5. 再会、それぞれが抱く思い
サユリ達がヒイラギシティに到着する、数時間前。
ズボンのポケットにモンスターボールを突っ込みながらも、リュウジは玄関のドアを開いた。
時刻はちょうどお昼頃と言った所か。太陽は頭上の真上付近まで昇っており、相も変わらず燦々と日光を照らし続けている。別にリュウジは極端に暑がりだとか、汗っかきだとか言う訳ではないが、かと言って夏の日差しが好きと言う訳でもない。やはり暑いものは暑いのだ。
「チッ……」と舌打ちしながらも、リュウジは玄関から一歩外に出る。やっぱり暑い。だが、彼の傍らいるポケモン、バシャーモは夏の日差しなどまるで気にしている様子はなかった。流石はほのおタイプのポケモン。暑さには強いのだろう。リュウジから見れば、このクソ暑い中そんな羽毛で身体中覆われていてよく平気だな、と思うのだが。
「りゅうぅじィ……?」
ポケットに手を突っ込んだまま家を出発しようとすると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。ハスキーボイスでリュウジの名を呼んでいるようだが、何だか気味が悪い。何となく心当たりを思い浮かべながらも、リュウジは声がした方向へと視線を泳がす。
「あ……?」
家を出てすぐの所に、白衣姿の女性が立っていた。
背丈はスラリと高く、整った顔立ち。そして、清潔感のある髪。間違いない。リュウジはこの女性の事をよく知っていた。
「ンだよ……。俺に何か用か?」
「用……? ンフフ……そうねぇ……お姉ちゃんちょっとあんたと話したい事があるんだけどぉ……?」
笑顔を浮かべているが、目は笑っていない。これは本気で怒っている証拠だ。
面倒くさくなってリュウジが思わず舌打ちすると、目の前にいる彼の姉――ヤガミ博士ことヤガミ アカリはポキポキと指の関節を鳴らし始めた。
実力行使に移る気か、コイツ――。苛立ちを覚えたリュウジはアカリから視線を逸らすが、こっちから手を出したりはしない。分かってる。もしこっちから手を出そうものなら、もっと面倒な事に――。
「……さっさと話せよ。俺は急いでんだよ」
「……あんた、昨日また賭けバトルしたんだって? しかも強引に」
「ケッ……その事かよ」
何となく予想できた質問だが、いざ問い詰められてみるとイラッとする。自分達を負かしたあの少年とルカリオの事を思い出し、リュウジはむしゃくしゃし始めた。
このままでは終われない。負けっぱなしなんて、リュウジのプライドが許せないのだ。だからこそ、リュウジは決心した。あの少年に、リベンジすると。もう一度会ってバトルして、次こそは勝利を手に入れる、と。
「その話ならまた今度だ。俺にはやらなきゃならねぇ事がある。お前の話に付き合っていられるほど暇じゃあ……」
「へぇ……私の話よりも優先すべき事って何かしら……?」
「……おい、離せ」
立ち去ろうとしたリュウジの腕を、アカリはグッと掴む。掴む、と言うか握りつぶしそうな勢いだ。ほっそりとしているように見えるくせに、どこにこんな握力があるのか。痛みで表情が歪みそうになるが、リュウジは根性でそれを堪える。年上とは言え女に痛みつけられるのは流石にマズイ。ここで表情を崩したら負けになりそうな気がして、思わず意地を張ってしまっていた。
「あんたには色々と話してもらわなきゃいけない事があるのよねぇ……。昨日帰ってこなかった理由、とか?」
「うるせぇな……家に帰らねぇ事なんて珍しくもねぇだろ。いちいち聞くな。だから離せ」
「いやいや。私が聞きたい事は、それだけじゃないのよねー……」
「ちょ……おま……なんでそこで力を入れんだよ!?」
リュウジの腕を握る手に、アカリはジリジリと力を込める。リュウジは思わず声を張り上げて反論してしまった。
今までずっと意識を逸していたのだが、流石にそろそろ限界だったらしい。このままだと本当に握りつぶされそうだったので、リュウジは反射的に振り払おうとする。ところが、その程度ではアカリの手はまるで離れそうになかった。むしろ掴む力が一段と強くなってきている気がする。
普段はリュウジに忠実なバシャーモも、この時ばかりは明後日の方向を向いている。やはりアカリの事は怖いらしい。ある意味リュウジよりもバシャーモの方が素直だった。
「離せっつてんだろ! いい加減にしやがれ!」
「……どうしてもあんたに聞きたい事があるの」
「あぁ……!?」
いい加減に頭に血が上ったリュウジは、一際大きな声でアカリを怒鳴りつける。噛み付きそうな剣幕でアカリを睨みつけるが、そこでいつもと違う彼女の表情が目に入り、思わずリュウジは身を引いてしまった。
こんな時、いつもならあの黒い笑顔を見せつけてくるはずなのだが、今日はどうも違う。アカリがリュウジに向けるのは、真剣でまっすぐな瞳。何となく気味が悪くなって、リュウジは言葉が詰まってしまう。
「あんたと昨日バトルした子……。どんな子だった?」
「……はぁ? ンだよ急に……」
「いいから……は・な・し・な・さ・い!」
いつもと違う自分の姉を前にしてリュウジは決まりが悪そうに目を逸らすが、アカリは途端に詰め寄った。このままだと余計に鬱陶しそうなので、リュウジは渋々と話し始める。
「チッ……。初めて見る奴だったな……。頭は黒髪で……なんつーか……ジト目ってのか? 常にそんな感じの目で睨みつけてきやがって……。いけ好かねぇ野郎だったぜ」
「……あとは? 身長とかどれくらい?」
「まだ聞くのかよ……。確か……けっこうチビだったな。160センチくらいか……?」
記憶の中の少年と自分の体格を比べながらも、リュウジは感覚でそう答えた。あくまで記憶なので正確な数値ではないが、小柄だったのは確かだ。
「やっぱり……」
リュウジの説明が終わると、リュウジの腕を掴んでいたアカリの手からするりと力が抜ける。ようやく解放された訳だが、リュウジはすぐに立ち去ろうとしなかった。
リュウジの中に、違和感が残る。アカリは、あの少年に関する何かを知っている。それは一目瞭然だ。それに、らしくないこの表情――。
何だか妙に気になって、今度はリュウジが問いかけてみた。
「お前……あいつと知り合いか?」
何やら考え込むアカリに、そう尋ねる。リュウジの声を聞いて我に返ったのかアカリは顔を上げるが、しかしすぐに目を逸らしてしまう。
「別に……あんたには関係ないでしょー?」
「なっ……!? お前な……!」
そっぽを向いてそんな事を言うアカリを見て、リュウジは少し呆れてしまった。
九歳も年上のくせに、これじゃ子供と一緒ではないか。ポケモン博士の名が泣きそうだ。アカリに限ってそんなプライドは持ち合わせていなさそうだが。
「関係あるだろ。俺だけ喋ってお前だけ何も教えねぇってのは割にあわねぇ……」
「はいはいはい! もうあんたの好きにしていいわよ。急いでんでしょ? さぁ行った行った!」
リュウジが喋っている途中に、アカリは強引に話を終わらせようとする。されるがままに、リュウジは背中を押されてしまった。こうなってしまったら、何も聞き出せなさそうだ。
何だか最後までアカリの思う通りに事を運ばれた気がして気に食わなかったが、これ以上追求するのは時間の無駄だろう。知りたい事があるなら、あの少年に会って直接聞けばいい。そっちの方が早そうだ。
「ヘッ……お前に言われるまでもねぇ。行くぞバシャーモ!」
何だかひどく面倒になって、さっさとこの場から立ち去る事に決めた。
必死にアカリから目を逸らそうとしているバシャーモを連れ、リュウジは踵を返して歩き出す。むしゃくしゃした気持ちを抑えながらも、そのまま振り返る事なく立ち去ってしまった。
――ただ一人、アカリだけがここに取り残される。指を顎にあてて、ジッと何かを考えている。
昨日、サユリとユキから話を聞いて、もしかしたらと思っていた。そして今、リュウジの話を聞いて確信した。
しかし、どうも引っかかる。今までどこに行っていたのか。今まで何をしていたのか。どうして今になって戻ってきたのか。どうして――メガシンカを使えるのか。
黒髪で目つきが少し悪く、小柄な体格。そして、ルカリオをモンスターボールに入れずに連れ歩いている少年。アカリの脳裏に、一人の少年が思い浮かぶ。
「まさか本当にやるつもりなの……タクムくん……」
―――――
「デンリュウ!」
「キュウっ!」
おぼつかない足取りで、デンリュウは一直線に駆け出した。狙うのは勿論、少年のピカチュウ。さっきのペリッパーの時のように、途中で目を逸らしたりはしない。しっかりと前を向いたまま、身体全体を使ってピカチュウに体当たりしようとした。
しかし、相手はあのウデッポウの“みずでっぽう”をいとも簡単に回避したポケモン。一直線で、しかも動きも速いとは言えないデンリュウの攻撃など、そう簡単に当たるはずがない。案の定、ピカチュウは軽くサイドステップをとるだけで、その攻撃を回避してしまった。
「キュゥ……」
「ま、まだだよ! もっと攻撃しよう!」
予想はできていた事だが、サユリとデンリュウの表情には少し焦りの色が出始める。連続でバトルしているはずなのに、あのピカチュウは一切疲労しているような様子がないのだ。息も殆んど乱れておらず、動きのキレも落ちてない。むしろ鋭くなってるくらいだ。
しかし、サユリ達もそう簡単には諦めない。急ブレーキをかけたデンリュウは再び勢いをつけて、ピカチュウに向けて突っ込もうとした。
「ピカチュウ……」
デンリュウが再び突っ込もうとしているのを確認した少年が、チラリとピカチュウへと視線を戻す。
まるで、次にどんな技の指示が飛んでくるのか分かっているかのように、ピカチュウはニヤリと笑みを浮かべた。
「……“めざめるパワー”」
「ピィカッ!」
デンリュウの攻撃がピカチュウに届く、まさにその時。ピカチュウがグッと身体に力を込めると、彼を中心として青白い衝撃波のようなものが放たれた。
ピカチュウに向けて真っ直ぐに突進していたデンリュウには、このタイミングでのピカチュウの迎撃を回避する術はない。ガキンッ! と大きな音がしたと思うと、デンリュウは吹っ飛ばされていた。
「キュンッ……!」
「デンリュウ……!」
吹っ飛ばされたデンリュウは、ドスンと音を立てて倒れこむ。ピカチュウの放った“めざめるパワー”の余波が、サユリのもとまで届いた。
(冷たい……? なに、これ……)
思わず腕で顔を覆うサユリだったが、飛んできた余波が予想に反するものだったので少し怪訝に思った。
“めざめるパワー”と呼ばれる技を見たのは、これが初めてだ。当然、どんな性質の技なのかもよく分からない。ここまでヒンヤリすると言う事は、こおりタイプの技なのだろうか。
いや、今はじっくり考察している時間はない。あの攻撃をまともに受けて、デンリュウは大丈夫なのだろうか。今はデンリュウの安否を確認する事が先決だ。
「デンリュウ、大丈夫……?」
「キュン……!」
ブルブルと身震いして身体に纏わりついた氷を払いながらも、デンリュウは立ち上がる。しかしデンリュウの足元は今にもバランスが崩れそうなほどにフラついており、呼吸も大きく乱れていた。ダメージは決して少なくはないだろう。
「ほ、ホントに大丈夫?」
「キュウ!」
必死になって立ち上がり、心配はいらないと言わんばかりにデンリュウは鳴き声を上げるが、無理をしていると言う事は隠しきれていなかった。このままでは、一方的にやられてしまう。
どうすればいい? そもそもさっきのような攻撃じゃ、ピカチュウにダメージすら与えられない。同じ攻撃を繰り返したって、また素早く回避されて反撃を受けてしまう。何か、別の方法を考えるしかない。
けれどもそうは言ったって、サユリはそう簡単に有効な策が思い浮かぶほどにバトル慣れはしていなかった。思わず息をするのも忘れてしまうほど思考を働かせるのだが、まるで思いつかないのだ。
こう言う場合、一体どうすれば――。
「……俺のピカチュウの特性は“せいでんき”だ」
「……へ?」
突然少年が口を開き、サユリは間の抜けた声を出してしまった。
自分でも理解できるほどに出てきた声は変な声であり、サユリは羞恥に見舞われそうになる。しかしサユリの意識はそんなものよりも、少年が発した言葉の方へと大きく傾いていた。間の抜けた声の事は記憶の片隅に追いやって、サユリは少年の言葉を理解しようと努め始める。
「せい……でんきって……何のこと……?」
「……? “ひらいしん”を警戒してた訳じゃないのか」
「“ひらいしん”……?」
「……“たいあたり”しか使ってこなかったのは、そう言う事じゃないのか?」
聞きなれない単語が連続で出てきて、サユリは混乱し始めた。“せいでんき”だとか、“ひらいしん”だとか、よく分からないがバトルに関する言葉なのか。
そう言えば、潮風の街道で図鑑のデンリュウのページを開いた時、どこかに“せいでんき”と書いてあったような気がする。デンリュウにも言える言葉なのだろうか。
(よく分かんないけど……)
つまりピカチュウもデンリュウも“せいでんき”と言う名前の何かを持っていると言う事? 少年は特性と言っていたが――。
特性。聞いた事はあるが、“せいでんき”と言う名の特性がどんな効果を持つのかまではよく覚えてない。サユリは自分の知識量のなさに落胆してため息をついた。
(でもこれ以上ない知識を探ってもどうしようもないよね……。そんな事よりも今は……)
これからどうすべきか、考えるべきだ。
何とか少ない知識量を絞りきって、次の一手を考えるしかない。デンリュウが今まで使っていた技は、“たいあたり”らしい。サユリが指示していた訳ではないが、デンリュウなりに考えて選択した技なのだろう。
“たいあたり”はノーマルタイプ。でもデンリュウはでんきタイプのポケモンであり――。
(……そうだ!)
そこまで考えて、サユリはあることを思い出した。
ポケモンは、自分と同じタイプの技を得意とする傾向にあると言う事だ。つまりでんきタイプのデンリュウならば、でんきタイプの技が得意であるはず。ノーマルタイプの“たいあたり”ではなくて、何かでんきタイプの技を指示した方がいいのではないのだろうか。
そうだ。そうしよう。でんきタイプの技。デンリュウが使える技は――。
「あれ……?」
――そう言えば、デンリュウってどんな技を使えるんだっけ――?
「キュン……?」
デンリュウが不安そうな鳴き声を上げる。サユリの背筋に、嫌な汗が流れ落ちた。
デンリュウが使えるでんきタイプの技? あれ――? 何が使えるんだろう――? よく考えたら、デンリュウがでんきタイプの技を使っている所なんて、見た事ないような――。
「で、デンリュウ! でんきタイプ! 何かでんきタイプの技を使おう!」
「キュウ……」
サユリが必死に訴えるが、デンリュウは困ったように顔を傾けるだけだった。サユリはいよいよ慌て始める。
そう。そうだった。デンリュウが使える技を、サユリはキチンと把握していなかった。デンリュウと旅立つ事を決めた時点で、確認しておくべきだったのだ。
何かでんきタイプの技を使おうだなんて、そんな抽象的な指示でデンリュウも動けるはずがない。トレーナーとして、あるまじき行為だ。サユリに答えようとデンリュウも頑張っているが、何かしらの技が発動するような気配はまるでなかった。
「そうか……」
オロオロとしているサユリ達を見て、少年はため息をついた。
まるで期待をしていなかった――わけではない。こうしてバトルを挑んできたのだから、才能の欠片くらい見せてくれるのでは? と思っていた。
でも、結局はこれだ。
「お前……デンリュウが使える技も把握していなかったのか」
「……! そ、それは……」
「それに、そのデンリュウ……。でんきタイプの技をあえて使わなかったんじゃなくて、単純に使えなかっただけなのか。いや、それ以前に“たいあたり”しか使えないなんてな……」
サユリは何も言い返せなかった。受け入れ難い事実を突きつけられ、胸が詰まる思いに襲われた。
ポケモントレーナーなのに、パートナーの使える技すらも把握できていなかったなんて――。これでは、トレーナー失格じゃないか。
なにが「力があること証明する」だ。それ以前の問題。そもそもトレーナーとして、あまりにも未熟ではないか。特性の事も、使える技の事も、何一つ理解できていない時点で、サユリにはデンリュウのパートナーを名乗れる資格なんてないのかも知れなかった。
「ちょっとでも期待した俺の方がバカだったな……。ピカチュウ!」
「ピカッ!」
吐き捨てるように呟くと、少年はピカチュウの名を呼ぶ。鳴き声を一つ上げてそれに呼応すると、ピカチュウは駆け出した。
素早く接近してくるピカチュウ。けれどもサユリは、デンリュウに次なる指示を出すことができなかった。文字通り頭の中が真っ白になって、意識は完全にバトルから逸れてしまっている。デンリュウがサユリを呼ぶように鳴き声を上げるが、結局サユリはそれに答えることはできない。
「“めざめるパワー”」
サユリが何も言えないまま、少年のピカチュウはあっと言う間に接近する。再び青白い衝撃波が放たれて、それが容赦なくデンリュウに襲いかかった。
「あ……ああ……」
悲痛の鳴き声を上げながらも吹っ飛ばされるデンリュウを見て、サユリの表情から血の気が去る。思わず両手で口元をおさえ、気づかぬ内に身体も震え始めていた。
少年と自分の間にある圧倒的な実力差。手も足も出ずに一方的にやられてゆくデンリュウ。トレーナーとしての力を、まるで持ち合わせていない自分。それらをいっぺんに目の当たりにして、サユリの戦意は既に喪失していた。
恐怖なのか、後悔なのか、それとも自分に対する見限りなのか。よく分からない感情に支配されて、身体の震えはより一層強くなる。
「……“エレキボール”」
とどめだと言わんばかりに、少年はピカチュウにさらなる技の指示を出す。吹っ飛ばされ、背中から倒れ込んだデンリュウはむせながらも立ち上がろうとしていたが、ピカチュウはそんな事お構いなしだ。“エレキボール”が打ち出され、デンリュウがその追撃に気づいた頃にはもう遅かった。
「デンリュウ!」
サユリが叫んだその次の瞬間、爆音が響く。デンリュウには“エレキボール”を回避する暇も体力も残されていなかった。
ウデッポウの時と引き続き、二度目の“エレキボール”の爆発。ただでさえ埃っぽかったフィールド全体に、砂埃が舞い上がる。砂埃が目に入りそうになり、サユリは反射的に瞼を閉じた。
「デンリュウ……ゴメン……わたし……」
瞼を強く閉じながらも、サユリはそう呟いた。途端にジャリっとした物を口の中に感じ、砂埃が入ってしまった事を直感する。
コホコホと咳き込んだサユリの頬に、一粒の涙が零れおちた。瞼を強く閉じているはずなのに、なぜだか涙は目尻から溢れてしまった。
わたしがしっかりしないから、トレーナーとして力になれなかったから、デンリュウは――。
そう思えば思うほどに、サユリは胸を締め付けられるような思いに駆られる。どんどん息苦しくなって、またむせて咳き込んでしまった。
悔しかった。苦しかった。不甲斐ない自分が、許せなかった。心の中で、何度もデンリュウに誤った。
そう。その時だった。
――バチッ
「……終わりだな。これで……」
バチッバチッ――
「……? 何だ……?」
聞き覚えのある音が聞こえて、少年は警戒心を強めた。
ピカチュウの“エレキボール”が決まり、このバトルは既に決したかのように思えた。しかし、どうも妙な予感がする。
バチバチと言うこの音は、何かに似ているような気がする。そうだ。ピカチュウが電気袋に電気を帯電させている時の音。それに酷似しているのだ。つまりこれは、電気が漏れる音――?
しかし、当然ピカチュウの電気の音ではない。ピカチュウもまたバトルは決したと思い込んでおり、臨戦態勢を解き始めていた。頬に帯電する電気の量も少なくなり、あれほどの音が出るほど溢れてはいない。
この音はピカチュウの電気ではない。だとすると考えられるのは――。
「なっ……に……!?」
ビュウっと一際強い風が吹くと、辺りの砂埃が一気に晴れる。一層大きな電撃音と共に現れたのは、少年たちが倒れていると思い込んでいたデンリュウだった。
倒れてなどいなかった。自らの足で、しっかりと立っている。身体中に物凄い量の電気を帯電させ、少し猫背になりながらもデンリュウは立っていた。呼吸はかなり乱れているが、意識はまだ失っていない。体力はもう限界のはずなのに、デンリュウは倒れなかった。
「で、デンリュウ……!」
そんなデンリュウの姿を見て、サユリは弱々しくも声を上げた。
デンリュウはまだ諦めていない。まだサユリの為に、ピカチュウに立ち向かおうとしている。そう思えば思うほど、サユリは息苦しくなってきて――。胸が熱くなった。パートナーとしての資格も見失っているサユリに答えようとしてくれるデンリュウを見て、サユリの感情は高まってきていた。
「いや……こいつは……」
しかし、少年はまだ違和感を拭い去れてなかった。
何か様子が変だ。確かにデンリュウは立っている。息は乱れているが、意識は途切れていないように見える。しかし、体力は限界のはずだ。それなのに、あれほどまでの電気を纏えるものなのだろうか。しかもついさっきまで でんきタイプの技を使えなかった、あのデンリュウが。よく見ると、瞳も濁っているような気が――。
「キュウ……!」
その次の瞬間。異変は明確に現れた。
再び大きな音が響いたかと思うと、押さえ込んでいた何かが爆発したかのように、デンリュウから大量の電気が溢れ出したのだ。デンリュウの周囲、四方八方に電気が次々と被弾し、爆音と共に焦げ臭いが立ち込め始める。
「キュゥゥウ!?」
サユリも今まで聞いた事のないような痛々しい鳴き声で、デンリュウは絶叫した。抑えきれない自分の電気を尚も大量に溢れさせながら、苦しそうに悶えている。しかし時間が経てば経つほどに身体の制御は効かなくなって、バリバリと音を立てて溢れる電気の勢いはどんどん強くなってゆく。
「で、デンリュウ……? どうしたの……!?」
苦しむデンリュウを前にして、サユリも異変に気がついた。
一体、何が起きているのだろうか。瀕死直前に追い込まれた途端、デンリュウから突然電気が溢れてきて――。
何が何だかよく分からないまま、サユリはデンリュウを何度も呼びかける。けれども、デンリュウにその声が届いているような様子は見られなかった。
サユリの心は不安でいっぱいになって、心臓の鼓動が早くなる。不規則に電撃が飛び交う中、サユリは一歩前へと出た。
デンリュウの所へいかなきゃ――。そんな使命感に駆られ、サユリは電撃の中を突き進もうとする。
「っ! よせ! そいつから離れろ!」
あまりにも無謀な行動を取ったサユリを見て、少年は思わず声を張り上げた。サユリもまさか少年に止められるとは思っていなかったらしく、ビクリと身体を震わせ一瞬だけ硬直する。
「キュウッ!」
その時。何かが起きた。その瞬間は、そうとしか認識できなかった。
デンリュウの鳴き声の直後、頭の中での処理が追いつかず一瞬だけ時間が止まったかのような錯覚を引き起こす。視覚が捉えるのは、強いオレンジ色の光。聴覚が捉えるのは、ビュン! と何かが風を切るような音。刹那、少年の背後で巨大な爆発音が轟いた。
「なっ……!?」
「ピィカ……!?」
空気の振動がはっきりと伝わってくるほどの、大きな爆発音。少年とピカチュウは、反射的に振り向いた。
何かが少年とピカチュウの横を通り過ぎたのは確かだ。その証拠に、不自然なほど地面がえぐれているのが確認できる。その何かが着弾したと思われる場所は大きく地面が盛り上がっており、砂埃の混じった焦げ茶色の煙がモクモクと立ち篭めていた。
「今のは……“でんじほう”か……!? いや、それにしては威力が……」
確認できる状況から、少年はたった今デンリュウが放った技を考察する。しかし、それにしてはどうも引っかかる所があった。
技の威力が強すぎる。でんき技を使えなかったデンリュウが、急にこんな高威力の“でんじほう”を放てるとは到底思えないのだ。
今のデンリュウは、自分の力を制御できずに暴走している状態だ。自分自身でも抑制できないほどの力――。それをあのデンリュウは隠し持っていたと言うのだろうか。
いずれにせよ、はっきりしている事が一つ。
「このまま放っておくのは危険、か……」
このまま電気を放ち続ければ、やがて力が枯渇してしまう。もしそうなれば、デンリュウの身が危ない。
それに、デンリュウの力が尽きるまでに周囲にどんな被害が出るのかも想定できない。さっきのような“でんじほう”がまた放たれたら危険だ。
とにかく、これ以上事態が悪化する前にデンリュウの暴走を止めるしかない。
「ピカチュ! ピカピカ!」
「……ピカチュウ。やってくれるな?」
「ピィカッ!」
少年とピカチュウがそんなやり取りをしている中、サユリは何もできずにただ立ち竦む事しかできなかった。
デンリュウは、力が制御できずに暴走している。それは何となく分かる。しかし、これほどまでの力をデンリュウが隠し持っていたなんて、信じられなかった。
あまりにも大きすぎる力。自分でも制御できない程のその力に、デンリュウは苦しめられている。サユリの力になろうとして、悲鳴を上げる身体を無理矢理動かそうとして――。デンリュウは、力を抑制できなくなった。
「わたしの……せいで……」
おかしい。こんなの、絶対におかしい。トレーナーである自分のせいで、パートナーがこんなに苦しむ事になるなんて。パートナーの事を何も理解していなかったこんなトレーナーのせいで、デンリュウが振り回されるなんて間違っている。
本当にトレーナーを名乗れるのか? そんな資格があるのだろうか? 自分がトレーナーになったせいで、誰かが苦しむ事になるのなら――。
「わたし……やっぱりポケモントレーナーになるべきじゃなかったのかな……」
ボンヤリとした虚ろな瞳で、サユリはそうつぶやく。小さなつぶやきだったのに、その言葉は妙に頭の中で反響していた。
――だからこそ、そのポケモンが腕を引っ張るまで、サユリは周囲の状況が全く目に入っていなかった。
「えっ……?」
グッと腕を引っ張られ、されるがままにサユリは動く。視線を下に向けると、そこにいたのは青いポケモン。サユリをどこかへ連れて行こうとしているのは、少年のルカリオだった。
「へ……? あ……ど、どこに行くの……?」
いつの間にそこにいたのだろうか。訳が分からぬままに、サユリはルカリオについて行く。ルカリオも鳴き声一つ上げずに、サユリを引っ張り続けた。
やがて、ルカリオはチラリとどこかへ視線を送った。それにつられて、サユリもルカリオの視線が示す先を見てみる。
ルカリオが視線を送ったのは、パートナーであるあの少年だった。アイコンタクトで、お互い何やら合図をしているようだ。
しかし、そんなものよりもサユリの目を惹きつけるものがそこにあった。
少年の前にいるピカチュウが、大量の電気を纏っていたのだ。暴走するデンリュウに引けをとらないほどの強い電撃が、時折溢れているのが見える。バリバリと音を立てて電気を纏うその姿は、本当にさっきのピカチュウと同じポケモンなのか、疑ってしまうほどだった。
「な、なにを……」
サユリは驚きのあまり言葉を失った。
さっきまで、あのピカチュウは力をセーブしていたと言う事なのか。今まで全く本気を出していなかったのに、あそこまでデンリュウとウデッポウを圧倒して――。
「まさかこれを使う羽目になるなんてな……」
「ピカ……」
ボソリとそう呟くと、少年はスっと腕を上げた。その人差し指でデンリュウを示し、スゥっと大きく息を吸い込む。ひと呼吸置いたあと、少年はその技を、切り札であるその技の指示を、ピカチュウに投げかけた。
「……“ボルテッカー”」
大量の電気を纏ったピカチュウが、一際大きく地面を蹴る。空気抵抗をまるで感じさせないほどの凄まじいスピードで、デンリュウに向けて突進した。
デンリュウの電撃が飛び交う中、電気を纏ったピカチュウは一直線に駆け抜ける。その姿は、宛ら一筋の閃光。そのスピードは衰える事をまるで知らず、全くブレない一閃だった。
「ピカァ!」
ピカチュウの“ボルテッカー”が、暴走するデンリュウのもとまで届く。その瞬間、大きな爆発が起きた。
さっきの“でんじほう”の時と同等かそれ以上の爆発。もしもあのままサユリがあそこにいたら、爆発に巻き込まれていたかもしれない。なるほど、ルカリオはサユリが巻き込まれないように安全な所まで誘導してくれてのか。
爆風と共に小さな地響きまでも発生し、サユリはつまずいてバランスを崩してしまう。倒れ込み、尻餅をついてしまった。
「うぅ……!?」
凄まじい風圧を受け、サユリは顔を背ける。また大量の砂埃が飛んできて、思わず目と口を塞ぐ。
やがてその余波が落ち着くと、サユリは慌ててデンリュウ達の様子を確認しようとした。
「デンリュウ……?」
サユリがそこで目にしたのは、砂埃の中でボンヤリとうごめく二つの影だった。
片方は、おそらくピカチュウ。身体を大きく上下させ、息を切らしているのが確認できる。しかし、まだ倒れてはいなかった。フラフラになりながらも、かろうじて持ちこたえているようだった。
そんなピカチュウの横にあるのは、仰向けに倒れているように見える影。ピカチュウよりも大きな身体であるそのポケモンの影は、まるで立ち上がるような気配もなく――。
「デンリュウ!」
自分のパートナーであるポケモンの名前を叫ぶと、サユリは砂埃を掻き分けて慌てて駆け寄ろうとした。息を切らして、つまずきそうになりながらも、サユリは走る。
ようやく辿り着いて真っ先に目に入ったのは、完全に意識を失って倒れているデンリュウの姿だった。
「デンリュウ! デンリュウ! ねぇ! 目を開けてよ……!」
ゆさゆさとデンリュウの身体を揺さりながらも、サユリは必死になって呼びかけた。ウデッポウの時のようにバチバチと電流が流れ込んでくるような感覚がしたが、そんな事は気にならなかった。ぐったりと倒れ込んだまま目を開かないデンリュウを見ていると、心の底から苦しくなって――。不安で不安で、仕方なかった。
「……大丈夫か、ピカチュウ」
「ピィカ……」
歩み寄った少年が、ピカチュウに声をかける。振り向いたピカチュウがニッと少年に笑顔を見せたが、それが意地である事はバレバレだった。
“ボルテッカー”を使った事により、ピカチュウもボロボロだ。あの技は強力ではあるがその反動も大きく、使用者もかなりのダメージを受けてしまう。しかもあの爆発に巻き込まれて、普通なら立っているのだっておかしいくらいだ。ピカチュウは、ほとんど意地と根性だけで意識を保っていた。
「……戻れ、ピカチュウ」
モンスターボールを取り出すと、静かにピカチュウを中に戻す。その後、少年はチラリと視線をデンリュウへと向けた。未だに意識の戻らないデンリュウの横で、パートナーであるあのトレーナーが何度も名前を呼びかけている。
少年はデンリュウ達へと歩み寄る。少年の存在に気づいたサユリが、おもむろに顔を上げた。
「一体……何なんだ、そいつは……」
涙で目が少し赤くなっているサユリに向けて、少年がそう言った。
彼としては、気になって少し聞いてみただけのつもり。しかしサユリはビクッと大きく身体を震わせると、顔を背けてしまった。
どうしてそこで怖がるのか。少年にはよく分からなかったが、何となく決まりが悪い。これ以上、デンリュウについて追求するのを止める事にした。
少年から目を背けたまま、サユリはデンリュウのそばから動こうとしない。いつまでも落ち込んでいるよりも、やるべき事があるだろうに。どうして行動を起こさないのか。少年は渋々声をかけてみた。。
「……はやくそいつをボールに戻してやった方がいいんじゃないのか? ポケモンセンターに連れて行くべきだろう」
「ダメ……なの……。この子……ボールの中を怖がってて……それで……」
今にも消えてしまいそうな声で、サユリは答える。それ以上は聞き取れなかったが、少年はサユリの言いたい事を何となく察したようだった。
つまりデンリュウはモンスターボールの中に入りたがらないと言う事か。少年のルカリオもそうなので、特段驚きもしない。だが、完全に意識を失っている今の状態ならば、ボールに戻しても急に暴れだしたりはしなさそうだが。
それをしないと言う事は、この少女はデンリュウが嫌がっている事を強制したくないのだろう。しかしだからと言って、こんな少女がデンリュウをボールに戻さずにポケモンセンターまで運べるのだろうか。見るからに運動神経はなさそうだし、この少女がデンリュウを担いで運ぶ姿はとても想像できない。
「はぁ……」
頭を掻きながらも、少年はため息をつく。おもむろにかがみ込むと、デンリュウの身体を持ち上げった。
「よっ……と……」
背中に背負うような形で、少年はデンリュウを持ち上げる。デンリュウは体格の割にかなりの重量を持つポケモンであるが、少年は特に苦労しているような様子はない。あまりにも軽々しくデンリュウを背負う少年を見て、サユリは驚きのあまり言葉を失った。
「……何をしている? 早くポケモンセンターに行くぞ」
「え……!? い、いや、あの……。うん……」
突然目の前で少年がデンリュウを背負い始め、サユリは困惑していた。
少年は、デンリュウをポケモンセンターまで連れて行ってくれると言うのだろうか。でも、どうして? ついさっきまで、冷たく突き放そうとしていたのに。サユリの気持ちなんて、分かろうともしてくれなかったはずなのに。
しかし、深く考えるのはあとにしよう。早くデンリュウをポケモンセンターに連れていかないと。
サユリはそれ以上何も言わずに、デンリュウを背負う少年のあとについて行く事にした。
―――――
太陽が沈み、ヒイラギシティ全体が宵闇に包まれる。建物や街灯には次々と明かりが灯され、街全体が夜の姿へと移り始めていた。
ヒイラギシティの中央部からやや南東に設けられているポケモンセンターには、沢山のポケモントレーナーが集まり始めていた。ポケモンセンターにはポケモンの治療以外にもトレーナーをサポートしてくれるような設備がいくつか存在しているのだが、この時間に集まってくるトレーナーの殆んどが宿泊部屋の利用が目的だろう。トレーナーであるのなら、ポケモンセンターの宿泊部屋は殆んどタダ同然の料金で利用できるのだ。旅するトレーナーにとって非常にありがたいサービスであり、毎日の利用者もかなり多らしい。
そんな夕暮れ時のポケモンセンターに訪れたのは、一人の少女だった。白いシャツにショートパンツと言ったラフな服装。サラサラな栗色の髪はツインテールとしてまとめ、その顔つきとスレンダーな体つきから活発的な印象を受ける少女だ。
ポケモントレーナーになったばかりであるその少女、ユキはサユリとの待ち合わせ時間が近くなった為にポケモンセンターを訪れていた。
ヤガミ博士からヒトカゲを受け取り、勢いのまま研究所を飛び出してしまった訳だが、どうやらポケモン図鑑を受け取り忘れていたらしいのだ。サユリから連絡を受けてようやく気づいたのだか、既に別行動をとっており、すぐに合流するのは難しかった。そこで、ヒイラギシティのポケモンセンターでサユリと待ち合わせをして、そこで受け取る事にしたのだった。
「えーと……サユリは……おっ」
キョロキョロとサユリを探し始めると、意外とすぐに見つける事ができた。
大きなディスプレイの薄型テレビが設置された壁の前。そこに設けられた椅子に座っているサユリの後ろ姿が確認できた。あの白い帽子、間違いないだろう。
「おーい、サユリっ!」
そんな風に名前を呼びながらも、ユキはサユリの肩を叩いた。
そう言えば、昨日もこんな風にサユリの肩を叩いたな、とユキは思い出した。あの時は想像以上に驚かれ、思わずこちらもポカンとしてしまったのだが。
しかし――今日のサユリは、昨日とはまるで違う印象だった。
「……あ、ユキちゃん……」
ぼんやりとした瞳を向け、生気のない声でユキの名を口にした。
ユキはすぐに感づいた。明らかにサユリの様子がおかしい。いつもだったら、そう、昨日みたいに露骨に驚いてくれるはずだ。いくら大人しい子だったとは言え、ここまで活力がないサユリはユキも始めてみた。
「さ、サユリ……? 顔色悪いけど、どうかした……?」
「……ううん。別に何もないよ……? あ、そうそう。これ、ヤガミ博士から預かってたポケモン図鑑……」
「へっ? あ、うん……ありがと……」
サユリはポケモン図鑑を渡してくる。困惑しがらも、ユキは図鑑を受け取って――。
「……じゃなくて! ……何もないなんて事ないでしょ。いつもと様子が違うじゃない。思い悩んだりする事はあったけど……何て言うか、こんな風に活力がないサユリなんて、見た事ないし……」
サユリは何も言わない。ただ俯いて、頑なに口をつぐんでいる。何か、言葉にしたくない事でもあるのだろうか。
あれ? そう言えば――。
「……あんた、デンリュウはどうしたの? 一緒じゃないの?」
「…………っ!」
先ほどライブキャスターで話した時、デンリュウはボールの中を嫌がってるから連れ歩く事になった、と聞いていた。しかし、今はそのデンリュウの姿は見えない。気になったユキは、何となくサユリに尋ねてみた。
しかしユキの言葉、その中のデンリュウの名前を聞いた瞬間、サユリはビクンと身体を震わせた。大きく目を見開いた後、サユリは俯いて動かなくなってしまう。
「さ、サユリ……?」
何か変な事を聞いてしまったのだろうか。デンリュウの名前を聞いた途端にサユリの態度は一変して、ユキは困惑した。
デンリュウに何かあったのだろうか。ここはポケモンセンター。そしてサユリの傍にはデンリュウの姿はない。と、言う事は――。
「あっ……」
ユキが考えていると、いつの間にか顔を上げていたサユリが、そう声を漏らしていた。その視線が向けられているのはユキ――ではなく、彼女の後ろ。
誰かいるのかと思い、ユキは振り向いてみる。そこにいたのは、見覚えのある少年だった。
「……ああ! アンタは……!」
ルカリオを連れた黒髪の少年。昨日リュウジとバトルしたあの少年だとすぐに気がつき、ユキは思わず声を張り上げた。
ビシッとユキに人差し指を向けられていたが、少年は特に気にする様子もない。むしろユキを無視しているようである。彼は未だ瞳に生気がないままのサユリに、視線を向けていた。
サユリは居心地が悪かった。少年に睨みつけられているような気がして、自然と身を縮こませてしまう。いつまでも少年に目と目を合わせる事はできず、サユリの方から逸してしまった。
「……警告はした」
少年がサユリに向けて話し始める。耳だけを傾けて、サユリは目を合わせようとしない。
「でも……それでもこれ以上旅を続けると言うのなら……」
もう一度、はっきり言えばいいじゃないか。スミレタウンに帰れ、と。冷たく突き放せばいいじゃないか。
妙に回りくどい少年の言葉を聞いて、サユリは内心そう思っていた。はっきり言ってくれた方が、サユリとしても踏ん切りがつく。そう思った。
だが。
「……勝手にしろ」
「…………えっ?」
勝手に、しろ――? どう言う意味――?
サユリがそれを確認する前に、少年は踵を返して立ち去ってしまった。サユリが呼び止める間もなく、少年は歩き出す。
無視され続けたユキがむきになって何度も声を張り上げていたが、少年はまるで耳を傾けようとしない。ついにはそれ以上振り返りもせずに、ポケモンセンターの外へと出て行ってしまった。
「な……なによアイツぅ! なんであたしの事は無視すんのよ!?」
ユキはご立腹だ。あそこまで無視されたら無理もないが。
サユリは考え込んでいた。少年の言葉、その真意を。
勝手にしろと言う事は、旅を続けるも続けないもサユリの自由にしろと言う事なのだろうか。でもそれじゃ、さっきと言ってる事が違う。何を考えているんだ、あの少年は。
「サユリ! 今アイツが言ってたのってどう言う意味!? アイツに何かされたの!?」
「へ……? い、いや、それは……」
頭に血が上ったユキの火花がこっちにも飛んできたような気がして、サユリは気圧されそうになる。ユキに促されるまま、サユリはこれまで起きた事を話した。
少年に言われたこと。バトルの内容。そして、最後のデンリュウの暴走。話している内にサユリもユキも落ち着いてきて、さっきよりも冷静に考える事ができるようになっていた。
「なるほどね……。で、アイツがデンリュウをポケモンセンターまで運んだ、と」
「うん。大体そんな感じ……」
冷静に考えれば考えるほど、サユリはデンリュウに対する申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまった。
暴走の原因は、明らかに自分にある。本当はバトルが苦手なのに、デンリュウは気を使って参加してくれて、結果あそこまで痛めつけられてしまった。でも冷静に考えれば、すぐに分かったはずなのだ。デンリュウじゃ、あのピカチュウに敵うはずがないと。まともなバトルが、できる訳がないと。
「でもやっぱり酷いわよ、アイツ。今日トレーナーになったばかりのサユリとバトルするなんてさ。実力差ははっきりしてるって分かってたはずなのに……」
「バトルを仕掛けたのはわたしの方だし、あの人はそこまで悪くないよ……。それに、全然本気出してなかったみたいだったし……」
「そ、そうなの?」
相変わらず非は自分にあると言いたげな口調で話すサユリに、ユキは一瞬だけ流されそうになる。しかしすぐに頭をブンブンと振ると、ユキは自分の意見を突き通そうとした。
「……って、ダメよサユリ! 自分を責めちゃ! たまにはわがまま言ったって言いんだよ?」
「わがままなんて、言える訳ないよ……。わたしのせいで、デンリュウもウデッポウもボロボロになっちゃんだよ……。トレーナーの事も、ポケモンの事も、何も分かっていなかったから……」
サユリはまるで考えを変えようとはしなかった。自分を責めて、ますます暗く沈んでいった。
いつもそうだ。こんな時のサユリはいつも、原因は全部自分にあると思い込もうとしていた。それでいてマイナス思考で、悪い事ばかり考えて――。本当は凄く脆くて弱いのに、気を負いすぎるのだ。だからこそすぐに思い悩むし、すぐに折れそうになる。
「あの人の言う通りだった……。間違ってたんだよ……。わたしみたいなのがトレーナーになるなんてこと……!」
「サユリ……あんたね……」
いつまでも自分を責め続けて、いつもみたいに思い悩んで。
いつの間にか目尻から涙を零していたサユリを見て、ユキは居ても立ってもいられなくなった。もう、我慢できなかった。
「いい加減にしなさいよ!」
ユキが声を張り上げて怒鳴りつけると、サユリは驚いて口を塞いだ。目をパチクリさせつつも、ユキを見つめたまま動かなくなる。
そんなサユリを見たユキが、自分を落ち着かせる為にも大きく深呼吸する。その後また人差し指を立てて、サユリの顔を指差した。
「それ! 涙! どうして零しているの!」
「え……? あ、あれ……? いつの間に……」
「……悔しいから、でしょ? アイツとバトルして、自分の実力を知らしめられて、だから悔しいんでしょ?」
サユリは何も言えなかった。ただユキに気圧されているから、ではない。今までずっと、単純な自分の気持ちを押し隠していたからだ。
自分のせいでデンリュウ達があんな目に遭った。それは変わらない。しかし、だからと言ってそれで自分を責め続けて、結果的に心が折れてしまったら。必死になって答えようとしてくれた、デンリュウ達の気持ちを裏切る事になる。
「……確かにさ。あたしもあんたも、まだまだ弱いのかも知れない。でもそれは仕方のない事でしょ? だって、あたし達は今日トレーナーになったばかりなんだよ。それなのに一度バトルで負けたくらいで自分を見限っちゃうなんて、バカみたいじゃない」
ユキの言う通りだ。サユリは悔しかった。あまりにも高すぎる壁を前にして、それを乗り越えられない自分がいて――。もどかしかった。
でもいつの間にか、その気持ちは後悔だとか、見限りだとか、そんな感情にすり変わっていた。
「デンリュウ達の力になれてないって思うなら、これから成長すればいい。もっと色んな所を冒険して、もっと色んな事を知って……。デンリュウ達と一緒に、サユリが強くなればいいんだよ。だからまだ諦めちゃダメ。強くなって、アイツをぎゃふんと言わせてやりなさい!」
「ユキちゃん……」
そう。そうだった。何を自分は立ち止まっていたんだ。実力がないのなら、これからつければいい。力がないと言うのなら、もっともっと強くなればいいのだ。
サユリは、本来のトレーナーになると決めた理由を思い出してみる。そう、ポケモン達ともっと仲良くなりたくて、サユリはトレーナーになったのだ。それなのにここでスミレタウンに帰ってしまっては、ユキの言う通りバカみたいじゃないか。
ゴシゴシと涙を拭うと、サユリは顔を上げる。目の周りは未だに赤かったが、瞳の色はさっきと違う。光が戻り、生気の宿ったサユリの瞳が、ユキに向けられていた。
「デンリュウとウデッポウのトレーナーの方ー!」
ポケモンセンターの受付から、そんな声が聞こえてきた。振り向いてみると、そこにはいたのはウデッポウが入ったモンスターボールを持った女性医師と、デンリュウの姿。どうやら、無事に回復できたようだ。力を使い過ぎたデンリュウも、今はしっかりとした足取りで女性医師の隣に立っていた。
「ほら、サユリ! 行ってきなさい!」
「……うん!」
ユキに背中を押されながらも、サユリは歩み出す。その胸に抱く思いを確立させた少女は、真っ直ぐと前を見据えていた。