1‐6:家族
「まさかレインの買いたかった物ってのが、それの事だったとはなぁ……」
ミシロタウンの大通りを歩いていたハイクが、同じく隣を歩いているレインが抱き抱えている物を見て、思わずそう言った。
彼女が抱えている物は、黒っぽい色をしたポケモンのぬいぐるみ。見る限り四足歩行で、背中には小さな翼のようなものが見える。しかし何より気になったのは、何と二つもある首。その首それぞれが今にも襲いかかってきそうな剣幕で、その鋭い牙を剥き出しにしていた。長めの体毛で目が隠れてしまっている為か、かなり不気味なポケモンに見える。妙にリアルで完成度の高いぬいぐるみだ。
ジヘッドと言うホウエン地方では見かけないポケモンのぬいぐるみだが、それはどう見ても女の子が欲しがるような代物ではない。しかし等のレインはと言うと、幸福に満ち溢れた表情でそのぬいぐるみを抱えていた。
「だって〜、このぬいぐるみずっと欲しかったんだよ? コトキタウンのお店じゃ、まだ置いてなくって……。でもミシロタウンにあってよかったぁ」
レインにはポケモンのぬいぐるみを収集する趣味がある。以前レインの家を訪れた時には、既に彼女の部屋にはファンシーショップよろしくぬいぐるみで満ちていたと思ったのだが、どうやらまだ増えているようだ。
しかも意外とこのジヘッドの様なぬいぐるみも好みなようで、彼女の部屋でこんな感じのぬいぐるみをチラホラと見たような気がする。
『……随分と変わった趣味を持っているんだな』
ハイク達の後ろを歩いていたジュカインが、そう呟いた。ポケモンであるジュカインでも、彼女が持つジヘッドのぬいぐるみには反応せずにはいられないらしい。女の子がそんなぬいぐるみを抱えている様は、なかなかシュールではある。苦笑を浮かべつつも、ジュカインは嬉しそうなレインを見つめていた。
―――――
「ポケモンの声が聞こえるようになった!?」
ハイクがレイン達に自分に起きた事を話して真っ先に返ってきたのが、その言葉だった。
当然の反応だろう。誰だって初めはそう聞き直してしまうはずだ。ハイクでさえ、まだこの力についてよく分かっていないのだから。
「信じてもらえないかも知れないけど、本当なんです……!」
信じてもらえないと言う事は、分かっている。ハイクは駄目元でそう訴えていた。
常識を覆すような出来事。見える世界すらも変化していまう程の、自分でも信じられない力。その力が人知を超えた所にあるものだと言う事は、容易に想像できた。
「う〜ん……。でもハイク君がこんな時に嘘をつくとは思えないし……、本当なんだろうね」
しかし、オダマキ博士から返ってきたのは、意外とあっさりとした言葉だった。
ハイクの予想とは大きく異なった反応だったので、少し面食らってしまう。ハイクは何も証拠を見せる事はできなかったが、オダマキ博士は言ってくれたのだ。信じる、と。
「私も信じるよ、ハイク」
面食らったハイクに向けて、レインもそう言った。
彼女達の顔からは、一辺の曇りも見受けられない。ハイクを不審に思っているような事はない。本気で信じてくれているのだ。
そんな彼女達を見ていると、信じてくれないのではと疑っていた自分が恥ずかしい。自分の周りには、こんなにも信用してくれて、背中を押してくれる人達がいる。そう思っただけで、ハイクは何か込み上げてくるものを感じていた。
「レイン……オダマキ博士……」
ハイクの呟きに対し、レインはニコッと笑ってくれる。オダマキ博士も、うんっと頷いてくれた。
それまで感じていた疑惑を払拭し、ハイクも笑顔を作る。そして彼は決意した。こんな人達に囲まれているからこそできる決意。
Nを探し、見つけ出す。自分が手に入れてしまったこの力の事も、あのレジロック達の事も、消えてしまったポケモン達の事も。彼ならば、何か知っているはずだ。
そうだ。いなくなったあの六匹のポケモン達も、ハイクの事を信じてくれているはずだ。もしかしたら彼らは今頃、苦しみ、助けを求めているかも知れない。もしそうなのだとすれば、いつまでも迷ってはいられない。
「オダマキ博士。俺、もう一度Nに会ってきます。会って、真相を確かめてきます!」
オダマキ博士を見据えるハイクの瞳には、確かに決意が宿っていた。
決して揺れる事がない、固く結ばれた決意。それを感じたオダマキ博士は、何も言わずにハイクを見つめる。まるでそう来ると予期していたかのように、おもむろに頷いた。
「……そう言うと思ったよ」
難しそうな表情をしたオダマキ博士が、躊躇しているかのような口調でそう言った。大人であるオダマキ博士から見れば、子供であるハイクにそんな事はさせたくないのだろう。またあのレジロックのように、ポケモンが襲いかかって来るかも知れないのだ。あのような事件が立て続けに起きた直後であるがゆえ、その可能性は否めない。
そんな危険な事、させたくないのだ。
「いなくなったポケモン達だけじゃありません。あのレジロックだって、何か理由があって人を襲っていたはずです。あいつらも、本当はきっとこんな事したくないんだ……。だったら、助けたい……。皆を助けたいんです!」
しかしハイクが抱く決意は、彼の瞳を見れば見るほど硬いと言う事が分かる。最早オダマキ博士がどんな言葉を並べた所で、彼の決心が揺れる事はないのだろう。
「ハイク……」
レインもそんなハイクを見つめる。
綺麗事を並べた訳じゃない。それは虚勢などではない。彼は本気だ。
彼は昔からそう言う少年だった。普段はあまり目立つタイプではない方なのだが、ポケモンの事になると我を忘れかけてしまう事がある。数ヶ月前、レインと共にリーグを目指してホウエン地方を旅ていた時も、ポケモンを助ける為になりふり構わず飛び出していった事がある。あの時も、一歩間違えれば大怪我をしてしまう程の危険な状況だった。
今回だってそうだ。原因の分からないポケモン絡み事件。どこに危険が潜んでいるのかすら分からない状況で、彼は自分の身の事など何も考えていない。苦しんでいるポケモン達を、放ってはおけないのだ。
考え込むオダマキ博士。返答を待つハイク。それを見守るレイン。
暫しの沈黙が訪れる。長くも、短くも感じられる時間だった。
『まったく……。本当にお人好しなんだな、あんたは』
その沈黙を破ったのは、意外な人物の声だった。
聞き覚えのある声。頭の中に直接響いてくるような、この感覚。ハイクだけが反応して、その声の主の方へと目を向ける。
「ジュカイン……!」
部屋の出入り口。そこにいたのは、腕を組み壁に身を委ねて寄りかかっているジュカインだった。
ハイクがそう言ったのを聞いて、レインとオダマキ博士もジュカインの方へと目を向ける。そして驚いたような表情をした後、今度はハイクの方へと目を向けた。
誰かに声をかけられて振り向くような素振りをしたハイクを見て、しかし彼の視線の先にいるのはポケモンだったのだ。そう、彼は今ポケモンの声を確かに聞き取っている。やはり初めて目の前でそんな芸当を見せられて、驚くなと言うのが無理なのかも知れない。
「怪我は……大丈夫なのか?」
壁に寄りかかっていたジュカインは、自分の足で立ち直す。そしてその足でしっかりと前に歩く事によって、大丈夫だと彼に表した。
それを見て杞憂をしていたと知ったハイクは、安堵の息を漏らす。思っていたよりも彼の体力の回復が早かった為、少し戸惑っていた所もあったのかも知れない。やはり鍛錬を積んでいる分、並のポケモンよりも生命力が強いのだろうか。
ハイク達に近づきながらも、ジュカインは続ける。
『自分の身の危険を省みずに俺を助けようとしたかと思えば……敵であるはずのレジロック達まで助けたいなどと言い出すとは……』
呆れているのか、それとも敬意を表しているのか。
ジュカインは苦笑する。
『その内、誰かの為だとか言って平気で自分の命を投げ出そうとしたりするんじゃないか? フッ……あんたを見ていると、危なっかしくて放っておけないな』
ジュカインに指摘され、ハイクは何とも言えない羞恥に襲われる。トレーナーであるはずのハイクが、ポケモンであるジュカインに危なっかしいと心配される。確かにこう面と向かって言われると、そんな羞恥も感じてしまうだろう。
『だから……』
しっかりとハイクの瞳を見据え、ジュカインは自分の意思を伝えた。
『俺もあんたに協力しよう。……例えどんな脅威が訪れたとしても、俺があんたの盾となり、そして剣となろう』
その翠色のポケモンの瞳には、ハイクと同じくらい強く、大きな決意が宿っていた。それには、ハイクと共に行き、共に運命を過ごすと言う覚悟も込められていたのだろう。
しかし、ハイクには引っかかっているものがある。それは先ほどジュカインから感じた感情。この研究所に連れてくる最中、ジュカインから感じた違和感。何かが彼の枷となり、束縛しているような感覚。もしそれがハイクと言う少年のせいなのだとすれば、無理に彼の旅に同行させる訳にはいかなかった。
「でも、ジュカイン……」
『……気づいているんだろう? 俺の名はカイン。あんたの父親のポケモンだ。あんたを助ける理由がある』
それは、彼の口から初めて語られた事実だった。
彼には『カイン』と言う名前がある。そう、彼はハイクの父親のポケモン。いや、かつてはハイクの父親のポケモンだった。
『それに……』とジュカインが付け加える。
『約束……したからな』
「約束……?」
ハイクには父親がいた。今はいない。あれは何年前だっただろうか。彼は仕事に行ったきり、帰ってこなくなった。ポケモンドクターであったはずの父親の身に、何が起きたのかまるで見当つかない。ただ、あの頃のハイクは、まだ幼いながらも父親とはもう二度と会えないのだと、それだけは理解していた。
カインは、ハイクの父親のポケモンだった。トレーナーのようなバトルは行わない父親が、どこからか怪我をしたキモリを拾ってきたのだ。右目の傷だけが、治らず残ってしまった。
カインはハイクの父親によく懐いていた。最初の内は警戒していたものの、少しづつ和解していったのだ。
ハイクは、そんな父親とカインと共に過ごす日々が、幸せだった。
しかしあの日。その幸福は突然終わりを告げた。
「……分かった。ありがとう、カイン」
どこか遠くを見るような瞳になったジュカイン――カインを見て、何かを察したハイクは静かにそう答える。彼の言う‘約束’が、何の事なのかはハイクには分からない。分からないが、カインのその瞳を見ていると、彼の強い思いが伝わってくる。彼が、彼の意思でハイクに協力してくれるのだと言うのならば、ハイクが彼の決意を無駄にする訳にはいかない。
「ほんの少しだけでいい。俺に力を貸してくれ」
危険な旅になるかも知れない。何が起きるのかも分からない。それでも、カインはハイクに協力してくれる。協力しようと、そう言ってくれる。ハイクは彼の優しさに触れ、胸が熱くなる思いを感じていた。
『あぁ。勿論だ』
カインはフッと笑顔を浮かべる。それに答えるかのように、ハイクは頷いた。
「すごい……。ホントにポケモンと話せるんだね」
間近で彼らのやり取りを見ていたレインが、目をキラキラさせてそう言った。
こんな風にポケモンと会話しているハイクを見るのは、初めてなのである。ハイクの力を目の前で見て、少し興奮気味なのだろう。
「あ、あぁ。俺に協力してくれるみたいなんだ。危なっかしくて放っておけないって」
苦笑しつつもハイクが答えた。そして、その視線を再びカインの方へ向ける。
それを見たレインは、その表情を改め真剣なものにする。ハイクが、大切な幼馴染が、自ら危険な旅に身を投じようとしている。そう考えると、なぜだか居ても立ってもいられなくなってくる。自分は何もせずに旅に出るハイクをただ見ているだけなんて、そんな事にはなりたくない。
「じゃ、じゃあ、私も一緒に行くよ!」
「……えっ?」
予想外のレインの言葉に、ハイクは思わず間の抜けた声を上げてしまう。
たどたどしい口調で自分の気持ちを主張するレインを見て、ハイクは口を挟むタイミングを逃してしまう。言葉を出そうと試みたものの、あっさりレインに遮られてしまった。
「でもレイン、お前を……」
「巻き込みたくない、何て言わせないよ。私だって、もう関わっちゃってるんだよ? それなら、ハイクの手助けをしたい。ほら、私もポケモンを連れてるんだし、数が多い事に越した事はないでしょ?」
彼女を巻き込みたくない、と言うのは図星だった。レインはそれを承知の上で、一緒に行きたいと申し出たのだ。
カインの次はレインだ。次々と誰かを巻き込んでしまっているような気がして、ハイクは少し申し訳なく思っていた。しかし、ハイクは彼らの意思を曲げる事はできない。余計な心配をして誰かを否定するなんて、そんな事できなかった。
「ふぅ。やっぱり、君たちは止めたって無駄みたいだね」
肩を窄めたオダマキ博士が、ため息混じりにそう言った。
しかし、満更でもない様子。彼は彼なりに、ハイク達の事を理解してくれているのだ。オダマキ博士はこれ以上、ハイク達を止める事はなかった。
「行っておいで。君たちの力で、真実を確かめるんだ」
オダマキ博士の言葉を聞き、思いが固まったハイク達は静かに頷く。
Nを探し出し、真実を確かめる。そして、ハイクのポケモン達も助け出す。彼らの思いは、一つだった。
しかし最後にオダマキ博士が「ただし……」と付け加える。
「一つ約束してくれ。……絶対に、無事に帰ってくるんだ。いいね?」
―――――
オダマキポケモン研究所を後にし、レインの買い物に付き合ったハイク達は、旅立つ前にとある場所へと向かっていた。
ミシロタウンの住宅地。そこに佇む、一軒の家。ミシロタウンの他の民家と比べても、察して特別な所はない。至って平凡な二階建て家であった。
そこは、ハイクの家だった。そう、旅立つ前に母親に話しておかなければならない。恐らく、先ほどのレジロックの騒ぎも耳に入ってきているはずだ。心配をかけてしまっているだろう。何も言わずに旅立つ訳にはいかない。
「それじゃ、ちょっと行ってくる」
ジヘッドのぬいぐるみを抱えているレインに、そう伝えた。一瞬だけ心配そうな表情を垣間見せたレインであったが、何も言わずにただ頷く。
これは自分が介入すべき事ではない。彼女なりにそう考えたのだろう。
ハイクはドアノブに手をかける。母親は、ハイクの旅立ちを許してくれるのだろか。そう考えると一瞬だけノブを捻るのを躊躇したが、ハイクは意を決して玄関の扉を開けた。
「ただいま」
そう零したものの、果たしてその言葉を今言べきだったのだろうか。まだ言わない方が妥当だったのではないのだろうか。
「ハイク……? ハイクなのね!?」
家の奥、リビングの方から母親が出てきた。
ハイクの顔を見た瞬間、彼女の表情は安堵に包まれる。心の中に募っていた不安が、一気に解消されたような表情だった。
「良かった……心配したのよ? 外で騒ぎが起きてるって聞いて……」
「そっか……。ごめん、母さん。心配かけて……」
ハイクは少し黙り込んだ。
自分の母親のこんな顔を見て、彼はさらに言い出しづらくなる。これ以上、母親に心配をかけたくない。それも本音であった。
けれど、だからと言ってハイクはここに留まる訳にはいかない。いなくなったポケモン達を、放っておく訳にはいかないのだ。
「でも本当に良かった。ハイクが無事なら、それで……」
母親がそう言ったのを境に、ハイクは口を開いた。
「ねぇ、母さん」
「ん、どうしたの?」
旅立たなければならない。だが、その前に母親に伝えておきたい事があった。
「父さんのキモリ……カインがさ、帰って来たんだ。ほら、入ってこいよ」
開けっ放しの玄関の扉。それまで外にいたカインが、ハイクに呼ばれ中に入ってきた。
「まぁ……」
「今は、ジュカインだけど」
カインを見た母親は、驚きを隠せずにいた。両手で自分の口元を覆い、しかしすぐに懐かしそうな瞳でカインを見据えた。
「今までどこに行ってたの? いつの間にか大きくなって……。顔の傷は、まだ治ってないのね……」
ハイクの母親が、懐かしそうに声を上げる。
顔の傷を心配されたカインが『大丈夫だ』言うのだが、その声は彼女には聞こえてないだろう。それを見たハイクは何だか少し切なくなったが、その気持ちを押しのけるように話を進める。
「母さん。それと、もう一つ……」
「……今度は、どうしたの?」
言いにくい。しかし、言うしかない。ここまで来たら、しっかりと気持ちを伝えるしかないのだ。
「俺、もう一度ホウエン地方を回らなきゃいけないんだ」
「…………」
母親は無言。しかしハイクは構わず続ける。
「色々あって……。苦しんでいるポケモン達がいるんだ。俺を待ってるから……。俺が行かなきゃ……俺が助けなきゃいけないんだ」
ハイクの言葉を何も言わずに聞いていた母親は目をつぶり、下を向いて何かを考えた。
しかしすぐに顔を上げる。
「……ちょっと待ってなさい」
母親はそう言うと、家の奥へと入って行った。
てっきりすぐに止められると思っていたハイクだったが、またしてもハイクの予想は外れてしまった。だが、彼女は一体何をしようと言うのだろうか。
考えていると、奥に行った母親が戻ってきた。何かを持ってきたようだ。
彼女がその手に持っているのは、一つのモンスターボール。だいぶ使い込まれているようだが、それは新品と見間違える程にピカピカに磨かれているようで、光沢を放っている。長い間この家に置かれていたものとは思えない程に綺麗なボールだった。
「これ……カインくんのモンスターボールよ。持って行きなさい」
そう言うと、彼女はそのボールをハイクに差し出した。
カインのモンスターボール。ハイクの父親が使っていたボール。それを受け取った瞬間、何も入ってないはずなのにずっしりと重みを感じた気がした。
「父さんの……。でも、俺の事止めたりしないの?」
ボールを受け取ったハイクが聞くと、母親は苦笑しながらも言った。
「もう、ハイクも子供じゃないしね。あなたが自分で決めた事なんでしょ? なら、母さんは止めたりしない」
「母さん……」
「フフ……あなたの父さんにそっくりね。こう言う事があると、居ても立ってもいられずに飛び出して行っちゃう……」
彼女には、ハイクと彼の父親の姿が重なって見えたのだろう。
行方不明になってしまった大切な人。ハイクの前では現さないようにしていたが、彼女とて辛かった。
ハイクの前では気丈に振舞っているつもりでいた。だが、ハイクには彼女の悲しみを見抜かれていたのかも知れない。
再び旅立つ前のハイクに、余計な心配をかけてしまっていた。そう思い、無理矢理にでも笑顔を作る。
「さぁ、行ってらっしゃい。あなたの……その決意を貫くのよ」
悲しみを乗り越えて気丈に振舞う。それが、彼女が旅立つハイクにしてやれる、唯一の事だった。
母親が見せた、慈しむようなその笑顔。それが妙にハイクの頭に焼き付いた。無理に作った笑顔だと言う事は、一目見ただけで分かる。自分を心底心配してくれている。ハイクにはそれが痛いほど伝わってきた。だからこそ、ハイクはそれに触れる事はない。
ただ、「うん……」とだけ頷き、母親の思いを受け止めた。それこそが、陰鬱な気持ちを少しでも霧散する、唯一の方法だと思ったから。
「でも、ちゃんと旅立つ準備をしてから。ね?」
「う、うん……」
―――――
目まぐるしく移り変わる、激流のような時の流れ。どんな出来事が待ち受けているか分からない、未知の旅路。彼らはそこに飛び込んだ。
普段過ごしていた何気ない日常が揺らぐ。しかし、それはまだ予兆でしかない。これからどんな大きな試練が、彼らの前に立ちふさがるのだろう。屈してしまう事もあるのだろうか。
それはまだ分からない。まだ何も分からない。
そう――この運命は、まだ始まったばかりなのだから。