4. 再会、その胸に抱く思い
日の光が茜色に染まり始めた頃。サユリ達はヒイラギシティに到着した。
潮風の街道の端っこに建てられている大きなゲートを潜ると、そこはまさに別世界。海沿いに設けられた自然豊かな潮風の街道とは打って変わって、目に飛び込んでくるのは大きな建物や人々の群れ。アスファルトの道路には車などの乗り物も見受けられ、街全体からは一段と賑やかな雰囲気が醸し出されていた。
自然豊かなリョウラン地方ではあるが、人口が少ないと言う訳ではない。ヒイラギシティ規模の都市はそう多くないが、それでも十分大きな街もいくつか存在し、むしろ人口は多いくらいだ。
地方の多くは緑で覆われ、その中に人々が住む都市も存在する。自然と科学技術が上手く共存しているリョウラン地方は、近年脚光を浴びつつもあった。
「う〜ん……ここに来たのも久しぶりだなぁ……」
大きく伸びをしつつも、サユリはそう言葉を漏らした。
ヒイラギシティにはユキと何度か遊びに来た事はあったのだが、最近はそもそもスミレタウンの外に出る事があまり多くなかった。こうしてヒイラギシティを訪れたのは本当に久しぶりで、この雰囲気も懐かしく思えてくる。
しかし辺りを見渡してみると、出店している店や建物そのものが前に来た時と変わっている所もあり、何だか初めて訪れた時のような気持ちにもなる。ちょっぴり寂しい気もするが、それと同時にワクワク感も募ってきて、サユリは不思議な気分になっていた。
「……っ!」
「……ん? どうしたの、ウデッポウ?」
そんな中、サユリの腕に抱えられていたウデッポウが、突然キョロキョロと辺りを見渡し始めた。
潮風の街道では大人しかったのだが、ヒイラギシティに入った途端にウデッポウの落ち着きがなくなってしまう。まるで何かに慌てているかのように、ソワソワしている。
落ち着きがないウデッポウの様子を見て、サユリはその原因を何となく察した。
「そっか。こんなに沢山の人を見たの初めてなんだね」
「……っ?」
「ヒイラギシティは特に人が多いからね。でも大丈夫。すぐに慣れるよ」
「キュウ!」
かく言うサユリも初めてヒイラギシティを訪れた時は、この賑やかさに驚いて今のウデッポウのように落ち着きを失っていた。少し街を歩いていると、すぐに慣れたのだが。
サユリとデンリュウが笑顔を向けると、やはりウデッポウはプイッと目を逸らす。
初めは怒っているんじゃないかと思っていた仕草だったが、どうやらそうではないようだ。何度も見ている内に、その真意が分かるようになってきた。
このウデッポウは、かなりの照れ屋らしい。褒められるのならともかくこうして笑顔を向けるだけで照れてしまう程で、その必死の照れ隠しとして視線を逸らしているようだ。
いつも仏頂面をしているがこれも不器用なだけらしく、気持ちを表情に表す事が苦手な様子。けれどもよく見ているとその気持ちを感じ取る事は意外に容易であり、分かりやすかったりもする。
照れ隠しで視線を逸らしたウデッポウだったが、やはりまだ落ち着きは取り戻せていないようだ。実は人混みが苦手なのかもしれない。
ウデッポウの新たな一面を見れて、サユリは思わずクスリと笑ってしまった。
「さて、と。ユキちゃんとの約束の時間まではまだちょっとあるし、どうしようかな……」
ライブキャスターの時計機能で時間を確認しながらも、サユリはボソリと呟く。
思っていたよりも早くにヒイラギシティに到着してしまった為、時間が少し余ってしまったのだ。今からポケモンセンターに向かっても、すぐにはユキに会えないかも知れない。かと言って、時間を潰そうにもこれと言って何かしたい事はない。
「キュン……?」
仮に買い物に行こうとしても、少し微妙な時間だ。それならやはり、ポケモンセンターでユキが来るのを待った方がいいのではないだろうか。
「キュン!」
そうだ。ライブキャスターで連絡して、ユキのもとへ向かえばいいのではないか。おそらくユキはヒイラギシティにいるだろうし、合流するのも難しくないはず。それに、いつまでもユキの図鑑を持ちっぱなしと言うのも悪い。早いところ渡した方がいいだろう。
「キュンキュン!」
「……デンリュウ? どうかした?」
考えていると、デンリュウがサユリに何かを伝えようとしている事に気がついた。よく見ると、デンリュウはサユリの服を引っ張り、どこかに連れて行こうとしているようだ。
何かを見つけたのだろうか。
「……ひょっとして、ユキちゃんを見つけたの?」
「キュウ……」
サユリがそう尋ねるが、デンリュウの表情はどうも浮かない。ユキを見つけた訳ではないのだろうか。
デンリュウは何やらジェスチャーのような事をして伝えようとしているようなのだが、サユリにはよく伝わらない。首を傾げて考えていると、痺れを切らしたデンリュウがサユリの腕を引っ張って走り出した。
「ちょ……どうしたのデンリュウ!?」
半分引きずられるような形で、サユリはデンリュウについて行く。
片腕からウデッポウが落ちそうになるのを支えながらも、サユリはデンリュウに連れられてスズランシティの人混みの中を抜けてゆく。するとデンリュウは突然進路を変え、路地裏のような場所へと入っていった。
「で、デンリュウ! どこに行くの!?」
されるがままに、サユリは走る。
ヒイラギシティの路地裏。ジメジメとして薄気味悪いそこは、当然サユリは入った事がない場所。辺りを見渡す度に気味の悪さが際立ってきた気がして、サユリは少し怖くなる。デンリュウの腕を握る手にも思わず力が入り、地面を蹴る勢いも強くなる。早く抜け出したかった。
そして――。
「えっ……?」
走り続けていると、やがて視界が開けた。
サユリの目の前に見えるのは、赤い屋根の一際目立つ建物。その屋根にはモンスターボールをモチーフにしたロゴが施され、それがポケモンに関する施設だと言うのが一目瞭然だった。
ポケモンセンター。バトル等で傷ついたポケモン達の治療や、トレーナー達への様々なサポートを無償でしてくれる施設。サユリがユキと待ち合わせをしている場所に、間違いなかった。
どうやらあの路地裏を抜けると、こんな所に出るらしい。なろほど、あれは近道だったと言うわけか。ポケモンセンターに向かうには、いつもならばビルの周りを迂回しなければならず少し時間がかかるのだが、これなら早く到着できる。当然、サユリはこんな近道の存在など全く知らなかった。
「こんな近道があったんだ……」
「キュゥ……」
呟くサユリだったが、その横でデンリュウはなぜだかションボリと俯いていた。心配になったサユリが、デンリュウの顔を覗き込む。
そう言えば、デンリュウはどうしてこんな近道を知っていたのだろうか。突然サユリの腕を引いて走り出したデンリュウだったが、まさかこの近道を教えようとした訳ではないだろう。何かを慌てて追いかけているような、そんな感じだった気がする。誰かを追いかけている内に、ここまで来てしまったと言う事なのか。
「う〜ん……」とサユリは色々と考えてみたが、デンリュウが慌てて追いかけるような人物があそこにいたのだろうか。あの時はちょうど考え事をしていたので、周りの人はあまり見ていなかった。もう少し周りに気を配っていれば――。
「……おい」
「うわぁ!」
サユリが自分の記憶を探っていた、ちょうどその時。突然、背後から声をかけられた。
サユリの背後は、薄暗い路地裏。そんな方向から声をかけられるなど思いもしなかったので、サユリは思わず声を上げてしまう。飛び上がるくらいに身体を震わせてから、サユリは恐る恐る振り向いてみた。
「……こんな所で立ち止まるなよ」
そこにいたのは、一人の少年だった。
白いシャツの上に黒い半袖の上着を羽織り、下はベージュの長ズボン。頭は黒髪で体格はやや小柄。その雰囲気から考えて、歳はサユリと同い年か少し年上くらいだろか。
「あっ……ご、ごめんなさいっ!」
少年にジト目で睨まれ、サユリは慌てて頭を下げる。しかしその時、サユリはある事に気がついた。
「あれ……?」
この少年、以前にも会った事があるような――。
サユリはそんな感覚を覚え、それを確認する為に顔を上げる。その瞬間、確信した。
少年の傍らには、一匹のポケモンの姿があった。そのポケモンは、リョウラン地方では見かけないポケモン。けれどもサユリの脳裏に、強く印象が残っているポケモン。リュウジのバシャーモを打倒した、青いポケモン。ルカリオだった。
「昨日の……!」
ルカリオを連れている時点で、決定的だった。
昨日、リュウジとバトルした黒髪の少年。サユリの目の前にいるのは、彼に間違いなかった。
ビックリしているサユリを見て、少年は怪訝そうに目を細める。チラリとデンリュウの方へと目をやった所で気がついたのか、少年はピクリと肩を揺らした。
「お前……。あの時デンリュウを庇ってた奴か」
「キュン!」
黒髪の少年を見たデンリュウが、嬉しそうに鳴き声を上げた。腕をパタパタと揺らし、身体全体で喜びを表している。
どうやら、デンリュウはこの少年を追いかけて路地裏へと入ったらしい。デンリュウはサユリに近道を教えようとした訳ではなく、この少年のもとまで連れて行こうとしていたのだ。なるほど、あのジェスチャーはそう言う事だったのか。あの人混みの中で偶然にもこの少年を見かけ、それをサユリに伝えようとしていたようだ。
「う、うん……。昨日はごめんね……。迷惑だった、よね……?」
喜んでいるデンリュウの横で、サユリはモゴモゴとそう言った。
少年に睨まれているような気がして、サユリは思わず身を縮こませてしまう。なぜだか妙に緊張して、いつも以上に言葉が思い浮かばない。怒ってるんじゃないかと思うと、どうしても身を引いてしまう。そんなサユリの腕に抱かれたウデッポウは、少年とサユリを交互に見比べると居心地が悪そうにそっぽを向いてしまった。
こんなんじゃ駄目だ。もっとしっかりしないと。
そう自分に言い聞かせ、サユリはこの思いを払拭させようと試みた。
「……そのデンリュウ、お前のポケモンだったのか」
「えっ……!? あ、いや……あの時はわたしのじゃなかったんだけど、でも今は一緒に旅してて……その……」
そんな中、思いがけないタイミングで少年に声をかけられ、サユリはドギマギしてしまう。緊張していた。この少年に、話したい事が色々とあった。だけれど自分でも何を言っているのか分からないくらいに、会話の内容がごちゃごちゃになり始める。
取り敢えず、少し落ち着こう。サユリは短く深呼吸した後、話題を変えようとする。
「実はわたし……今朝ポケモントレーナーになったばっかりなんだ。でも昨日までずっと、トレーナーになろうかどうか、迷ってて……」
サユリがそう話し始めた直後、少年は何かを思い出したかのように一瞬だけ目を見開いた。
表情こそほとんど変化なかったが、少年から醸し出される雰囲気が少し張り詰めたものへと変わる。傍らにいたルカリオが少年の変化にいち早く気がついて、チラリと一瞥して彼の表情を伺う。
しかしサユリはそんな少年達の変化には気づかず、話を続けた。
「そんな時に、あなたのバトルを見て決心した。ポケモントレーナーになるって……。ポケモン達と仲良くなりたいって……」
サユリは細々と喋り続ける。何となく恥かしくて目を合わせる事はできないのだけれど、ただ自分の話を聞いて欲しかった。ポケモントレーナーになるきっかけを作ってくれた少年に、キチンとお礼が言いたかった。サユリの頭は、その事でいっぱいだった。
しかし。
「だから……わたしがポケモントレーナーになれたのは、あなたのお陰なの……。それで……わたしは……」
「……駄目だ」
――――えっ?
サユリの頭の中が、一瞬だけ真っ白になる。ついさっきまで色々な事でいっぱいだったのか嘘のように、サユリの思考がピタリと停止する。
突然少年が発した言葉。その意味が理解できず、サユリは何も言えなくなった。ただその場に立ち竦み、少年の顔を見据える事しかできない。それでも何とか、言葉を絞り出そうとしていた。
「駄目って、どう言う……」
「……お前は今すぐ、スミレタウンに帰れ」
威圧感。それを少年に向けられ、サユリは硬直してしまった。それまでの会話の流れからあまりにも逸脱した言葉に、サユリの勢いは抑制されてしまう。
少年が何を言いたいのか、サユリには分からない。その言葉にどんな真意があるのか、まるで見えなかった。
「ちょっと……待ってよ! 意味が……分からないよ……!」
「言葉通りの意味だ。これ以上、旅を続けるなと言ってるんだ」
単刀直入に突きつけられ、サユリの心臓がドクンっと高鳴る。目の前の少年にそんな事を言われたなんて信じられなくて、サユリ気づかぬ内に震え始めた。
しかし、こんな事を言われて、サユリも黙っていられない。
「どうして……。どうして、そんな事……!」
「これから先……お前は絶対にトレーナーを続けられなくなる。自分の無力さを痛感して、何もできない自分に憤りを覚えて……でも結局その後には何も残らない。だったら……最初からトレーナーになんてならない方がいい」
横でサユリと少年の様子を伺っていたデンリュウも、流石にこの雰囲気の変化に気がついたらしい。不安そうに鳴き声を上げつつも、サユリと少年の顔を交互に見比べる。
サユリは下唇を噛み締めた。
いくらきっかけを作ってくれた少年とは言え、彼にここまで言われて悔しかった。自分の決意を否定さたような気がして――。サユリは泣き出しそうになってしまう。
「そんな事、ないよ……。わたしは……」
「……なら、お前には力があるのか?」
「ち……から……?」
「ポケモンを……デンリュウを守る力だ。それがあるのか?」
デンリュウを――守る? 何の事を言ってるの――?
少年が何の事を言っているのか、サユリはいよいよ分からなくなってきた。デンリュウを守る力とは、一体何の事なのか。トレーナーとしての力量の事を言っているのだろうか。
思い返してみれば、自分はデンリュウの力になれてないのではないか、と思えてきた。リュウジに狙われた時だって、結局はほとんど何もしていない。さっきのペリッパーの時だってそうだ。トレーナーであるはず自分が焦ってしまって、何もできなかった。もしもウデッポウが助けてくれなかったら、今頃どうなっていたのだろうか。
確かに、サユリはまだ弱い。ポケモンバトルの才能だって、ほとんど無いのかも知れない。
それでも、サユリは――。
「わたしだって……心に強く決めてポケモントレーナーになったんだよ……! そう簡単に、諦められるはずがないよっ!」
サユリは少年の忠告を聞くつもりはなかった。
この少年が何を考えてあんな事を言ってきたのか。サユリにはよく分からない。しかしどんな理由があるにせよ、サユリはこのままスミレタウンに帰る訳にはいかないのだ。
もう迷わない。後戻りはしない。そう決意して、サユリはポケモントレーナーになった。いくらきっかけを作ってくれた少年と言えど、そんなサユリの決意を曲げていいはずがない。
サユリに真っ直ぐな瞳を向けられ、少年は黙り込む。しかし少年の感情はウデッポウ以上に表情に現れておらず、怒っているのか、呆れているのか、それすらも読み取れなかった。それは彼の傍らのルカリオも同様で、ジッと黙り込んだまま鳴き声一つ上げようとしない。
何とか言って欲しかった。だんまりを決め込んで欲しくなかった。サユリが心に決めた事を、その胸に抱く思いを、分かって欲しかった。
サユリはデンリュウを見る。不安そうな表情をしたデンリュウは、サユリを案じるように鳴き声を上げる。すると抱かれていたウデッポウが、何かを伝えようとその瞳をデンリュウに向けた。
ウデッポウの視線を感じ、デンリュウも視線を落とす。ウデッポウは何も言わずに、ただデンリュウに視線を送り続ける。そんなウデッポウを見ている内に、デンリュウは何となくその気持ちを感じ取ったようだった。
「キュウ……」
デンリュウは何かに迷うように俯くが、しかしすぐにその迷いを払拭するかのように首を振る。しっかりとした目つきで、デンリュウはサユリを見つめた。
「キュウっ!」
「デンリュウ……?」
ドンっと自分の胸を叩きつつも、デンリュウは鳴き声を上げた。サユリに向けるのは、いつになく真剣で真っ直ぐな瞳。折れそうになるサユリを支えてくれるような、そんな思いが伝わってきた。
そう。そうだった。
ここで引いちゃ駄目だ。思いをぶつければ、この人だってきっと分かってくれるはずだ。
「わたしは……」
サユリは少年を見る。意を決すると、静かに口を開いた。
「……わたしとポケモンバトルして」
「なんだと……?」
「あなたの言う力が、わたしにあるかどうか……。それをバトルの中で証明する!」
突然サユリに提案され、少年は面食らったように黙り込んだ。今朝トレーナーになったばかりの少女に、まさかポケモンバトルを挑まれるとは思ってもみなかったのだろう。
この少年に勝てるとはまず思えない。そもそもバトルにならないかも知れない。それでも、サユリは逃げない。ポケモントレーナーなら、バトルで分かり合う事だってできるはずだ。自分のポケモンに対する気持ちだって、伝えられるはずだ。だからサユリは、少年にポケモンバトルを挑んだのだ。
「……分かった」
しばらく考え込んでいた少年だったが、やがて小さく頷く。
「……バトルしよう」
―――――
ちょっと軽率な判断だったかも、とサユリは心の隅で密かにそう思っていた。思えばポケモンバトルはこれが初。しかも相手はかなり実力を持つトレーナー。サユリは余計に緊張して、動きが固くなっていた。
サユリ達はポケモンセンターの隣に設けられたバトルフィールドを訪れていた。作りは非常にシンプルで、スミレタウンの物とそう大差ない。しかしあの時サユリが立っていたのは、観客のためのスペース。こうしてトレーナーとしてバトルフィールドに立ったのは、生まれて初めてだ。いざここに立ってみると、目の前に広がるのは想像とは大きく違う世界だった。
「……やるしかない」
緊張で身体が震えそうになるのをグッとこらえ、サユリは前を向く。フゥーっと深呼吸すると、その目でしっかりと少年を見据えた。
「……お前の手持ちポケモンはその二匹だけか?」
サユリが緊張をほぐそうとしていると、先ほどと変わらないトーンで少年がそう尋ねてくる。
彼の言う通り、サユリの手持ちにはデンリュウとウデッポウの二匹しかいない。無言のまま、サユリは小さく頷いた。
「……そうか。それなら……」
そう言うと少年は、バッグの中から一つのモンスターボールを取り出した。
「……俺はコイツ一匹だけでバトルする。コイツが戦闘不能になった時点で、お前の勝ちでいい」
「二対一……って事……?」
わざわざボールを取り出したと言う事は、少年はルカリオとはまた別のポケモンでバトルするらしい。しかも自分が使うポケモンは、一匹だけでいいと言うのだ。
初心者であるサユリに対しての、せめてもの配慮と言う訳か。それとも、お前など一匹だけで十分だと言う事なのだろうか。
二対一。これでサユリでも少しはマシにバトルできるのだろうか。いや、そんな不安を抱いてはいけない。トレーナーになったからには、バトルしてくれるポケモンの為にも弱気になってはいけないのだ。
変な負け方だけは、絶対にしない。そう心に強く思い、サユリは前を向く。
「……行け、ピカチュウ」
少年が投げたボールの中から、一匹のポケモンが飛び出した。
黄色い身体のポケモンだった。体格はウデッポウくらいの大きさだろうか。ややずんぐりとした体型をしており、瞳は丸く、頬には赤い電気袋を持っている。背中には茶色い二本の縞模様があり、尻尾の形はギザギザでどことなく電気を彷彿させた。
この小さなポケモンの事は、サユリもよく知っている。全てのポケモンの中でも特に有名で、その容貌からか人気も非常に高い種族である。
ねずみポケモン、ピカチュウ。デンリュウと同じく、でんきタイプのポケモンだった。
「ピカッ!」
ピリピリと頬の袋に電気を帯せながらも、ピカチュウは鳴き声を上げる。少年がボールから出した途端にピカチュウは臨戦態勢に入っており、いつでもバトルが始められるような状態だ。流石はあの少年のポケモン。バトル慣れしている。
(どうしようかな……)
サユリはデンリュウ達を見る。デンリュウとウデッポウ、どちらをバトルに参加させるべきか。
少し考えた後、サユリはウデッポウを参加させる事にした。ペリッパーからサユリ達を助けようとしてくれた時の姿から考えて、ウデッポウは少なくともデンリュウよりはバトル慣れしているはず。バトルが苦手のデンリュウを無理して参加させるより、慣れているウデッポウを選ぶ方が得策だと、サユリは考えた。
「……ウデッポウ、お願いできる?」
抱えていたウデッポウを降ろし、サユリはそう尋ねてみる。ウデッポウは鳴き声こそ上げなかったが、サユリから目をそらすと自分でバトルフィールドへと入ってくれた。
ついさっき出会ったばかりのウデッポウ。そんな彼が、サユリに答えようとしてくれる。その姿を見ていると、自分も頑張らなきゃと言う使命感が一段と強くなった。
「……そいつでいいのか?」
「えっ……? う、うん……」
チラリとウデッポウを一瞥した後、少年はサユリに確認する。突然そんな事を聞かれ、サユリは困惑した。
何かマズかったのだろうか。サユリの中では、この選択が一番に思えたのだが。
サユリが小さく頷くと、少年はそれ以上は特に追求しなかった。一体、少年は何を思っていたのか。結局それは分からず終いで、サユリの中にはモヤモヤとしたものだけが残る。
しかし、今は取り敢えずそんな事は気にしない事にした。ちょっとでも気を抜いたら、一瞬でやられてしまうかも知れない。バトルに集中しなければ。
「さて……始めるか。来いっ」
「い、いくよ……!」
少年の掛け声に、サユリは呼応する。
サユリにとって、これが正真正銘、初めてのポケモンバトル。野生のポケモンとのバトルの経験も殆んどなしに等しいサユリは、正直何をどうするのが適切なのかよく分からなかった。
取り敢えず、見よう見まねでやるしかない。昨日見たリュウジと少年とのバトルでは、お互いに自分のポケモンに技の指示を出していた。確か、ポケモンバトルにおけるトレーナーの役割は、ポケモンへの技の指示が基本となるはず。
何か、何か指示を出さなければ。ウデッポウが使える技は――。
「う、ウデッポウ! “みずでっぽう”!」
サユリがそう声を上げると、ウデッポウはすぐさま右腕の鋏をピカチュウに向ける。素早く標準を微調整すると、ウデッポウは鋏から“みずでっぽう”を放った。
ウデッポウが放つ“みずでっぽう”は、真っ直ぐに標的であるピカチュウに向かって飛んでゆく。スピードもかなり速く、このままいけばピカチュウに着弾するのは確実のように見える。しかし、そう上手くはいかなかった。
「……ピカチュウ」
「ピカッ」
少年がボソリと呟いた直後、ピカチュウは素早くサイドステップをとった。そのタイミングは絶妙で、本当に“みずでっぽう”が直撃するスレスレの瞬間。ギリギリまで引きつけて、尚且確実に回避する。そんな事を、少年のピカチュウはやってのけた。
瞬時に“みずでっぽう”を回避した後、ピカチュウは反撃へと転換した。着地と同時にピカチュウは地面を蹴り、一気に加速してウデッポウへと急接近する。
「う、うわっ! ウデッポウ、もっと“みずでっぽう”!」
接近してくるピカチュウを見て、サユリは慌ててウデッポウに指示を出す。ウデッポウはそれに答えようとして、ピカチュウに向けて“みずでっぽう”を連続で発射し始めた。
ぶしゅっと音を立てながらも、発射された“みずでっぽう”は次々と着弾する。が、それのどれもが
ピカチュウには直撃しておらず、ただ水たまりを作るだけに終わってしまう。ピカチュウは高速で接近しつつも、的確に攻撃を回避しているのだ。
さっきのキャモメ達の比ではない。このピカチュウの実力は、サユリの想像を遥かに超えるものであり――。
「……ピカチュウ」
あっという間に接近されて、少年は次なる指示をピカチュウに出そうとする。サユリも急いで何か指示を出そうとするが、あまりにも遅すぎた。
「“ほっぺすりすり”」
「ピィカ!」
ほぼゼロ距離まで接近したピカチュウは、自信の頬をウデッポウに擦りつけた。帯電した頬を擦るとその度にバチバチと電流が流れ、それが容赦なくウデッポウを襲う。今まで感じた事のないような衝撃がウデッポウの身体に走り、彼は苦痛のあまり目を強く瞑ってしまった。
「ウデッポウ!」
サユリがそう叫ぶとほぼ同時に、ピカチュウはウデッポウから離れた。未だに頬にバチバチと電気を帯せながらも、ピカチュウはピョンっと大きく飛び退く。そのに残されたウデッポウは、ガクガクとかがみ込んでしまっていた。右の鋏を地面に突き立てて立ち上がろうとするものの、身体が上手く言う事を聞いていないように見える。致命的なダメージは受けていないようだが、確かな異変がウデッポウに現れていた。
「ウデッポウ……! 大丈夫……?」
「……“ほっぺすりすり”はでんきタイプの技だ」
サユリがウデッポウの身を案じていると、少年は静かに説明を始める。その声を聞き、サユリは反射的に耳を傾けた。
「……威力は低いが、帯電した電気袋から対象へ直接電流を流し込む事ができる。それに加えて、ほっぺを擦る際に発生する静電気……。それを受けた今のウデッポウの身体は、痺れて動きが制限されてるだろう」
「そ、そんな……」
「それに、タイプの相性も悪い。みずタイプのウデッポウは、でんきタイプの技に弱い……」
サユリは身体が崩れるかのような感覚を覚えた。
“ほっぺすりすり”による身体の麻痺により、状況は圧倒的に不利。そもそもあそこまですばしっこく動かれたのでは、身体が麻痺していなくても“みずでっぽう”を当てるのは難しい。
そう。始まる前から勝負はついていた。サユリのウデッポウと少年のピカチュウの間には、あまりにも大きすぎる実力の差があったのだ。
「とどめだ……。ピカチュウ」
少年がそう呼ぶと、ピカチュウの頬の袋からさらに多くの電気が溢れ出す。次なる技を放つ準備は、既に整っていた。
「ウデッポウ……。と、とにかく反撃しよう! “みずでっぽう”!」
「……ッ!」
サユリが指示を出すが、ウデッポウは立ち上がる事すらままならない。身体が痺れて動けないのだ。無理矢理身体を動かして何とか技を放とうとするものの、やはり麻痺には勝てず――。
「……“エレキボール”だ」
ピョンっと高くジャンプすると、ピカチュウは電気エネルギーを一点に集中させ、球状へと変化させる。身体をクルリと回転させると、自身の尻尾を上手く使って“エレキボール”を打ち出した。
刹那、耳を覆いたくなるような爆音が、辺りに響く。ピカチュウの“エレキボール”は、麻痺しているウデッポウに直撃した。
「ウデッ……ポウ……!」
爆風が容赦なく襲いかかり、サユリは思わず顔を背ける。ピカチュウの“エレキボール”をまともに受けたウデッポウは、完全に意識を失っていた。
慌てて駆け寄ると、サユリはウデッポウを抱きかかえようとする。ウデッポウに触れるか触れないかの所で、バチリと音を立てて電気が流れ込んできた。
「うっ……」
サユリは慌てて腕を引っ込める。ピカチュウから放たれた電気が、ウデッポウに帯電してしまっているのだろうか。
「……気を失っているだけだ。ポケモンセンターに連れていけば、すぐに回復できる」
そんなサユリを見ながらも、少年は淡々とそう告げた。
そうは言っても、本当に大丈夫なのだろうか。元々でんきタイプでないウデッポウの身体に、こんなに電気が溜まってしまっている。何か身体に悪影響を及ぼすのではないかと、心配になってきた。しかし。
「……?」
「ウデッポウ……? 大丈夫!?」
サユリが見ているその前で、ウデッポウはもぞもぞと動き始めた。パチリと目を開き、ボンヤリとだがサユリを見つめ返しえくれる。意識が戻ったようだ。
ウデッポウの安否が確認できて、サユリは心底ホッとした。このまま目を覚まさなかったらどうしようと考えると、不安で仕方なかったのだ。未だに心臓の鼓動は早かった。
「ゴメン……ウデッポウ……。わたしのせいで……」
「…………」
「……ありがとう。ゆっくり休んで」
震える身体で鞄からモンスターボールを取り出すと、サユリはウデッポウをその中に戻す。
自分がこんなに頼りないから、ウデッポウをこんな目にあわせてしまった。そう考えると申し訳ない気持ちでいっぱいになって、サユリは気づかぬうちにギュッとモンスターボールを握りしめる。
「……まだ続けるのか?」
小さく縮こまるサユリに向かって、少年はそう問いかける。ドクンとまた大きく心臓が鳴って、サユリはおもむろに立ち上がった。
「わたし……わたしは……」
泣き出しそうになりながらも顔を上げると、すぐにデンリュウの姿が目に入る。サユリとウデッポウの身を案じてか、表情は暗い。
(まただ……)
また、自分はデンリュウの表情を曇らせてしまった。トレーナーなのに、自分がしっかりしないといけないのに。
こんなんじゃ――トレーナーになった意味がないじゃないか。ポケモン達に心配ばかりかけて、それで本当にトレーナーなんて名乗れるのか。
――違う。こんなの、絶対に違う。
「キュウ!」
「デンリュウ……」
「キュンキュン!」
「……そうだよね。まだ諦めるのは早い……よね」
うんっと小さく頷くと、サユリは涙をこらえて少年の方へと振り向く。冷たい視線を少年に向けられ、気圧されそうになる。しかし、サユリは逃げなかった。
「デンリュウ……行こうっ!」
「キュゥン!」
身体の震えを必死に抑えようとしながらも、サユリは前を向く。彼女の隣に立つデンリュウも、いつも以上に真剣な眼差しで少年とピカチュウを見据えていた。