17.予兆、様相の表裏
一通りの事を話し終えた後。サユリ達は、育て屋に帰ってきていた。
実に充実した時間だった。そもそもチャンピオンに会えないかも知れないと半ば諦めていたのだから、こうして話が出来ただけでも嬉しい事だ。サユリ達をすんなり受けて入れてくれたミライには、いくら感謝してもしきれない。
ミライと話して、更に高みへと歩む為のヒントが得られたような気がする。得られた、と言うよりも気づかされたと言った方が正しいか。自分でもできる事はあるのだと、気づく事ができた。
トレーナーとしての腕はまだまだだ。ポケモンバトルも、カズマに勝ったとは言えまだ初心者レベルの域を出ない。それでも、ちゃんと歩けている。多少危なげな部分はあれど、確実に前に進めている。
いつか。ミライさんともバトルできるようになりたいな。
サユリは心の中で、そんな願望を抱いていた。
「あの、ミライさん。色々とありがとうございました!」
「うん、どういたしまして。俺も楽しかったよ」
育て屋の前まで到着し、そんなやり取りをする二人。サユリは改めて頭を下げていたのだが、ミライは相変わらずフランクな様子。チャンピオンと言ってもそこまで気取った振舞いはせず、まるで友達と話しているかのような受け答えをしてくれた。
やっぱりこの人は良い人だ。サユリはそう再認識していた。
「さて。そろそろ仕事に戻らないと。あんまりセツナさんを待たせても悪いし……」
「あぁ、そう言えばここって従業員少ないんだっけか」
「そうなんだよ。セツナさんって、全然人を雇わなくてさ。仕事の大半を一人でやっちゃってるみたいだし……」
確かに、初めてこの育て屋を訪れた時も人が少ないように感じられた。どうやら気の所為などではなく、本当に従業員が少ないらしい。敷地面積がかなり広い育て屋を、あの少ない人数でやりくりしているとは。
「まぁ……だからこそやり甲斐があるんだけどね。俺は今の仕事に満足しているよ」
表情を和らげながらもそう語るミライ。嘘偽りなど微塵も感じられない、真っ直ぐな笑顔。
彼は本当に充実感を感じているのだろう。だからこそ、多忙な毎日でもこんなにも楽しそうに笑える。ミライは色々な意味で強かった。
「セツナさん! 只今戻りました!」
そう声をかけつつも、ミライは育て屋のドアを開けた。雇い主であるその女性の名前を呼ぶ。待たせてしまった分、気合を入れて仕事に取り組まなければ。そう心の隅で思いつつも。
しかし。ミライはそこで、とある違和感を覚えた。
「セツナさん……?」
返事が、一向に返ってこない。いつもならセツナがすぐに答えてくれるはずなのに。
まさか留守? いや、そんな事はあり得ない。あのセツナが、この時間帯に受け付けから離れる訳がない。お客さんが来る事を想定して、受け付けには必ず誰かが立っているはずだ。
しかし。今の受付はどうだろう。無人。誰もいないではないか。
「……ミライさん? どうかしたんですか?」
何となく妙な雰囲気を感じ取ったサユリが、心配してミライに声をかけてみる。冷や汗を流しつつも、ミライは唾を飲み下していた。
「いや……。この時間帯に受付に誰もいないなんて……」
ミライが最後まで言い終わる直前。突然、ガタリと大きな物音が響いた。
驚いたサユリは思わず身を引いてしまう。突然の物音に心臓が跳ね上がるのを感じられた。一瞬、息もとまりそうになる。
誰かがいるのだろうか?
「い、今のって……」
「受付の方から……? ちょっと見てくるよ」
「おう。アタシも行くぜ」
露骨にオロオロとしているのはサユリだけで、ミライとルミナは割と落ち着いていた。とは言っても、緊張感は緩めない。警戒しながらも、恐る恐る受付に近づいてゆく。
誰もいないように見えた受付。身を乗り出すようにして、その先を見てみる。そこにいたのは――。
「セツナさん!?」
ちょうど受付の影に隠れていて、全く気づかなかった。両手足を縄のような物で縛られ、殆んど身動きが取れないセツナが、そこに転がっていたのだ。
口も縛られている為、大きな声を上げる事も出来なくなっている。唸り声にも似た声を出し、必死に何かを訴えているようだった。
「なっ……!? お、おい、おばさん! どうしたんだよ!?」
「今、助けます!」
流石に驚きが隠せないルミナに、驚きながらも受付を乗り越えるミライ。そのミライによってセツナは身体を起こされ、真っ先に口に縛られていたタオルのような物を解く。ようやく口が開放されて、セツナはむせ返った。どうやら息もあまりできていなかったらしく、苦しそうだ。
一体、誰がこんな事を。
「すぐに縄を……!」
「わ……私の事は後回しでいい……。それより、ポケモン達が……!」
何とか呼吸を整えたセツナが、サユリ達にそう訴えてくる。
ポケモン達、とはこの育て屋に預けられているポケモンの事だろう。彼らに何かあったのだろうか。何にせよ、只事ではない事は確かだ。
兎にも角にも、詳しい状況を聞かなければ。
「あの……セツナさん。何があったんですか……?」
深呼吸して気持ちを落ち着かせながらも、サユリはセツナに質問する。そんな彼女の姿を見て、セツナの方も落ち着きを取り戻してきたらしい。整理した記憶を確かめつつも、セツナは状況を説明し始めた。
「……妙な二人組が現れたんだ。初めは普通の客かと思ったんだけど、どうも違うらしい。気になって尋ねてみたら、ポケモンを何匹か頂戴しに来たとか言い出して……」
「そ、それって……!」
つまり、強盗被害に遭ったと言う事か。セツナを縛り付けて身動きを取れなくしてまでポケモンを強奪しようとするとは。その二人組とは、どんな人物なのだろう。想像するだけでも恐ろしい。
「勿論、私は反論したさ。でも二人組の片方が突然ポケモンを出してきてね……。あのポケモンは……ムシャーナだったか。そいつの“さいみんじゅつ”を受けて……気がついたらこのザマだよ。まったく……」
自分の不甲斐なさに苛立ちを覚えるセツナ。その表情からも悔しさが滲み出ている。
無理もない。殆んど何も出来ずに強盗犯に勝手を許してしまったのだから。
「とにかく……早く奴らを止めないと。まだ外には出ていないはずだ……!」
「いや、何でそんな事が分かるんだ? 眠らされてたんなら、強盗犯もその間にさっさと済ませちまったかも知れないだろ」
「……あんまり舐めるんじゃないよ。私は育て屋だよ? 特にポケモンと接する事の多い職業なんだ。催眠効果のある技を受ける事なんて慣れてる。だから今更“さいみんじゅつ”なんて使われたって、完全に眠らされる事なんて殆んどない」
育て屋は他人からポケモンを預かり、代わりそのポケモンを育てる職業だ。当然、馬が合わずに暴れ始めるポケモンだっているだろう。育て屋がポケモンの技を受けてしまう事もある。
だからこそ、長期間育て屋を続けているとある程度慣れてしまうのだ。特に催眠効果のある技はそれが顕著であり、完全に効果を受けなくなる事は稀であるものの多少抑制できてしまう事は多々ある。
今回の場合、セツナは眠らされてしまったもののそれはかなり浅かったのだ。意識を失ったのはほんの一瞬だけ。尤も、その隙に両手足と口元を縛れて身動きを奪われてしまったのだが。
「……まだ強盗犯は育て屋の中にいる。それで間違いないんだな?」
「あぁ……。まだあまり時間は経っていないはずだよ。奴らもそんなに早く事を済ませられる訳がない……!」
「そうか……。よし、分かった」
セツナへの確認が終わると、小さく頷いてルミナは立ち上がる。そしてその視線を部屋の奥――育て屋の庭へと続く扉へと向けた。
「……アタシが強盗犯を止めに行く。ミライはそのおばさんの縄を解いてやってくれ」
「えっ……そ、それって……!」
驚いたのはミライ。いきなりそんな提案を持ちかけられたのだから、当然の反応である。
いくら男勝りな性格と言えど、女の子一人にそんな危険な事をさせるなんて。
「相手は強盗犯だ……。一人で止めようだなんて、そんな危険な事は容認できない」
「だったらここで手をこまねいてろって言うのか? 笑えない冗談だぜ」
ミライは考えを改めさせようとするが、ルミナは一歩も引かない。それどこか、ルミナの闘士はますます高くなってゆく。
いくらミライに何を言われようと、ルミナは引き下がる気など微塵もなかった。引き下がれない理由があった。いや、“引き下がりたくない”と言った方が正しいか。
「人とポケモンの仲を強引に引き離そうとする……。アタシはな……そういう事をする奴が一番気に入らないんだよ……!」
それだけ言い残すと、ルミナは飛び出して行ってしまった。ミライが彼女の名を呼んでもう一度引き止めようとするが、まるで聞く耳持たない。乱暴に扉を開き、外へと出て行った。
「ムキになってる……? マズイな、あれじゃ……!」
ミライの頬に一筋の汗が流れ落ちる。無謀にも飛び出してしまったルミナを見て、不安感を隠せずにいた。
強盗犯の話を聞いて、ルミナは相当頭に来たようだ。何か思うものがあるようだが――。しかし、あれでは尚更危険だ。頭に血が昇って判断力が欠けている今、強盗犯とぶつかったらどうなるか分からない。
だけれども。セツナもこのまま放ってはおけない。本人は自分の事は後回しで良いなどと言っているが、いつまでも縄で縛られたままにしておく訳にはいかない。早く解かなければ。
ルミナの事が心配。しかし、セツナも放ってはおけない。
この状況を打破する方法は――。
「……ミライさん。わたし……」
そんな中、口を開いたのはサユリだった。ミライとセツナの視線が、サユリに集中する。
真剣な表情で真っ直ぐにミライを見つめるサユリ。そんな彼女と目が合って、何となくその考えがミライには伝わってきた。
「……わたしも行きます。強盗犯を止めに……」
「……そう言うと思ったよ」
やはりそうきたか。サユリならきっとそう言うだろうと、薄々感づいてはいた。
「ルミナを一人にさせるのが心配なんですよね……? だったらわたしも行けば……!」
「えっ……い、いや……。そういう意味じゃなくて……」
「それに……。わたしだって、許せません……! 人のポケモンを無理矢理連れて行こうだなんて、そんなこと……」
ミライが口を挟む間もなく、サユリは自分の考えをしっかり言葉にしてぶつけてきた。こんなにも真剣な面持ちで言われてしまっては、ミライも言葉が詰まってしまう。
ルミナが心配だから、サユリも一緒に行く。正直、それでは何の解決にもなっていない。問題なのは、女の子だけで強盗犯との接触を図る事なのだが。しかし、そう言っても今のサユリにはあまり意味がなさそうだ。どう説得しても、きっと彼女はルミナを追いかけてしまう。
それならば。
「……分かった。セツナさんの縄を解いたら、俺もすぐに追いかける。だからくれぐれも無理しないでほしい」
せめて。これくらいの忠告はしておきたい。忠告、と言うよりもお願いに近いか。
強盗犯を一刻も早く止めたいという気持ちはミライも同じだ。みすみす奴らを逃がすつもりはない。その気持ちは、寧ろサユリ達のものよりも大きい。
だからこそ、分かる。自分だって、セツナが縛られてなかったら形振り構わず飛び出して行ったに違いない。誰かの制止だって、聞きもしなかったかも知れない。
要するに、ミライも人の事を言えないのだ。だから、これ以上無理矢理サユリ達を止めるつもりはない。
ミライの言葉に対し、サユリは頷いてそれに答える。そして次に、その視線をセツナの方へと向けた。
「……セツナさん。わたし達が必ずポケモン達を助けます。だから安心して下さい」
「っ! あんた……」
「……それじゃ、行ってきます! 行こ、デンリュウ」
「キュン!」
キリリとした瞳を向けながらも頷くデンリュウ。サユリに呼応するかのように、鳴き声も上げてくれた。
デンリュウの士気も高い。きっと彼女の抱く気持ちも、サユリと同じなのだ。強盗犯から、ポケモン達を助けたい。そう思っている。
そんなデンリュウと一緒に、サユリはルミナの後を追いかけ始めた。
―――――
「見つけたぞ!」
一人飛び出したルミナは、強盗犯と思しき二人組を発見していた。
庭の端。人目のつかない隅っこに、彼女らはいた。桃色のストレートヘアの少女と、ブロンドのショートヘアの女性の二人組。どちらも似たような服装をしている。何かの組織の一員だろうか。
しかし、彼女らがどういった存在だろうと関係ない。強盗犯だと言う事に変わりはないのだから。
「あらあら……。追っ手が来ちゃいましたか。ちょっと時間をかけすぎちゃったかしら?」
ブロンドヘアの女性がそう口にする。しかし、どうにも緊張感がない。追っ手を前にしてもこのおっとりとした口調とふわふわとした雰囲気。ルミナを舐めているのだろうか。
「……しかし相手は子供です。大方、青臭い正義感だけで飛び出してきたのでしょう。大した事ありません」
桃色髪の少女が冷たい言動でそう言い放つ。ブロンド髪の女性と違い、この少女は冷酷に淡々と任務を熟すタイプの人間なのだろう。突き刺さるような冷たい視線を向けられているのが分かる。
しかし、やはりルミナを見くびっているかのような言葉。ルミナを大した障害ではないと判断しているようだ。そんな少女の態度が、ルミナの神経を逆撫でした。
「おい強盗犯! 大人しくそのポケモン達を解放しろ!」
ルミナはその二人組の背後――追い込まれてしまっている数匹のポケモン達を指差す。身体を縮こませて震えているポケモンの姿も確認でき、その不安感がひしひしと伝わってくる。中には傷つき倒れているポケモンの姿もあった。追い込まれる際、きっと必死になって抵抗したのだろう。
そんなポケモン達を容赦なく屈服させようとする強盗犯。その残忍な行為を許す訳にはいかない。
「……私達が大人しく従うと思う?」
呆れたように溜息をつきながらも、桃色髪の少女がそう言い返してくる。まるで鬱陶しい子供を適当にあしらおうとしているかのような素振りだ。
彼女の言う事は正しい。そう易々と従ってくれるなどルミナも思っていない。だから最初から、やる事は決まっている。
「だったら力尽くでも従わせるだけだ!」
ルミナは取り出したモンスターボールを投げる。ゲッコウガが勢い良く飛び出して、ルミナの前に降り立った。
腕を組んで強盗犯を睥睨するゲッコウガ。先ほどルミナに絡んできたあの少年達はこの威圧感だけで折れてしまっていたが、しかし彼女達は違う。この程度では屈するどころか反応すらも薄い。
強盗などをしている以上、それなりに肝は据わっているという事か。
「まったく……。どうしてこうも突っかかってくる子供が多いのかしら……」
「まぁまぁ、マリア。そうカリカリしないで。ちょっとくらい邪魔が入った方が丁度良いんですよ。簡単に任務が終わってしまったら、つまらないでしょう?」
「……私はスムーズに任務を熟したいのですが」
ブロンド髪の女性は随分と呑気な事を言っているが、桃色髪の少女――マリアはクールにそう返している。どうやら彼女は任務に支障をきたす事が嫌いなようで、極力計画通りに済ませたいらしい。真面目な性格なのだろうか。
「……あぁ、そう言えば自己紹介がまだだったな」
「……自己紹介?」
「アタシはルミナ! 今からお前らをぶっとばす奴の名前だ! よく覚えておけ!」
マリアが困惑したような声を上げるが、そんな事はお構いなしにビシッと指差してルミナはそう宣言する。それは強盗犯に対する宣戦布告であり、自分に対する喝でもあった。
当然、ルミナはこの二人組とは初対面。どれほどまでの実力を持っているのか、それはまるで分からない。だからこそ、生半可な気持ちで挑む訳にはいかないだろう。
勿論、端から油断しているつもりはない。しかしそれでも念には念を入れる。ポケモン達が賭かっているのだ。負ける訳にはいかない。
「まぁ……ご丁寧にどうも。それならこちらも名乗らなければいけませんね」
ブロンド髪の女性は相変わらずの調子。彼女には本当に緊張感というものがないのだろうか。
威厳も貫禄もまるでない女性を横目に、マリアは思わず短く溜息をつく。コウスケといい、どうして自分の周りにはどこか抜けた団員が多いのだろうか。しかもこの女性はマリアの上司。にも関わらず、任務の最中はこんな風に殆んどふわふわとしている印象だ。もう少し、シャキッとしてくれてもいいではないか。
そんな少女の心労など露知らず、その女性は『自己紹介』を始めていた。
「ご機嫌よう、ルミナ。私の名前はクロエ。アシッド団の幹部を勤めております。以後、お見知りおきを」
場の空気が、一瞬だけ硬直したような気がした。否、正確に言えば硬直したのはルミナだった。
ルミナの突然の豹変を前にして、マリアはぴくりと眉をしかめる。強い違和感を抱き始める。なんだ? 一体、どうしたと言うのだ。
先ほどまでの様子が、まるで嘘のような沈黙。しかし、別に怖気ついてしまったとか、そういうのではない。寧ろこれは――。
ルミナは。このサイドテールの黒髪を持つこの少女は。『アシッド団』という単語に反応を見せていた。
「……そうか。お前らが、アシッド団か。しかも幹部までもがお出ましとは」
マリア達はルミナに睨みつけられる。しかし、その眼光から伝わってくるのは先ほどのような高揚した怒りとはまた違う。どこか、忌避したくなるような感情。
おそらく。この少女は直接会った事はなかったにしろ間接的にアシッド団と関わりを持っている。しかも、こんなにも強い感情をぶつけずにはいられなくなるような、そんな関わりが。
ひょっとしたら、クロエはここで迂闊にアシッド団の名を出すべきではなかったのかも知れない。
「ルミナー!」
場に張り詰めた空気が漂い始めた、丁度その時。柔らかい声質でルミナの名を呼ぶ声が響いてきた。その場にいる三人の興味が、一気にその声へと傾く。
聞き覚えのある声。頭の中でとある少女の姿を思い浮かべながらも、ルミナは振り向く。案の定、視線の先にはルミナ想像通り少女が、こちらに向けて走って来ていた。
「……サユリ? お前も来たのか……!」
手を振りながら走ってくるのはサユリだった。あまり運動は得意ではないのか、かなりぎこちない走り方だが。そして、その隣にはデンリュウもいた。
あの様子。飛び出したルミナを見て、慌てて追いかけてきたのだろうか。ミライもそうだったが、どうしてそこまで心配するのだろう。あんまり侮らないで欲しい。そう易々とやられてしまう程、ルミナは弱くないのだから。
「なぁ、おいサユリ。ひょっとしてミライに頼まれてアタシを止めに来たのか? 言っとくけど、アタシはな……」
そこまで言いかけて、ルミナは状況の変化に気づく。ようやくルミナに追いついて、ぜぇぜぇと息を切らしていたはずのサユリが、まるで幽霊でも見たかのような驚愕の表情を浮かべていたのだ。それは彼女の傍らにいたデンリュウも同じようで、信じられないと言ったような面持ちでその視線をサユリと同じ所に向けている。
「……おい、どうかしたのか?」
何かあったのだろうか。気になったルミナが声をかけてみる。震える口から出てきたサユリの答えは、一言。
「アシッド団……」
「……えっ?」
―――――
聞き覚えのある声が聞こえて、マリアは反射的に視線を向ける。そこにいたのは、何日か前に出会ったばかりの少女。“あのデンリュウ”を手持ちポケモンとして連れているトレーナー。サユリだった。
まさかこんな所で再び遭遇できるとは。予想外の事に少しだけ面食らってしまったが、これは却って好都合。この種類のイレギュラーなら大歓迎だ。
「……? マリア? どうかしたのですか?」
「いえ……。クロエさん。あのデンリュウ、
本命です」
「まぁ……」
クロエの表情が自然と綻ぶ。
本命。それが何を意味するのか、クロエはよく理解していた。だからこそ、ついつい笑顔が零れてしまった。
そうか。あのデンリュウが、そうだったのか。まさかこんな所で巡り逢えるなんて。
「なんという幸運! きっと日頃の行いが良かったお陰ですね!」
強盗などしている時点で良い訳がないのだが、マリアはそこには触れないでおく。
何にせよ、あのデンリュウを見つける事ができたのだ。これは千載一遇のチャンス。この前はあの妙な少年に邪魔されてしまったが、今回はそうはいかない。
任務変更。標的をあのデンリュウに移し替える。
マリアとクロエがモンスターボールを取り出す。二人揃って投げたそれらから、軽快な開放音と共にポケモンが飛び出した。
マリアが繰り出したのはヘルガー。以前、サユリを守ろうとするあの少年と戦った際のポケモンと同じ。そして、クロエが選んだポケモンはヘルガーとほぼ同じかやや大きい体格を持つ青いポケモンだった。
まず目に入るのは頭部。兜を彷彿とさせる頭殻からは、鋭い一本の角が伸びている。その頭殻と同じ物質で出来ていると思われる殻が脚部にも確認でき、まるで武装でもしているかのようだ。そして、頬辺りから伸びる白い髭。その鋭い眼つきと相乗して、そのポケモンからより一層強い貫禄を感じられる。
ダイケンキ。かんろくポケモンに分類される、みずタイプのポケモンだった。
「さて。分かっていると思うけど、もう一度言わせてもらうわ。大人しくそのデンリュウを渡しなさい」
「そう言う事です。怪我したくなければ、素直に従った方が良いと思いますよ?」
アシッド団の二人組が次々とポケモンを繰り出す中、彼女らとサユリを交互に見比べているルミナは酷く混乱していた。
サユリはアシッド団の事を知っている? どうやら前にも会った事があるようだが、どういう事なのだろうか。しかもそのアシッド団が、サユリのデンリュウを引き渡せなどと要求する始末。何が何だか、訳が分からない。
「おいサユリ! 一体どういう事だ? お前はアシッド団を知ってるのか?」
「う、うん……。前にも……2番道路で会った事があって……。その時も……理由は分からないけど、デンリュウを渡せって言ってきて、それで……」
「キュウ……」
震えた声を発するサユリとデンリュウ。どうやら、かなり怖い目に遭わされたらしい。
ルミナはアシッド団に向き直る。なぜこいつらはデンリュウを狙っているのだろう。ルミナの事をすっぽかして回収を優先させる程、彼女らにとってサユリのデンリュウはそんなにも大事な存在なのだろうか。どうせ聞いても答えないだろうから、質問するだけ無駄なのだろうけど。
奴らから何らかの情報を聞き出すには、力尽くで吐かせるしかない。
「……ルミナも、アシッド団のこと知ってるの……?」
「……あぁ。まぁ、ちょっとな……」
ルミナは思わず口篭る。
結論を言ってしまえば、アシッド団の事は知っている。その団員とこうして対面したのは、今日が初めてなのだが。
正直に言って、ルミナはアシッド団にあまり良い思いを抱いていない。それどころか、恨みにも似た感情を抱いてしまっている。
確かに、直接会った事はない。これまでに、ルミナ本人が直接何かをされた訳ではない。それでも、アシッド団を恨まずにはいられない。その名を聞いただけでも反吐が出そうになる。
だって。アシッド団は――。
「……どうなの? 大人しく渡すか、痛い目を見るか」
「…………っ!」
マリアの、再度の確認。サユリは拳を握り締め、下唇を噛み締める。
恐怖心はある。再びアシッド団に遭遇する事になるという事は、何となく察知していたけれども。それでもいざ前にしてみるとやはり身体が震えてくる。
だけど。
「嫌です……」
「……なに?」
「嫌です! あなた達なんかに、デンリュウは絶対に渡しません!」
「キュウ!」
サユリとデンリュウが揃って声を上げる。交渉決別だった。
大人しく渡せ? そうしなければ痛い目を見る? いくらそんな脅しをしても、サユリはデンリュウを渡すつもりはない。目的の為なら手段を厭わず、強盗なども冷酷に遂行する組織、アシッド団。そんな連中にデンリュウを渡してしまったら、きっとろくな事にならない。
怖くないと言えば嘘になる。本当は、こんな戦いなんて嫌だ。でも、デンリュウを失うのはもっと嫌だ。
だからサユリは抵抗する。例えアシッド団と明確に敵対する事になろうとも、構うものか。
「まったく……。素直に従っておけばいいものを……」
心底呆れたように、マリアは深くため息をついた。いや、実際本当に呆れているのだ。
大人しくデンリュウを渡せば済む話だろうに、なぜ彼女らは抵抗するのか。ひょっとして、デンリュウのトレーナーは以前に一度逃れる事が出来たから今回も上手く行くと思っているのだろうか。
だとすれば、それは慢心だ。あの時とは状況がまるで違う。都合良く、そう易々と切り抜けられる訳がないだろう。
「うーん……交渉しても無駄みたいですね。残念です……」
「……えぇ。何となく、こんな返事が返ってくるとは思っていましたが……」
呆れるマリアに対し、クロエはがっかりした様子だった。初めから殆んど期待していなかったマリアと違い、クロエは多少上手くいくかもと思っていたのかも知れない。
しかし。がっかりしたのは、ほんの一瞬だけ。その次の瞬間、クロエの表情は変わっていた。
交渉が失敗したから、多少なりとも気持ちが沈んだ。だが、そんな気持ちとは裏腹に、彼女の中には別の思いがあった。
普段はおっとりしていても、ふわふわと緊張感がなくても、クロエはアシッド団の幹部なのだ。
その立場を任せられる所以が、彼女にはあった。
「さて、と。それじゃあ……」
クロエの声色から、あのふわふわした雰囲気は既に消えていた。含まれるのは、肌を貫くような冷たさ。笑顔は崩れていない。しかし細く開いたその瞳から覗かせるのは、奇妙な情調。威圧感とはまた違う、向けられるだけで足が竦んでしまうような、そんな不気味な雰囲気。妖気、とでも言うのだろうか。
「……次の手段に、移ろうかしら」
傍らにいたマリアは、クロエの変貌にはすぐに気づけた。気づくと同時に、息を呑んだ。
あぁ、そうか。ようやく、その気になってくれたのか。変貌の瞬間は前にも何度か見た事があったが、やはりどうにも慣れない。さっきまでの雰囲気はなんだったのか、人格が入れ替わってしまったのか。そんな錯覚をしてしまうくらい、今のクロエはまるで別人だった。
二重人格、などと言えば大袈裟だが、クロエには確かに二面性がある。おっとりとした普段の“顔”と、アシッド団の幹部としての“顔”が。
「……、えっ……?」
自分の身体が竦んでいる事に、サユリは気づく事すらできなかった。クロエの変貌を目の当たりにし、その妖気な瞳を正面から向けられて。雷にでも打たれたように、頭の上から爪先まで恐怖の感情に貫かれて。身動き一つ、取れずにいた。
だからこそ、気づけなかった。ダイケンキが飛び出して、アシガタナを引き抜いて。サユリとデンリュウをまとめて斬り裂かんとする、その瞬間まで。