2‐3:独断の否定
空は暗雲に包まれていた。
ずっしりと伸し掛るような重い雲。生温かい不快な風に流されて不気味にうごめく、安定しない雲影。周囲が薄暗くなる程に厚いそれからは、今にも雨水が落ちてきそうだった。
その曇天を見上げるだけで、自然と心はどんよりと沈んでしまう。何か不吉な予感がする。そんなものすら感じてしまう空だった。
ホウエン地方の都市部の一つとして、カナズミシティは存在した。多くの建物が建ち並び、街灯が並ぶ街中は人通りも多い。ホウエン地方を代表する大企業、デボンコーポレーション本社が建てられている事でも有名な街である。
森林地帯の中に存在するカナズミシティのコンセプトは、自然と科学の融合を追求する街。そのコンセプト通り、豊かな自然と卓越した科学力との複合を感じさせる街だった。
また、カナズミシティにはポケモンジムと呼ばれる施設が建てられている。基本的にはポケモンバトルの訓練を行う施設だが、ポケモンリーグを目指すトレーナーにとってポケモンセンターと並ぶ最重要施設の一つであった。
リーグ出場の条件として、ジムバッジの収集と言うものがある。ジムのトレーナーの中にはジムリーダーと呼ばれる人物がおり、彼らにポケモンバトルの実力を認めて貰えると、ジムバッジを進呈してくれる。ホウエン地方には八つのジムが点在しており、それぞれのジムのバッジ全てを集める事で、始めてリーグの出場権を得られるのだ。言わばポケモンリーグの予選のようなものである。リーグを目指すなら、避けては通れない試練。毎年 多くのトレーナーが、バッジを求めてジムを訪れているのだった。
しかし、今日のポケモンジムはいつもとは違う。重苦しい、ただならぬ雰囲気に包まれていた。
ジムの方から聞こえるのは、サイレンの音と人々のざわめき声。ジムの周囲には人集りが出来ており、何事だと野次馬心が芽生えた人々が集まっていた。
「すいません、ちょっと通して下さい」
そんな人集りの中を少々 強引に通り、ジムに向かう一人の女性の姿があった。長めの黒髪はツインテールで、後頭部にはピンクのリボン。どことなく教師をイメージさせる服装をしている。真面目そうな雰囲気を醸し出す女性だった。
やっとの思いで人集りを抜け、彼女はジムを確認する。見慣れているはずのポケモンジム。しかし、そこは既に大きく変貌してしまっていた。屋根や外壁には何かを叩きつけでもしたかのような跡が残っており、窓ガラスも無残に割れてしまっている。電気が消えてしまっている為、ジムの中の様子は確認できないが、時折聞こえる物音から察するに中で何者かが活動しているようだ。
ジムの周囲は黒い狼のような姿をしたポケモン、グラエナを数匹連れた警備隊が包囲しており、ジムに向かって頻りに何かを訴えている。その場は糸を張ったような緊張に包まれており、その緊迫とした中にいるだけで思わず息を呑んでしまう。ただ事ではない事は明らかだった。
「ジムリーダーのツツジです。何があったんですか?」
意を決したその女性――ツツジは、近くにいた警備隊員に事態を確認した。声をかけられた警備隊員はその張り詰めた表情を彼女に向け、状況の説明を開始する。
「ツツジさん……ですか? お勤めご苦労様です。既にご存知の情報も含まているとは思いますが……、今から約四十分程前。潜伏ていた何者かの手によってジムは制圧。中にいた数名のトレーナー、及びポケモン達を人質に取られている状況です。現状、把握している情報によりますと複数人による犯行と見られておりますが……。あのように、呼びかけても殆んど反応はなし。未だ犯行グループの動機、具体的な人数などは掴めずにいます」
説明をしてくれているものの、警備員の表情は暗い。市民を守るのが自分たちの役割なのに、今はそれを全うできずにいるのだ。気を落としてしまうのも、無理はないだろう。
「……ごめんなさい。まさか私が不在の間に、こんな事になるとは……。せめて私がいれば、もう少し事態を軽くできたかも知れないのに……」
「い、いえっ! そんな、ツツジさんが謝るなんて滅相もない! 全ては我々 警備隊の詰めの甘さが原因です。どうかお気になされないで下さい」
ジムリーダーである自分が不在の時を狙われた。自分がこのジムの責任者であるのに、易々とジムは奪われてしまった。今、この状況を見ているだけで、ひしひしと遣る瀬無い思いが募ってくる。
そもそも、ホウエン地方でこのような事件が起きる事など、滅多にないのだ。少なくともここ数年は、太平が保たれてきた。そのせいもあって、人々の間には若干の気の緩みもあったのかも知れない。事実、警戒は行き届いておらず、このような唐突な事態にも対処が遅れてしまっている。
今から七年程前。ホウエン地方には二つの組織が存在した。片方は、陸を広げる事で人々が住みやすい世界を作ると言う野望を持つ組織、マグマ団。もう片方は、海を広げる事で新たな生物が生まれ育つ場所を作ると言う野望を持つ組織、アクア団。相対する二つの組織の活動により、ホウエン地方は窮地に立たされた。ところが、彼らは自らの悲願を達成する前に、とあるポケモントレーナー達の活躍もあり、壊滅させられてしまった。それ以後、彼らも活動を再開していないし、とりわけ大きな組織が始動したなどと言う事実も存在しない。人々の間には、安息が約束されたかに思われていた。
そんな中 起こったのが、この事件だった。
平和に浸った人々の、心のどこかで生まれていた油断。それが仇となり、結果として事態は深刻な所まで来てしまっている。
ジムを制圧されるなどと言う、殆んど例にない事態。犯行グループの規模はどれほどなのだろうか。警備隊に包囲されても全く動じる事さえも見せない奴らの目的は、一体 何なのか。
「あの、私に何かできる事はありませんか? 何とか、人質に取られた人達を助け出すきっかけだけでも作りたいんです」
ツツジは警備隊員にそう意見を述べた。唐突に出された意見を前にし、その警備隊員は少々 動じる。しかし直ぐに口を開いた。
「ですが、ツツジさんに危険な事をさせる訳にはいきません。 我々が何とか事態を収束させてみせますから!」
「私はジムリーダーです。ただ指をくわえて見てるだけなんて、耐えられないんです!」
「しかし……」
警備隊員は困ったように眉をひそめた。彼らにしてみれば、市民を危険にさらす事などしたくないのだ。確かに、ジムリーダーであるツツジはポケモンバトルの実力も一流だ。犯行グループに痛手を与える事も可能かも知れない。
だが、全くの無事でやり遂げられる保証はどこにもない。敵の戦力がどれほどか分からない以上、無闇に協力させる訳にはいかないのだ。
「お願いします」
それでもツツジは頼み込んだ。例え危険だったとしても、ジムを取り戻す手助けをしたいのだ。人質に取られたトレーナーやポケモン達も、ツツジを信じ、待ってくれているはずだ。
行かなくてはならない。それがジムリーダーとしての責務だ。
「で、では、ツツジさんは……」
ついに観念した警備隊員が、ツツジに新たな指示を出そうとする。ツツジの強い気迫に押され、停滞していたその警備隊員の意思が、動き出したのだ。
これで、自分も力になれる。そう思い、ツツジが内心で密かに士気を高めていたその時――――事態は大きく動き始めた。
「ぐわぁ!」
ガラスが砕け散る、否、吹き飛ばされるような音が響く。閉じられていたはずのガラス製の自動ドア。そこに何らかの力が加えられ、大きく弾け飛んだのだ。近くにいた警備隊員の一人が巻き込まれ、悲痛の叫びを上げながらも吹き飛ばされてしまう。
「な、なにっ!?」
ツツジ達の視線が、一斉にジムの入口の方へと注がれる。
紅く光る二つの何か。目を思わせる二つの光が、そこではうごめいていた。
―――――
ガタガタと、小刻みに身体が揺れる。それは自らの意思によるものでは無く、外部から与えられるものだ。別に不快な揺れではないと思うが、苦手な人にとっては苦痛に感じてしまうのだろう。
それはバスの揺れだった。別に珍しくもない、どこにでもありそうな車体。曇天の下、車両用に設けられた道路をそのバスは進んでゆく。
ハイクは窓の外を眺めていた。
レインからカナズミシティでの事を告げられてから数分。彼らはバスで移動していた。ちなみに、ヴォルは現在モンスターボールの中に入っている。バスに乗るまでは外に出ていたのだが、どうも彼は乗り物に弱かったようで直ぐに酔ってしまったらしい。モンスターボールの中にいる方がまだマシなので、ヴォルには戻ってもらったのだ。無理にバスに揺さぶられる必要はない。
結局コトキタウンではNに関する事は分からず終いだが、あんな事を告げられてはのんびりとしてはいられない。
たまたま自宅に立ち寄ったレインが、テレビから得た情報だった。
カナズミシティのポケモンジムが、何者かによる攻撃を受けている。関係のないはずの人やポケモン達が、数名人質に取られてしまっているらしい。
そう、これはテロだ。絶対に許されぬ行為。あまりにも不合理過ぎる、苛烈な悪行。自分もよく知っている街でこんな事が起きるなど、考えた事もなかった。
何よりまず考えてしまうのが、現状で起きているホウエン地方との関連性だ。ミシロタウン、ミナモシティ、ルネシティが襲われ、101番道路で生息していないはずのポケモンが現れたかと思うと今度はカナズミシティが襲撃された。
流石にここまで来ると、どれも何者かにより作為的に仕組まれたものだと断定せざるを得ないだろう。しかし仮にそうだとしても、その何者かがたった一日でこれほどまでの影響を与える力を持っていたのにも関わらず、これまで誰にもその存在が知れ渡っていなかった事が不可解だ。一体、ホウエン地方に異変をもたらす‘敵’とは、何者なのか。その強大過ぎる力を前にすると、若干 後込みしてしまう自分がいる。それがもどかしかった。
「やっぱり、どれも仕組まれた事だったのかな?」
窓の外を眺めていたハイクに、レインが声をかけた。深く考え込んでいたハイクだったが、そこで我に返る。
レインとて、何となく感づいているのだろう。唐突に出現したその‘敵’の、強大な力を。
「あぁ、多分な。流石に偶然って片付ける訳にはいかないだろ。あのレジロック達も、今カナズミジムを襲っている奴らと何か関係があるんだと思う」
無論、証拠は不十分だと言われれば確かにそうなのだが、やはりどうも引っかかる。偶然だと言ってしまうには、あまりにも軽率過ぎるのではないだろうか。あまりにも、タイミングが良すぎる。
そんな事をしている内に、窓の外にはカナズミシティが見えてきた。
やや遠くからでも、背の高いビルは確認できる。森林地帯に存在するそれは、相変わらず壮大だ。ここまで自然とマッチしている都市は、そうないのではないだろうか。設計者の腕の良さが、垣間見えてくる。しかし一箇所だけ、どうしても目が向いてしまう部分があった。
カナズミシティには何度も来た事がある。そこには見慣れた風景が広がっているはずだった。だが、そこだけは違った。この距離からでも確認できる。一箇所だけ、やけに多くの光が集まっている場所がある。何やら騒がしいその場所からは、よく見るとモクモクと煙が立ち込めているようだ。
「は、ハイク! あそこって……」
間違いない。あそこはポケモンジムだ。どうやらハイク達が移動している間に、事態は再び動き出したらしい。それが目に見えていた。
「どうやら、何が動きがあったみたいだな。人質に取られた人達が無事だといいけど……」
ハイク達が駆けつけた所で、何が変わるか分からない。ひょっとしたら、何もできないのかも知れない。それは十分に承知している。しかし、ハイクには見逃す事ができなかった。
何か、自分にもできる事があるはずだ。少しでも協力したい。それに、もし敵と接触できたのなら、何か重要な手がかりが掴めるかも知れない。自分達の旅の目的の為にも、そして苦しんでいる人達の為にも、カナズミシティに向かわなければならなかったのだ。
やがて、バスはカナズミシティの中へと入る。
「私達に、何かできるのかな……?」
「分からない……けど、できる限りの事はしたい。俺が、俺がやらなきゃ……」
そう言いかけた直後の事だ。ハイク達の身体に、これまでにもない衝撃が襲いかかった。何が起きたのか認識するには、あまりにも短すぎる瞬間。耳を覆いたくなるようなブレーキ音が鳴り響き、車体が横に大きく傾く。
「なっ……!?」
踏ん張る事さえ許されず、ハイクはその力に流されてしまった。倒れるのではないのかと思う程に車体は傾き、力はどんどん強くなってゆく。
突然の出来事の乗客達は悲鳴を上げ、立って乗車していた人達は踏ん張りきれず転倒してしまう。座っていたハイク達も耐える事ができず、座席から投げ出されてしまった。
『わ、わわっ!』
勿論それはレインの横にいたルクスも例外ではない。その身体や易々と投げ出され、床に転がり落ちてしまう。
「きゃあ!」
ルクスが転がり落ちた直後、今度はレインが投げ出される。身体に伸し掛る力は、少女が耐えるにはあまりにも強すぎた。身体を支えきる事ができず、仰向けに転げてしまった。
『ぐえぇっ!?』
ハイクの耳に、そんな苦痛の声が聞こえてきた。
レインが転げた際、彼女は先に転げ落ちていたルクスの上へと倒れ込んでしまったのだ。立ち上がろうとした矢先に思わぬ事態が起こり、ルクスは身動きがとれなくなってしまった。身体にかかる力のせいで、レインも立ち上がる事ができない。
やがてガタンと大きく車体が揺れたかと思うと、ようやく圧迫していた力から解放された。
「な、何が起きたんだ……!?」
ハイクはチラリと他の乗客を確認した。乗客の人数は少なかったが、幸いみんな無事なようでザワザワとざわめき始めている。ハイクも大きな怪我は負っておらず、何とか立ち上がる事ができた。
「レイン、ルクス、大丈夫か?」
倒れた際にぶつけた額を摩りながらも、ハイクはレイン達へと声をかけた。仰向けに倒れているレインが、ハイクの声に反応してもぞもぞと動く。
「いたた……。何が起きたのぉ……?」
『ちょ、ちょっとレイン重いって! 乗っかってる、乗っかってるよ!』
レインの下に挟まれたルクスが、ジタバタ脚を動かす。が、レインはそれに気づいておらず、当然ルクスの声も聞こえていないので、自分が上に乗っかってしまっている事にすら気づいていないようだ。
「れ、レイン……、ルクスが苦しそうなんだけど」
「へ……? ああ! ごめんルクス!」
慌ててレインは起き上がるが、ルクスはご立腹だ。怪我はしていないようで良かったが、サンダースである彼は人間に伸し掛られたら身動きが取れなくなってしまうようだ。意外と苦しかったようで、疲れたように寝転がってしまっていた。
「……それにしても、本当に何があったんだ? 急ブレーキをかけたみたいだったけど……。道の真ん中に何かいたとか?」
取り敢えずレインもルクスも無事なようなので、ハイクは改めて状況を確認した。どうやらバスは急ブレーキをかけた上にハンドルを切ったらしく、横転はしなかったが車体は道路を塞ぐように横を向いてしまったようだ。
乗客達はいよいよパニックになりかけているようで、周囲のざわめきも一段と強くなってきた。運転席付近には多くの人が集まっており、何が起きたのか運転手に確認しているようだ。
「よし、俺も運転手に……」
「っ!? ハイク後ろ!」
自分も確認しに行こうとした矢先、突然レインがハイクの背後を指差した。動揺を露骨に表情に出し、必死に何かを訴えている。ハイクは反射的に、しかしゆっくりと彼女の視線の先を振り向いてみた。彼女が指差す先にあるのは、窓。いや、レインが示しているのは窓の外――。
「……え?」
ズガン! と音が響き、再び車体が大きく揺れた。しかし今度は先ほどのような衝撃とは比べ物にならない程 大きい。外部から何かしらの攻撃が加えられ、窓ガラスが砕けると共に車体までもグニャリと変形してしまう。
「うっ……!?」
咄嗟に飛び退いたお陰でハイクは難を逃れたが、彼は決して見逃さなかった。窓の外にいた、そのポケモンの姿を。
赤やオレンジの鮮やかな羽が六枚。その羽には所々 灰色の斑点模様がついていた。その見た目から分かる通り虫タイプのポケモンだろうが、体長はかなり大きい。百六十センチはあるのではないだろうか。そのポケモンはまさに、巨大な蛾。
「ハイク大丈夫!?」
目の前で窓ガラスが砕け散り、埃が舞う中でレインは声を張り上げる。ハイクは風圧で飛ばされてしまったが、その攻撃自体に巻き込まれる事はなかった。彼はゆっくりと立ち上がる。
「嘘だろ……? バスに攻撃してくるなんて……」
たいようポケモン、『ウルガモス』。バスの運転手はこのポケモンが急に現れたのに気づき、ブレーキをかけたのだ。それだけではなく、このポケモンは目の前のバスが急ブレーキをかけて滑り込んだにも関わらず、逃げる裾ぶりすら見せなかった。つまり、初めからバスを狙って現れた事になる。それも、こんな街中に--。
「このポケモンって……」
「あぁ……。多分、こいつは……!」
第二波が届いた。ウルガモスの放つ“ねっぷう”がバスを包み、車体をさらに変形させる。
遂に乗客はパニックに陥り、一斉にバスの外へと逃げようとした。しかし、その狭い出入り口に多くの人が集まってしまっては、思うように避難できない。詰まってしまっていた。
「と、とにかく追い払わなきゃっ! フレイ、お願い!」
騒ぐ人々を見たレインが、モンスターボールからポケモンを展開させる。ゴウカザルのフレイを繰り出した。
「フレイ! ウルガモスをバスから引き離して!」
レインの指示を受けたフレイは小さく頷いた後、ガラスが割れて変形した窓から外へと飛び出した。さらに追い討ちをかけようとしていたウルガモスを、強引に押し倒す。がっちりと押さえ込み、動きを止めた。
『おい……! どうしてこんな事をする! 俺達に、襲いかかる理由でもあるのか……!?』
フレイがそう問うが、ウルガモスからは反応がない。無表情なその顔からは、感情すら読み取る事ができなかった。その不気味な眼光を浴びていると、背筋がゾッとしてくる。
体重をかけて押さえ込んでいる為、ウルガモスは最早 身動きが取れないように見えた。だが、そのポケモンは突然その巨大な六枚の羽を強引に動かし、羽ばたたせ始める。
まだ抵抗するつもりなのか。どう考えても、今のこの状態じゃこのウルガモスにできる事はない。パワーでは明らかにフレイが優っているのだ。このまま易々と離すつもりはない。無駄な抵抗だ。
しかしその次の瞬間、勝利を確信していたフレイの身体に予想外の強風が襲いかかった。
『うぐっ……!?』
あまりにも強すぎるその強風は、ガッチリと押さえ込んでいたはずのフレイを、いとも簡単に吹き飛ばした。
“ぼうふう”。予想外の反撃に、フレイは攻撃を防ぐ手立てを用意できない。その強風はたちまちフレイを包み込み、荒れ狂う風でダメージを与え続ける。
「そ、そんな……! フレイ!」
レインが声を張り上げた頃には、フレイは地面に叩きつけられていた。ゴウカザルとは相性の悪い飛行タイプの攻撃の為、フレイの受けたダメージは大きい。たった一撃で、形勢は逆転してしまった。
「あの状態から“ぼうふう”を打てるのか……!? こいつ……やっぱり……」
あのレジロックと同じ。ハイクの頭にその言葉が過ぎった。
フレイは手を抜いてバトルをするようなポケモンではない。今だって、しっかりと押さえつけていたはずなのだ。あの状態で反撃をするなど、しかも羽を使って“ぼうふう”を発生させるなんて事、できるはずがない。あの瞬間、何をされたのだろうか。
フレイを蹴散らしたウルガモスは、本来の標的であったそのバスに向き直る。いや、正確にはバスの乗客か。あのレジロックと同じならば、ウルガモスは人を襲おうとするはずだ。
原因は分からない。ただ無差別に、人に襲いかかってくるポケモン。止めなければ。何としてでも。
『おい……、待て……!』
ダメージを受けた重い体を持ち上げて、フレイはウルガモスに歩み寄った。“ねっぷう”でバスを攻撃しようとしていたウルガモスだったが、今度はフレイに羽交い締めにされる。またしても攻撃は中断されてしまった。
背後にいるフレイには、流石に“ぼうふう”は飛ばせないらしく、ウルガモスは技を使おうとしない。鬱陶しいこのゴウカザルを振い落そうと、ウルガモスは激しく身体を揺すり始めた。
だが、だからと言ってフレイが有利になった訳ではない。あのままでは、直ぐに振り下ろされてしまうだろう。そして今度こそ、ウルガモスに止めを刺されてしまう。もしそうなってしまったら--。
「フレイ! もういいよ! 早く逃げて!」
二度にも渡る“ねっぷう”で熱せられた窓枠に近づくことさえも厭わず、レインはフレイを呼び戻そうとした。ところが、フレイはそんなレインの願いを聞き入れず、今も尚ウルガモスを羽交い締めにしている。振り回され続けても、残った力を振り絞って必死にしがみついたままでいる。彼がレインの指示を聞かない事など珍しい。何をするつもりなのだろうか。
『ハイク……! 俺の声、聞こえてるんだろ……!?』
「フレイ……?」
切れ切れの声でフレイがハイクに声をかけた。必死にハイクに呼びかけるフレイの姿を見ていると、ハイクは胸が苦しくなってくる。ハイクだって、これ以上フレイに無理をして欲しくなかった。
『頼む……! 俺がこいつを抑えている間に、レインを連れて早く逃げてくれ……!』
「っ!? なに言ってんだよ!」
突然の要請。フレイは本気だった。
今の自分では、このウルガモスに勝てない。そう悟ったフレイが、せめてもの抵抗で自らを犠牲にして時間を稼ぐと言うのだ。
彼の心は一つだ。ただ、主人であるトレーナー--レインを、守りたい。その願いだけをを原動力にして、ボロボロの身体を動かしている。
確かに、このままフレイがウルガモスを羽交い締めしし続けてくれさえすれば、レインを連れて逃げる事も可能かも知れない。しかし--ハイクにそんな事、できるはずがない。
『早く、してくれ……! いつまでも抑えられない……!』
「駄目だ……そんな事……! 置いて行くなんて、できない……!」
握り締めた拳がブルブルと震える。意識しなくても自然と力が入ってしまう。
そうだ。助けなければ。自分が、何とかしなけらばならない。これ以上、誰かが目の前から消えるなんて、そんなの嫌だ。
だから、助ける。絶対に、助ける。
「ハイ……ク……? フレイは……まさか……」
ハイクがモンスターボールに手をかけた時、震える声でレインがそう聞いてきた。彼女のその顔を見た瞬間、ハイクの動きが一瞬だけ止まった。
ハイクも見た事がない表情。まるで闇に飲まれてしまったかのように、光を失った瞳。フレイの声を直接 聞いた訳ではない。だが、彼女は何となく感じ取ったのだ。フレイの、決断を。
何となく分かったはずなのに、レインは上手く整理する事ができない。頭の整理が追いつかない。こんな局面に立たされた事など、始めての事なのだから。
だけど。
「フレイ! ダメ! お願い、だから……これ以上は、もう……!」
レインのその叫びを聞いた、その瞬間。まるでトリガーが引かれたかのように、ハイクは動いた。
手にかけていたモンスターボールを取り出し、中央部のボタンを押してサイズを拡大させる。流れるような一連の作業。その流れのまま、ハイクは窓の外へ向けてそのモンスターボールを投げた。
「カイン!」
空中でモンスターボールは開かれ、中のポケモンは展開された。光と共に飛び出した彼は、着地と同時に地面を蹴って、そのままウルガモスへと接近する。その勢いは落ちることを知らず、どんどん強くなってゆく。
「“ドラゴンクロー”だ!」
ハイクがその指示を出すと、初めからそうするつもりだったと思えてしまう程に、カインは的確に技を発動させる。淡い光を灯した爪で、ウルガモスを斬りつけた。
フレイに羽交い締めにされていた為、カインが攻撃を当てるのは難しくない。無防備になったウルガモスの腹部を、彼の“ドラゴンクロー”は捉えていた。
『ビィィィィ!』
ウルガモスが悲鳴を上げた。タイプの相性がいい技とは言えないが、それでも痛手は与えられる。ウルガモスの身体がぐらりと揺れ、フラフラを力を失い始める。
その隙にカインはもう一度“ドラゴンクロー”で追撃した。一撃では削りきれてない。だが今度こそは、崩れ落ちる。
遂にウルガモスは意識を失い、羽交い締めにされたまま気絶した。羽ばたいていた羽は動きを止め、浮遊していた身体は重力に引っ張られる。ドスンと音を立てて、ウルガモスは倒れ込んだ。
『倒した……のか……?』
未だ何が起きたか分からないと言った面持ちで、フレイはウルガモスを見つめていた。ピクピクと痙攣しているそのポケモンは、少なくとも今すぐに動き出すような気配はない。
たった二発。たった二発の“ドラゴンクロー”で、カインはウルガモスを戦闘不能にまで追い込んだ。そんな芸当を見せつけられ、フレイはただ漠然とした感情を抱く事しかできなかった。
そんなカインが、鋭い眼光でフレイを睨みつける。何かを言いたげな、突き刺さるような眼光。ピクリとその視線に気づいたフレイが、おもむろに顔を上げる。カインと目が合った。
『何を一人で突っ走っている』
静かだが、重みのある言葉。それをカインに投げかけられ、フレイはグッと言葉が詰まった。何も言い返す事ができない。それ程までに、カインの言葉は強かった。
『お前は一人で戦っている訳じゃない。あんな風に、勝てないと悟ったからと言って身を犠牲にして乗り切ろうとするのは、妥当な判断だとは言えない。仲間を頼ると言う事も、時には必要な事だ』
カインは一方的に話し続ける。いや、フレイが何も言えないだけだ。カインの言う言葉は、フレイの心に響いていた。
カインは続ける。また一弾と眼差しを強め、強く伝える。
『お前の主人を、悲しませるような事は絶対にするな』
フレイは気づかされた。自分がしてしまった事を。そして後悔した。レインを助けようとしたつもりが結果として彼女に辛い思いをさせる事になってしまった、自分の決断を。
『ゴメン……』
消え入るようにフレイがそう言った。
謝るべき相手は、カインではない。だが、彼はそう言わずにはいられなかった。そう言わなければ、いつか後悔する。気持ちに押しつぶされてしまう。そう思った。
「カイン、フレイ! 大丈夫か!」
何とかバスから脱出したハイク達が、駆け寄ってくる。もちろんレインも一緒だ。
フレイはレインに向き直る。自分のしてしまった事は決して取り消す事は出来ないけれど、せめてレインを安心させてやる事だけはしたい。フレイは立ち上がった。例え言葉を伝える事は出来なくても、気持ちだけなら伝わるはずだ。そうだ。レインに謝ろう。そうフレイは固く決心していた。
気持ちを改めたフレイを見て、カインは安心したように表情を緩める。これなら彼は、大丈夫そうだ。もう自分がしてやれる事はない。今の彼なら、気持ちを伝える事もできるはずだ。
カインは肩の力を抜く。握っていた拳も、緩められる。
ウルガモスに“ドラゴンクロー”を放った、彼の腕。その手の甲が赤く爛れてしまっている事に、今はまだ、誰も気がつかなかった。