2‐5:組織
今から数十分ほど前の事だ。
ポケモンジムが乗っ取られてから、既に時間は大分経過していた。太陽は地平線に近づき始める時間ではあるが、厚い雲に覆われている為か外はより一層 暗い。勿論それは建物の中では尚更な事で、電気をつけなければ煩わしい程に宵闇に包まれ始めていた。
多くの建物からは明かりがつき始め、街灯も照らされる。カナズミシティが夜の姿へと移り変わってゆく中、その建物だけはそこに取り残されていた。
カナズミシティのポケモンジムは、酷く重苦しい雰囲気に包まれている。刻一刻と暗くなってゆく中 明かりもつけず、かと言って中に誰もいない訳ではない。ただ、聞こえるのは恐怖で慄く人々の嗚咽か、傷ついたポケモン達のうめき声が殆んどである。息が詰まりそうな雰囲気の中、時間だけが過ぎてゆく。
窓の外を見ると、ジムの周囲には人集りができていた。野次馬が殆んどだろうが、中には人質の身を案じて駆けつけた彼らの家族も混じっているだろう。警備隊員の姿も見受けられるが、所詮 彼ら程度の力ではどうにもできない。実戦経験の浅い彼らでは、解決策を見つける事さえ困難であろう。
時は満ちた。
「ふむ……頃合か」
窓の様子を伺っていたその男が、そう呟いた。外とは打って変わって奇妙なほど静かなジムの中では、その呟きさえも耳に残る。人質の中の誰かが、ビクついたように身体を震わせていた。
口元を歪ませ、不気味に嘲笑する男ではあるが、その表情の全貌を上手く読み取る事はできない。フードを深く被ってしまっているのだ。身に纏うのは、真っ白なローブ。薄暗い空間で、その白は一層 際立って見えた。
「さて、そろそろ計画を実行に移す時だが……準備はよろしいかな?」
嘲笑う白ローブが声をかけたのは、これまたローブに身を包んだ人物。しかし、暗闇だと妙に目に残る白とは違い、そのローブの色は紅い。やはり顔を隠すようにフードを深く被っているが、白ローブ以上に感情が読み取れない。自分達が行っている行為に対しても、何も感じていないのだろうか。その口元を見ただけでは、何を考えているのかも分からない。白ローブが声をかけてもチラリと視線を向けるだけで、口は開かなかった。
「おやおや……私も嫌われたものだな。まぁいい。私が協力できるのはここまでだが……あとはあなた一人で大丈夫かな? もし望むのならば、もう少し手助けしてもいいが……」
「貴方の力は必要ない。私一人で十分よ」
人を小馬鹿するような口調で喋り続ける白ローブを前に、不意に紅ローブの人物は口を開いた。その声は白ローブと比べると明らかに高い。女性なのだろうか。
結果として言葉を遮られてしまった白ローブだが、それでも「ククク……」と嗤い続ける。まるで余裕を崩さないその様は、狂気にさえも感じてしまう。
相変わらず嫌味な奴。そう言いたげな視線を、紅ローブは送り続けていた。
「それだけの威勢があれば十分か。余計なお世話だったか?」
「人の心配をしている場合? 貴方こそ、どうやってここから出るつもりなの? 外は既に警備隊に包囲されている。誰にも気づかれずに抜け出すなんて、不可能よ」
「不可能、などと言う言葉を容易く使ってはいけない。なに、簡単な事だ。あなたが計画を実行している隙に、騒ぎに乗じて紛れればいい。違うかね?」
紅ローブは再び黙り込む。
これ以上何を言っても時間の無駄だ。下らない。この男の心配をしてやる必要はない。好きにやらせればいい。
紅ローブはその男から視線を逸らす。次に彼女の視線が捉えたのは、人質の姿だった。
ジムリーダーは不在であったが、トレーニングしていたトレーナー。これだけの数がいれば十分だ。いや、正確にはトレーナーの方ではなく、紅ローブ達が必要なのはポケモンの方だが。
トレーナーとポケモン達は隔離してある。少なくともトレーナーには抵抗する術は残されていないだろう。紅ローブ達がジムの制圧を開始した時、彼らは勿論 抵抗しようとした。ポケモンを繰り出し、必死になって戦った。だが、無駄だった。
たった一匹。たった一匹のポケモン相手に、彼らは全滅してしまったのだ。制圧はまさにあっという間だった。
ポケモンバトルを行うジムのフィールド。そこに分けられた人質のトレーナーとポケモンを交互に見比べた後、紅ローブは迷うことなくポケモン達に近づいた。
バトルで傷つき倒れているポケモン達。その中で唯一 意識が残っていた一匹のボスゴドラが、ギロりと紅ローブを睨みつける。しかし、それだけだ。反撃する力は残されていない。威嚇をし続けているものの、身体が言う事を聞いてくれないようだ。
無理もない。あれ程の攻撃を受けて、まだ意識が残っている事 自体が不思議な事なのだから。
一瞥したあと、紅ローブは懐から何かを取り出した。
拳銃を彷彿させるような形をしているが、それにしては大きい。銃口を思しき部分には銃弾が発射されるような穴は開いておらず、その代わりにそこからは不気味な紅い光が漏れるように瞬いている。少なくとも拳銃とは大きく異なる物のようだ。
紅ローブはそれをポケモン達に向ける。焦らす事さえ考えず早々にトリガーを引こうとした矢先、彼女の耳に声が届いた。
「おい! 何してる! オレのボスゴドラにちょっと変な事でもしてみろ! ただじゃおかねぇぞ!」
紅ローブは声のした方向に視線を向ける。人質の中、このボスゴドラの主人と思われる少年が、血相を変えて怒鳴りつけていた。今にも飛びかかってきそうな剣幕だが、それは叶わないだろう。人質達は、複数人の茶色いローブを着た人物が目を光らせているのだ。飛びかかろうとした所で、簡単に取り押さえれてしまう。所詮彼には、怒鳴る事 意外は何もできない。
「おい、あまり刺激するな……!」
「黙って見てろって言うのか!? お前はそれでいいのかよ!」
人質の一人が彼を宥めようとするが、それも無駄に終わる。頭に血が上ってしまった彼は、自分の感情を発散せずにはいられないのだ。
「大体、お前らは一体何なんだ!? 何が目的でこんな事をしている! オレ達を人質に取って、お前らに何の利益が……!」
そこまで発した直後、突然感じた殺気によって彼の口は唐突に止まる。紅ローブの足元にいた、一匹の小さなポケモン。怒鳴りつける少年に苛立ちを感じたのか、そのポケモンは目を細めて少年を睨みつけている。その視線を感じただけで、少年の背筋には寒気が走った。
そうだ。このポケモンにやられた。このポケモンたった一匹相手に、自分達のポケモンは全滅だ。何だ、こいつは。一体、何なんだ。この小さな身体の、どこにあんな力が――。
少年の脳裏には、先ほどのバトルが蘇る。抵抗し、けれども成す術なく倒れていくポケモン達。次々と攻撃を仕掛ける自分達のポケモンを、ただただ機械的に退けていくあの小さなポケモン。あのポケモンのタイプは恐らく草。確かに岩タイプが多い自分達にとって少々不利なタイプではあるが、だからと言って圧倒的過ぎる。
常識では考えられない、信じられない力。それを思い出しただけで、少年は完全に言葉を失ってしまった。
静かになった少年を尻目に、紅ローブは遂にトリガーを引いた。手に持つその奇妙な機械からは、放射状に紅い光が発射される。一種の懐中電灯の光にも似ているが、それとは明らかに出力が違う。そんな生易しい物ではなさそうだ。
発射された紅い光は、次々とポケモン達を包み込んでゆく。いや、‘飲み込む’と言った表現の方が適切かも知れない。紅ローブは上手く腕を動かし、満遍なくポケモン達 全員を光で照らしていた。
人質達にどよめきが走る。目の前で紅ローブが行っている不可解な行動を前に、彼らも動揺を隠しきれない。紅ローブはただ淡々と、ポケモン達を照らし続けていた。
数秒経ち、光はようやく途絶えた。何事も無かったかのような静寂が一瞬だけ訪れると、紅ローブは腕を下ろす。彼女が放った光はポケモン達にまとわりつき、やがて吸い込まれるように消えた。
その次の瞬間。目を疑う程の事が起きた。
バトルで倒れ、意識を失っていたポケモン達。彼らが次々と起き上がったのだ。のっそりと、おもむろに身体を持ち上げてゆく。
しかし、どこかがおかしい。あの光によって傷が回復し、意識が戻って起き上がった訳ではない。傀儡のように無理矢理 動かされている感覚。例えるならばそんな印象だ。生物的な何かが欠落してしまったような瞳。別の何かを身体の中に宿してしまったかのようなそのポケモン達は、空虚な瞳で目の前にいる紅ローブを見つめている。
人質達は、最早何も言えなかった。目の前で繰り広げられる、残酷な光景。ポケモン達が、自分達の知る姿を失ってゆく。何が起きているのかさえ分からない。ただ、一つだけ直感で分かる物がある。
このテログループは、普通じゃない。人質達のポケモンを無理矢理使って、何をしようとしているのか。何となくだが想像できる。そう、彼らは再び災厄を撒き散らすだろう。今度はジムだけではなく、カナズミシティ全域に渡って。
紅ローブが淡々と作業を熟すのを見て、白ローブは失笑する。ポケモン達の意志が別のものにすり替えられてゆくこの様を、楽しんでいるようにも見えた。
ポケモンを‘ポケモンとして’見ていない。道具か、それとも自分を楽しませてくれる玩具か。白ローブの捻れた価値観は、彼の歪んだ口元を見ているだけでひしひしと感じられた。
「さぁて、ゲームの始まりだ」
口元を隠すように手で抑え、白ローブはボソリと呟いていた。
―――――
ジムの中へ入った瞬間、伸し掛るような重圧がハイク達に襲いかかってきた。薄暗いジムの内部には砂埃が舞っており、息を大きく吸い込むと埃まで口の中に入ってきてしまいそうだ。そのせいもあってか、妙に息苦しい。だがこの息苦しさの最も大きな原因は、ジムの奥から感じる巨大な圧力だろう。
何かがいる。ジムのエントランスにはポケモンの姿は見受けられないが、それでも分かる。外で暴れているポケモンとは桁違いの力を持つ何かが、ジムの奥で佇んでいるのだ。恐らくそれこそが、このテロを引き起こした者の、切り札となり得るポケモン。
「ケホッケホッ……。埃がすごい……。でも、ポケモンはいないみたいだけど……」
「多分、奥だ。そこにテロを引き起こした奴がいる。この威圧感、間違いない」
ハイクの頬を冷や汗が伝う。今までに感じた事のないようなプレッシャー。緊張しているとか、そう言うのとは全く違う。ゴクリと唾を飲み下すが、それさえも重い。
だが、こんな所で立ち止まっている訳にはいかない。奥で何が待っていようとも、恐れている場合ではない。今、この状況を打破できる最も大きな可能性を持っているのは、ハイク達なのだ。外で戦っている人達の為にも、自分達は使命を全うしなければならなかった。
『な……何ですか、この感じ……? 凄く重たくて、苦しいような……』
『なぁんだよヴォル。ビビってんのか?』
『えっ……? い、いやっ! ビビってなんか……!』
茶化すルクスに、ヴォルはムキになって返す。意地を張ってはいるものの、本当は怖いのだろう。どちらかと言えば内気で、臆病な性格。そんな彼が、勇気を振り絞ってついてきている。それだけでも、彼は十分に頑張ってくれていると言えた。
そんなヴォル達を横目に、カインはハイクに声をかける。自分が内心思っていた事。それを確認したかった。
『……ハイク。あんたも気づいているんだろう? この先に待ち受けている奴は、あのレジロックにも匹敵する程の力を持っている。あんたもレインも、無事に帰ってこられるとは言い切れない』
「……でも、だからって逃げる訳にはいかないよ。大丈夫。俺達が本当に危なくなったら、レイン達だけでも逃がす。俺が囮になれば、それくらいの時間は稼げるはずだ」
『……ッ!』
カインは歯を噛み締めた。ハイクの言葉が、音響のように頭に残る。
危なくなったら自分が囮になってレインを逃がす。なぜそんな事が簡単に言えるのか。なぜそんなにも簡単に、自分を犠牲にできるのか。あのゴウカザルのフレイと言い、ハイクと言い、無茶な奴が多すぎる。
駄目だ。ハイクに無茶をさせては絶対にいけない。囮になんか絶対にさせない。ハイクを、死なせる訳にはいかない。
それなら、自分が守ればいい。ハイクもレインも、ポケモン達も。自分が、必ず――。
『……守ってみせる。俺が、あんたもあんたの友達も、絶対に守る。だからあんたが囮になる必要はない……!』
「カイン……。ありがとう」
本気で自分の身を案じてくれているカインの姿を見て、ハイクは静かに言葉を返す。
少し意外でもあった。カインはいつでも冷静で、取り乱す事はほとんどない。少なくとも今日はそうだった。だが、今の彼は少し違って見える。ハイクが囮になると言った途端、カインからは焦りさえも感じられた。心の底から、ハイクの事を心配している。その証拠なのだろう。
自分も知らないカインの一面を前にして、ハイクはそう解釈していた。
そんなやり取りもそこそこに、ハイク達はジムの奥へと足を踏み入れた。エントランスからもう一つ扉を越え、一段と広い部屋へと入る。
そこはバトルフィールドだった。天井もかなり高く、大きな岩がいくつも並べられているゴツゴツしたそこは、室内である事を一瞬 忘れさせられる。
カナズミジムは、主に岩タイプを専門とするジムである。ジムリーダーであるツツジだけでなく、トレーニングに訪れるトレーナーも殆んどが岩タイプポケモンの使い手だ。その為もあってか、バトルフィールドは岩山を意識したような作りになっている。ジムバトルを行う際には、あの岩をうまく使えるかどうかで戦況は大きく変わりそうだ。
しかし、ハイク達はジムバトルを行いに来たのではない。テログループを鎮圧する為に来たのだ。
今 最も優先させる事は、人質の救出だろう。どれくらいの数の人やポケモンが捕まっているか分からないが、何としてでも救い出さなければならない。怪我人だっているのかも知れないのだ。事は一刻を争う。
「あっ……! ハイクあそこっ!」
不意にハイクの肩を叩いたレインが、ジムの一角を指差す。彼女が示す先に視線を向けてみると、そこには数名の人影が確認できた。
地面に座っている、いや、座らされているであろう人々が多数と、彼らを監視するようにゆっくりと歩き回っている人影が二、三人程。薄暗い為はっきりとは確認できないが、間違いない。人質に取られた人々と、テログループの一味だ。
「人数じゃこっちが不利だけど……。あいつらはまだ俺達に気づいてないのか……? 」
「ほら、暗いからよく見えてないとか? でも今がチャンスだよね。何とかこっそりと助けられないかな?」
岩陰に隠れて人影を覗き込んでいたハイク達が、思考を巡らす。
確かに、本当に奴らがハイク達に気づいていないのだとしたら、こちらに優位な方向に持って行く事も可能かも知れない。だが、人質をこっそり助け出すのはかなり難しいだろう。例えば、ポケモンの技で奴らを眠らせる事ができれば安全に人質を救出する事もできるだろうが、ハイクもレインもそのような技を使えるポケモンを持っていない。あの見張りが目を光らせている以上、迂闊に近づく事もできないのだ。
結果として、ハイク達に残された選択肢は僅かだった。このままここで敵が隙を見せるのを待つか、それとも一か八か突っ込むか。無論、どちらもあまり現実的ではない。しかしだからと言って、何もしないで撤退するわけにもいかない。外で戦ってくれている人やポケモン達もいるのだ。彼らの努力を水の泡にするなんて、そんな事はできなかった。
『あ、あの……ハイクさん……』
ハイクが決断を下そうとした時、震える声でヴォルが口を開いた。彼はまるで何かに怯えているかのように小刻みに身体を震わせており、息も荒い。
何かあったのだろうか。確かに彼は少し臆病な所があるが、ここまで怯えているのを見たのは初めてだ。少し心配になったハイクは、なるべく優しげな口調でヴォルに呼応する。
「どうかしたのか?」
『えっと……何か、変な感じがしませんか……? 誰かに見られているような……そんな気がするんです……』
「誰かの視線を感じる……って事か?」
『おいおい、ヴォルはビビリすぎだって。オスだろー?」
『る、ルクスさんはいいですよ! 勇気もあるし、力だってあります! それに比べて、ボクは……。ただこうやって震える事しかできない、ダメな奴です……!』
会話に割り込んできたルクスだったが、流石に返す言葉に迷ってしまった。
別に、そんなつもりで言った訳じゃなかった。ちょっとからかえば、ヴォルの気持ちも紛れるのではと、そう思っていたのだが――。どうやら逆効果になってしまったようだ。ヴォルは小さな身体をさらに縮こませ、劣等感からかどんよりと沈んでしまっている。
ちょっとまずい事言ったかな? とルクスは頭を掻いていた。
『誰かに見られているような気がする、か……』
そんなヴォルの予感を聞き、カインは顔を上げる。考え過ぎ、と言えばそんな気がしなくもないのだが、なぜだかどうも引っかかる。
誰かの視線を感じる。カインでもそんな事は感じなかったのだが、もしもヴォルの予感が的中していたのだとしたら、自分達は既に奴らの手中にある事になってしまう。そうだとしたら、いつ奇襲されるてもおかしくない。
何となくカインは後ろを振り向く。薄暗い中、だいぶ目が慣れてきた為かさっきよりも鮮明に見渡せる。自分達が入ってきた入口。乱雑に設置されている大小様々な岩。そんな物は視界の外に退けつつも、カインは油断なく周囲を見渡した。
何も聞こえない、奇妙な静寂。静かに埃だけが舞う、虚無な空間。いや、違う。虚無などではない。確かに、そこには――。
カインは見逃さなかった。そこにいた何かが、小さくうごめいているのを。
そして直感した。自分達は、もう――奴らの策略に、はまってしまっているのだと言う事を。
全てを理解した頃には、暗闇に佇むそのポケモンに先手を打たれてしまっていた。
『ッ……! 伏せろっ!』
カインは声を張り上げて、身に迫る危機を伝えようとする。だが、気づくのがあまりにも遅すぎたこの瞬間では、ハイク達に状況を伝えきる事ができない。
カインが言葉を言い終わる、まさにその直後。
爆発音が響き渡った。