1‐5:異変の連鎖
オダマキ博士の研究所は、公園から歩いて数分の少し開けた場所に建てられていた。
研究所と言っても、外観はミシロタウンに建てられている他の建物とあまり変わらない。違う所と言えば、少しサイズが大きいくらいだ。
一階建ての建物で、この町に初めて来た人から見ればその外観からはポケモン研究所だと気づかない事も多いだろう。だが、ひとたび建物の扉を開けると、そこにはまさに研究所だと呼べる空間が広がっていた。所狭しと本が並べられた本棚に、忙しなく動き続ける機械類。机の上には何台ものパソコンが並べられ、棚の上にはいくつかのモンスターボールが置かれている。
人呼んで、「オダマキポケモン研究所」。ポケモンに関する様々な研究に役立つ機器が揃っており、まさにポケモンを研究するための施設であった。
ただ、オダマキ博士はフィールドワークも好んで行っており、この研究所にいない事も少なくないらしい。研究所に籠って調べ物をしているかと思えば、突然野山に飛び出して行ってしまうと言う事を繰り返しているようで、どうやらあまり家にも帰っていない様子。非常に研究熱心な博士だが、そんな生活で家族は心配していないのだろうか。誰もがついそう思ってしまう。
研究所に着いてすぐ、ジュカインは怪我の治療を受けた。だいぶ辛そうであったが、命に別状はないとのこと。オダマキ博士の見解通り、あのジュカインはかなりの鍛錬を積んでいたらしい。その為、あのようにレジロックに殴られても骨折まではいってないようで、怪我の方は思っていたより悪くなかった。むしろ、“エナジーボール”の連発によって蓄積された疲労の方が、彼の身体に負担をかけていたようだ。
いずれにしても、少しの間安静にしていればすぐに良くなるらしい。ジュカインが無事だと聞いたハイクとレインは、揃って安堵を表した。
ジュカインを預けた後、彼らは研究所の一室に招かれた。研究所に入ってすぐの多種多様な機器が置かれている大きな部屋とは違い、二十畳程のその部屋には書物類が置かれた棚が多く見受けられる。どうやら、主にオダマキ博士が調べ物をする為の部屋のようだ。その部屋の一番奥。ハイク達は、パソコンが置かれた机の前まで案内された。
「さて、話したい事、と言うのはね……」
オダマキ博士は振り返り、話し始めた。
「ハイク君。さっきも言ったけど、君に伝えなきゃならない事がある」
オダマキ博士の口調のトーンが、また真剣なものに変わる。それだけではない。オダマキ博士の表情からは、なぜだか何かを躊躇しているような雰囲気が感じられた。
何を迷っているのだろうか。ハイクに伝えなきゃならない事がある。だが、それはオダマキ博士にとっても、できればハイクに知って欲しくない、伝えるのが辛い事柄なのだろうか。
そう思うと、ハイクはますます緊張する。暑くもないのに自然と一筋の汗が頬をつたり、唾液腺からは唾が溢れ出てくる。思わずハイクはそれを飲み下した。
しばらくの沈黙の末、オダマキ博士は意を決したようにフゥと息を吐き出す。そして、ゆっくりと口を開いた。
「君が健康診断の為に預けてくれた、六匹のポケモン。彼らが…………忽然と姿を消した」
「えっ……?」
頭の中が真っ白になるのを、ハイクは感じた。
その言葉の意味を理解しようと思考を動かそうとするのだけれど、いくらやっても何も理解できない。いや、理解などしたくない。心のどこかでそう思っているのだろう。
横で聞いていたレインも驚きを隠せず、一瞬だけ目を見開いて硬直する。彼女は恐る恐るハイクの様子を伺った。突きつけられた事実に対応できず、まるで見てはいけないものを見てしまったかのような彼の空虚な瞳が、痛々しかった。
「それって……一体、どういう……」
真っ白になった頭から、何とか言葉を絞り出した。この目まぐるしく移り変わる状況から、ハイクでさえも混乱する。
次々と起こりうる異変。ハイクは感じていた。彼が昨日まで過ごしていた、この何気ない日常の揺らぎを。少しずつ崩壊してゆく、『平凡な日常』を。
「すまない……分からないんだ。彼らが自分達の意思でこの研究所を抜け出したのか、それとも……。考えたくないけど、何者かが彼らを連れ去らったのか。はっきりしないんだ。いくら探しても、何の形跡も残されていない。彼らに一体、何があったのか。それすらも見当がつかないんだ」
「そんな……」
ハイクの声は震えていた。あまりにも残酷で、あまりにもショックで――。彼の握った拳が、ブルブルと震える。胸の奥から止めどなく溢れてくる思いを、ハイクは必死になって押さえ込んでいた。
一緒にホウエン地方を旅した。数々の出会いと別れ、戦いを共にくぐり抜けてきた、大切な仲間。彼らがいてくれたからこそ、ハイクはチャンピオンになる事ができた。彼らがいてくれるから、ハイクはハイクでいられる。そう思っていた。
だが、そんなポケモン達が――消えた。いなくなった。何が起きているのか、分からない。どうしてこんな事になってしまったのか、分からない。
ハイクが心に受けた傷は、大きかった。そして確かに感じていた。彼らに、何もしてやれなかった、自分に対する憤りを。
「すまない、ハイク君……。私が居ながら、君のポケモン達を……」
震えるハイクを見たオダマキ博士が、頭を下げて誤った。
オダマキ博士は悪くない。彼が謝る必要など、毛頭ない。それは、ハイクも分かっていた。だからハイクは顔を上げた。溢れてくる憤りを、頭を振って払拭した。そして、口を開く。
「オダマキ博士は、何も悪くないですよ」
今も尚震える声で、ハイクはそう言った。
だけれどすぐにまた辛くなってしまい、ハイクは歯を食いしばる。そうでもしないと、簡単に折れてしまいそうだった。簡単に消えてしまいそうだった。そんな自分が、怖かった。
「そ、そうですよ! オダマキ博士は悪くないです! それに……」
沈んだ雰囲気の中、レインがいつも以上に明るい口調でそう言った。気を使ってくれている。それは明白だった。ポケモンがいなくなり、一番辛いのはハイクであると分かっている。分かっているから、ハイクの元気を少しでも取り戻そうと、必死になっていた。
レインは言葉の続きを紡ぎ出す。
「あの子達が、ハイクに黙っていなくなるはずないじゃないですか! きっと、すぐに戻ってきます! ね、ハイク?」
レインは笑って見せた。こんな時だからこそ、希望を捨てずに笑顔を作った。
そんなレインの健気な笑顔を見ていると、沈んだハイクの心も自然と晴れてゆく。彼女の言葉を聞いていると、例え何の根拠もなかったとしても不思議とそうだと思い込んでしまう。彼女の言葉には、不思議な説得力があった。
「……あぁ。そうだよな。こんな所でクヨクヨしてても、しょうがないよな」
レインにつられ、ハイクも笑顔を零す。
そうだ。こんな所でクヨクヨしてても、何の解決策にもならない。そんな事をしているより、まず何かしらの行動を起こす。そうするのが、今の彼らにとって最善の選択なはずだ。
「オダマキ博士。俺のポケモン達がいなくなった事と、レジロックが襲って来た事。この二つに、何か関連性があったりするんですか? タイミングが合い過ぎですし、何かしらの関係がある気がするんですが……」
今ある情報から、何かの手がかりか掴めるかも知れない。気になったのが、レジロックの事だ。
滅多に人の前には姿を現さないポケモン。そのポケモンがこんな町中に現れ、あろう事か人を襲っていた。
あまりにも不可解すぎる出来事。ハイクのポケモン達の事との関連性を考えてしまうのも無理はない。
「……いや、今の所この二つには関連性は確認されていない。ただ、あのレジロックについては他に気になる事がある」
「……気になる事、ですか?」
関連性は確認されていないと聞いて、ハイクは少し残念に思ったが、彼の興味はすぐに別の事に傾く。
今は少しでも情報が欲しいのだ。
「うん。その事についても、一応君たちに話しておこうと思ってね」
「え……と」と言いながら、オダマキ博士は机上のパソコンの電源を入れる。しばらくして起動が完了したパソコンを操作し、何かのファイルを開いた。
「まずは、これを見て欲しい」
オダマキ博士は、パソコンのディスプレイをハイク達に向けた。ハイクとレインは、揃ってそのディスプレイに目を向ける。
そこに写っていたのは、二枚の写真だった。そのどちらにも、一匹ずつポケモンが写っている。
それは、あのレジロックによく似たポケモンだった。
片方に写っていたのは、レジロックを思い起こさせる氷塊。氷の塊が、二足歩行の生物を形作っているような姿をしている。それは、ひょうざんポケモンに分類される『レジアイス』と言う名のポケモン。
もう片方に写っていたポケモンは、レジロックやレジアイスと比べると、ゴツゴツとした身体ではなくかなり滑らかだ。写真を見る限り、この身体は鋼でできているのだろうか。そのポケモンの名は、『レジスチル』。確か、くろがねポケモンとも呼ばれていたはずだ。
どちらもレジロックと同じ、伝説級のポケモン。ハイクでも実際にこの目で見た事はない。
だが、何よりも驚いたのは、その写真が撮影された場所と状況だ。これはどう見ても、どこかの街の中にしか見えない。そして、このポケモン達が、何かしらの破壊活動を行っているように見える。
嫌な予感がした。
「このどちらの写真も、今から一時間ちょっと前に撮影されたものだ。そして、撮影者の証言が正しければ、このポケモン達はあのレジロックのように人を襲っていたらしいんだ」
その事実は予感していたものの、こうはっきりとそう言われると驚かずにはいられない。レインなど、声を出して驚いているようだ。
先ほどのレジロックの騒ぎと似たような事件が、別の場所でも起きていたようだった。
「左側……レジスチルが写っている写真はミナモシティで、もう片方はルネシティで撮影された物みたいだ。今は騒ぎは収まっているようだけど、まだ詳しい情報は入ってきていない。でも、この二つの事件とさっきのレジロック。とても偶然とは思えない。伝説のポケモンが人の前に姿を現し、人を襲うなんて事……そう滅多に起こるはずがないんだ」
オダマキ博士の考えは、ハイクのそれと合致していた。
そう。この三つの事件には、何かしらの関係が隠されている。いや、ひょっとしたらハイクのポケモン達も、この事件に関わっている可能性が高い。
レジロックの襲撃。ハイクのポケモンの失踪。レジスチル、レジアイスの二つの事件。そして、不可解な事がもう一つ。ポケモンの声が聞こえるようになってしまった、ハイクだった。これに関しては、何の心辺りも見当たらない。
「(いや、待てよ……。心辺りならあるじゃないか。そうだ、昨日の……)」
顎に手を添えて考えていたハイクが、ハッと思い出す。この事件の発端を、知っていそうな人物がいたではないか。
「あの……。俺にちょっと、心辺りがあるんですが……」
ハイクが口を開いた。それに反応したレインとオダマキ博士の視線が、一斉にハイクに向けられる。
「心辺り……?」
ハイクは昨日起きた事を二人に話した。
自らの記憶を辿り、できる限り昨日の事を事細かに話していく。昨日出会った、あの青年。全てを見透かすようなあの瞳は、よく覚えている。ハイクに不穏な質問を残し、立ち去っていった、Nと名乗る青年の事だった。
しかし、ハイクが話し終えた後、レインから返ってきたのは意外な反応だった。
「えっ……その人って……」
何かを思い出したような表情をしたレインが、思わずそう言葉を零した。
レインの思わぬ反応に、ハイクは少し困惑する。ハイクはレインに聞き直した。
「何か知ってるのか?」
「うん……。え……と、そもそも私はちょっとお買い物があって、ミシロタウンに行こうとしてたの」
自分のこれまでの記憶を辿り、レインは話し始めた。
「勿論、コトキタウンから歩いてミシロタウンに向かうには101番道路を通らなきゃいけないんだけど、その101番道路を歩いている途中、知らない男の人に声をかけられたの。多分、Nって人だったと思う」
その言葉を聞いた瞬間、ハイクは驚きを隠せなかった。昨日、ミシロタウンにいたはずの彼が、Nと言う青年が今度はレインの前に現れたと言うのだ。
熱くなったハイクは一歩前に踏み出し、レインにもう一度 質問を投げかける。
「Nに会ってたのか……! そいつ、何て言ってたんだ?」
「君の友達が危ない。早く助けに行ったほうがいい、って……」
「何だって……?」
ハイクはますます混乱した。掴み所のない青年だとは思っていたが、ここまでとは想像していなかった。
一体、何を考えているのだろう。そもそも彼は敵なのか、味方なのか。これまでの情報から考えるに、今の所は敵だと言える要素は少ない。だからと言って、味方とも言い切れない。
レインにそう言い残したと言う事は、少なくともハイクを助けようとしてくれたのだろうか。だがだとしても、なぜ直接ハイクの前に現れなかったのか。ハイクに会いたくない、会ってはいけない理由でもあるのだろうか。
そもそも彼は、本当に今日のこの事件を予期していたのだろうか。
いずれにせよ、ここまでの情報だけでは問題の解決にはならない。レジロック達の事も、姿を消したハイクのポケモン達の事も、何も分からなかった。
「あ、そうだ。ハイク、ちょっと聞いていい?」
「ん?」
思考を巡らせていたハイクだったが、唐突にレインに声をかけられた。何事だと思ったハイクは、彼女の方へと顔を向ける。
「さっき、あのジュカインの事……カイン、って言ってたよね? それにあの時、誰かと話してたみたいだけど……。誰と話してたの?」
「あ、あぁ……、その事か」
レインにそう質問され、ハイクは口篭ってしまった。
ポケモンの声が聞こえるようになった。正直、レインやオダマキ博士にその事を言うべきかどうか、迷っていたのだ。ハイクもまだイマイチ状況を受け入れられてないし、言っても信じてもらえないと思っていた。
どう考えてもこんな力、普通じゃない。ある日突然ポケモン声が聞こえるようになってしまったなど、そんな話聞いたこともない。だが、既にハイク自身がはっきりと体験してしまっているのだ。信じられないが、受け入れるしかない。
そう、隠していても仕様がない。もし信じてもらえなかったとしても、それは仕方ない事。
ハイクは自分の身に起きた事を、レインとオダマキ博士に話す事にした。