6‐1:再会
それは、今から半年程前の出来事。
ホウエンリーグ、決勝戦。いくつもの大きな壁を乗り越えて、遂に辿り着いた晴れ舞台。あと一歩。あと一歩で、ポケモントレーナーとしての最高の称号を手に入れる事ができる。
『さぁバトルはいよいよ大詰め! お互い、残すポケモンは一匹ずつだぁ!』
実況者の雄叫びと共に、観客もドッと湧き立つ。会場を訪れる人々は、かぶりつくようにそのバトルを凝視する。一瞬たりとも見逃さないように、瞬きをするのさえも勿体無い。
バトルフィールドに立つのは、二人のトレーナー。一人は、ホウエン地方でも指折りのトレーナー。今まで何度もホウエンリーグを優勝してきたチャンピオン、ダイゴ。その傍らに連れるのは、既にボロボロになったメタグロスだ。
「ここまで追い詰められるのは久しぶりだよ。それこそ七年ぶりくらいかな……?」
ダイゴに向かい合うトレーナーは、まだ十代の子供だった。
特にこれまでリーグ出場の経験はない。つまり今回で初出場。にも関わらず、こうして決勝戦まで登りつめている。まさにポケモントレーナーのダークホース。観客は皆、そんな彼の活躍に期待を寄せている。
初出場でダイゴをここまで追い詰めたトレーナー。七年前に現れたあの少年以来の快挙である。期待しない訳がない。
少年が傍らに連れるのは、エンペルトと呼ばれるポケモンだった。ホウエン地方では珍しいポケモンである。そのエンペルトもまた、既に満身創痍。メタグロスとのバトルが長引き、もうそろそろ限界だ。
でも。エンペルトはまだ諦めていない。それはトレーナーである少年も同じ事だった。彼らは、まだ戦える。
「光栄です。ダイゴさんとこんなにもギリギリなバトルができて……!」
「うん。僕も楽しいよ。君を見ていると、何だか彼を思い出すな……」
少年とダイゴ。お互いに油断なく向き合っている。暫しの間、静寂が保たれる――。
「ソルト……」
少年がエンペルトの名を呼ぶ。
「勝とう……ここまで来たら……!」
何を当然な事を。そう言いたげに、ソルトはニヤリと笑みを浮かべる。
そんなやり取りを最後に、ソルトは動いた。
エンペルトは本来、俊敏な動きはそれほど得意ではないポケモン。けれども、ソルトは少し違う。ドスドスと音を立てて駆け抜けるが、その速度は並のエンペルトのそれとは大きく上回っているのだ。ソルトは珍しく、素早い動きが得意なエンペルト。
それに対し、メタグロスも動き出す。四本のアームを収納し、勢い良く突っ込んでくる。
二匹のポケモンが、真正面からぶつかり合う――。
あぁ。そうだ。これがポケモンバトルだ。お互いに全力を出し切って、相手をリスペクトして戦う。そしてバトルが終われば、勝ち負けに関係なく清々しい気分になれる。
彼がやりたいのは、こんなバトルなのだ。
なのに。
さっきのあれは何だ? いや、さっきのだけじゃない。今までのだってそうだ。
あんなのポケモンバトルじゃない。あんなバトル、ポケモン達だって望んでいない。
怒りと怒り。憎しみと憎しみのぶつかり合い。負の感情が渦巻くバトル。あれじゃ、まるで――。
―――――
『ハイクさん!』
馴染み深い声が流れ込んできて、ハイクは飛び起きた。
ワンテンポ程遅れて、頭に鈍い痛みが走る。何だか気分も悪い気がする。思わずハイクは顔をしかめて、痛む頭を片手で押さえた。
『ハイクさん……大丈夫、ですか……?』
心配そうな声が聞こえる。視線を向けると、そこにはマグマラシに進化したヴォルの姿があった。
そうだった。バトルの中、彼はヒノアラシからマグマラシに進化したのだった。
「うん……大丈夫……」
取り敢えずハイクは笑顔を浮かべる。するとヴォルもどこかホッとしたような表情を見せてくれた。辺りを見当たしてみると、どうやら山の麓のようだ。霧は晴れており、目の前には湖も見える。
そう言えば。自分達は、一体どうなったのだろう。黒ローブとバトルして、彼の連れるメタグロスを倒したのまでは良かった。しかし、今度はクチートを繰り出してきて――。
「そうだ……!」
あのクチートは、クートだった。ハイクが研究所に預けたポケモンの一匹。
そのクチートを追いかけて、黒ローブの所まで辿り着いた。その時に強い風が吹いて、黒ローブのフードが外れて。その素顔を、ハイクは見てしまった。
正直、今もまだ信じられない。まさかあの人が。ダイゴが、黒ローブの正体だったなんて。しかし、よく考えればあのメタグロス。ダイゴのポケモンだと思えば、あの強さも納得できる。いくら強力なポケモンと言えど、あそこまで育て上げられるのはダイゴくらいのものだ。
でも。それでも。
「ダイゴさん……どうして……!」
納得なんて、できやしない。
どうして、あの人がローブ達の一員に? なぜあんな事をするのだろうか。あんなバトル、ダイゴならきっと嫌がるはずなのに。それなのに、どうして。
「やぁ。目が覚めたかい?」
「……えっ?」
考え込んでいると、ハイクは不意に声をかけられる。
聞き覚えのある声だ。一度だけだが、どこかで聞いた事がある。この妙に耳に残る感じ。ハイクの脳裏に、一人の青年の顔が映る。
その途端。彼は慌てて顔を上げた。
「っ!? お前は……!」
見覚えのある顔が、そこにあった。
高い身長。白と黒のシンプルなデザインの帽子。奇妙な形をしたネックレスを首に下げ、青年にしてはかなり長い緑色の髪を棚引かせている。どこか変わった雰囲気を漂わせる人物。
忘れる訳がない。だってこの旅の元々の目的が、この人物の捜索。ハイク達がずっと捜し求めていた、一人の青年。その名は。
「N……!」
N。始めて会ったあの日、彼は自らそう名乗った。
彼に出会ってから、ハイクの見る世界は変わってしまった。彼に出会ってから、ハイクの日常は崩れてしまった。
そうだ。きっと彼こそが、全ての元凶。
「久しぶりだねハイクくん」
随分と軽い口調で、Nはそう声をかける。そんな様子を見ているだけでも、ハイクの中の不信感は強まってくる。
正直、彼は得体の知れない青年だ。一体彼は何者で、何が目的なのかも掴めない。そんな青年を前にして、そもそも警戒心を強めてしまうのも無理はないだろう。
「俺はお前を……ずっと捜してたんだ……!」
確かに警戒はしている。しかし、そんな事よりもハイクの中に強く渦巻くのは、怒りにも似た感情。
いきなりポケモンの声が聞こえるようになってしまったり、研究所からポケモン達がいなくなってしまったり。何が起きているのか、本当に訳が分からなかった。ハイクは酷く混乱して、けれどもそれをNの捜索でずっと紛らわせていたのだ。それが、当の捜し人が自ら目の前に現れた。
押さえ込んでいた混乱。そのストッパーが、外れてしまった。怒りという形で、溢れ出てしまったのだ。
ハイクは思わず、Nの胸ぐらを掴み上げる。
「おっと、いきなりこれかい? ひょっとして……ボクが黒幕だとでも思ってるのかな?」
「……黒幕じゃないにしても、何かを知ってるのは明白だろ。お前に会ってから色々とおかしくなったんだ」
相変わらず余裕そうな表情のN。ハイクの苛立ちは募るばかりである。
「始めて会ったあの日……お前は妙な事を言ってたよな? 平和が崩れるとかどうとか……。ひょっとして、こうなる事を始めから知ってたんじゃないのか?」
「さぁ? どうだろうね」
「お前が現れてからローブ達の攻撃が始まったんだ。タイミングが良すぎるだろ。それに……レインにレジロックの事を教えたのもそうだ。あの事件の事を初めから知ってなきゃ、あのタイミングでレインに接触する事なんて不可能だろ。だから……お前がローブ達の関係者か何かじゃないと説明が……」
『ま、待って! 待って下さいハイクさん!』
意外にも、止めに入ったのはヴォルだった。驚いたハイクも思わず口を閉じてしまう。
ヴォルは小さな身体を持ち上げて、その前脚でハイクの身体を揺すっていた。頭に血が上りかけていたハイクを、多少強引にでも宥める為に。
『この人は……きっと悪い人じゃありません……。ハイクさんは何か勘違いしてるんですよ……!』
「何だって……? どうしてそんな事が言えるんだよ?」
『だって……僕達を助けてくれたのは、Nさんなんですよ……?』
「へっ……?」
ヴォルが何を言っているのか。ハイクは一瞬だけ分からなかった。
Nが自分達を助けてくれた? 何の事だろう。そもそも、Nに助けてもらうような状況になった覚えは――。
「……あっ」
そこで、ハイクは思い出す。あの時、何が起きたのか。
ダイゴが繰り出したクートによって、祭壇は完全に破壊された。山肌にそって崩壊する祭壇に巻き込まれたハイク達は、そのまま落下してしまったのだ。あの嫌な浮遊感は、今でも鮮明に思い出す事ができる。
あんな所から落下してしまったら、普通なら命に関わる所だ。しかし、ハイク達は生きている。少なくとも地面に叩きつけられてしまった訳ではない。
そうだ。あの時、ふさふさとした何かに上手くキャッチされたのだ。真っ白で、大きな何かがそこにいたのは覚えている。しかし、そこまでだ。その後ハイクは意識を失ってしまい、何も覚えていない。
まさかあの白い何かは、Nが連れていたポケモンだったのだろうか。しかし、あんなポケモンは見た事ないのだが――。
「俺達を……助けてくれたのか……?」
「……うん。混乱、するのも無理はないよね。今まで何もしていなかったボクが急に現れていきなりキミ達を助けようとして」
ハイクはもう一度、ゆっくりとNの目を見る。
彼の目は真っ直ぐだった。何か裏があるとは思えない。ハイクを惑わす為に、適当な事を言っているような奴の目ではない。彼は本当に、本気でハイク達を助けようとしてくれていた。
「一つ、確認させてくれ。お前は……俺達の味方、なのか……?」
恐る恐る、ハイクはそう質問する。
真っ直ぐな瞳を向けたまま、Nはそれに答えた。
「キミが不信感を抱くのも無理はない。ボクの事が信じられないって言うのならそれは仕方のないこと。でもこれだけは信じて欲しい。少なくとも……ボクはキミ達の敵じゃない」
ハイクは胸がつまった。胸ぐらを掴む手も力が抜ける。
ヴォルの言う通り。本当に自分は、何を勘違いをしていたんだろう。どうして、初めからNが敵だと決め込んでいたのか。いきなりこんな事になって、不安で不安で仕方なくて。冷静な判断が、できなくなっていたのかも知れない。
だけど。一つはっきりした事がある。Nはきっと――ハイク達の味方だ。
『僕は……Nさんを信じます! 僕達を助けてくれた時のNさんは……本当に真剣でした。敵だったら……あそこまで必死になってくれませんよ……。だから……Nさんはきっと僕達の味方なんです!』
「……ありがとう、マグマラシくん。そう言ってくれると嬉しいよ」
ハイクはNの胸ぐらから、完全に手を離した。
思えば。Nはずっとハイク達の事を助けようとしてくれたのではないだろうか。始めて会ったあの時も、わざわざハイクに警告してくれた。レジロックに襲われた時も、レインを導いてくれていた。そして、今も。Nがいなかったら、ハイクもヴォルも今頃どうなっていたか。
そうだ。この青年は。Nは、ハイク達の命の恩人だ。
「……ごめん」
「いや、キミが謝る必要はないよ。ボクの方だって余計に混乱させるような事を言っちゃったと思うし」
ハイクは顔を上げる。
笑顔を見せてくれるN。それにつられて、ハイクも笑顔が零れた。
少し不思議な雰囲気を醸し出す青年。でも、こうして話して見れば意外と普通ではないか。確かに、彼はどこか他の人とは変わっているかも知れない。しかし、なぜだか妙に安心する。Nと話していると、混乱した心が落ち着いてくるのだ。
何だろう、この感覚。彼は、一体何者なのか。
「……いや、ちょっと待って」
そこでハイクは、とある事を思い出す。あまりにも自然過ぎて気づかなかったけれども、それは普通に考えれば有り得ない光景。
「お前……さっき普通にヴォルと話してなかったか……?」
ヴォルが必死になってハイクを説得していたあの時。Nは言っていた。「ありがとう、マグマラシくん。そう言ってくれると嬉しいよ」、と。あのタイミングでこの言葉。ポケモンの言っている事が分からなければ、こんなにも自然に口にできるとは思えない。
まさか。Nにもポケモンの声が聞こえていると言うのだろうか。
ハイクはゴクリと唾を飲む。妙に緊迫した表情になる。
しかし、Nの方は何やら不思議そうな表情を浮かべていた。まるで、ハイクの方が変な事を言っているかのように。
「そんなに緊迫した面持ちになる事……。あ、ちょっと待って」
何かを思いついたかのように、Nはふぅとため息をつく。少し呆れたような口調で、Nは再び喋り始めた。
「ゾロアーク。いい加減その手を退かしたらどうかな? ちょっと警戒し過ぎだと思うよ」
「えっ……? うわっ!」
一瞬、Nが何の事を言っているのかよく分からなかった。だが“それ”が視界に入った途端、ハイクは驚いて身を引いてしまう。
いつからそこにあったのか。まるで気がつかなかった。真っ赤な鋭い爪が、ハイクの首元に突きつけられていたのだ。
慌てて身を引くと、一匹のポケモンの姿が目に入る。身体を覆うのは真っ黒な体毛。しかし頭のものだけは爪と同じように赤く、そして長い。まるで髪の毛のようだ。鋭い目つき。それで今も尚ハイクを睨みつけている。
ホウエン地方じゃ見かけないポケモン。ばけぎつねポケモン、ゾロアーク。
『Nを傷つけようとする奴は……誰だろうと容赦しない……』
そうボソリと呟きながらも、ハイクを威嚇するゾロアーク。最初から敵意に満ちている。
どうやらさっきNの胸ぐらを掴み上げた事により、ゾロアークはハイクを警戒してしまったらしい。主人であるトレーナーがいきなりあんな事をされたのだから、怒りを感じてしまうのも無理はない。
それにしても、あんな風に首元に爪を突きつけられていたのに気づかなかったとは。あれもゾロアークの能力なのだろうか。正直、怖い。
「いやーごめんごめん。幻影の力を使ってキミに近づいたみたいだね。この子ちょっと神経質な所があるからさ」
『っ! だって、コイツがいきなりあんな事をしたから……! わたしはNを守ろうとして……!』
「大丈夫だよ。少なくとも彼は話が通じる人だ」
「はっははは……」
もう笑うしかない。
いきなり色々な事を提示されても処理しきれない。流石のハイクでも、そこまで頭の回転は早くない。
「普通に話してる、よな……?」
「え? あぁ、そのことね。別に不思議に思う事はないでしょ? キミだってポケモンと話せるし……それにもうボク以外にも同じ能力を持っている人と会ってるんでしょ?」
さも当然のように、Nは言う。彼にとって、ポケモンと会話ができると言う状況は至って普通なのだろうか。
「……ヴォルはいつから気づいてたんだ? Nと会話できるって……」
『助けてもらった時から……。Nさんの方から声をかけてくれて、その時に話せるって気づきました。最初は驚きましたけど、でも……』
「……でも?」
『Nさんからは、何だか不思議な感じがしたんです。なぜだか安心できると言うか……ハイクさんにも似た何かを感じて……。それに、人間さんと話すのにちょっぴり慣れてきちゃったんだと思います。ハイクさんの他にも、タクヤさんも話せたみたいですし……』
Nから感じる不思議な感覚。なぜだか感じる安心感。それをヴォルも感じていたのか。強引に言うならば、どこか自分と似た匂いと言った所か。
どうにも彼は、完全な他人とは思えない。ハイクと同じ、「ポケモンと会話ができる能力」を持った人間だからなのだろうか。
しかし、ハイクの思いはそれとは別の方向に傾きつつあった。それは、ヴォルが最後に口にした少年の事。
確かにNの言う通り、ハイクは既にN以外のポケモンと会話ができる者に会った事がある。その少年――タクヤは、今頃何をしているのだろうか。ハイク達を騙し、裏切って。でもそれ以降は会ってない。
最初から裏切る為に近づくなんて、許される事じゃない。けれども、なぜだか妙に気になってしまう。どうも心配になってしまう。ハイク達から立ち去る時の彼の様子。それを思い出すと、実は何か抱えているものがあるのではないか。本当は仕方なくあんな事をしているのではないか。そう思ってしまう。
「……ハイクくん?」
「……あっ……えっ? な、なに?」
「いや、急にボーッとしちゃってたから。どうかしたの?」
「ううん……何でもないよ」
Nに声をかけられて、ハイクは我に返る。
タクヤの事は気になる。でも今は、どうする事もできない。それよりも、今はもっと多くの情報を集めるべきだ。そうすれば、タクヤについても自ずと分かってくるかも知れない。
今、目の前にはより多くの事を知ってそうな青年がいる。彼ならばきっと、ハイク達よりも核心に迫っているはずだ。Nの持っている情報こそが、今のハイク達の希望だった。
「N……お前の知っている事を教えてくれ。今……ホウエン地方で、何が起きているのか。あのローブ達は、一体何なのか……」
「……そうだね。キミ達には話してもいいかも知れない」
一瞬だけ迷ったような表情を見せたNだったが、しかしすぐに切り替える。帽子のつばを持ち上げて浅く被り直し、その瞳でしっかりとハイク達を見据えた。
Nが何を知っていて、今まで何をしていたのか。そして、ハイクの能力の事も。Nもハイクやタクヤと同じ存在――転生者なのだろうか。それも含めて、今はもっと情報が欲しい。些細な事でも見逃せない。
深呼吸を一つすると、ぽつりぽつりとNは話し始めた。