ポケットモンスター デスティニー 〜憎しみを砕く絆〜
第7章:彼が得たかったもの
7‐2:目が覚めてから


 目覚めは、意外にも快適だった。
 ぼんやりと細く目を開くと、白い光が瞳に注ぎ込まれた。温かく、そして柔らかい光だ。瞳孔が刺激されると、自然と意識も覚醒してくる。
 どれくらい眠っていたのだろう。何か夢を見ていたような気がするし、見ていなかったような気もする。ただ、気分は悪くない。ここ最近は度重なる苦難による影響か、目覚めがあまりよろしくなかったのだが。それと比べると、今はかなり清々しい。この感覚を覚えるのは、随分と久しぶりのような気がした。

 徐々に意識が現実へと引っ張られ、やがてハイクは完全に目を覚ました。まどろみから抜け出すと、目の前に広がっていたのは見知らぬ天井。どうやら自分はどこかのベッドの上に寝かせられているようだ。
 未だにぼんやりとした頭で、ハイクは考える。自分は一体どうなったのだ、と。

 ――そうだ。思い出した。苦しみながらも“ほろびのうた”を歌うチルルを止める為に、ハイクは一人突き進んだのだ。けれども“ほろびのうた”の影響をモロに受けて、意識が朦朧となって。それを強引に振り払い、飛び出してチルルを抱き寄せた所までは覚えている。そこからの記憶がない。
 と、言う事は。あの直後に意識を失ったと言う事か。そして倒れた自分を誰かが運び、このベッドに寝かせてくれた、と。
 いや、ちょっと待って。

「ッ! チルル……!」

 自分がここに寝かされたと言う事は、チルルはどうなった?
 “ほろびのうた”。敵も味方も関係なく、聴いた者すべての生命力を奪い取る技。その対象は、歌っている本人も例外ではない。まさに諸刃の剣。
 つまりチルルは身体に深刻なダメージを受けている可能性が高い。紅波石によって様々な能力が強引に引き伸ばされた状態での“ほろびのうた”だ。ある意味その歌を最も間近で聴いてしまったチルルには、一体どれほどのダメージが――。

 そう考えると、居ても立ってもいられなくなった。こんな所で寝ている場合じゃない。チルルがどうなったのか、今すぐにでもそれを確かめなければ。
 ハイクは勢い良く上半身を持ち上げて、起き上がろうとする。しかしその瞬間、ハイクは突然の目眩に襲われた。ぐらりと急激に目の前が揺れる。

「(ま、まずい……)」

 立眩みだ。今の今まで眠っていたのにも関わらず、いきなり身体を動かしたのがよくなかったらしい。何だか気分も悪くなり、頭の中がフラフラとしてくる。
 上半身を起こしただけでこれか。我ながら情けなく思えてくる。とにかく、手をついて身体を支えなければ。このままでは倒れてしまいそうだ。

 ハイクは慌ててベッドに手をつき、倒れそうな身体を支えようとする。ふわふわとした温かい何かが手に当たった。

「……えっ?」

 ハイクの思考が一瞬だけ停止する。
 何だ、今のは。さっきまで寝ていたベッドとはまた違った感覚。ふわふわで、もふもふのこれは例えるならまるで羽毛のようだ。適度に温かく、いつまでも触っていたくなるような絶妙なもふもふ具合だ。これを抱き枕にでもして眠ったら、さぞ快眠できるだろう。と言うか、いっその事これを抱き枕にしてもうひと眠り――。

「(いや待て待て待て)」

 何を考えているんだ。目覚めて直ぐに起きた唐突な出来事を前に、頭の中が混乱しているのか。ここは一旦落ち着こう。落ち着いて、状況をよく確認すべきだ。
 ハイクはそのもふもふに視線を向ける。比喩でも何でもなく、それは白い羽毛だった。山のような白い羽毛が、無造作にそこに置かれている。しかもまるで生き物であるかのように、静かに上下に揺れているのだ。その姿はまさに、羽毛が丸まって眠っているような――。

「あっ……」

 そこでハイクは気づく。丸まった羽毛から、青い足と同じく青い頭が見え隠れしている事に。更にすやすやと寝息まで立てている事に。
 これはただの羽毛なんかじゃない。身体全体を覆うほどの真っ白な羽毛を持つ、一匹のポケモンだった。

『うぅん……』

 そのポケモンがくぐもった声を上げる。ハイクが騒いだ所為で、起きてしまったのだろうか。シーツと羽毛が擦れる音を立てつつも、そのポケモンはもぞもぞと起き上がる。小さく欠伸を一つすると、ポケモンはハイクの方へと視線を向けた。

『……あ。ハイク、おはよう』
「お、おはよう……」

 そう挨拶をされたので、ハイクも同じく挨拶をし返して――って違う。ちょっと待て。

「えっと……チルル?」
『うん?』
「……本当にチルル?」
『本当にって……。もうっ、当たり前じゃない。ひょっとして寝ぼけてる?』
「い、いや……」

 意思の疎通が、普通に取れている。
 なぜかハイクがいたベッドで眠っていたポケモン――チルタリスのチルルは、むすっと不貞腐れたような表情を浮かべた。目覚めて早々にそんな質問を投げかけられては、拗ねてしまうのも無理はない。ハイクは選ぶ言葉を間違えたと言わざるを得ないだろう。
 けれども。そんな気配りも忘れてしまう程、ハイクの頭の中は忙しなかった。数々の思いが駆け巡り、様々な感情が渦を巻いて。息をするのも、忘れそうになった。
 だって。チルルが浮かべているこの表情は、ハイクの記憶に染み付いたものに間違いなくて。紅波石の力に飲み込まれていた時のものとは、まるで違くて。そして何よりも、チルルからあのどす黒くて禍々しい波導を全く感じなかったから。

 つまる所、今のチルルは。

「目が……覚めたんだな……」
『ハイク……?』

 自然と、身体が動いていた。

「良かった……。本当に、良かった……!」

 ハイクはチルルを抱き寄せていた。
 ふわりとした感覚。チルタリス独特の匂い。温かい体温。それら全てをその身で感じて、始めて強く実感できる。本当に、助けられた。本当に、帰って来てくれたのだと。
 自然と涙が零れてきた。それが一度頬を伝うと、もう止まらなかった。ハイクは静かに、嗚咽する。

『ごめんね……。ごめんね、ハイク……。わたしはもう、大丈夫だから……』

 嗚咽するハイクを、チルルもその翼でそっと抱きしめる。それ以上、言葉は必要なかった。



―――――



 それからしばらくして。ハイクが落ち着きを取り戻した頃に、様子を見に来たのであろうレインが部屋に入ってきた。入って来た途端、涙目で抱きつかれた。
 抱きつかれたの何回目だろう。流石に女の子であるレインが幼馴染とは言え男であるハイクに何度も抱きつくのはどうかと思うが、そもそも原因を作ったのはハイクである為、文句を言うのも戸惑われた。「バカ!」だとか「無茶し過ぎ!」などの非難に相槌を打って謝罪しつつも、ハイクはレインの気が済むのを待つ。

 その後。ようやくレインが離れてくれてから、タイミング良くナギが入って来た。目覚めたハイクの姿を見ると、切羽詰っていたナギの表情も安堵のものへと変わる。
 彼女にも多大な迷惑をかけてしまった。頭を下げて謝るとナギはすんなり許してくれたが、ハイクの心には逆に突き刺さる。居た堪れないような気持ちになった。

 そして。ハイクはレインとナギから、事の経緯の説明を受けた。
 まず、ハイクが眠っていたのはポケモンセンターの一室。今は倒れてから一夜が過ぎ、丁度正午を過ぎた頃に目が覚めたらしい。特に目立った外傷もなく、内面的にも異常はない。この様子なら、明日にでも普通に動けるようになりそうだ。
 次に、チルルについて。どうやら彼女は、昨日の夜の時点で意識を取り戻していたようである。ポケモンセンターに運ばれ、診断と治療を受けて少し経った頃に目を覚ましたとの事。ハイクが危惧していた身体の異常も、チルルには殆んど見られなかった。紅波石の力も消え、ハイクもよく知る普段のチルルの姿を完全に取り戻していた。

「記憶は……大丈夫なのか? 白いローブの奴が、記憶を弄ったとか何とかって……」
『記憶? う〜ん……研究所に預けられた所までは覚えているけど、そこから先は濃い霧がかかったみたいにぼんやりしてて……。悪い夢を長い間見ていたような気もするけど……』
「……研究所に預けられる前の記憶は? 例えば、俺と始めた会った時の事とか……」
『いやいや、忘れる訳ないでしょー? あの時ハイクが来てくれなかったら、わたしはもう死んでたかも知れないんだから。……本当に、感謝してるんだよ? だから忘れられない。忘れる訳がない……』
「……そうか」

 チルルの話を聞いた所、どうやら記憶自体に問題は無さそうだ。紅波石に飲み込まれている時の事は、ぼんやりとしか覚えていないようだが。
 それならば、白ローブのあの言葉は何だったのだろうか。ただのまやかしだったのだろうか?
 それとも。

「(あいつも想定してなかったイレギュラー……とか?)」

 例えば。何らかの要因が引き金となって、失われた記憶が蘇ったとか。やや絵空事のような気もするが、そう考えればしっくりくる。まぁ、白ローブの言葉が本当にまやかしだったという可能性もあるのだけれども。

「それにしても……」

 ハイクが考え込んでいると、ナギがおもむろに口を開いた。目を向けると、何やら少し呆然としているような表情を浮かべている。
 何かあったのだろうか。

「本当にポケモンと話が出来ているみたいですね、ハイクくん……」
「……ああ、その事ですか」

 そう言えば、ナギの前で堂々とポケモンと会話をするのは始めてかも知れない。ハイクのこの能力については一応説明済みだったのだが、こうして実際に目の当たりにすると思うものがあるのだろう。そんな反応を見せてしまうのも無理はない。
 ハイク自身、この能力にだいぶ慣れてしまっているような気がする。ポケモンと会話ができるのが、当たり前になっているような――。そう思うと、自分がどんどん得体の知れないものになってきているような気がして、少し怖くなってくる。

『……ハイク? どうしたの、怖い顔して……』
「……へっ? い、いや、何でもない……」

 チルルに心配そうに声をかけられて、ハイクは慌てて笑顔を取り繕う。
 そんなに怖い顔をしていたのだろうか。最近はどうにも考え事をすると表情に出るのが癖になってきている。気をつけなければ。
 そうだ。いちいちネガティブに考えるから駄目なんだ。この能力を持っているのは、何もハイク一人ではない。タクヤも、Nだってそうだった。
 転生者。Nに聞いても、その正体は結局分からず終いだった。「その説明をするのはボクの役割じゃない」とか何とか言って、上手くはぐらかされてしまった。何も知らないから誤魔化している、と言う訳ではないだろう。あの様子は、何か知っているけれど話したくないと言った方が正しいような。

「(いや……ダメだダメだ)」

 いけない。頭の中を切り替えるつもりが、却って逆効果に――。
 このままだとまた表情に出てしまいそうだ。これ以上、この事について思考するのは止めよう。どっちみち、今ある情報だけでは満足できる結論は導き出せそうにない。

「そ、そうだ! チルル、一つ気になっていた事があったんだ!」
『ふえっ!? な、なにっ……?』

 思考と話題を強引に変える為に、ハイクは慌ててチルルに声をかける。やや食い気味になってしまった所為か、驚いたチルルは間の抜けた声を上げていた。呆気にとられたような表情を浮かべ、目をぱちくりさせている。

「……何で俺のベッドにいたんだ? お前はポケモン用の別室に運ばれてたんじゃ……」
「あっ、それ私も気になってた。この部屋、鍵ついてるはずだけど……」

 どうやらレインも気になっていたようだ。
 目が覚めたらいきなり横にチルタリスが居るなど、誰が予想できようか。ひょっとしてアレか、寝起きドッキリだろうか。ペンタのように、寝ている所にいきなりのしかかって来るような事がなかっただけ、まだマシだったのかも知れないが。

『それが……えっと……。わたしの所為でハイクが倒れたって聞いて、それで心配になって……』
「そ、そうだったのか……。いや、ちょっと待て。この部屋には鍵が……」

 「かかっていたはずだよな?」とレインに目配せで聞いてみる。「う〜ん……」と少し思案した後、レインはやや自信なさげに頷いた。
 恐らく、彼女は最後にハイクの部屋を見たとき、鍵がかかっている事を確認していたのだろう。しかし今朝になってみると、いつ間にか開けられていた。だから少し自信をなくしている。もしかしたら、確認が不足していたのではないか、と。
 しかし仮にレインの確認が十分だったとして、チルルはどうやって鍵のかかった部屋に侵入したのだろうか。まさか何らかの手段で鍵を突破したのか? あのペンタでさえそんな事できないのに、まさかチルルが――。

『えっ? 鍵空いてたよ?』
「空いてた? いや、でも……」
『あっ、そう言えばわたしが部屋に入る前にペンタが扉の前で何かしてたよ。声をかけたら慌ててどこかに行っちゃったけど……』
「……、あぁ……」

 前言撤回。ペンタにはできた。
 正直、ペンタを舐めていた。遂に鍵のかかった扉を突破する術を身につけてしまったのか、あのぬいぐるみは。大方、眠っているハイクに悪戯でもしようと思ったのだろうが、その為に決してヤワじゃないポケモンセンターのセキュリティまでも突破してしまうとは。ペンタはその悪知恵をもっと別の事に使うべきだと思う。

「ハイク、チルル何て言ってたの? ほら、通訳通訳!」
「えっ、い、いや……それが……」

 レインが急かしてくるが、ハイクは思わず口篭ってしまう。
 驚いたと言うか呆れたと言うか。もう鍵をかけても安心できないではないか。今回はチルルに助けられたから良かったものの、またいつペンタが侵入してくるか。

『ハイク……。ひょっとして、迷惑だった?』
「……へ? 迷惑って……」
『……そうだよね。眠っている隙に布団に潜り込まれたら、誰だって嫌だよね。ごめんね、ハイクの気持ちも考えなくて……』
「…………」

 ほろりと目尻に涙を浮かべながらも、チルルは悲しげにそう言った。
 何だこの雰囲気は。これはハイクが悪いのか? と言うか、チルルってこんなキャラだったっけ。だんだん不安になってきた。

「……あの、ハイクくん。チルルちゃんが泣いてるんですけど、何を言ったんですか……?」
「は、はい? 別に、特に変な事は言ってませんけど……」
「ふふふ……嘘はいけませんよ? わたしだって、伊達に鳥ポケモン使いのジムリーダーやってません。ハイクくんのように完全な会話はできずとも、鳥ポケモンの気持ちは敏感に感じ取る事ができます。だから分かるんです。チルルちゃんが泣いている原因は、ハイクくんにあるのだと……!」

 涙を流したチルルを見て、ナギが何やら勘違いしている。いや、原因がハイクにあると言うのは、強ち間違ってないのだけれども。

「ちょ……ちょっとナギさん落ち着い」
「さぁ観念しなさい! そしてチルルちゃんに謝りなさい!」

 立ち上がったナギが詰め寄ってくる。鳥ポケモンに対する愛情が人一倍強いナギにとって、チルタリスの泣いている姿には応えるものがあったのだろう。しかしそれにしても、些か目が怖すぎる気がするが。今にも掴みかかってきそうな剣幕である。

「えぇ!? どういう事ハイク! 説明してよ!」
「え、いや、だから俺は……」
「さぁ、早く謝って下さい! 言い訳はなしですよ!」

 いつの間にか収拾がつかなくなってきている気がする。
 レインはよく分からないまま説明を促してくるし、ナギは相変わらず詰め寄ってくるし、チルルはしょんぼりしている。流石のハイクも、ここまで一遍に情報を提示されても処理しきれない。
 とにかくわたわたと騒がしく、この後もハイクは揉みくちゃにされて酷く疲れたのだけれども。
 でも。チルルが目を覚まして、ハイクの下へと帰って来てくれたから。まぁ、別にいいかと、ハイクは諦め半分に受け入れていた。



―――――



『ぅん……?』

 何やら人間の甲高い声が聞こえて、ラティアスは目を覚ました。
 一体、今のは何だったんだ。「観念して下さい!」だとか「言い訳はなしですよ!」とか、まるで誰かをかなり強引に説得しているようではないか。喧嘩でもしているのだろうか。

『あ……れ……?』

 そう言えば、自分はどうなったんだっけ?
 感情の赴くままにあの人間に襲いかかって、でもハッサムに返り打ちにされて。遂に限界に達したラティアスは、ハッサムに止めを刺されそうになったのだ。しかし、ギリギリの所で駆けつけたジュカインによって、助けられて――。
 それから、トロピウスを連れた人間にどこかに連れて行かれた所までは覚えている。けれども、その先の記憶は曖昧だ。そこで意識を失ったのだろうか。

 思い返してみると、改めて悔しさと情けなさが滲み出てくる。結局自分は何もできなくて、助けられてばかりじゃないか。ジュカインが来てくれなかったら、今頃どうなっていたか。
 あのジュカインのお陰で、ラティアスは――。

『気分はどうだ?』
『ひゃいっ!?』

 いきなり声をかけられて、ラティアスは飛び起きた。随分と奇妙な声が出てしまったが、そんな事を気にしている余裕はない。
 一気に覚醒したラティアスは、慌てて周囲の状況を確認する。ここは、病室か何かだろうか。以前運ばれたポケモンセンターの一室に似ている。薬品独特のつんと鼻をつく匂いがする事から、恐らくその推測は間違っていないだろう。
 いや、今はここがどこだろうとどうでもいい。重要なのは、あの声の主だ。

 そのポケモンは、部屋の壁に凭れて立っていた。

『……驚き過ぎじゃないか?』

 この声、そして右目にある大きな傷。間違いない。自らをカインと名乗った、あのジュカインだった。
 丁度コイツの事を考え始めた矢先、あまりにもタイミング良く声をかけられたのだ。心臓が飛び上がるくらいにびっくりして、思わず身体までも飛び上がる。
 何だ。何なんだ、コイツは。ひょっとして、狙ってたのか?

『なっ……ななな……!』

 常識的に考えてそんな訳がないのだが、そうやって思考を巡らせずにはいられなかった。心臓が激しく高鳴って、狼狽がまるで収まらなくて。頭の中もぐちゃぐちゃになってきた。
 一度混乱してしまうと、もう自分で抑える事はできない。冷静になる事などできる訳がなく、混乱しながらも頭の中で組み立てた言葉を、ラティアスは直球で吐き出した。

『何であんたがここにいるのよぉ!?』

 その怒号は、最早叫び声に近かった。
 どうやらカインもそこまで怒鳴られるとは思っていなかったらしく、やや面食らったような表情を浮かべている。確かに、当然の反応ではある。
 しかし、今のラティアスはそんなカインの事などに気を遣う余裕なんてない。妙な反応を見せてしまった事に今更気づき始めて、羞恥心がじわじわと高まってきていた。何だか頬が熱を帯び始めているような気がするから、もしかしたら赤面してしまっているかも知れない。

『……俺がいたら何か問題でもあるのか?』
『あるに決まってんでしょ!? 普通、目が覚めたら誰かがそこにいるなんて予想できる訳ないじゃない! あんた、誰の許可を得て入ってきてんのよ!?』
『許可も何も……俺達の言葉は普通の人間には聞こえないだろう』

 ラティアスばかり熱くなって、カインは至って冷静だ。傍から見れば、ラティアスが一人で勝手に怒っているようにしか見えない。
 これまでの状況から考えて、カインは怪我をしたラティアスが心配になって様子を見ていてくれたのだと考えるのが妥当だろう。落ち着いて思い返せばすぐに分かる事だ。
 だが、今のラティアスではその結論にまで至る事はできない。ここまで熱くなってしまっては、抜け出すのは容易ではないのだ。頭の中で考えて冷静に判断する前に、口ばかりが動いてしまう。

『だいたい……! あんたはデリカシーがないのよ! 私を何だと思ってんの!?』
『何って……。まずは一度落ち着いたらどうだ? なぜ今日に限ってそんなに熱くなっている? ついこの前にも似たような事があったが……そこまで声を荒げたりはしなかっただろう』
『それは……! あの時とは、状況がちょっと違うって言うか……』
『……? 何が違うんだ?』
『な、なんでもないっ!』

 そうだ。状況は違う。以前におくりび山のポケモンセンターで目覚めた時はまだコイツとは出会ったばかりで、特にどんな奴なのかも知らなかった。それに、まだ心の傷が深く蝕んでいた時期だったが故に余計な事まで気を配る事ができなかったのだ。
 けれども。今はある程度コイツの人となりを理解してきている。無口で、無表情で、愛想なんてこれっぽっちもないけれど。でも誰よりも仲間思いだ。誰かが苦しんでいるのなら、決して見捨てたりせず助けようとする。無愛想な癖に、馬鹿がつく程お人好しなポケモンなのだ。

 そんな奴に、ラティアスは救われた。今回だけではない。初めて会った時も、コイツが何も言わずにそばに居てくれたから、ラティアスは立ち直る事ができた。
 つまり、二回。もう二回も救われてしまったのだ。となれば、多少意識してしまうのも、不可抗力と言う訳で。

『…………ッ!?』

 違う違う違う。
 ぶんぶんと頭を振って、ラティアスは雑念を払拭する。何を考えているんだ、自分は。よりにもよって、こんな奴を。きっと勘違いだ。兄であるラティオスと離れ離れになってからずっと一人ぼっちで、心細い思いをしてきて。だから心が弱くなっていて、そこにちょっと優しくされたから。今は少し、隙ができているだけだ。
 そうだ。ちょっと隙ができているだけ。だから決して絶対に断じて確実にそんな事、微塵も思っている訳がない。

『一体どうしたんだ? 今日のあんたは少し変だぞ』
『うっさいバカ!』
『バカって……。何をそんなに怒ってるんだ?』
『知らない知らない! バカバカバカァ! この朴念仁! 唐変木! 緑トカゲ!!』
『……緑トカゲは悪口のつもりなのか?』

 何だか自分でも何を言っているのか分からなくなってきた。けれども怒鳴り散らしていないと、自分を見失いそうだった。
 本当に調子が狂う。こんな事は初めてだ。これも全部、この緑トカゲの所為だろう。間違いない。

 そんなラティアスに対し、緑トカゲことカインは少々呆れたように溜息をついていた。それを見たラティアスは余計に頭に来て、更なる罵声を浴びせようとする。
 しかし。赤面して上手く言葉が紡げないラティアスよりも先に、カインが口を開いた。

『だが……安心した』
『……へっ?』
『そこまで元気なら、もう大丈夫だろう。だから安心した』
『あっ……う、え……?』
『自分を何だと思っているかのと、あんたはさっき聞いてきたな。あんたが俺の事をどう思っているかは分からないが、少なくとも俺は他人とは思っていない。押し付けがましいかも知れないが、共に旅をする仲間だと思っている。そんな奴が大怪我をしたとなれば、心配するのは当然だろう?』

 それから、本当に優しげな表情を浮かべて、

『まぁ……あんたからしてみればいい迷惑、だったのかも知れないが』

 本当に、コイツは。どうして、流れるようにそんな事を言えるのだろう。
 ワザと言っているんじゃないかと何度も疑ったが、どうにもそのような意図は感じられない。コイツはただ、本当に思った事を口にしているだけ。下心なんて、微塵もない。
 嘘なんてついていないだろう。ラティアスの事を、本当に仲間だと思ってくれている。仲間だと思ってくれているから、こうして心配して様子を見に来てくれている。
 でも。そんな事を、息をするように口にできるなんて。やっぱりコイツは色々と無頓着でデリカシーのないヤツだ。

 でも。ラティアスの事を思って、少しでも気を楽にさせようとしてくれて。きっと不器用なりに、気遣いをしてくれたのだから。
 悪い気はしない。寧ろ――ちょっぴり嬉しい。

『ふんっ! 分かってんじゃないのよ。本当にいい迷惑だわ!』

 ぷいっとそっぽを向いて、ラティアスは吐き捨てるようにそう言った。我ながら見え透いた照れ隠しだなと、彼女は思う。しかし、今の自分ではまだ素直になる事はできそうにないから。これで精一杯だった。

 そんなラティアスの気持ちを何となく理解してくれたのか、否か。そこまでは分からなかったが、カインが肩を窄めつつも口を開く。

『さて……俺はハイクの様子を見に行く事にする。ようやく目が覚めたようだしな』
『……あっそ。勝手にすれば? 私もあんたみたいな朴念仁とようやく別れられて、好都合よ』
『……そうか』

 それだけを言い残すと、カインは凭れかかっていた身体を起こす。そのまま何も言わずに歩き出し、部屋から出るべく扉のノブに手をかけようとする。けれども最後に、もう一度だけラティアスの方へと振り向いて、こう言った。

『……自分の兄が奴らに拐われて、あんたが焦るのも分かる。だが一人で突っ走る前に、たまには俺達の事も頼ってくれ。あんたに怪我をされるのも、あまり良い気分ではないからな』

 ガチャリと扉が開く音が響き、次いでバタンと閉じる音がする。余計なお世話を言い残し、カインが部屋から出て行ったのだろう。しかし一応、今一度部屋の中を確認してみる。扉は閉まっており、カインの姿は既にない。どうやら本当にハイクの様子を見に行ったらしい。

 それを確認すると、ラティアスは身体の力が一気に抜けた。

『はぁ……』

 思わず溜息を漏らし、ベッドに顔を埋める。何だか、ドッと疲れた。この短時間でここまで強い疲労感を感じたのは、流石に初めてだ。ただアイツと一緒にいるだけで、まさかここまで疲れるとは。このままハイク達と行動を共にするにしても、自分は今後本当に大丈夫なのだろうか。

『……余計なお世話よ。ばか……』

 カインの言葉を思い出す。
 アイツは結局、最後までお節介を焼いてきた。自分達の事も頼って欲しいと、そう言ってくれた。まったく、一体どこまでお人好しなんだあの緑トカゲは。
 でも。

『…………』

 やっぱり、悪い気はしない。
 そう思うと、また途端に顔が熱くなってきた。心臓の鼓動もバクバクと高鳴ってゆき、全身の血流も早くなる。身体もぷるぷると震え始め、ラティアスは思わず下唇を噛み締めた。
 何だ。何なんだ、一体。こんな事、生まれて初めてで――。

『ケヘヘヘ! 面白いものを見せてもらったぜぇ?』
『ひゃああああ!?』

 また声が聞こえて来た。しかも今回は誰もいないと思っていた部屋で、ついでにこんな精神状態でだ。先ほどより悲鳴に近い大声を上げ、ラティアスは再び飛び上がる。
 慌てて目を向けると、枕元にそのポケモンはいた。口にチャックが付いた、黒いぬいぐるみ――ぬいぐるみポケモン、ジュペッタだった。
 だが、ただのジュペッタではない。レインの手持ちポケモンである、あのイタズラ好きで有名なジュペッタのペンタである。ニタニタと笑いながらも、ペンタは驚くラティアスを見て楽しんでいるようだった。

『あっ……あ、あああんたいつから……!?』

 驚きのあまり呂律が回らなくなって来たラティアスが、やっとの思いでそう尋ねる。対するペンタは相も変わらず実に満足そうな笑みを浮かべながらも、

『最初からいたぜ? ずっと部屋の隅にな。いやぁ、オレっちは気配を消すのが得意でな! 結局カインにも最後まで気づかれなかったぜ! ケヘヘヘ!』
『な、ななな……!』

 いちいち笑い声が癇に障るが、今はそんな事までつっこんでいられるほど余裕はない。
 こいつは最初からいた。つまりカインの前でわたわたとしていた自分の姿を、終始見られていた訳で。無頓着で鈍感なカインだけなら良かったものの、いかにも悪知恵が働きそうでその上底抜けに意地が悪そうなこいつにまで見られたとなると――。

『にしても、アレだな。お前ひょっとして……』
『な、何よ……?』

 羞恥なのか怒りなのかよく分からない感情がラティアスの中で渦巻く中、ニヤニヤしながらペンタが声をかけてくる。恐る恐る聞き直すと、ペンタは口の端を釣り上げて笑い混じりに答えた。

『……カインに惚れてんのか?』
『…………はっ?』

 何を言ってるんだ、コイツは。カインに惚れてるのかだって? 誰が? ラティアスが?
 いきなりの問いを前にして、一瞬だけ放心してしまう。けれども五秒ほど使ってその意味を理解した時、ラティアスの感情は爆発した。

『はぁぁぁぁあああ!?』

 その叫びは、ひょっとしたら今日一番の大声だったかも知れない。

『い、いいいいきなり何言ってんのよあんたは!? ほ、惚れ……? あいつに……? バッカじゃないの!? どこをどう見たらそんな考えに至るのよ!?』
『ケヘヘッ! お前こそ何言ってんだ? どこをどう見てもそんな考えにしか至らないだろ』
『ば、バカね! やっぱりあんたバカよ! 絶っっ対にあり得ないっ!! 大体、何で私がついこの前会ったばかりのあいつの事なんか……!』

 必死になって言い返すラティアスだが、ペンタはまるで調子を崩さない。それどころか、何か納得したような表情を浮かべて『うんうん』と一人頷いていた。
 本当に何なんだコイツは。一体、何がしたいんだ。あり得ない事ばかり言って。
 ラティアスがカインに惚れているとか。そんな事、あるはずがないだろう。そう、あるはずが――。

『…………っ!!』

 再び顔が熱くなってきて、ラティアスはぶんぶんと頭を振る。
 違う。絶対に違う。これは何かの間違い――そうだ、これは罠だ。ペンタの巧妙な策略だ。ラティアスは嵌められたのだ。

『ははーん? 成程、そうか。やっぱりお前は噂に聞くあれなのか』
『な、何よっ!? 今度は何だって言うの!?』

 ラティアスが現実逃避していると、追い打ちをかけるようにペンタが口を開く。鋭くラティアスが言い返すと、あの癇に障る笑い声を上げながらもペンタは答えた。

『ほら、あれだよ。前にルクスが言ってた……えっと……、ツンデレってヤツ?』

 取り敢えず“ミストボール”をぶっぱなしといた。

absolute ( 2015/09/16(水) 17:54 )