ポケットモンスター デスティニー 〜憎しみを砕く絆〜
第6章:記憶の欠片
6‐7:記憶


 もう、何度目になるのだろう。こんな気持ちを味わったのは。
 研究所に預けていたポケモンが行方不明になって、やっと見つけたと思っていたらローブ達に良いように利用されていて。記憶までも改竄され、ハイクに襲いかかってくる。
 一緒にホウエン地方を旅して、一緒にジムを巡って。一緒にリーグを目指した大切な仲間なのに。そんな記憶はいとも簡単に書き替えられた。全部なかった事にされた。
 あいつらは繋がりを無理矢理にでも引き裂こうとした。自分達の目的を達成する為に、絆を踏み躙った。その苦痛に苦しむハイクを見て、嘲笑うような奴もいた。

「チルル……」

 ハイクはもう一度、目の前にいるチルタリスの名を呟く。しかし、彼女はそれに反応するような様子は見せなかった。
 身体が小刻みに震えている気がする。タクヤがローブ達に加担している以上、彼が研究所から消えたポケモンを持っていてもおかしくないはずなのに。いざそれが突きつけられると、どうにも拒否感を強く感じてしまう。未だに心の奥底では、完全に受け入れきれてない。

 ソルト、ライト、クート。そしてレインから聞いた話では、コロナも確認できたらしい。チルルで五匹目。ハイクを排除する為に、タクヤが繰り出してきた。
 きっとタクヤは、最も確実な方法で任務を遂行しようとしているのだろう。その方法がこれ、と言う事か。

「ハイク……。やっぱり、この子って……」

 レインの確認。しかし、ハイクは何も言わない。沈黙が答えだった。
 そんなハイクの様子を見て、レインは察する。あぁ、そうか。やっぱり自分の予感通り、このチルタリスはハイクの――。

『……どうする? ハイク』

 短く、カインが声をかけてくる。握り締めていたハイクの拳から、ふっと力が抜けた。

「俺は……」

 カインだけではなく、ルクスやフレイの視線もハイクへと集まる。皆がハイクの言葉を待っている。
 少し前までならば、ハイクの心は完全に折れてしまっていたかも知れない。もうどうする事も出来ないのだと、そう諦めてしまっていたのかも知れない。
 しかし。今は違う。

 キンセツシティでヴォルに言われた言葉。それをハイクは無意識の内に口にする。

「繋がりは……絆は……そう簡単には壊されない……」

 ハイクはゆっくりと顔を上げる。そして、タクヤとチルルへと眼差しを向けた。決意の篭った、活力のある瞳で。

「俺は諦めない……! チルルを助けて、タクヤも止める!」

 ハイクは真っ直ぐにそう宣言した。横で聞いていたカインも、思わず破顔する。心の片隅で、期待していた答え。
 ハイクなら、そう言ってくれると信じていた。今のハイクなら、そう簡単に折れたりしない。絶対に諦めない。そう確信していた。
 そう思っていたのはカインだけじゃない。レインも、ルクスも、フレイも。ハイクを信じてくれていた。

『へへっ……。やっぱりハイクはそうじゃなくってな!』
『あぁ! 俺だって同じ思いだ。チルルを助けよう!』

 ルクスとフレイが、それぞれ声をかけてきてくれる。そして、レインも。

「行こう、ハイク。皆で、一緒に!」

 ハイクは頷く。迷いなんて、もうなかった。
 どんなに可能性が低くたっていい。少し失敗したって構わない。ハイクはハイクの思う道を突き進む。チルルを助けて、タクヤも止める。その決意は揺らがなかった。

「オレを……止める……? はっ……本当、あんた達は……」

  ハイク達のやり取りを見ていたタクヤが、ぶつぶつと呟くようにそう言う。
 突きつけられた現実と向き合って、それでも意思を貫き通そうとするハイクを見て。気に食わなかった。イライラが高まっていた。
 タクヤも止める? 何も知らない癖に、良くそんな事が言えたものだ。こいつは何も分かっちゃいない。結局は自己満足じゃないか。

 本当に、腹が立つ。

「……ムカつくんだよ。そうやって知ったような口ばっかり利いて。耳障りなんだよ」
「タクヤ……。俺達は……!」
「話は終わりだ……。最初から、躊躇する必要なんてなかったんだ……」

 スっと、タクヤがハイク達へと指を向ける。鋭い目つきで、ハイク達を睨みつける。

「終わらせる……今、ここで……! あんたを消せば俺は……!」
「もう止めろ! タクヤ!」
「黙れ! あんたに指図される謂れはない! チルタリス……“りゅうのはどう”だ!」

 既にタクヤは、聞く耳を持たなかった。
 タクヤの指示に瞬時に反応したチルルが、大きく翼を広げる。身を翻すと、その口元にエネルギーを充填させ始めた。わずか数秒で、蓄積されたエネルギーが爆発的に膨れ上がる。空気を揺らし、強い光を発生させる。

『……! 散開だ! 避けろ!』

 咄嗟に危険を察知したカインが、振り向いて大声を上げる。直後、“りゅうのはどう”が放たれた。
 更に一際強い発光。ワンテンポ遅れて響き渡る爆音。土やら木やらが弾け飛び、周囲に四散する。もくもくと立ち篭める黒煙と、抉られた地面がその威力を物語っていた。

 圧倒的な破壊力。まさに異常の一言。通常の“りゅうのはどう”とは比べ物にならない、あまりにも常識から逸脱している威力だ。いくらチャンピオンのポケモンでも、これほどまでの“りゅうのはどう”を打てる訳がない。
 これが紅波石の力。ポケモンの中に眠るエネルギーを、強引に増幅させる。

「何だよ、これ……! これが“りゅうのはどう”だって……!?」
『チッ……。皆、無事か?』

 飛び込む事でギリギリで爆発から免れたカインとハイクが、のっそりと立ち上がる。立ち篭める煙の中で視線を動かすと、こちらに向けて手を振っている人影が見えた。
 おそらくレインだろう。どうやら彼女達も難を逃れたようだ。

「良かった……。取り敢えず皆無事で……。ッ!」

 ホッとしかけて、ハイクは瞬時に何かを察知する。背筋に悪寒が走り、反射的に視線を動かした。
 黒煙と砂埃で視界は悪い。けれども、分かる。視覚はできないが、感じる事はできる。あのどす黒い、“波導”を。

『ハイク……? どうかしたのか?』
「次の攻撃が……来る……!」

 一瞬だけ困惑しかけたが、そこは流石カイン。冷静に状況を判断し、チルルの追撃に備える。ハイクを強く信頼しているから、その指示を待つ事ができる。
 正直。ハイク自身も、なぜチルルの位置がこんなにも正確に感じ取れるのか分からない。だた一つ理解できるのは、自分が感じているものは“波導”なのだと言う事。

「今だ……! カイン、“ドラゴンクロー”!」

 ハイクの指示。脚のバネを上手く使って、カインは飛び出した。構えた両手の爪に淡い光が灯る。
 黒煙と砂埃を突き破り、そこに見えるのは一つの影。翼を大きく広げ、真正面から突っ込んでくるチルルだった。
 ハイクの予感は正確だった。抜群のタイミングでの技の指示。波導を感じるという事は何となくといった漠然とした感覚ではなく、どうやら確かなものらしい。
 しかし、あくまで感じ取れるだけだ。波導を使ってどうこうできる訳ではない。その上、まだ完全にその能力を使いこなせてないらしい。どんな技を打ってくるのか、そしてその技はどれ程の威力なのか。そこまで正確な事は判断できない。

『(この攻撃は……“ゴッドバード”か……!)』

 正面から“ドラゴンクロー”で迎撃しようと考えていたカインだったが、迫ってくるチルルの様子を見て考えを改める。
 “ゴッドバード”。飛行タイプの強力な物理技。しかもさっきの“りゅうのはどう”のように威力が大幅に引き上げれられているときた。
 単純な足し引きでも、こちらの力量不足は明白だ。正面から迎え撃つのはまずい。

『クッ……!』

 体重を乗せてブレーキをかけ、カインは身体を捻る。攻撃を受け止めるのではなく受け流す。このタイミングではそうするしかない。
 直前でチルルの側面へと回り込むように動くカイン。この距離では完全にダメージを回避する事は不可能。故にある程度開き直る必要がある。
 “ドラゴンクロー”をチルルの横っ腹にお見舞いする。思惑通り、その軌道をずらす事に成功した。チルルの体重があらぬ方向に逃げる。

「……ッ!?」

 再び轟音。しかし、やはりチルルの攻撃は誰にも直撃しなかった。メキメキと音を立てて、また数本倒木してしまう。
 カインは冷や汗を流す。こちらのダメージは最小限に抑えられたが、本当に危なかった。両腕がじんじんする。痺れて一瞬だけ感覚を失いそうになった。
 想像以上の威力だ。まともに受ければ一撃で瀕死――最悪の場合、命に関わるかもしれない。

「カイン! 大丈夫か……? ごめん……俺が技を見誤った所為で……」
『……気にするな。直撃さえしなければ問題ない』

 とは言ったものの、あんな攻撃を連続で打たれたら危険だ。何とかしなければ。

「……避けただと? だが……」

 視界が回復し、目標を仕留め損なった事を確認したタクヤが舌打ちをする。
 今の一撃で片付けられる事を心の片隅で期待していたのだが、やはりそう簡単にはいかないらしい。しかし、タクヤが優位である事には変わりない。圧倒的な力を持つチルタリスがいる限り、この状況は揺るがない。

「チルタリス! お前の力はそんなもんじゃないだろう? さぁ立て! そいつらを始末するんだ!」

 倒れた木々を押しのけながらも、チルルが起き上がる。タクヤの声だけに、反応する。
 与えられた命令だけを、ただ淡々と実行するだけの人形。今のチルルは、そんな状態だった。

「ダメだ……! 止めてくれチルル!」

 そんなハイクの呼び掛けは、まるでチルルに届かない。
 チルルが次なる技の準備をする。“りゅうのはどう”だ。またあの攻撃が来る。

「チルル……! 目を、覚ましてくれ……!」

 チルルが再びエネルギーを溜める。強い光が放たれ、周囲の空気が激しく振動する。
 ハイクは諦めない。何度も何度も、チルルに呼びかけ続ける。けれども、チルルは止まらない。膨れ上がるエネルギーは収まらない。ハイクの思いは、届かない。

「いけない……! フレイ、“だいもんじ”! ルクスは“10まんボルト”!」

 このまま“りゅうのはどう”を打たれるのは危険だ。そう判断したレインが、咄嗟に技の指示を出す。“だいもんじ”と“10まんボルト”。それらは吸い込まれるようにチルルに直撃した。その直後、彼女の身体がぐらりと揺れて、蓄積されていたエネルギーが四散する。“りゅうのはどう”はルクスとフレイの攻撃によって何とか阻止された。

『ハイク! 無理し過ぎだって!』
「で、でも……!」
『気持ちは分かるけど……。ハイクが死んじゃったら元も子もないんだ!』

 ルクスに叱責されて、ハイクは言葉が詰まる。
 確かに彼の言う事も一理ある。だが、ハイクもそう簡単に引く訳にはいかない。ライトの時もクートの時も、結局何もできなかったのだ。だから今回こそは、助けたい。助け出してみせる。
 けれども。

「ハイク……!」

 駆け寄って来るレイン。しかしハイクはそんな彼女と目を合わせる事ができず、ただ下唇を噛み締める。
 死んだら元も子もない。死んでしまったらそこで終わり。ハイクが一人で突っ走って、それで命を落とす事になってしまったらレインは――。

「……ごめん、レイン。俺、また……」
「えっ……?」

 もうレインを泣かせたくないって、そう心に決めたはずなのに。それなのに、また無理をして。
 駄目だ。これじゃ、駄目じゃないか。自分は何も反省していない。何も変わっていない。
 だけど、それでも――。

「また……心配をかけるかも知れない。無茶をしちゃうかも知れない。だから……ごめん」

 自分の気持ちに、嘘をつきたくない。例え無茶だったとしても、チルルを助け出したい。それは紛れもなくハイク自身の思いだから。それを貫き通したい。
 しかし、レインに心配をかけたくないという思いも本物だ。だからハイクは“無茶”をする。チルルを助け出し、自分も死なずに生き残るという“無茶”を。

「ハイク……。私は……」

 レインはハイクの気持ちを理解していた。そして、彼の性格もよく知っている。幼馴染で、ずっと一緒だったから分かる。
 だから、ハイクを信じてる。ハイクならどんな無茶でも貫けられるって、そう確信している。ハイクの気持ちを、受け止めたい。

 レインはそんな思いを、ハイクに伝えようとした。
 しかし。タイミングが悪かった。

「ん……?」

 妙な音が聴こえてきた。
 透き通るような綺麗な音。優しげだけれど、どこか棘があるような音色。それが一定のリズムで響き渡っている。これは――歌?
 不思議な歌だ。なぜだか妙に引き込まれる。いつまでも聴いていたくなる。
 聴いていると、心が休まるような気がするのだ。身体がふわふわと軽くなり、まるで宙を漂っているかのような。これはまるで、そう。眠りに落ちる時の感覚に似ている。安らかに、ゆったりと。身体が、崩れ落ちて――。

「…………ッ!」

 前に倒れ込みそうになり、ハイクは慌てて踏み止まる。ぼんやりとしていた感覚が、一気に覚醒する。
 何だ。何なんだ、今のは。あの歌を聴いている内に、突然意識が飛びそうになった。苦しみも、痛みもなく。ごく自然に、それこそ眠るように卒倒しそうになった。

 ポケモンの技? “うたう”だろうか。
 いや、違う。そんな生易しいものではない。これは――。

「ほろびの……うた……?」

 “ほろびのうた”。その歌を聴いてしまったら最後、為す術もなく生命力を奪い取られてしまう凶悪な技。“うたう”のように睡眠状態を誘うのではない。再起不能。瀕死状態まで誘い込む、文字通り滅びの歌。

 しかし、一つ気になる事がある。
 これはあくまでポケモンの技だ。ポケモンバトルにおいて、ポケモンだけを対象に使う技。にも関わらず、人間であるハイクにもこんなに早く効果が現れるなんて。
 普通じゃない。“りゅうのはどう”や、“ゴッドバード”と同じように。この技もまた、既に常識から逸脱してしまっている。よりにもよって、こんな厄介な技が。

「皆は……!?」

 自分にもこんな効果が現れたのだから、他の皆にだって影響はあるはず。ハイクは慌てて顔を上げる。
 最初に目に入ったのは、丁度横にいたレインの姿。彼女は力なく座り込み、ぐったりとしてしまっている。目の焦点も合っていない。
 明らかに技の影響を受けている。しかもハイクのように直前で意識を取り戻せていない。最早殆んど昏睡状態。

「レイン!」

 ハイクの叫びとほぼ同時に、どさりと何かが倒れる音が響く。
 倒れたのはルクスだった。“ほろびのうた”によって生命力が削り取られ、成すすべもなく昏倒。苦しむ素振りすら見せる暇もなく、静かに意識を失った。

「そ、そんな……」
『まずいな……これ、は……』
『ルクス……レイン……! くそっ……!』

 カインとフレイは辛うじて意識を保てている。だが、いずれルクスと同じように限界が訪れてしまう。そして、ハイクも。まだ意識は残っているものの、徐々に目眩も酷くなってきた。
 もう時間がない。

 “ほろびのうた”。本当に厄介な技だ。敵も味方も関係なく、生命力を削り取る。
 そう。敵も味方も関係ない。この技は特定の対象を選ぶ事ができないのだ。歌を聴いてしまった者すべてに効果が現れる。
 そんな歌の影響を受けているのは、ハイク達だけじゃない。

『タクヤ……! ダメ、だよ……この歌は……!』

 エルバ、そしてタクヤもまたこの歌に苦しめられていた。
 弱々しく声を上げるエルバ。ふらふらと足元が覚束無いタクヤ。どちらもいつ倒れてもおかしくない状態だ。技の影響をまともに受けてしまっている。

「ち……違う……。オレは、こんな技……」

 ボヤけてくる視界。遠ざかってゆく意識。朦朧とする中、タクヤは必死に思考を働かせる。
 この歌を歌っているのはあのチルタリスだ。それは間違いない。だが、タクヤは“ほろびのうた”を使えなどと指示を出した覚えはない。
 つまり、これはチルタリスの独断。完全に意識は乗っ取られ、今やタクヤの指示に従う事しかできないはずなのに。チルタリスは、タクヤの指示にはない行動を取った。

「(始末しろと言ったからか……? いや、だが……)」

 何にせよ、この技は危険。紅波石の力で強化されているとなると尚更だ。
 止めさせなければ。

「チルタリス……! オレがいつ“ほろびのうた”を使えと言った……!? 今すぐに止めろ……!」

 精一杯に声を張り上げるタクヤ。今のチルタリスなら、声が聞こえれば指示に従ってくれるはず。この忌々しい歌を響かせるのを止めてくれるはずだ。
 しかし。

「おい……チルタリス……! 聞こえているのか……!?」

 歌は一向に止まらなかった。それどころか、更に勢いが増したのだ。タクヤの指示などまるで聞かず、チルタリスは狂ったように歌い続ける。
 タクヤの声が聞こえてなのだろうか。
 いや、違う。声は聞こえている。しかし、届いていないのだ。耳に入ってきても、それを受け入れる事ができない。処理する事ができない。だから言う事を聞けない。
 だからチルタリスは、暴走するしかない。

「くそっ! なぜだ……! まさか……ハイクさんの声に反応して……?」

 一つの仮設を思い浮かべるが、タクヤは直様それを払拭する。
 あり得ない。紅波石の力に飲み込まれたポケモンは、意識を取り戻す事はないはずだ。ハイクの声など、届くはずがない。
 しかし。だとすればどう説明する? 他に思い当たる原因があるのか?

 もし。ハイク達の信じる“絆”とやらが、イレギュラーな結果を招いているのだとすれば?

「チルル……!」

 ハイクは少しずつ前進していた。今も尚歌い続けるチルルの所へと、向かおうとしていた。
 正直、もう限界は近い。目眩もかなり酷くなってきた。既に何度か意識を失いかけている。しかし、それでもハイクはまだ倒れない。
 チルルを助けたい。ただ一つの強い思いが、彼を突き動かしていた。

「お前の気持ち……分かるよ……。辛いんだろ……? そのどす黒い波導に飲み込まれて……苦しいんだろ……? でも……もう、苦しむ必要なんてない……。こんなこと、しなくていいんだ……!」

 ガクンと、ハイクの膝から力が抜ける。前のめりになってそのまま倒れそうになるが、慌てて一歩踏み出す事でそれを回避する。
 今のはかなり危なかった。あのまま倒れていたら、今度こそ完全に意識を失っていたかも知れない。

「まだだ……まだ、行ける……!」

 諦めない。もう、諦めたくない。こんな所で、倒れる訳にはいかないんだ。
 ハイクの声がチルルに届かないのならば。届くまで声をかけ続けれればいい。何度も何度も、思いをぶつければいい。
 繋がりはまだ途切れていない。絆を手繰り寄せて、チルルを連れ戻す。

「(チルル……チルル、チルル……!)」

 感覚が遠のいてゆく身体を無理矢理動かし、ハイクは前に出る。精一杯に足を動かし、走り出した。
 何度も転びそうになった。意識が飛びそうになった。けれども、ハイクは足を止めない。雄叫びを上げて、必死になって走り続ける。ハイクはチルルに、手を伸ばす。

「届けぇぇぇぇ!」

 ハイクは飛び込んだ。殆んど倒れ込むような形で、彼はチルルを抱きかかえようとする。
 ハイクとチルル。一人と一匹の身体が、ぶつかった。



―――――



 出会いは、今から一年近く前の事だったか。
 空気が冷たい冬の季節。114番道路の岩場地帯。そこにあるとある崖っ縁に、一匹のチルットが蹲っていた。
 そこは岩の壁から突き出た小さな空間だった。ちょっとでもずれれば、忽ち奈落のそこに落ちてしまうような場所。まさに断崖絶壁。しかし、チルットは飛行タイプのポケモン。その翼で飛び立てば、自力で脱出するなど造作もないはず。
 ところが、そのチルットは事情が違った。自慢の白い綿毛のような翼には、真っ赤な血が滲んでしまっている。
 チルットは怪我をしていた。それも、羽ばたいて飛び立つ事ができない程の怪我を。

 飛行タイプのポケモンが翼に大怪我を負ってしまうのは致命的だ。それは手足を失うのに等しく、まともに動く事さえ叶わなくなる。やがて衰弱し、命が尽きてしまう。
 しかも今は冬。比較的寒さに弱いチルットでは、ジッとしているだけで余計に多くの体力を持って行かれてしまう。
 餓死するのが先か、凍死するのが先か。いずれにせよ、最早このチルットに未来は残されていない。それはチルット自身も何となく感づいているらしく、既に半ば生きる事を諦めてしまっているように見える。

 そもそも、こんな状況になったのは自業自得だった。不注意で他のポケモンの縄張りに入ってしまって、そこで手痛い迎撃を受けて。その結末がこれだ。

 自分はここで一匹、ひっそりと死んでいくんだ。チルットはそう悟っていた。だからもう、考えるのを止めた。何も考えなくなった。
 そのはずだったのに。

「おい! 大丈夫か!?」

 意識が途切れかけたその時、誰かに声をかけられてチルットは現実に引き戻される。ぼんやりと視線を向けると、そこにいたのは人間。人間の、少年だった。

「待ってろ! 今助けるから……!」

 崖の上から覗き込んでいた少年が、岩壁を伝ってこちらに降りてくる。しかし、どうにも危なっかしい。足をかける度にそこからパラパラと小石が崩れ落ち、何度かそれに滑って足を踏み外しそうになっていた。しかし、少年は屈しない。一歩間違えれば転落して大怪我だけでは済まないかも知れないのに。少年はめげずに降りてくる。

 本当は怖いはずだ。この状況で、恐怖を感じない方がおかしい。それなのに、どうしてこの少年は前に進めるのか。見ず知らずのチルット一匹の為に、どうしてそこまでできるのか。

「もう少し……もう少しだ……!」

 やがて、少年はチルットの所まで辿り着いてしまった。決して広くないその足場に、降り立つ事に成功したのだ。
 まさか、本当にここまで来てしまうなんて。無茶苦茶だ。自分の命が惜しくないのだろうか。
 訳が分からない。一体何なんだ、この人間は――。

「よし……。もう大丈夫だよ。あとは俺が上まで運んでやるから」

 そう言うと少年はチルットを抱きかかえて、降りてきた崖を登り始める。しかし、かなり苦戦している様子。それもそうだ。チルットを抱える為に片手が使えないため、もう片方の手と両足だけで壁に張り付いているような状態だ。
 体重を支えるだけで精一杯であるはず。それなのに、少年は少しずつ登ってゆく。何度か滑り落ちそうになりながらも、前に進んでゆく。

 そして。

「これで……終わり……!」

 ついに、登りきった。少年はチルットを救出する事に成功したのだ。
 息を激しく切らし、もう体力は限界。あと少しで、体重を支えられなくなって転落していたのではないか。途中で体力が尽きたら、どうするつもりだったのだろうか。
 本当に、あまりにも無茶苦茶だった。

「もっ……もう! ハイク無茶し過ぎ! 落っこちちゃったらどうするの!」

 崖の上で少年の帰りを待っていたもう一人の人間。少年と同い歳くらいの少女が、涙目で怒りを露わにしていた。
 どうやらこの少女から見ても、少年――ハイクの行動は無茶苦茶だったようだ。

「い、いや……でも、無事だった訳だし……」
「それでも無茶だってことには変わりないよ……! 落ちたら死んじゃうかも知れなかったんだよ!?」
「ご、ごめん……レイン……」

 怒号する幼馴染を宥めようとするハイク。ここまで怒られてしまうと、流石に後ろめたさを感じてしまう。まさかこんなにも心配をかけてしまうとは。やはりちょっと突っ走り過ぎただろうか。
 だけど。

「……でも、放っておけないよ。怪我をしているポケモンを見つけて、それなのに見て見ぬ振りするなんて。そんな事、俺にはできない」

 ぴくりと、チルットが顔を上げる。ハイクの声が、耳に届く。
 自分はポケモン。彼は人間。言葉は通じない。実際に何を言っているのか理解はできない。でも、それでも彼の気持ちは何となく分かる。彼の抱くポケモンへの優しさは、はっきりと伝わってくる。
 本当に。心の底から必死になって、彼はチルットを助けてくれたのだ。

「それは……! 私だって同じ気持ちだけど……。でも、もっと安全に助ける方法だって……」
「それより……。早くチルットをポケモンセンターに連れて行かないと。傷口が化膿しちゃってもいけないし……」
「そ、それよりって……! むぅ……そうだけど……」
「だろ? 急いで連れて行こう」
「えっ……ちょ、ちょっと待ってよ! ハイク!」

 レインは強引に丸め込まれてしまった。チルットを抱きかかえて走り出すハイクを、慌てて追いかける。

 この後。チルットはハジツゲタウンのポケモンセンターに連れて行かれた。
 怪我の具合は酷かったものの、医師の治療の甲斐もあってチルットは一命を取り留めた。少しの間安静にしておけば、やがて再び飛び立てるようになるまで回復するとのこと。
 しかし。もしも救出がもう少し遅かったら、かなり危ない状態だったらしい。命は救えても、後遺症が残ってしまう可能性もあったのだ。最悪、二度と飛べなくなっていたかも知れない。

 結果として。チルットはハイクの無茶に救われた。もう一度飛び立てる力を、ハイクから貰ったのだった。

「良かったよ。お前が無事で……。怪我の具合も、もう大丈夫みたいだし」

 体力が回復し、しっかりと起き上がれるようになったチルットにハイクが声をかけてくる。自然と笑顔が零れていた。まるで自分の事のように、チルットの回復を喜んでくれていた。

 そんな彼の笑顔を見ていると、チルットも明るい気持ちになる。心が満たされていくような、そんな気がする。
 けれども。それと同時に、チルットは少し申し訳ない気持ちを感じていた。
 ハイクは自分を救ってくれた。死を覚悟していたチルットに、生きる希望をくれた。それなのに、このまま何もしなくていいのだろうか。何か恩返しをしなければならないのではないか。
 いや。この気持ちは、そんな“義務感”とは少し違う。これは、チルット自身が抱く“欲”。“恩返しをしなければならない”のではなく、“恩返しをしたい”のだ。

 だから。チルットはハイクと共に行く事にした。ポケモントレーナーであるハイクの、力になる事にした。
 後に彼女はハイクにチルルという名前を貰う事となる。一緒に旅を続けて、何度も苦楽を共にして。互いを認め合い、違いに信頼できる仲になった。より繋がりは強固となり、絆は確かなものとなった。

 そう。繋がる絆は確かなものだ。それに連なる記憶もまた、掛け替えのない確かなもの。
 例えどんなに時間が経とうとも、別のものに塗りつぶされそうになろうとも。完全に消える事はない。例えバラバラになったとしても、記憶の欠片は残って留まる。

 消える訳がない。なくなるなんて、あり得ない。大切な記憶だから。大切な繋がりの証だから。絶対に、離さない。

 彼との絆の証したるその記憶は、そう簡単に壊されるほど脆弱ではなかった。



―――――



『ハイ……ク……?』

 まるで日も昇り切らぬ薄暗闇に漂う朝霧のように。ぼんやりと浮かび上がる彼の姿。まどろみにも似た感覚の中、バラバラだったピースが繋がってゆく。
 あぁ、そうだ。そうだった。どうして、今まで忘れていたのだろう。今まで何をしていたのだろう。
 気がついたら、前も後ろも分からないような暗闇の中に一人ぼっちだった。やがて何も考えられなくなって、何も感じられなくなって。
 でも。そんな中、声が聞こえてきた。心の奥底まで響き渡るような、優しげでどこか懐かしい声。その方向へ進んだら、光が見えた。必死になって、その光を目指した。

 そして。辿り着いたその先は――。

「チルル……?」

 もう何度目か分からないハイクの呼びかけ。しかし今度は、今にも消え入るような小さな呟き。
 密着したチルルの身体から、彼女の体温が伝わってくる。でも、それとは別に身体全体を包み込むような温かい何かが込み上げてくるのを感じていた。自然と目頭が熱くなる。
 おもむろに、その視線をチルルの方へと向けた。

「(波導が……。あのどす黒い波導が……消えてゆく……)」

 それが何を意味するのか。理解するより先に、ハイクの身体が揺れた。まるで鉛のように重くなり、自分で支える事ができなくなった。強い疲労感と倦怠感をいっぺんに感じ、もう踏み止まる事もできなくなる。
 胸の奥から込み上げるこの思いと、身体を包む温かいもの。これらは一体何だったのか、言葉にする事はできないけれども。しかしハイクは、意識が沈む直前に一つだけ直感する。ハイクが示し続けた思いは、絆を信じ続けたその想いは、決して間違ってなどいなかったのだと。

 やがて。ハイクは眠りに落ちるように、意識を失った。

「あっ…………」

 その頃。行き違いになるように我に返ったのはレイン。けれどもすぐには思考が働かず、一瞬だけ何が起きたのか理解できなくなる。そこでふと、自分がいつの間にか座り込んでいる事に気がついた。

「な、何が……」

 レインは頭の中を探り始める。確か、突然変な歌が聴こえて、それから頭の中がだんだんボーッとしてきて。それから、どうなったのだろう。記憶が曖昧で、よく思い出せない。
 既にあの歌は消えていた。辺りは静寂が漂っている。

「ハイク……?」

 相変わらず何が起きたのかは理解できない。それでも、自然と浮かんできたのはハイクの名前。
 そうだ。彼はどうなったのだろう。ハイクもあの歌を聴いたのだろうか。だとすると、彼にもまた奇妙な現象が起きているかもしれない。
 レインは視線を動かしてハイクを捜し始める。すぐに見つかった。

「えっ……」

 その光景を見た瞬間、レインは言葉を失った。頭の中が、更に混乱した。
 レインが目にしたのは、チルルの身体に支えられるような形でぐったりと倒れているハイクの姿だった。そしてそのチルルも、ハイクと同じように意識を失っている。一人と一匹がお互いに抱き合うような形で、眠っていた。

「チルル……! ハイク!」

 何がどうなって、こんな状況になったのか。それはよく分からないが、レインは居ても立ってもいられなくなった。慌てて立ち上がり、彼らのもとへと走り出した。

『……、終わった、のか……?』

 カインでさえも、この状況を完全に飲み込むのに時間がかかった。やがてジワジワと実感してきて、次第に表情が綻んできた。
 ついに、ハイクがやってくれた。ハイクの“無茶”が、チルルの心に届いたのだ。
 紅波石の呪縛から、チルルは解き放たれた。

『うっ……ゴホッゴホッ……! あ、あれ……? オレ、今まで何をして……』
『……ルクス。目を覚ましたのか』
『か、カイン……? えっ……ど、どうなってるんだ!? ハイクとチルルが倒れてて、レインが一緒にいて……? な、何が起きたんだ!?』

 目を覚ましてから色々な事が変わりすぎて、頭の処理が追いつかないルクス。無理もない。
 しかし、驚くほどの事ではない。これはある意味、当然の結果だった。

『なに、大した事じゃない。……ただの奇跡だ』

 そう。これは奇跡。ハイクの想いと、チルルとの絆。二つの強い力が引き起こした、奇跡だった。

「奇跡……だと……?」
『タクヤ……。あの子は……』

 そんな奇跡を目の当たりにして、タクヤは言葉を失いかけていた。動揺を隠しきれなかった。
 あり得ない。こんな事、あるはずがない。紅波石の力に飲み込まれ、あのチルタリスの記憶は完全に消滅したはず。最早ローブの操り人形だったはずだ。そのはずだったのに。

「何でだよ……。これが、ハイクさん達の……」

 想いの強さ、絆の力だと言うのか。

『……タクヤ。これからどうするの?』
「……撤退だ。一旦退くぞ」

 今のハイクは意識を失っている。このまま強引に攻撃すれば、命を取れるかもしれない。
 しかし、やはり駄目だ。あのジュカインは未だ健在。それ以外にも強力なポケモンがまだ残っている。今の残存戦力じゃ、任務が成功する見込みはない。

『……本当に、いいの?』
「……? 何の話だ? オレは……」
『……また自分に嘘をついてるなじゃないの?』
「なっ……!」

 エルバにそんな指摘をされ、タクヤの心臓が大きく跳ね上がる。図星だった。
 残存戦力から考えて成功確率が低いと判断したのは嘘ではない。けれども、撤退の大きな理由はそこではなかった。今までタクヤなら、どんなに低い可能性でもそれに賭けていたはずだ。
 タクヤが、これ以上戦えない本当の理由。

『タクヤは無理してる……。これ以上、紅波石の力になんか頼りたくないはずなのに。これ以上、あの力に苦しめられるポケモンの姿なんか見たくないはずなのに。それなのに、闇雲に迷いを断ち切ろうとして……』
「……止めろ……」
『本当に、これでいいと思ってるの……? こんな事をしてまで救われても、あの子が本当に喜ぶなんて……!』
「それ以上言うな!!」

 エルバを怒鳴りつけた。無理矢理にでも制しようとした。
 逃げた。また、タクヤは逃げてしまった。嘘をつき続けて、言い訳をし続けて。でも、仕方なかった。こうするしかなかった。こうでもしないと、簡単に壊れてしまうから。立ち上がれなくなってしまうから。

「……行くぞ、エルバ。撤退だ」
『……分かったよ』

 そんな彼らの動きに気づいたポケモンが一匹。レインのゴウカザル、フレイだった。
 彼もまたハイク達の様子は心配だったのだが、それと殆んど同じくらいに気になっていた事が一つ。それは言わずもがなタクヤ達についてだ。警戒心を強めて監視していたのだが、案の定撤退を企てているではないか。
 冗談じゃない。彼には聞かねばならぬ事が山ほどある。ここで見逃すわけにはいかない。

『待て! 逃がすか……!』

 一匹で撤退の妨害を試みるフレイ。彼らの動きにいち早く気づいた自分が、何とかするしかない。そう思った。
 しかし。

『ッ! うっ……!?』

 タクヤと共に逃げ出したかと思われたドダイトスが、突然踵を返して迎撃してきたのだ。
 自らの全体重を乗せた捨て身の攻撃、“ウッドハンマー”。草タイプの攻撃故にフレイのダメージはそれ程大きくなかったが、足止めするには十分だ。フレイの腹部に、重たい一撃が響く。

『コイツ……!』

 押し飛ばされ、数歩後退りしながらもフレイは迎撃してきたドダイトスを睨みつける。
 その時だった。

『……えっ』

 明らかな敵意を滲ませつつも、フレイを睨みつけるドダイトス。彼と目が合ったその瞬間、奇妙な違和感が走り抜けた。
 何かが引っかかる。このドダイトスと会ったのは、これが初めてではないような。そんな気がする。以前にも、彼と会った事がある?
 デジャヴのようなこの感覚。自分の記憶を探ってみると、その原因はすぐに分かった。

『お前……まさか……!』

 ドダイトスは何も答えない。しかし、あちらも気づいているはずだ。そうでなければ、動揺するフレイを見て疑問を抱かないのはおかしい。動揺して当然なのだと、そう分かっているのだ。

 何も言わぬまま、ドダイトスはおもむろに前脚を持ち上げる。それを勢い良く振り落とすと、激しい地響きが発生した。フレイの足元が、崩れる。

『なっ……!?』

 “じしん”。今度は地面タイプの技だ。ゴウカザルとは相性が悪いタイプ。フレイは為す術もなく転倒してしまう。その地響きの影響で、立ち上がる事ができない。

『お、おい! 待てよ! どうして……どうして、お前が……!』

 それでも必死に声をかけるが、結局無駄に終わってしまう。ドダイトス――エルバは、タクヤと共に立ち去ってしまった。
 小さくなってゆく後ろ姿。フレイはそれを何も出来ずに見つめるしかない。手を伸ばす事さえできない。

『エルバ……。それが、今のあいつの……』

 かつての親友。記憶の中に眠るその姿を、フレイは思い浮かべていた。

absolute ( 2015/07/11(土) 18:07 )