリオさん曰く「その方が集中できる」らしい。そんな殺風景の部屋だから、尚更緊張してしまう。
「どうした? 早く入ってこい」
「……はい」
ペンを走らせていた腕を止め、こちらに顔を向けるルカリオさん。遅くなった正当な理由があるはずなのに、何故か入りづらい。
「……話はマリルリから聞いている。森で倒れていたポケモンを保護したそうだな」
「はい、ケガが酷かったので出来る限りの処置をしてから送りました」
「いや、もっと自分を誇ってもいいぞ。傷付いたポケモンを冷静に処置するなんてそうそう出来る事じゃない」
「そんな事ないですよ。ツタージャを助けられたのも偶然落っこちたおかげですし」
口ではああ言ったけど、本当は心の底から嬉しかった。尊敬しているルカリオさんに褒められるなんて、今まで片手で数えるぐらいしかなかったから。
「……落っこちたってどういう意味だ?」
僕は無意識にいらぬ事を漏らした口を両手で包み隠す。部屋を包んでいた穏やかな空気が急激に固くなった。……出来れば話さずにいたかったけど、こうなっては正直に言うしかない。
「……オニスズメに追っかけられまして、必死に逃げてたら川に落ちました」
僕を見るルカリオさんの目がだんだん曇っていく。そしてイスから立ち上がり、僕の方へ近付いて肩をポンと優しく叩いた。
「……ピカ、地図を貸してくれ」
「……はい」
ルカリオさんは僕から地図を受け取ると、精霊の森の一部を指で囲む。僕が探検した地域とほぼドンピシャだ。
「……お前、この一帯に入ったのか?」
どうやら僕が行った所はマズい所だったらしい。ルカリオさんは入った事を確信しているようなので僕は正直に頷いた。
「この一帯は気性の荒いオニスズメの縄張りだって事を前に言わなかったか?」
「縄張り……あっ!」
ルカリオさんと初めて精霊の森に行った日が頭にフラッシュバックされる。出発する直前、確かに「この辺りはオニスズメの縄張りだから絶対に入るな」と念入りに注意していた。それに僕は「分かりました」と元気よく返事した事も思い出し、頭を抱えたくなる程恥ずかしくなった。
「オニスズメに追っかけられたピカはこっち方面へ逃げたと」
ルカリオさんの指は地図に描かれた川に向けて動き始める。指が進むに連れて、オニスズメに追いかけられた出来事が鮮明に蘇って体が震えだす。……これは完全にトラウマになってるよ。オニスズメの鳴き声だけで失神するかもしれない。
「そして、ここで川にどぼーんしたと」
崖下を流れる川を指で突っつきながらルカリオさんが言った。唐突な抑揚のない擬音が笑いのツボをくすぐるが、顔が強張って全く笑えなかった。
「……よく生きてたな」
「全くですよ。本当に……、生きた心地がしませんでした」
僕は一生分の運を一日で使い果たしてしまったのかもしれない。探検家の三大要素として『経験』『知識』そして『運』がよく挙げられる。ルカリオさんと探検している内は『運』が何故挙げられるのか疑問に思ってたけど、今日の出来事でようやく理解できた。
「……この話題はここでやめとくか」
僕は静かに首を縦に振った。小刻みに震えている僕を見ての判断だろう。ルカリオさんの気遣いに心の中でお礼を言った。
「流れをぶった切るが、ツタージャって言ってたな。その子について知ってる限りでいいから教えてくれないか?」
「はい、大した事は聞いてませんけど……」
僕はツタージャについて知ってることを全て話した。話せる事は『自称探検家』ぐらいしかなかったが。他にもあるっぽいけど、ツタージャの悲しい表情を見てしまってはこれ以上何も聞けなかった。
「自称探検家か……。意志を受け継いだと言ってたが、その相手が名前の知らない探検家ってどういう意味だ?」
僕の話を聞き終えたルカリオさんは腕を組んでゆっくりと口を開く。
「僕も詳しい事は分かりません」
「そうか。……あんまりこういう事は言いたくないが、ギルド入門を断られた奴が『自称探検家』を名乗って活動する問題が昔話題になってな。知識も経験のない素人が危険地帯に突っ込んで行方不明になる事件が相次いだ。……俺の勝手な予想だが、ツタージャもその部類の気がする」
「いや、彼女は実際に探検家に会って探検家を志したと思います。探検家から貰った宝物も実際にこの目で見ましたし、かなり貴重そうでした」
あくまで僕の推測に過ぎないけど、ツタージャは本気で探検家になろうとしている。その過程は間違ってても、その思いは本物であるのは彼女の目が語っていた。……そんな彼女をあんなポケモン達の部類に一くくりにしたくない。
「恐らく、ケガが完治したらツタージャはまた探検に出るだろう。だが、ツタージャは探検に関する経験と知識を教わっていない。一人で探検するのは危険すぎる。お前もその事は良く分かっているだろ?」
罠にかかった時の対処方、敵の包囲から脱出する方法。そんなの直感とフィーリングで何とかなるなるとか言うポケモンもいるけど、大抵はベースとなる知識がないと無理だ。
「奇跡が再び起こるとは限らない。彼女自身このまま探検続けると言うならば、長生き出来ないだろうな」
ルカリオさんの言葉が、見知らぬ地で倒れているツタージャの姿を連想させた。一人寂しく朽ち木のように倒れている姿を。……会って間もないけど、彼女をそんな結末で終わらせたくない。
「何年も見続けた夢を諦めたくないってツタージャが言ってました。それに対して夢を諦めろと言うのは……」
そして僕は胸の奥にかすかに芽生えた思いを、ルカリオさんに伝える決心を固める。かけなしの勇気を振り絞って。
「僕がツタージャに対して何か出来るなら、それをしてあげたい。ツタージャの夢の手伝いをしたいんです!」
僕の思いは部屋中に広がっていく。緊張で乱れた呼吸を整え、もう一言付け加えた。
「ツタージャを、このギルドに入門させてください」
厚かましいながらも、頭を深々と下げて言った。何言われようとも覚悟はしている。
「……分かった。だが、今の彼女のままなら入門させられない。何せ知識も経験もなくても探検家になれるとナメられているからな。……難しい事を言うが、ツタージャの考えを改めさせろ」
「……はいっ!」
自分で出せる精一杯の声量で返事をし、部屋を出ようと回れ右しようとする。しかし、「ピカ、最後に聞いておきたい事がある」とルカリオさんが話しかけてきた。
「こんな事聞くのは野暮だと思うが、今日の探検は楽しかったか?」
「……楽しくなかったです。オニスズメの件が無くても、楽しかったと心から言える自身が無いです」
僕の答えを聞いて、ルカリオさんは「そうか……」と渋い表情を浮かべる。
「そう思った理由は分かるのか?」
「分かりません。でも、不安なんですよね。今日の簡単な探検もこんな有様でしたし、一匹でやっていけるかどうか……。そう考えると、楽しいだなんて到底言えません」
今まで僕がやってきた事を否定しているみたいで嫌だった。吐いたら楽になるかと思ったけど、むしろ気分が沈んでいって辛い。
「……成長したな。入りたての時と大違いだ」
しかし、ルカリオさんの返事は意外なものだった。顔を上げると、僕の大好きな優しい笑みがそこにあった。
「入門したてのお前は、探検の光の部分しか見てなかったもんな。だが、今のお前は探検家の負の部分を知った。後はその感情としっかりと向き合うんだ」
「向き合う……」
僕は両手を胸に当てて、心の中に芽生えた不安について考えてみる。モヤの中に、形のはっきりしている何かが見えたような気がした。それが何なのかは分からないけど。
「今は分からなくてもいい。そうそう答えは出るもんじゃないからな。だが、これだけは言える。お前は今、初めてスタートラインに立ったんだ」
「今まではなんだったんですか?」
「今までか? そうだな……。準備体操っていった所か」
「準備体操……」
僕の血のにじむような三ヶ月間が準備体操と言われ、少しげんなりした。周りから見れば三ヶ月ぐらいだと思うかもしれないけど、僕にとって濃厚で充実した時間だった。そんな時間をスタートラインですらないなんて、僕は探検家が如何に厳しい職業である事を再認識した。
「どうした? お前はこれから幾つもの山や谷を超える必要があるんだ。そんな顔されては、先が思いやられるな」
ルカリオさんが煽るように言ってきたので、僕は後ろ向きになってた表情を整え、憧れの存在と正面から向き合った。もう少しだけ、夢と向き合ってみるという意思表示だ。
「いい面になったな。スタートラインって先程言ったが、そこに立たぬまま夢を諦めた新人も半分ぐらい居るんだ。ピカはその半分を超えた。後はお前がどれだけ高みを目指せるか、俺は楽しみにしてるぞ」
ルカリオさんは僕の正面に立って膝をつき、僕の頭をポンポンと優しく叩いた。子供みたいだと笑われそうだけど、大きなタコだらけの手の安心感と温もりは計り知れない。
「俺から言えるのはこれぐらいだ。呼び止めて悪かったな」
「お礼を言うのはこっちですよ。お陰で少し気分が楽になりました。では、そろそろ失礼します」
僕はルカリオさんにもう一度お礼を言った後、医務室に早足で向かった。僕に彼女の考えを変えるだけの力があるのか分からないけど、やれるだけの事はやろう。