2. 旅立ち、初めてのポケモン
スミレタウンには、ポケモン研究所と呼ばれる施設がある。港から徒歩で五分程進んだ所に設けられているその施設は、文字通りポケモンの生態調査、及び研究を行う事を目的としている。
ポケットモンスターと呼ばれる生き物は、まだまだ解明されていない部分が多い。例えば、『進化』と呼ばれる現象。成長の過程で一定の条件下に置かれるとポケモンの姿が急激に変化し、より強力な個体へと変化する事がある。これが進化であるが、実はどのような原理でこのような現象が起きているのか良く分かっていないのだ。しかもその特定の条件下と言うのも曖昧であり、一節ではバトルが大きく関係していると言われているが――。
進化以外にも、ポケモンはまだまだ分からない事が多い。それらを解明する為に、日夜ポケモン研究者達が、様々な研究や調査に明け暮れる。それが、ポケモン研究所である。
と、これだけ聞くとトレーナー志望のサユリ達とはあまり関係ない施設のように思える。しかし、実は研究所は新人トレーナーにとってなくてはならない存在なのだ。
トレーナーを志望すると言っても、誰もが急になれる訳ではない。最低限の知識や、パートナーとなるポケモンも必要となるだろう。そのような新人トレーナーのサポートをしてくれる場所が、ここポケモン研究所である。
初めてのポケモン。それは大切なパートナーとなり、最も多くの時間を共に過ごす存在。初めてのポケモンを受け取る時とは、トレーナーにとって他のどんな事にも変えられない最高の瞬間だ。サユリ達も明日、ここでポケモンを受け取る事になっていた。
リュウジからデンリュウを助けた後、サユリ達はポケモン研究所を訪れていた。怪我をしているデンリュウを手当し、保護して貰う為だ。
ポケモンの怪我の治療と聞けば、真っ先にポケモンセンターと呼ばれる施設が思い浮かぶだろう。無料でポケモンの怪我や病気の治療を受け入れてくれ、さらにトレーナーには様々なサポートまでもしてくれる便利な施設である。
だが、何もポケモンを治療する事ができるのはポケモンセンターだけではない。このポケモン研究所は、ポケモンセンターとほぼ同等の設備で、ポケモンの治療等を行ってくれるのだ。デンリュウを救出した場所からは、ポケモンセンターよりも研究所の方が圧倒的に近かったため、サユリ達はここを訪れたのだった。
「すいませーん!」
普通の民家などと比べると、圧倒的に大きなドーム状の建物。その土地もかなり大きく、建物には広い庭までもがついていた。保護したポケモン達を、放す為のスペースだろう。
研究所の自動ドアをくぐると、ユキは適当な人に声をかけた。
その研究所の一室には、白衣を着た研究員が何人か見受けられた。数匹のポケモンを観察し、何かをレポート用紙に書き込む者。何冊もの本で熱心に調べ物をする者。パソコンを操作してデータを整理する者。皆せわしなく動き回っており、忙しそうだ。
「あれ? ユキちゃんに、サユリちゃんじゃない。どうしたの? こんな時間に」
そんな中、一人の女性がサユリ達に気づき、声をかけてきた。
他の研究者と同じく白衣を着た女性で、なかなかの長身である。顔つきは若く、サラリとした綺麗な髪が清潔感を感じさせる。かなり美人で、人の良さそうな女性であった。
「こんにちは、ヤガミ博士」
「はい、こんにちは〜」
サユリがペコリと頭を下げると、その女性は笑顔で答えてくれた。
この女性は、ヤガミ アカリ博士。ここ、ポケモン研究所の所長にあたる人物だ。
弱冠十九歳の頃に博士号を習得、二十四歳となった現在は一つの研究所の所長に就任する程のいわゆる天才である。また、彼女の書いた論文は世界的に有名なポケモン研究の雑誌に何度か掲載された事もあるらしく、最早ヤガミ アカリと言う名は世界中で知られているようだ。リョウラン地方を代表とする、ポケモン博士の一人だった。
サユリ達はこのヤガミ博士から初めてのポケモンを貰う事になっているのだが、勿論それは明日の事である。ヤガミ博士から見れば、前日である今日のしかも日の傾き始めた夕暮れ時にサユリ達が研究所に訪れたのは意外だったらしい。少し不思議そうな表情をしていた。
「え……と。実は、この子を診てほしいんです」
ヤガミ博士に自分達の目的を説明すべく、連れてきたデンリュウを前に出した。
だいぶ遅くなってしまったが、これでようやくデンリュウの怪我を直してあげられる。ヤガミ博士に頼めば心強い。
「この子……デンリュウ……! サユリちゃん達のポケモン……じゃないわよね? 一体どうしたの?」
「あの……それが……」
サユリとユキは、これまでのいきさつを話した。
リュウジがデンリュウを捕まえようとしていたこと。助けようとしたサユリが飛び出していったこと。見知らぬトレーナーを巻き込んでしまい、ポケモンバトルに発展してしまったこと。――ユキが執拗にリュウジに対する文句を言っていた事が気になったが。
「なるほどぉ……リュウジがねぇ……。まだそんなこと続けてたんだぁ……」
サユリ達の説明を聞き終わったヤガミ博士が、フラフラと歩き出しながらそう言った。ヤガミ博士から醸し出される雰囲気が何やら物々しいものに変わり、場の空気が急に張り詰める。
サユリは背筋に寒気を感じた。ヤガミ博士の変貌っぷりを前に、サユリは何も言わずに立ち竦むしかない。リュウジが人のルカリオを勝手にバトルの景品にしたと話した所あたりから、ヤガミ博士の雰囲気は変わり始めていた。下手に刺激するとよくない事が起こりそうな、そんな雰囲気だ。
やがて博士が辿りついたのは、本棚の前だった。人の背丈ほどある木製の本棚で、そこにはポケモンに関する本がびっしりと詰まっている。まさにポケモン研究所だと言える本ばかりであり、基本的に調べ物をする際に利用するものだった。
フラフラとその本棚に向かったヤガミ博士であったが、どうやら調べ物をする訳ではなさそうだ。拳を握り、腕を大きく引き、さらに腰を捻って――。
ドガンッ!
勢いよく本棚を殴りつけた。研究所中に響くほどの大きな音を上げ、壁に固定されているはずの本棚がユラユラと揺れているようにも見える。そのあまりに大きな衝撃のため、本棚が固定されている壁ごと小刻みに振動しているのだろう。
その直後、本棚に詰め込まれていたいくつか本が、バタバタと崩れだした。後ろから力を加えられたかのように本棚から飛び出し、散乱してしまった本もいくつか確認できる。よく見ると、殴られた本棚の部分には少しヒビが入っているようだ。
どこぞのチンピラもビビって逃げ出しそうな、そんな凄まじいパンチを本棚にぶちかましたヤガミ博士が、ボソリと呟く。
「あの野郎……。あとで絶対シメるわ……」
サユリ達と話していた時とは別人のような、そんな剣幕でヤガミ博士は歯ぎしりする。本棚を殴りつける後ろ姿を見ていただけでも、こっちが失神しそうな勢いだった。
そんなヤガミ博士を診て、サユリが思った事は一つ。
(こ……こわい……)
ここ最近いくつかの問題を起こし、かなり評判が悪い少年、リュウジ。彼はヤガミ博士の弟である。
リュウジは強力なポケモン、珍しいポケモンを収集するのを趣味としているようで、気に入ったポケモンはかなり強引な手を使っても手に入れようとするのだ。そしていらなくなったポケモンは、簡単に見捨て、切り捨てる。そんな事を繰り返している内に、彼の周囲からの印象は最悪になる。
真面目で研究熱心、さらには有名なポケモン博士であるヤガミ博士とは真逆の、ひねくれた少年となってしまっていた。
そんなリュウジに、姉であるヤガミ博士もかなり手を焼いている。すでに両親はどちらもいないため、弟よりも年の離れたヤガミ博士はほとんど親代わりだ。しかしポケモン博士としての努めと弟の世話の両立はまだ若いヤガミ博士にとって難しい事らしく、変なところで不器用である彼女はあまり上手くいっていなようだ。
今日もまた、こうして本棚に八つ当たりしながらも、弟との接し方を手探りで探すヤガミ博士なのだった。
「は……博士……! あんまり本棚を壊さないで下さい……。修理代もバカにならないんですから……」
「……あ。ごめんさい、つい……」
音を聞いて駆けつけた若い男性研究員が、慌てた様子で言った。我に返ったヤガミ博士も慌てて腕を引っ込めるが、どっちみち本棚は修理が必要なくらい破損してしまってる。凄まじいパンチ力だ。
実はヤガミ博士は以前に格闘技をやっていた事もあるらしく、このパンチ力はその時に身につけたものだとか。
いきなり目を疑うような光景を見せつけられ、驚いたデンリュウは慌ててサユリの後ろに隠れてしまった。
「さすがヤガミ博士……。全然ブレませんね、そのパンチ……」
「あははは……。ごめんなさいね……。驚かせちゃったかしら?」
もはや尊敬してしまっているユキと、笑って誤魔化そうとするヤガミ博士。真面目そうな男性研究員は、思わずため息をついていた。
「そ、そんな事よりっ! ……あなた達には謝らなきゃね。ウチのリュウジがまた迷惑かけたみたいで……あとでしっかり言っておくから!」
「あ……い、いえ……! 元はと言えば、わたしが勝手に飛び出した事が原因ですから……」
強引に話を戻したヤガミ博士を前に、サユリはオロオロする。相変わらずのお人好しなサユリは、リュウジを責めようとはしなかった。
誰かに責任を押し付けたり、誰かのせいにしたりするなんて、サユリにはできっこない。昔から、サユリはそうだった。いつも自分にばかり責任を感じて、本当は怖がりで寂しがり屋なくせに何でも背負い込もうとする。サユリが何をやっても空回りしてしまう理由は、そこにあったのかも知れない。
サユリは優し過ぎる。けれどもその優しさのお陰で、デンリュウはこうして助かったのだ。だからそれは、決して間違った気持ちではない。自分は何もできないと、サユリは気に病む必要なんてなかった。
「さて、と。それじゃ、デンリュウは預かるわね。見た感じ怪我はそれほど酷くなさそうだから、直ぐに元気になると思うわよ」
「は、はいっ! よろしくお願いします」
ヤガミ博士は笑顔でそう言うヤガミ博士に、ぎこちない口調でサユリは答えた。
取り敢えずデンリュウの怪我はすぐによくなりそうなので、ホッと一安心だ。恐らく、明日までには元気な姿を取り戻しているだろう。
だが、ここで問題が一つ。デンリュウは、未だにヤガミ博士を怖がっているようだ。サユリの背後に隠れて縮こまり、ヤガミ博士の前に姿を現そうとしない。
目の前でいきなりあんなものを見せられて、怯えてしまうのも無理はないだろう。そんなデンリュウの反応を見て、さすがのヤガミ博士も困った顔をしている。
デンリュウとヤガミ博士を交互に見比べたあと、サユリはデンリュウに優しく言葉をかけた。
「……大丈夫だよ。ヤガミ博士はいい人だから」
その言葉が通じたのか、はたまたサユリの思いを何となく感じ取ったのか。恐る恐るだが、デンリュウは顔を出した。デンリュウの視線がヤガミ博士のそれとぶつかり、彼女は笑顔で受け止める。
「キュゥ……?」
ヤガミ博士の笑顔を見て、デンリュウは警戒心を解いてくれたらしい。サユリの背後に隠れる事を止め、自分で姿を見せる。恐る恐ると言った感じだったが、差し出されたヤガミ博士の手をしっかりと握ってくれた。
こうして見ると分かるが、このデンリュウはかなり臆病な性格のようだ。その上、リュウジのバシャーモ相手に成す術なくやられていた所を見ると、バトルは得意な方ではないのだろう。そもそもリュウジのエースであるあのバシャーモじゃ、相手が悪かったとも言えるが。
スイレンタウンの町中にいたので、てっきり他のトレーナーのポケモンではないかと思っていたが、どうも違う気がする。やはり運悪くどこからか迷いこんでしまったと考えるのが正解か。
「ふぅ……。それじゃ、あたし達はそろそろ帰ろっか?」
ユキにそう声をかけられ、サユリは現時刻を確認する。現在、午後五時三十分。全く気にしてなかったが、あれからかなり時間は経過していたようだ。夏なので日は長く、窓の外を見てもまだそこそこ明るい。そのせいで余計に気づきにくくなっていたのだろう。
「……うん。そろそろ帰ろうか」
「あれ? もう帰っちゃうの? もっとゆっくりしていってもいいのよ」
デンリュウを預けて早々に引き上げようとするサユリ達を見て、ヤガミ博士は遠慮しなくてもいいと声をかけてくれる。気持ちは嬉しかったが、このまま長居をするのも悪い。他の研究員達も忙しそうなので、これ以上迷惑をかける訳にはいかなかった。
「皆さん忙しそうですし……わたしたちはもう帰ります。明日の準備もありますので……」
「そっか……。ん? 明日の準備って事は……。サユリちゃん、もう決めたの?」
ヤガミ博士にそう問われ、サユリは小さく頷く。
「わたし、トレーナーになります。トレーナーになって、もっとポケモン達と仲良くなりたいんですっ!」
いつも以上に真っ直ぐなサユリの瞳を見て、ヤガミ博士はこみ上げてくるものを感じた。
サユリの事は、ヤガミ博士もよく知っている。あまりにも素直で、生真面目すぎて、それゆえに自分の気持ちをはっきりと表に出せない事が多かった。自分は何もできないと思い込み、ひどく自身をなくしている時もあった。そんな彼女が、今はこうしてしっかりと自分の夢を口にしている。
そんなサユリを見て、ヤガミ博士は何だかほっこりとした気持ちになった。
「……そうっ! それじゃ、また明日! 遅刻しちゃダメよ?」
―――――
「良かったですね。サユリさん、トレーナーになるって決めてくれて」
去ってゆくサユリ達を見送るヤガミ博士の傍らで、その男性研究員はそう言った。
彼はサユリ達とは深い関わりは無かったものの、ヤガミ博士からよく話は聞いていた。どんな道を選ぶのかと、実は密かに気になっていたようだ。トレーナーになると決めたと聞き、ホッと一安心していた。
「ヤガミ博士……?」
何となく声をかけたつもりだったが、予想に反してヤガミ博士は反応してくれなかった。何かあったのかと思い、彼はヤガミ博士の様子を伺う。
どうやら片手で口元を抑え、何か考え頃をしているようだ。男性研究員が声をかけても気づいていないようで、視線さえも向けてくれない。
「……あぁ、ごめんなさい。どうかした?」
ようやく気づいてくれたようで、反応を見せてくれた。が、いつもとどこか雰囲気が違うと言う事は、何となく感じ取れた。
妙に気になり、直接聞くかどうか少し迷ったが、男性研究員は思い切って声をかける事にした。
「どうしたんですか? 何か考え事ですか?」
「う〜ん……。まぁ、ちょっとね」
やはりどうも歯切れが悪い。サユリ達が帰った途端、この様子だ。
何か気になる事でもあるのだろうか。もしそうなのだとしたら、それはサユリ達についてなのだろうか。それとも、何か別の事?
アレコレ疑問に思ったが、彼が聞く前にヤガミ博士から声をかけてきた。
「……ねぇ。あなたはさっきサユリちゃん達が言ってたこと、どう思う?」
「……サユリさん達が言っていたこと、と言いますと?」
「…………メガシンカを使う男の子のこと」
今度は男性研究員が考え込む番だった。
メガシンカを使う少年――。リュウジとバトルし、いとも簡単に勝利したと言っていた、あの少年だ。どんな少年かは知らないが、ただのポケモントレーナーではない事は確かだろう。
この目で直接見た訳ではないので勝手に言うのもなんだが、彼の意見は一つだった。
「正直……僕は信じられませんね。サユリさん達と同い年くらいの少年が、『メガストーン』を持っているなんて……。そもそも、リョウラン地方でメガシンカが起きたなんて事例、聞いたことありませし……」
メガシンカには、メガストーンと呼ばれる特殊な石が必要だ。非常に希少な石であり、その存在はリョウラン地方では一つも確認されていない。そんな物を、ただの少年が持っているなんて考えられないのだ。
あるいは、少年は他地方から訪れたと考える事もできるが――。それでもリョウラン地方でメガシンカを成功させた理由が説明できない。
メガシンカは近年発見されたばかりの新たな現象であり、不明確な部分があまりにも多いものではあるが――。少なくとも、これまでにリョウラン地方およびその周辺でメガシンカが確認された事は一度もないはずだった。
そう。原因は不明だが、リョウラン地方周辺ではメガシンカが発動できないのだ。メガシンカ成功の事例はカロス地方が大半であるが、少量だが他地方でもその存在は確認されている。しかし、リョウラン地方は違う。カロス地方からメガストーンを持ち込んで発動を試みた事があるようだが、なぜだか成功しなかったと言うのだ。
リョウラン地方には、メガシンカを妨げる何かがある――。そう言った意見もあるが、真実は何も分かっていない。
だが本当にリョウラン地方でメガシンカをする事が不可能だとしたら、サユリ達が見たものは何だったと言うのだろうか。本当に、メガシンカだったのだろうか。
謎は深まるばかりだった。
「……そうよね。やっぱりそう思うわよね」
冷めた笑みを浮かべながらも、ヤガミ博士はそう言った。何か思う所があるけれど、強引に納得させようとしている。そんな風にも感じられる笑み。
何かを知っているのだが、それを心の奥底に隠そうとしているのではないだろか。男性研究員はそう感じてしまったが、なぜだかこれ以上追求してはいけないような気がしていた。これ以上詮索してしまったら、良くない事が起こりそうな――。そんな気がして、彼は口をつむいでしまう。
「ルカリオを連れた男の子、か……。まさかね……」
しかし、最後にヤガミ博士がそう漏らしたのを、彼は聞き逃さなかった。
―――――
顔を洗って歯を磨き、寝癖の髪を直す。鏡の前でよくとかしたあと、他に乱れている所がないか確認した。
いつも通りの赤髪は、自分が納得できるくらいに揃えられている。よしっと小さく頷いたあと、サユリはお気に入りの帽子をかぶった。
昨日。デンリュウを研究所に預けた後、ユキと別れたサユリは真っ直ぐ家に帰っていた。
トレーナーになると決めたからには、色々と支度が必要だ。迷っていた頃も一応準備は進めていた為、残っていたのは細かな事だけだったが、念のため早めに家に帰っていたのだ。
昨日は少し早めに寝た為、朝の寝起きはバッチリだ。こうして余裕を持って身支度も完了したし、旅立ちの朝にしては上々だろう。
この後サユリは研究所に向かい、初めてのポケモンを受け取る事になる。その瞬間から、彼女はポケモントレーナーとなるのだ。正直、まだ実感はない。けれども、身体の奥底からこみ上げてくる不思議な感情を、サユリは確かに感じていた。
「……そろそろ行こうかな」
洗面所から飛び出したサユリは、一度自分の部屋へと向かった。
昨日までに予めまとめておいた荷物を持ち、その後に自分の部屋を見渡してみる。これからしばらくここを留守にすると思うと、少しシミジミとしてきた。
しかし、もう後戻りはしない。もう迷わないって、そう決めたから。
荷物を持ったサユリは、ガチャリと部屋のドアを開く。部屋を出たあともそのまま振り返ろうとせず、バタンとドアを閉めた。
「……行くのか?」
部屋から出てきたサユリに、そんな言葉が投げかけられた。
ふと振り向くと、そこにいたのは一人の少年。サユリと同じ、赤髪の頭。体格はやや小柄な方で、サユリとそう変わらないほど。雰囲気は大人びているが、顔つきにはまだ幼さが残っており、その歳はサユリより年下である事が見受けられる。
「うん……。もう行くね」
そんな少年に対し、サユリは短くそう答えた。
この少年の名は、ユウト。サユリの弟であり、歳は彼女より一つ年下の十三歳である。少し目つきは鋭いがリュウジのように不良と言う訳ではなく、むしろ素直で人の良い少年だった。その目つきのせいで、たまに勘違いされてしまう事もあるようだが。
ちなみに、彼は手先が非常に器用であり、十三歳でありながら料理や洗濯と言った家事全般をテキパキと熟す事ができるのだ。不器用なサユリとは大違いである。
「そうか……。それにしても、まさかあの姉ちゃんがトレーナーになるって言い出すなんてなぁ……。正直、まだちょっと驚いてるよ」
「あはは……。そんなに驚くことかな……?」
ユウトに言わせれば、サユリがトレーナーになる姿なんて想像できないらしい。以前までの普段のサユリを間近で見続けていた為、ユウトだからこそ思うものがあるのだろう。
「ポケモントレーナーになるっ!」と打ち明けたサユリの姿を思い出してユウトは本当に信じられないような顔をしており、サユリはただ笑って答える事しかできなかった。
「でも、ユウトが驚くのも無理ないかもね……。正直に言って、わたしもまだちょっと不安だし……」
誤魔化すような笑みを浮かべ、サユリはそう言った。
ちょっと不安、と言うのはサユリの本音だった。いくらトレーナーになると決めたと言っても、つい昨日まで感じていあの不安を完全に拭う事なんてできないのだ。ちゃんとトレーナーになれるのか。そんな不安は、まだサユリの中に残っていた。
そんなサユリを見たユウトが、頭を掻きながらも口を開く。
「確かに……姉ちゃんは鈍臭いし、不器用だし、そそっかしいし、ついでに家事もまともにできないし。かなり頼りないけど……」
「そ、そんなにはっきり言わないでよぅ……」
「……でも、芯はしっかりしてる。少なくとも、オレはそう思う。だから心配する事なんてねーよ。姉ちゃんは姉ちゃんの思うように、前に進めばいい」
笑みを浮かべつつも、ユウトはそう言った。
ズバズバとはっきり言われて少し悲しくなってきたサユリだったが、ユウトが繋いだ言葉を聞いて顔を上げる。心の底が温かくなるような、そんな気がした。
ユウトの気持ちを受け取り、不安だった心がボンヤリと明るくなってゆく。踏み出す勇気を、与えてくれた。
「ま、ウチの事なら気にしなくても大丈夫だ。……お袋が死んでから、仕事でほとんど帰ってこない親父の代わりに家事はオレがほとんどしてきた訳だし。姉ちゃんが家を留守にしても、オレは一人でやっていけるよ」
「……ありがとう、ユウト。元気、出てきたよ」
ユウトに心配かけちゃうなんて。ダメなお姉ちゃんだな、わたし。
サユリは心の中でそう思っていたが、こうして健気に励ましてくれるユウトを見ているとそれが更に強くなってくる。
だからこそ。この旅で、変わりたい。誰かに頼りにされるような、そんな強い人に。
「さ、辛気臭い話は終わりだ。行ってこい、姉ちゃん。オレはいつでも応援してるからな」
「……うん! 行ってきます! ……パパが帰って来たら、わたしのことよろしく伝えといてね」
「おうっ。任せとけ」
改めて荷物を持ち直し、ユウトと言葉を交わしたサユリは、踵を返して歩き出す。ユウトの思いを確かにその胸に刻み、サユリは家を後にした。
後ろ髪を引かれる思いを振り切り、サユリは前へと進む。迷いは、もうなかった。
―――――
家から歩いて数十分。研究所にサユリが研究所に着いた頃には、すでにユキは到着していた。余裕を持って家を出たつもりだったのだが、ユキは更に早く着いていたらしい。前々から期待に胸を膨らませていた為、居ても立ってもいられなかったのだろう。
そんなユキと談笑しながらも、サユリは研究所へと足を踏み入れる。
昨日とは違い、白衣を身につけた研究員たちが忙しなく動き回っている様子はない。そこにいたのは、ただ一人。ヤガミ博士だった。
「おはよう、二人とも。待ってたわよ」
笑顔で挨拶をしたヤガミ博士に、サユリとユキも笑みを浮かべて返事をする。その時、ヤガミ博士の傍らに横長の机が置かれているのが目に入った。上に何か置かれているようだが、シーツによって隠されているため何があるのかは分からない。しかしそれを見た瞬間、サユリは何が置かれているのか何となく感づいてしまった。ドクンッと心臓が大きく高鳴り、何だか妙に緊張してくる。
無理もない。それは彼女たちにとって、生まれて初めての経験なのだから。
「ついにきた……待ちに待ったこの日が……!」
心の底から湧き出る思いを抑えきれず、ユキはそう言葉を漏らした。顔を赤くしてニヤついている彼女のその様子を見ると、心底ワクワクしているんだなと感じられる。
ついさっきまで不安を感じていたサユリもまた、胸の高鳴りを感じていた。色々と思い悩んでいたサユリだったが、今こうしてここに立ってみると、そんな不安も埋もれてしまう。彼女が感じるのは、ユキにも負けないくらいのワクワク感。そして、ポケモントレーナーになれると言う事への喜びが、サユリの心を支配していた。
「さて、早速始めるわよ。本来ならここで色々と前置きを喋ったりする訳だけど……。あなた達にはもう必要ないわよね?」
「えっ……そ、それでいいんですか……?」
「はい! ヤガミ博士、早速ポケモンを!」
割といい加減なヤガミ博士にサユリは戸惑うが、ユキはそんな事をいちいち気にしていないようだ。ユキは何よりも早くポケモンを受け取りたいらしく、ヤガミ博士に催促していた。
「そうね。それじゃ、あなた達に紹介するわ!」
そう言うとヤガミ博士は、横長の机の上に乗せてあったシーツを引っ張る。それか取り除かれると、三つのボールが姿を表した。赤と白、その二つの色が特徴的な球体のカプセル。サユリもユキも、よく知っている物だ。
それは、モンスターボールと呼ばれる物だった。ポケモントレーナーなら誰でも持っているだろうし、トレーナーではなくても見たことくらいはあるはずだ。
この中に、ポケモンが入っている。少女たちの初めてのパートナーになる、ポケモン達が――。
ヤガミ博士は机の上に置かれているモンスターボールを手に取ると、それらを次々と展開し、ポケモンを外へと解放した。
「くさタイプのポケモン、フシギダネ! ほのおタイプのポケモン、ヒトカゲ! そしてみずタイプのポケモン、ゼニガメ! さぁ、あなた達はどの子をパートナーに選ぶ?」
「わぁ……」
「すごい……この子達が……」
目の前に現れたポケモン達を見て、サユリとユキは感激のあまり揃って声を上げた。
フシギダネに、ヒトカゲに、ゼニガメ。リョウラン地方では、基本的にこの三匹を新人トレーナーのパートナー候補としている。トレーナー達はこの三匹の中から一匹を選び、共にスミレタウンを旅立つのだ。
サユリとユキはポケモン達に歩み寄り、じっくりと見つめてみる。ポケモン達も見つめ返してきて、それぞれ鳴き声を上げた。
「サユリはどうする? どの子にする?」
「う〜ん……どうしようかな……」
この三匹をこうして近くで見たのは初めてなので、どうしても目移りしてしまう。三匹とも可愛らしくて、サユリとしてはどのポケモンにも心惹かれてしまうのだ。
しかし、貰えるポケモンは一匹だけ。ここは決めなければならないが――。
「ユキちゃんから先に選んでいいよ。わたしはもう少し考えるから」
「……そう? それじゃあたしは……」
選ぶのにまだ時間がかかりそうなので、先にユキに選んでもらう事にした。
うんっと頷いた後、ユキは迷う事なくそのポケモンのもとへと向かう。どうやら既にどのポケモンを選ぶのか決めていたようだ。前まで来た後、ユキはしゃがみこんでポケモンを抱きかかえる。
少しぎこちない動きで立ち上がると、ユキはクルリと振り向いた。
「あたしはこの子……ヒトカゲにするっ!」
ユキが選んだのは、ヒトカゲ。トカゲポケモンに分類される、ほのおタイプのポケモンだった。
全体的にオレンジ色の体となっているが、お腹の部分はどちらかと言うとクリーム色だ。頭には特に突起しているような部分はなく、綺麗なまんまるだ。大きな瞳は青色であり、そして尻尾の先には常に小さな炎を宿している。そんな姿のポケモンだった。
「へぇ……ユキちゃんはヒトカゲね。どうしてその子を選ぼうと思ったのかしら?」
「えへへ……あたし前々から、この子にしようって決めてたんです! 何て言うか、こう……ビビっと感じるものがあって」
「がうー!」
嬉しそうな笑みを浮かべながらも、ユキはそう言っていた。腕の中にいたヒトカゲも、彼女の言葉に呼応するかのようの鳴き声を一つ上げる。
出会って早々に、ユキとヒトカゲは意気投合しているようだった。そんな姿を見て、サユリは何だか羨ましく思ってくる。
「次はサユリちゃんね。焦らなくてもいいのよ。ゆっくり選んでね」
「う〜ん……迷うなぁ……」
緑色の身体に、さらに濃い緑の模様が見える。背中には大きな種を背負っており、瞳の色は赤。たねポケモンのフシギダネ。
空色の肌に、焦げ茶色の甲羅を背負い、クルリと丸まった尻尾を持っている。かめのこポケモン、ゼニガメ。
ユキが選んだポケモンがヒトカゲと言う事もあり、折角なので別のポケモンにしようかと考えていたサユリだったが、選択肢が減った事で逆に迷ってしまった。視線を泳がして二匹のポケモンを交互に見ている内に、余計に選びにくくなり――。
わたしって、こんなに優柔不断だったんだ、とサユリは心の中で呟いた。
ツンツン――
「……ん?」
フシギダネとゼニガメをジッと眺めていたサユリだが、突然肩を叩かれた。
誰だろう。今ここにいるのはサユリ以外にユキとヤガミ博士。しかし、肩を叩かれた今の感じ。何だか二人のものとは違うような気が――。
「あっ……!」
おもむろに振り向いたサユリの目の前にいたのは、一匹のポケモン。サユリもよく知るポケモンだった。
黄色い身体。白いお腹。首と尻尾の黒い縞模様。丸い瞳。そのポケモンは、昨日サユリ達が助けたあのデンリュウだった。
「あれ……デンリュウ! いつの間に入ってちゃったの?」
デンリュウを見たヤガミ博士が、驚いたような声を上げた。
サユリはてっきりヤガミ博士がデンリュウを連れてきたのか思ったが、違うようだ。デンリュウはこの研究所で保護されていたのに間違いはないのだが、どうやら勝手にこの部屋へと入ってきてしまったらしい。
「元気になったんだね! 良かった……」
「キュゥンッ!」
サユリが声をかけると、デンリュウは元気に鳴き声を上げた。
見たところ、怪我はすっかり治っているようで、元気な姿を取り戻す事ができたようだ。流石はポケモン研究所。ポケモンセンターにも負けないくらい、怪我の治療にも力を入れてくれている。サユリが心配するまでもなく、デンリュウは完全に回復していた。
「キュウ! キュンッキュゥン!」
「……? どうしたの?」
そんなデンリュウが、サユリに何かを訴えるように鳴き声を上げ続けた。自分の腕をフリフリと振り、必死に何かを伝えようとしているのが分かる。
しかしサユリは、デンリュウが何を伝えようとしているのかよく分からなかった。「う〜ん……」と少し考えたあと、ジッとデンリュウの瞳を見つめてみたりしてみるが、やはりよく分からない。何かをねだっているようにも見えるが――。
「あ、ひょっとして……」
その時、何かに気がついたユキが、ポンッと拳を手に当てる。
「サユリと一緒に行きたい、とか?」
「キュンッ!」
まるでユキの言葉を肯定するかのように、デンリュウはコクりと頷いた。嬉しそうに鳴き声を一つ上げると、デンリュウは再びサユリを見つめ直す。
突然の出来事に、サユリは戸惑い始めた。
「えぇ!? わ、わたしと? 本当に一緒に行きたいの?」
「キュンキュンッ!」
「ふふっ……どうやらその子、すっかりサユリちゃんに懐いちゃったみたいね」
サユリに寄り添うデンリュウを見て、ヤガミ博士は微笑んだ。
けれども未だにサユリは戸惑い続けており、デンリュウとユキとヤガミ博士にそれぞれ視線を泳がせて、落ち着きがなくソワソワしていた。
「ほらサユリ! デンリュウが行きたいって言ってるんだから、連れて行ってあげれば?」
「で、でもっ! デンリュウは最初のパートナー候補のポケモンじゃないし、いいのかな……?」
サユリはその視線をヤガミ博士に向ける。それに気づいたヤガミ博士が少しの間だけ考え込むが、やがて小さく頷くとサユリに向けてグッと親指を立てた。
「……そうね。じゃあ、今回は特例って事で! 私が許す!」
「えっ……!? ほ、本当にいいんですか……?」
「勿論よ。その子は、サユリちゃんが助けたポケモンなのよ? それにデンリュウだって、こんな研究所にいるよりもサユリちゃんと一緒にいた方が幸せだと思うの。もうそんなに懐いちゃってるみたいだし……。あなた達はお互い、良いパートナーになれると思うわよ」
サユリはデンリュウを見る。デンリュウもその丸い瞳を向けて、サユリをジッと見つめている。
初めてのポケモン。それは大切なパートナーとなり、最も多くの時間を共に過ごす存在。もしもそんな存在に、このデンリュウがなってくれるのだとすれば。
そう考えると、サユリは胸の奥がほっこりと暖かくなるような気がした。胸の奥からジワジワと、こみ上げてくるものを感じていた。
そしてサユリの心は、一つに決まる。
「わたしと……一緒に行く?」
「キュゥン!」
ポケモントレーナーにとって、他のどんなものにも変えられない最高の瞬間。それがデンリュウと過ごせるなら、デンリュウと一緒にリョウラン地方を旅できるのなら。サユリにとっても嬉しかった。
これから色々な事があるだろう。様々な困難が立ち塞がるだろう。でも、どんな事があろうともデンリュウと共にくぐり抜けてみせる。デンリュウと前に進み続ける。ポケモントレーナーとして、どんなに大きな壁でも乗り越えてみせる。
それが、サユリの心だった。
「決まりね。これであなた達は、たった今からポケモントレーナーよ!」
デンリュウを連れたサユリ、そしてヒトカゲを抱えたユキ。彼女達に向けて、ヤガミ博士がそう言った。
初々しくてぎこちない、けれども無限の可能性を秘めたポケモントレーナー。今日この時もまた、新たな歩みを始めた少女達がいた。それはまだ小さくて、頼りない芽のような存在だけれど、いつかは大きく成長して綺麗な花を咲かせてくれる。ヤガミ博士はサユリ達に、そんな可能性を見出していた。
スゥっと大きく息を吸い込んで、ハァっと強く吐き出す。大きな深呼吸のあと、ヤガミ博士はじんわりとしたものを感じながらもサユリ達にこう言った。
「……頑張ってね、二人とも」
ヤガミ博士はまだ若く、新人トレーナーを送り出した経験も少ない。だからこそ、こんなにもシミジミと感じてしまうのだろうか。
ヤガミ博士は信じている。二人がキチンと前に進んでくれると。途中で道を見失ったりしないと。そして最後に、笑顔で帰ってきてくれると。
信じている。信じたい。そうであって欲しいと、強く心に願っていた。
「よ〜し、サユリ! たった今から、あたしとあんたはライバルね!」
「えっ……? ら、ライバル……?」
「そうっ! ポケモントレーナーになったからには、目指すは勿論ポケモンマスター! どっちか先に辿り着けるか、競争よ!」
「えぇ!? き、急にそんな……ライバルとか言われても……」
「ほらサユリ! もたもたしない! あたしは先に行くよっ!」
「ちょ、ちょっと待ってよ! ユキちゃん!」
オロオロとするサユリを尻目に、ユキは走って研究所をあとにする。腕に抱えたヒトカゲも「がうっ!」と短く鳴き声を上げ、ユキと意気投合して嬉しそうな笑顔を見せていた。
サユリとデンリュウは取り残されて、小さく走ってゆくユキの後ろ姿を眺める事しかできない。ユキの後ろ姿が、どんどん見えなくなってゆく。
完全に出遅れた一人と一匹は、お互いに顔を向き合わせる。そうしたら、何だか慌てていた自分が可笑しくなって、サユリは笑い出してしまった。それにつられて、デンリュウも笑う。
「わたし達も行こっか?」
「キュウ!」
そんなやり取りのあと、サユリとデンリュウは歩き出す。研究所の窓から差し込む朝日に眩しさを感じながらも、サユリ達は前に進む。
ポケモントレーナーになったばかりの少女達の旅路が、幕を開けるのだった。