ポケモンストーリーズ - 火の大陸編
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惑わしの森
「ごちそうさまでした!」
 ライトが口の運んだ食べ物を飲み込むと大きな声で言う。その声で食堂の中にいたポケモンたちが彼の方を振り向いた。
「ちょっと、そんなに大きな声で言わなくても……」
 ウルが焦ってライトを諫める。しかし周囲の視線はすでに彼らに集まっており、「かわいい子ね」などという声も聞こえてきている。
「どうしたの? 別にごちそうさまって言っただけじゃん」
「そんな声で言ったら目立つでしょ?」
「でも別に悪いことしてないじゃないか。何か悪いことした?」
 何故ウルが諫めたのかをよく理解していないライトはきょとんとウルを見ていた。ウルもため息を吐いて黙りこむがよくよく考えてみればライトは誰に対しても迷惑なことをしていなかったことに気付いた。
 遺跡での一件から数日、街道を道なりに進んでいったライトとウルは今日の昼頃にこの集落にたどり着いた。そして久しぶりに集落に立ち寄ったということで一通り旅に必要な物の調達を澄ませると、手ごろな値段の宿屋に泊まることになった。誰にも警戒することなく寝ることができるのは本当に久しぶりだったので、ライトもついつい気が緩んでしまった。
「あらあら、そんなにおいしそうに食べてくれたら作った甲斐があるわ」
 すると横から穏やかそうな声が彼らにかけられた。
 彼らが振り向くとそこには一本の角を持つ青い大柄なポケモンがいた。大柄な体の持ち主で、その体を支える二本の足も太く逞しい。しかし全体的なシルエットは丸みを帯びており女性的な感じを抱かせる。『ドリルポケモン』のニドクイン、この宿屋の女将である。
 ニドクインは何も残っていない皿を見て満足気に微笑んでいる。
「全部食べてくれてありがとうね」
「いや、お礼を言われるほどでもないですよ」
「うん、じっちゃんにも『食べ物は絶対残すな』ってさんざん言われたしね」
 ウルの言葉にライトも続く。それを聞いてニドクインの顔は微笑みからニコニコ笑顔に変わる。
「まあうれしい。うちの子にも見習わせたいぐらいだわ」
「お子さんがいるんですか?」
 ウルが尋ねる。
「ええ。君たちより年下で今はもう寝てるんだけど、好き嫌いが激しくてねえ。毎日何か残しちゃうのよ。困っちゃうわ」
 そう言うニドクインだがあまり困っているような表情ではなく、むしろにこやかだ。深刻に考えているようではなさそうだ。そこで「そういえば……」とニドクインが二匹に何を聞こうか思い出したようだった。
「あなたたち、ここら辺の子じゃないわよね? 隣の集落もだいぶ離れてるけど、どこから来たの?」
「オレたち、旅してるんだ」
 ライトの言葉にニドクインが驚く。
「旅? 子供だけで?」
「はい、ちょっと事情があって……」
 ウルがニドクインの質問に答える。ただいきなりヘビーな話をすれば空気も重くなってしまいそうだったので詳しいことはぼかしたのだが。
「そう、それは大変ねえ」
「お、どうしたんだ?」
 そこで別の声が割り込んできた。重厚な足音がライトとウルに近づいてくる。
 紫色の体色で、体の大まかな特徴はニドクインと似ている。しかし細かく見ていくと、ニドクインよりも刺々しく攻撃的に思える。体格も少し丸みを帯びていたニドクインよりもごつごつしていて男性的な印象を受ける。これがニドクインと対になるポケモン、ニドキング、このニドクインの旦那だ。
「あら、あなた、もう寝床の準備は終わったの?」
「ああ。で、この子たちは?」
「お客様よ。それでこの子たちだけで旅してるんですって」
「ほう、それはなかなか大変だな」
 ニドキングは一旦考え込んでから二匹に尋ねる。
「おふたりさん、これからどこへ向かうつもりだい?」
「『レッカタウン』です」
「となると『あそこ』を通ることになるかもしれないのか……」
 思わせぶりなことを言うニドキング。その発言にライトが噛みつく。
「『あそこ』って何なの?」
「この集落から『レッカタウン』へ行くには二つの道がある。一つは街道沿いをそのまま進む道。それか『惑わしの森』を進む道だ」
「『惑わしの森』?」
 聞いたことのない地名にライトは首を傾げる。
「『惑わしの森』はその名の通り森なんだが、やっかいなことにただの森じゃないんだ。普段の晴れた昼間でもいきなり霧が出てきて入った者の方向感覚を狂わせる。だがそれだけじゃないんだ」
「それだけじゃない? 何があるんですか?」
 ウルもニドキングの話に引き込まれていた。
「あそこを通る者は幻覚を見るんだそうだ。霧が現れてからそこにはいないはずの者の姿だったり、恐ろしい化け物の影を見たりするらしい。まあ俺も実際見たわけじゃないんだがな。街道はそこを迂回するようにして作られてるんだ。『惑わしの森』もなかなかの大きさで迂回するのにも結構時間がかかるから、毎年旅してる奴が近道しようとして森に入って遭難してるんだ」
 ニドキングの話を聞いてライトとウルは黙り込む。
「ま、そんなだから森には近づかない方がいいっていうアドバイスだ」
「あ、ありがとうございます……」
 ウルが返答するが、気味の悪い話を聞いてウルの気分は落ち込んでいた。
「あらあら、あなたがこんな話するからこの子たちすっかり落ち込んでるじゃない」
「あ、ああそうか、すまんかったな……」
「仕方ないわね、デザートをサービスするから許してくれないかしら?」
「え、ホントに!?」
 ライトが目を輝かせながらその話に食いつく。
「もちろんよ。じゃあ作ってくるからちょっと待ってね」
「ありがとうございます」
「いいのいいの、あなたたちには元気になってもらわないといけないしね」
 ウルが礼をすると、ニドクインは厨房の方へ歩き出した。そしてニドキングもその後に続く。
「俺も手伝うよ」
「いいの?」
「もちろんさ、ちょうど自分の仕事も終わってる。君の手伝いをするなんて君のパートナーなら当然のことだよ」
「あら、あなたったら……」
 ニドクインは顔を赤らめてニドキングの顔を見つめる。ニドキングもニドクインの顔を見つめる。誰も立ち入ることのできない世界がふたりの中で作られる。
「は、はは……」
「ま、まあ女将さんの言う通りここで待ってようか」
 ライトとウルはお客の前にも関わらずのろけだした二匹を見て苦笑いを浮かべた。
 
 
 
 
「オレ、あの森に行ってみたい!」
 夕食を終え、部屋に戻ってからライトの発した第一声がそれだった。
「あの森って、『惑わしの森』?」
 ウルは本当にそう思っているのかと確認するように尋ねた。
「うん、もちろん! 他に何があるのさ?」
「それ本気で言ってるの?」
「もちろん!」
 ライトがニコニコしながら言い切ったのを見てウルはため息を吐く。
「ニドキングも言ってたでしょ? あの森にはこの辺に住んでるポケモンたちは誰も近寄らないって。そんなところになんでわざわざ行くのさ?」
「だっておもしろそうでしょ? そんなところ、何が起こるかわかんないし」
「何が起こるかわかんないのに?」
「だからおもしろいんじゃないか! そう思わない?」
 まるでウルがうんと答えるに違いないという風にライトは言う。しかしウルの答えはそうではない。
「いや、ボクとしては安全な道を行った方がいいと思うんだけど……」
 しかしウルの押しが弱かったせいでライトはさらに勢いづく。
「もちろんウルにだっていいことあるし。ウルだって早く『レッカタウン』に着きたいんだろ?」
「まあそうだけどさ……」
「あの後に話に来てくれたこの村のポケモンだって迂回したらかなり到着が遅れるかもって言ってたでしょ? だったら森に入って近道する価値はあるって」
 そう、この宿屋の店主夫妻と話をした後彼らの会話を目撃していた村のポケモンが親切にもこの先の道の状況について教えてくれたのだ。そのポケモンによるとこの先の迂回路は広大な『惑わしの森』の円周をなぞるように作られているため、近道するよりもかなりの距離を歩くことになってしまうということだった。
「だったら早く着く方を選んだ方がいいんじゃないかって思うんだけど」
「いや、でも……」
 正直、ウルにはライトが自分のことを考えて森に行こうと言っているようには見えなかった。というよりこの状況では誰がどう見てもライトが行きたいからこう言っている風にしか見えないだろう。だからこそ、ウルはここでライトを止めるべきだった。
 しかし、
「はあ、しょうがないなあ」
「じゃあ行ってくれるの?」
「そこまで言うならね。一応、ボク父さんと修業してるときに敵に幻覚を見せられた時の対処法とか習ってるから、もしかしたらなんとかなるかもしれないし」
「よっしゃ! だったら今日は早く寝て明日に備えないとね!」
 そう言うと、ライトは寝床の上で体を丸める。
「おやすみー……」
 ライトが顔を寝床に埋めた途端、彼から寝息が聞こえてきた。
「は、早っ……」
 あまりにも早く眠りに落ちたライトにウルは呆れる。口元がぴくぴくと引きつる。
「本当に大丈夫なのかな」
 嫌な予感を拭いきれないウル。先ほどは仕方ないと軽く考えてライトの意見に賛成してしまったが、今にしてみれば何がなんでも止めるべきだったのではないかと思い始めた。だが一度ライトに賛同してしまった以上、反論をしても無駄だろうとウルは考える。数週間だが一緒にライトと旅してきて彼の性質が少しずつだがわかってきた。ライトは一度決めたことはこちらが止めても撤回しない性格だった。おそらく今回もウルが何を言っても聞く耳を持たないだろう。
「ま、今から考えても仕方ないか……」
 ウルは寝床の上に仰向けに大の字になる。いろいろと危険な場所だと注意を受けたが、実際に行ってみなければ対処のしようもない。それは明日行ってみてから考えればいいかとウルは自分を納得させる。そうすると急に眠気が襲ってきた。徐々に閉じていくまぶたに抗うこともせずウルは眠りに落ちる。
 ただこの時彼らは知らなかった。この時の選択が、後々に大変な事態へと発展していくことに。
 
 
 
 
「ここが、『惑わしの森』か……」
 ライトとウルが周囲を見渡しながら歩く。
「普通の森とほとんど同じだね」
 ライトがぽつりと呟く。
 夜が明けると、ライトとウルは出発の準備をして宿を発った。早く行かなかければ地元のポケモンに見つかって止められる可能性も考えたためだ。宿のニドクインとニドキングにも街道沿いを歩いていくと嘘をついて出発した。そうして特に誰にも止められることなく無事に『惑わしの森』に入ることができた。
 最初彼らは住民の話からこの森をおぞましい見た目の植物、恐ろしく凶暴なポケモン、そして住民たちの言っていた入ってきた者を惑わす霧など、この森のことを誰も見たこともない魔境か何かのように考えていた。
 しかし、今彼らの周囲に広がる景色は一般的な森と大して変わらない。森を構成している木々はここまでの旅路で散々目にしてきた物と種類は同じだし、足元も歩けないほど悪い状態でもない。ポケモンについてはまだ森に入ってから目にしていないし、霧も今は全く出ていない。
「なーんか拍子抜けだなあ。幻覚を見せてくるんだったらもっとこう、いきなりバーンってでっかい化け物の姿とか見せてきて驚かせてくれないとなー」
「いや、何も出てこないのが一番いいと思うんだけど……」
 目的が変わってきているライトをウルがたしなめる。
「ライト、僕らがここを通ったのは近道するためであってここに来ることが目的じゃないんだよ」
「ま、まあわかってるけどさ……」
 ライトの態度からウルは目的を完全に忘れていたことを察する。
「だったらそういうの期待してないで早いとこここを抜けないと。今は何もないけどこれから何が起こるかわかんないしさ」
「……わかったよ。ちぇ、ウルのケチ。ちょっとぐらい期待したっていいじゃん」
 ぷいっとそっぽを向いてウルの先を歩くライト。ただライトの口調も決して刺々しいものではなく、目的を忘れていたことを指摘されたことについて照れ隠ししているだけのようにも見えた。この反応を受けてウルは苦笑いを浮かべる。
 そうしてウルがライトの後ろを歩こうとした。
「おっと!」
 ライトが目の前でいきなり立ち止まった。咄嗟にそのことに気付いてウルはなんとか立ち止まる。
「あ、危ないなあ。いきなりどうしたんだよ?」
 しかしウルが声をかけてもライトはぼーっと前を見たまま反応しない。
「ライト、どうしたの?」
「ねえウル、じっちゃんがいる」
 ライトの言葉でウルは「えっ?」とライトの指差す方向を見てみる。ライトが『じっちゃん』と言うのだからそこにはヤドキングのゲンジがいるのだろう。しかしそこには木があるだけで他には何もない。
「誰もいないよ?」
「えっ、そこにいるじゃん。こっちに手振ってるよ?」
 ライトが不思議そうにウルを見る。ウルの方も同じような表情でライトを見返す。
 するとウルの耳に声が聞こえてきた。
「ウル? ウルじゃないか!」
 とても聞き慣れた声だった。何故ならその声の主を探すために旅に出たのだから。
「父、さん……?」
 ウルの背後からゆらりと一匹のポケモンが現れる。顔や耳、手足の形状、そして体色がウルとそっくりで関連性を思わせる。背丈はウルの二倍ほどはあり、胴は白い毛で覆われている。リオルの進化形、ルカリオだ。そして彼こそ、ウルの探していた父、ヴォルフだった。
 あまりにも唐突でどういう表情をしていいかわからなかった。今まで散々探して会えなかったのに、こんな場所でばったり出くわすなどとは考えていなかったからだ。
 しかしそんなウルを後目に、ヴォルフは突然踵を返して森の方へ歩き出した。
「父さん? 待ってよ父さん!」
 ウルは父に呼びかける。しかし父はウルに対して反応を返すことはなく、木々の間に消える。
「父さん!」
 ウルは呼びかけても立ち止まらない父に痺れを切らして走って追いかけようとする。だが、そのウルの手が逆方向に引っ張られる。思わず前につんのめるウル。握られている手を確認すると、ライトが必死の形相でウルを引っ張っていた。
「ちょっとウル、待ってよ!」
「離してよ! あそこに父さんがいるんだ!」
「何のこと言ってるの? あそこには誰もいないって」
「嘘だよ! さっきまであそこにいたんだ!」
「だから誰もいないって! 本当だよ!」
 お互いに力を全く緩めずに正反対の方向に引っ張り続ける。そのせいで徐々にウルの手がライトの手から滑っていく。二匹ともお互いを引っ張り合うことで精一杯だったのでそのことに気付かず、そしてとうとう二匹の手が離れてしまった。今まで引っ張り合っていた勢いがそのまま二匹の体にかかり、二匹とも勢いよくすっ転んだ。
「いてて……」
 ウルはうつ伏せで地面に倒れこんだせいで前に突き出ている鼻を強打した。鼻をさすって痛みに耐えて閉じていた目を開ける。
「あれ?」
 父親がいきなり目の前に現れるという事態のせいで気付いていなかったが、今ウルとライトの周りには霧が出始めていた。先程までは先がある程度見通せるほどには視界はクリアだったのが、今では三つ以上先の木が見えない状態になっている。
 ウルはもしかしてと思い、目を閉じて波導の流れを感じてみる。すると周囲が紫色で塗りつぶされていた。父親との修業でこの紫色の波導はポケモンの体に害を及ぼすものであるということをウルは学んでいた。そしてこの紫色が周囲を覆っているということはこの紫色の正体は突然現れた霧なのだろうと推察する。
 ウルは自分の顔の前に持ってくる。すると、紫色の波導が自分の手を介して体に流れ込んでいることがわかる。次いでウルはより周囲の状況を確認しやすくするため波導のフィルターをかけて紫色の波導を視界から除去する。
 ウルの瞼の裏では、周囲の木が青色の波導を根から吸い上げている様子が映し出されていた。この青色の波導は水か土に含まれている養分を表している。そしてその青色の波導が木々の真ん中ぐらいにまで至った途端、色が霧と同じ紫色に変わっていた。その紫色の波導が枝まで到達し、そこから煙のように放出されていた。
(そうか、これが『惑わしの森』のメカニズムなんだ)
 ウルは今までの得られた情報を元に考察する。まず周囲に生えている木々が根から水や養分を吸い取る。そしてこの木々のなんらかの作用でそれらがポケモンたちに幻覚を見せる毒へと変化し、それが枝の葉っぱの先から放出されているのだろう。それがこの霧の正体であるとウルは確信する。
「あっ、じっちゃん! どこ行くんだよ!」
 ライトの声でウルは目を開ける。霧は目を閉じた時より濃くなっていて、ほぼ視界が真っ白になっていた。体の色が幸いしてかろうじてライトの姿が見える程度で、隣にある木ですらも霧に紛れてよく見えなくなっている。
 そのライトだがゲンジの姿が見えているということはまだ幻覚を見せられているということなのだろう。ウルはライトがゲンジを追いかけて走り出さないように咄嗟にライトの手を掴んだ。
「えっ、どうしたのウル?」
「ちょっと待ってて」
 ウルはライトの手を掴んでいる右手に意識を集中する。体内を流れる波導を右手に集中させ、ライトの体に流し込む。ウルは目を閉じる。ライトの体から紫色の波導が体の外に排出されていた。代わりに生物の波導を示す青色の波導がライトの体をかたどっている。
「あれ、あそこにじっちゃんがいたのに……」
 何が起こっているのかよくわかっていないライト。ゲンジがいたという場所を見て呆けている。
「今のは幻覚だよ。やっぱり『惑わしの森』の名前の通りだったんだ」
 ウルはライトにわかったことを話す。
「たぶん、この霧は心の中に残っているものを見せてるんだ。だからボクには父さんが見えて、ライトにはゲンジさんが見えた」
「でも、確かニドキングの話だったら恐ろしい化け物を見たって話もあったよね。じゃあ一体なんでそんなもん見たんだろ?」
 ライトが腕を組んで首を傾げる。
「たぶん、昔実際に化け物を見たってわけじゃないかもしれない。何か怖い経験をして、それが化け物っていう形になって現れたって可能性もあるかも」
「そういうのもあるのか。確かに『さいはて村』でも近所のおばちゃんがおっちゃんに怒鳴ってたこともあるからなあ。あの時のおばちゃん滅茶苦茶怖かったもん」
「なんでそういうの思い出してるんだよ……」
 怖いことなんてもっといっぱいあるだろとウルは心の中で突っ込む。
「でも、どうやって進む? この霧結構広いよね。霧が幻覚を見せてるんだったらこの中を進むのって危なくない?」
 ライトが周りを見渡して尋ねる。このまま霧の中にいるのも確かに危ないが、だからといって進むのもまた霧の中だ。今度どんな幻覚を見せてくるかわからない以上、むやみやたらに動くにも危険だ。
「この霧ぐらいならボクの波導があれば幻覚を見せる毒を消すことができるよ。さっきライトにも同じことしたしね」
「そっか、だったらウルから離れちゃダメってことか」
「うん、ボクもおかしいと思うものが見えたらすぐに波導を流すから、ライトももしそういうのを見たら早く言ってね」
「わかった」
 ライトが頷き、二匹は体をできる限り近づけて歩き始める。
 
 
 
 
 視界は相変わらず真っ白な霧で覆われ、目と鼻の先にあるであろう木もくっきりとは見えない状態だった。そんな状態で霧が見せる幻覚にも対処しなければならず、かなり身を寄せて歩いていたのもあってかなり歩きづらい。早く霧を抜けなければならないというのと、それでもなかなか進むことができないもどかしさが彼らの中に焦燥感を生む。
「あー、疲れたー……」
 ライトが木の根元に腰を下ろす。
「ちょ、ちょっと休憩しない?」
「そうだね。さすがにボクも疲れたよ」
 ウルもライトの隣に座る。幻覚を見せる霧が出ているこの状況で立ち止まるのは危険だったが、疲れ切って動けなくなってしまうのもまずい。とりあえずはここで休息を取って体力を回復しなければならない。
 霧に気付いてからそれほど時間は経っていなかったが、かなり消耗していたのか座り込んでから二匹とも黙って森の木々やそれらを覆っている霧を見ていた。ずっと停滞しているようにも見えた霧だが、よく目を凝らしてみると霧を構成している水の粒子が一定の方向に流れていた。どうやら風はないが空気は流れているらしく、水の粒子もそれに乗って動いているようだった。
「ねえ、ウル」
「何?」
 ライトがぽつんとウルに尋ねる。
「さっき、お父さんの幻覚見てたんだよね?」
「うん」
「そっか、なんかめちゃくちゃ焦っててびっくりしちゃった」
「そんなに?」
「そんなに」
「な、なんか恥ずかしいな……」
 ウルは顔が少し熱くなってライトから目を逸らす。
「……ボク、父さんを探して旅に出たって言ったでしょ?」
 少し間を置いてからウルが話し出す。
「うん」
 ライトは怪訝な表情を浮かべる。だがその話は『さいはて村』で聞いた話だ。今更何か他に隠していたことでもあるのだろうか。
「ボクずっと父さんとふたりで暮らしてきたんだ。仕方なしに街に買い出しに行く時もボクはずっと留守番してた。だから旅に出るまではボクの世界はずっと父さんだけだったんだ」
 ライトははっとした。この話も『さいはて村』ですでに聞いたものだったが、ライトはあまり深く考えたことはなかった。だから少し考えてみることにした。家の周りは全て森で訪れるポケモンもいない。朝起きて、夜眠るまですべての生活が父親とふたりだけ。生まれて物心ついてからずっとそんな生活。そんな生活が続いていた中で、ウルは突然自分の世界の象徴だった存在を失った。
「だからたぶん霧に心の中にいた父さんを覗かれちゃったんだと思う。こういう時は心を乱されないように常に気を張れって言われたのに、まだまだ修業不足だなあ」
 ははは、と自嘲気味に笑うウル。それはこれ以上あまり心の中に踏み込まれたくないという予防線なのかもしれない。
 お父さん、という言葉をライトは反芻する。実は村の方でもあまりお父さんという言葉は聞いたことはなかった。村のポケモンたちはライト以外はみな中年以上で、彼らにとっての父親はすでにこの世にいないことの方が多かった。
 ではゲンジはというとライトは首を傾げる。確かに身寄りがなかったライトからすれば父親同然だったかもしれないが、ライト自身ゲンジのことを父親と意識したことはなかった。それは彼がゲンジのことを『じっちゃん』と呼んでいることからも明らかで、父と子というモデルケースが存在しなかったライトにとって父親とは一体どんな存在なのかがわからないのだ。
「お父さんか……」
 自然とライトの口から漏れ出た言葉。その言葉をライトはもう一度頭の中で繰り返す。
「お父さんってどういう感じなんだろ?」
 特に誰かに尋ねたつもりはなかったのだが、語尾が疑問形になってしまった。それにウルが反応する。
「どういうって?」
「だってオレ、本当のお父さんっていないし」
「ゲンジさんがいるじゃん」
「じっちゃんはお父さんって感じしないなあ」
「でも、ボクから見たらライトとゲンジさんって親子みたいに見えたけど。まあゲンジさんはどっちかっていうとおじいちゃんっていう歳だけどさ」
「そんなもんかなあ」
「そんなもんだよ。ボクも修業の時以外はライトとゲンジさんみたいな感じで父さんと過ごしてたし」
 ウルの言葉に返事することなく、ライトは「父さん、か……」と呟く。今まで意識したことがなかった、いや意識のしようがなかったことが今ウルにここまでついてきたことで頭の中がその言葉で埋め尽くされている。
 よくよく考えてみればおかしな話だ。生き物は母親と父親がいて初めて存在できるのだ。だけど自分にはその二つが欠けている。たとえゲンジが父親代わりだったとしても彼は本当の父親ではない。そこまで考えてみて、自分が不思議な存在であることに気付かされる。
 嵐の日に傷だらけの状態で見つかったとライトはゲンジから聞いていた。しかも自分の名前すら満足に言えないほど重度の記憶障害だったということも。すなわち自分が本当はどこに住んでいて、その時まで誰の下で過ごしていたのか誰にもわからない。自分が今何歳なのかすら知らない。他の誰かならはっきりと自信をもって言えることが自分では言えないということに気が付いた。
 一体自分はどこの誰なんだろう。
 考えてみると可笑しな話だった。自分のことは自分が一番よく知っているはずなのに、ライトは自分のことをほとんど知らない。そもそも自分を知るということなど考えたこともなかった。しかし一度それに気付いてしまったら好奇心を抑えることができなくなった。
 知らないということが怖いわけではないのだが、気味の悪さを感じる。自分が自分でないように思える。本当の自分は一体どんな存在だったのだろう。
 胸に引っかかった疑問はいくら振り払おうとしても消えてくれなかった。気分が悪くなってくる。いつの間にかライトは顔をうつむけて地面を向いていた。少し気分を変えようと思って顔を上げて正面を見てみる。
 そこには一匹のピカチュウと一匹のリオルがいた。
「えっ……」
 思わず声が漏れる。先ほどまではここには誰もいなかったはずだ。それがいきなり目の前に現れた。ということはこれは幻覚なのだろうとライトは考える。
 だが、ライトはその幻覚から目を離すことができない。何故かこれを見ないといけないように思えてライトの目はその幻覚である二匹に釘づけとなる。
 目の前では二匹の会話が行われていた。リオルの方は地面に座り込んでいていて、彼にピカチュウが話しかけているという状況だった。
「オレ、ライトって言うんだ」
「ボクはウルだよ」
 幻覚の中にいる二匹は自分たちの名前を言った。そしてライトはこれが見覚えのある状況であることに気付く。違うところもあるが、これはライトとウルが初めて出会った時のことだ。ウルによるとこの霧はその者の頭の中に焼き付いていることが具現化されるという。だから今この場面が出てきたのだろう。
 すると、目の前の二匹の姿が揺れた。その揺れはさらに大きくなっていき、その姿自体にもノイズのようなものが走ってくっきりとは見えなくなっていく。何が起こったんだろうかと思っていると、二匹の姿が一瞬消える。その後すぐにまた別の何かが現れる。最初は影絵のように真っ黒でシルエットのみだったのが、ゆっくりと体の色彩が浮かび上がってくる。
 再び現れたのもピカチュウとリオルだった。
 だが今度は立ち位置が逆だった。ピカチュウは先ほどのリオルと同じように座っていて、今度はリオルが立っている。リオルはピカチュウの顔をのぞき込むように膝に手を当て、体をくの字に折り曲げてピカチュウに顔を近づける。
「キミ、この辺じゃ見ない顔だよね」
 その声はウルと似ていて、だが確実に違う声だった。ウルではない別のリオルだろうかとライトは考える。しかしライトはウルに会うまで他のリオルに会ったことがなかった。というよりこんな場面は記憶に全くない。
「ねえキミ、名前は?」
 リオルはニコニコと笑みを浮かべながら尋ねる。対するピカチュウは困惑していた。
「え、ええっと……」
 何故か名前を言わないピカチュウ。その声はライトにそっくりだった。普段自分の声というものを意識しないのであまり耳に残っているわけではないのだが、ライトにはこれが自分の声だと感じられた。それならばあそこのピカチュウは自分なのだろうか。だが何故自分は名前を名乗らないのだろう。
「そっか、名前を聞くんだったらまず自分から名乗らないとね。いっつもお師匠様から言われてるのにすっかり忘れちゃってたよ」
 てへへ、と頭を掻くリオル。
「ボクの名前は※△◇★だよ」
 名前を言う瞬間だけノイズが走って聞こえなかった。
 ライトの頭がちくりと痛む。心がざわつく。自分という存在が足元からひっくり返されそうな、そんな感じがした。そしてそれを理性が拒絶している。そのせめぎ合いがこの頭痛を生み出しているようだった。
 頭痛はひどくなっていくばかりだ。頭が割れそうで目を開けているのも辛くなってくる。この場にいては痛みで気がおかしくなってしまいそうだ。ライトは無意識に立ち上がっていた。
 目の前にはいつの間にかリオルだけが立っていた。
 最初はウルかと思っていたが、瞳で違うと感じた。ウルとは違い子供っぽさがなく、何かを悟ったような瞳。ライトは何故か先ほど幻覚の中に映っていたリオルを思い浮かべた。幻覚の中の様子とはずいぶん雰囲気が違ったが、ライトにはこのリオルが先ほどのリオルと同じだと思えた。
 その目の前のリオルはライトに背を向けると、顔だけ後ろを振り向いてライトに目を向ける。その後顔を前へ向けると走り出して森の中へ消えていった。
 
 
 
 
「ライト?」
 ウルはいきなり立ち上がったライトを見る。先ほどから何もしゃべらなくなっていたライトを幻覚を見ているのではないかと思っていたのだが、立ち上がったライトの顔を見てそれは確信に変わった。
 ライトはただ目の前を見ていた。口もぽかんと開いたままになっていて、それだけ見れば滑稽に見えたかもしれない。だが表情は彼にただならないことが起こっていると物語っていた。
 目元は苦痛に耐えているようにぴくぴくと痙攣していた。それでいて意識の方は完全に目の前に集中していて、おそらくライトは今その苦痛を感じていないようだ。ただただ何かに吸い寄せられたかのようにライトは前を見ていて、他のことは全く目に入っていないのではないだろうか。
 ウルは弾かれたようにライトの腕を握る。そして瞳を閉じてライトの波導を感じ取る。やはりライトの全身が紫の波導に覆われていた。つまりライトは今幻覚を見ているということになる。
 ウルは握っている手からライトに波導を流す。ウルの体の青い波導が自身の手を通じてライトに流れ込む。そしてそれが全身を包んでライトの波導を正常な青に戻していく――
 だが青い波導がライトの全身から排出されてしまった。
「なっ!?」
 思わずウルは目を開けてしまった。こんなことは初めてだった。これではライトの見ている幻覚を消すことはできない。
 ウルの目にライトの顔が映った。その顔は先ほどまでとは打って変わり苦悶の表情を浮かべていた。汗を大量にかき、彼の毛はびっしょりと濡れていた。息も荒く、それも肩を上下させて全身で無理矢理呼吸をしているように見えた。
「行かなくちゃ……」
 ライトは呟く。まるで熱にうなされているようで、その声もほとんど力が入っておらずほぼ息のような声だった。
 ライトは一歩前に足を出す。ゆっくりと歩き出す様はさながら亡霊で、生気を感じないその動きにウルは寒気を感じた。
 ウルの手が引っ張られる。ライトの腕を握っていたのを完全に忘れていた。ウルは掴んでいる手にもう一方の手を添えてライトを後ろに引っ張る。
「ライト、待ってよ!」
「離して……」
「そっちに行ったら危ないよ!」
「離してよ……!」
 ぐんぐんライトはウルを引っ張っていく。ウルだけではどうしてもライトを止めることができない。
「離してよ!」
 ライトの両頬の電気袋に火花が走る。ウルがはっと気付いた時にはすでに遅かった。ライトは全身から電撃を放つ。
「あああッ!!」
 全身を貫くような電撃がウルを襲う。電撃が体を走ったのは一瞬だったが、ウルにはその時間がとてつもなく長く感じられた。電撃から解放され、ウルは力なく地面に倒れ込む。だがまだ体から電気が抜けきっておらず、体の各所を走る電気がウルの体を苛む。目を少しだけ開けてみると、自分の体の毛が少し黒く焦げていた。
 ライトは倒れているウルを見ることもなく歩いていく。ウルは立ち上がろうとするが全身の細胞が悲鳴を上げるように痛みを発して動けない。
「ライト……」
 ウルは手を伸ばすが、届くことはなくだらりと地面に投げ出される。
 ライトの姿が霧の中に消えていく。その姿には意思はなく、何かに操られているように見えた。
 
 
 
 頭が痛い。吐き気がする。視界が歪んでいる。
 ライトは自分が何をしているのかもわからなくなってきた。一瞬前の出来事も思い出せず、自分が今どこに向かっているのか、何があってこうやって歩いているのかがわからなくなっている。
 足がふらつく。小石を踏んでバランスを崩す。受け身を取ることもできずにライトは腐葉土の地面に倒れ込む。
 自分の鼓動を感じる。かなり速い。それと連動して自分の息が荒いことにも気付いた。
 なんとか立ち上がろうとしても手足に力が入らない。毛先から汗が滴り落ちる。力なく地面にまた倒れ込む。
「どうしたんだよ、らしくないなあ」
 顔を上げるとライトの前にリオルがいた。先ほど自分を目配せして呼んだあのリオルだろうか。
「おーい、※△◇★。どうしたー?」
 少し先から別の声が聞こえてきた。声のトーンからして少年のものだった。途中で先ほどと同じようにノイズが入ったが、リオルが反応したことからおそらくこのリオルの名前が呼ばれたのだろう。
「すぐに追いつくから先行ってて!」
 リオルが先にいる声の主に向かって呼びかける。
「もう、早く行かないと日が暮れちゃうよ」
 また別の声が聞こえた。これもまた少年のような声だったが、先ほどの声やリオルの声より少し高い。まるで少女が少し無理に低い声を出しているようだった。
「わかってるよ」
 リオルはその声にも応え、再びライトの方を振り向く。
「じゃあ○×#。早く追いついてね」
 リオルはライトを置いて先に行ってしまう。
「ま、待って!」
 ライトはリオルを追いかけるために立ち上がる。少しだけ休んだためか三半規管が少し回復し、手足にもちゃんと力が入ってそれなりにスムーズに立つことができた。
 ライトは走り出したが、それほど遠くに離されたはずではなかったのだがすでにリオルの姿は見えなくなっていた。やはりあれは幻覚だったのだろうかとライトは考える。ライトの頭は考えることができるぐらいには冷静を取り戻していた。
 しかしライトには走ることを止められなかった。あのリオルを追いかけないと、という強迫観念のようなものが心に浮かんできてライトを前へ前へと急かせる。何故だかはわからない。とにかく追いかけないと何も自分の知りたいことを知ることができないかもしれないと思った。
 何が知ることができないのだろう。
 答えは意外にもすぐに浮かんできた。自分のこと、今まで考えもしなかった記憶を失くす前の自分。ほんの少し前に初めて意識したどこかで何かをしていた自分の姿だ。
『キミと友達になりたいな』
 ふと声が聞こえた。自分の声だった。だが自分の声とは全然違った感じを受けた。まるで何かを悟って諦めているかのような。
『形成率八〇パーセント。各種臓器も正常に活動を始めています』
 今度は逆に冷たい声だ。全く身に覚えのない声。感情のないその声はしかし、どこかで聞いたことがあるというようになつかしさを感じた。
『私はもう疲れたんだ』
 また違う声。その言葉の通りかなりやつれているようで先程の自分の声と似たようなものを感じた。
『本当にお前は容赦ないよなあ』
『だってしょうがないじゃないか。これが僕の地なんだからさ』
『まあまあ落ち着いてよふたりとも』
 この声はつい先ほど現れたリオルや彼に呼びかけた声のものだった。前に聞こえた冷たい声と同じく身に覚えのない声だったが、どうしてか彼らの声を聴いていると安心した。その感じはゲンジといるときと同じだった。誰かと一緒にいる、誰かに見守られている、あの感じ。そこでライトの頭に『家族』という言葉が浮かんでくる。
(そうか、じゃああのリオルたちとは家族だったのかな)
 家族、という言葉の響きをライトは噛みしめた。幻覚でしかない彼らの姿がライトにとって愛おしいものに思えてきた。
 だが幻覚に囚われているせいで前に何かがいるということにライトは気付かなかった。
 ライトは思いっきりその何かにぶつかってしまった。
「いでっ!」
 ライトはその反動で後ろに仰向けに倒れ込む。顔面を強打したため鼻先がじんじんと熱をもって痛みを発する。
 鼻先を抑えながらライトは立ち上がる。妙にぶつかった時の感触が硬かった。まるで岩にでも当たったかのようだった。
 すると前の何かが動き出した。そしてライトは自分が何に当たったのかに気付く。
 『ドリルポケモン』のサイドン。巨大な体躯に硬い岩の鎧を身に纏っており、頭にはその分類名の由来となった一本のドリルが生えている。このドリルによって岩盤を貫くことさえ容易だ。
 そう、つまりサイドンは普段このような森の中には姿を現さないのだ。よく見てみるとサイドンの背後には様々なポケモンたちがいた。ゴローンやギガイアス、ワンリキーなどどれも普段は森には住んでいないポケモンたちばかりだ。近くの岩山などからこの森に迷い込み、そして霧の見せる幻覚のせいで森の中をさまよい続けているのだろう。
 サイドンの生気のない目がライトを見つめる。やばい、とライトは思う。このままでは何をされるかわかったものではない。しかしライトは動けなかった。まるで足を地面に縫い付けられたように足が上がらなかった。
「グオォォォッ!!」
 およそ理性を感じることができないような雄たけびを上げるサイドン。
 サイドンの頭のドリルが回転する。そしてそれを突き刺すように前かがみになってサイドンが突進してくる。
 逃げないととライトの本能が警鐘を鳴らしていた。このままではまずい。だがサイドンはさながら山自体が迫ってくるような威圧感を与え、ライトはその場から動くことができない。
 サイドンのドリルが直撃する。その回転の威力は小柄なライトを軽々と吹き飛ばす。放物線を描いて吹き飛んだライトは腐葉土の地面がクッションになっているにも関わらず何回も地面をバウンドした。
「う、うう……」
 体を動かそうにも力が入らない。たった一撃でライトの体は傷だらけになった。
 『つのドリル』。自らの角をドリルに見立てて攻撃するこの技を受けたポケモンは一撃で立つことができなくなるほどの致命傷を受ける。
 サイドンが近づいてくる。急いで仕留める必要はないとでも言わんばかりにゆっくりと、しかし確実にサイドンはライトとの距離を詰める。
 おしまいだ、とライトは思った。自分はこんな状態で相手は無傷。タイプ相性も最悪。さらに相手はサイドン以外にもまだ十以上背後に控えている。勝ち目どころか逃げることすらできそうになかった。
 このまま眠ってやろうかと思った。先ほどの攻撃からしてサイドンは痛みを感じる間もなくとどめを刺す、というつもりはないらしい。だったらいっそのこと眠ってしまえば痛みを感じることもないのではないだろうか。
 ライトはそっと目を閉じる。
「はどうだん!」
 しかしサイドンに向かって青白い光の弾が飛んできて直撃する。爆発が起きて土埃とともに白い煙が巻き起こる。
 何事かと思ってライトは目を開ける。しかしライトの方にも爆風とともに白煙が流れてきて、煙が目に染みて咄嗟にまた目を閉じてしまう。その時、誰かの気配を感じた。その気配はライトを飛び越えて彼の目の前に立つ。
「ウル?」
 目を開けるとそこには一匹のリオルが立っていた。しかし意識を保つことにも限界が来て、ライトの意識はそこで途切れた。
 
 
 
 
 硬い感触がする。表面がごつごつしていて、接している部分が冷たく感じる。
 覚醒し始めた意識の中でライトは違和感を覚える。自分は森の中にいたはずだ。森の地面は柔らかい土であり、こんなに硬くはなかった。そしてそれを感じた途端に背中に石か何かが食い込んでいることに気付く。
 ライトは我慢できなくなり目を開く。ライトの感じた通り、ここは森の地面の上ではなく森のどこかにあった岩場のくぼみのようだった。出口までは一直線であり、外に木々が見えることからまだ森の中なのだろうということがわかる。太陽はすでに沈みかけているようで空がオレンジ色から暗い色に変わり始めていた。
「あ、起きた?」
 近くに座っていたウルが声をかける。
 ライトはゆっくりと体を起こす。すると体に傷がほとんどないことがわかる。自分はサイドンの攻撃を受けて致命傷を負ったはずだ。なのに今はその傷がほとんど残っていない。これは一体どういうことなのだろうか。
「ホントもうびっくりしたんだから。なんとかライトのこと追っかけてったらボロボロで倒れてるんだもん」
「やっぱりあれ、ウルだったんだ」
「そうだよ、ほかに誰がいるのさ」
 ライトは自分を誘ったリオルのことを口に出そうとしたがやめた。あれは幻覚であり、実際には存在しない。言っても意味がなさそうだと思った。
「でもあんだけ敵がいたのにどうやって?」
「そりゃあもう全力で逃げたんだよ。なかなか大変だったんだからね。キミを背負いながらあいつらから逃げるのって」
 ウルは近くに置いてある自分のカバンの中に手を突っ込む。
「それでキミに無理矢理オレンのみを食べさせて今に至るってわけ」
 ウルはカバンからオレンのみを一つ取り出してライトへ投げる。
「はい、これ。まだ全快ってわけじゃないと思うからさ」
「あ、ありがとう」
 ライトは手元のオレンのみを一口かじる。口の中に甘みと酸味が広がり、それを飲み込むと体の隅々にまで染み渡るような感覚がした。
「そういえば、さっきはよくもボクに電撃浴びせてくれたね」
「えっ、どういうこと?」
「もしかして気付いてなかったの? ひとりで走っていく前にボクが腕引っ張って止めたら、キミ手加減なしで思いっきり電気を使ったんだよ」
「そう、だったんだ……」
「まあなんとかオレンのみとクラボのみを食べて治ったんだけどね」
 ははは、と笑うウル。大したことはないと手をひらひら振る。
 だがライトにとってはそうはいかない。いくら正気を失っていたとはいえ、必死で止めてくれたウルに対して電撃を放ち、ひとりで突っ走って迷い、挙句に放浪していた正気を失ったポケモンたちに重傷を負わされた。今ここでこうして無事でいるのが不思議なぐらいだ。そしてひどい仕打ちを受けたにも関わらず、ウルはライトを助けに来た。今記憶を探ってみて初めてライトは自分が電撃を放っていたことがわかったのだが、その時ほとんど加減をしていなかった。ウルはそれをもろに受けていたということになる。大したことはないと主張しているウルだが、ダメージは相当なものだったであろうことがライトにも想像できた。そしてそんな仕打ちを受けながらもウルはライトを助けに来た。自分がどれだけウルに迷惑をかけていたかを考えると恐ろしくなる。
 そもそもこの森に来なければこんなことにはならなかったのだ。この森は危険だといろんなポケモンたちが教えてくれた。そうにも関わらずただ面白そうというだけでライトはここへ来るよう仕向けてしまった。今この状況であるのは完全に自業自得なのだ。
 そんなことを考えているとどんどんと自己嫌悪に陥っていった。もしかすると村を旅立ってからずっとこんな風にウルに迷惑をかけ続けていたのではないか。ウルは今までずっと一匹で旅をしてきた。一匹は確かに寂しいかもしれないが、一緒に行く者がいない分迷惑をかける相手を考える必要もなく身軽だともいえる。なのにライトは押しかけるように無理矢理ついてきてしまった。ウル自体は承諾していたが、本当のところどう考えているかわからない。もしかしたらこんな奴と一緒に行かなければよかったとでも思っているのかもしれない。マイナス思考はさらにマイナス思考を生み、負のスパイラルから抜けられなくなっていく。
 こんなことを考えていると自然と顔が俯いていた。さすがにウルも様子がおかしいと思ったのか心配そうな表情で声をかける。
「どうしたの?」
「え、ど、どうしたのって?」
「いや、なんか思い詰めてる感じだし」
「べ、別に思い詰めてるってそんな……」
 ライトは否定するが、本当は不安だった。ウルが自分のことをどう思っているのか。こんなに振り回されて手間をかけさせる自分のことをうっとうしいと思ってはいないだろうか。もし自分であれば付き合いきれる自信がないというところが正直なところだった。もしかしたら自分ならもう知らないと言って見捨てるかもしれない。やはり自分がそう思うぐらいなのだったら、ウルも一緒なのではないのか。
 本音を聞くのが怖い。どんな否定の言葉を突き付けられるのかが恐ろしい。しかし本音を聞かないでいるのももっと怖かった。これから先ウルのそんな気持ちに気付かないふりをして上っ面だけの仲を維持する、そんな未来を想像して身震いした。やはり自分はウルのことを友達だと思っている。ならば本音でぶつかり合いたい。ずっと本心を飲み込み続けて、本当の気持ちを言い合えない関係なんてまっぴら御免だった。
「あ、あのさ……」
 だからウルに尋ねようとした。ためらいが残っていて少し言葉に詰まってしまったが。
「何?」
「オレのこと、うっとうしいって思ってる?」
「へ?」
「だって今日のことはオレが行きたいって言いだしたからだし、今までももしかしたらいろいろ迷惑かけちゃっただろうし……」
 言っていて自分に自信がなくなってしまい、どんどん語尾が小さくなってしまうライト。最後の方はほとんど聞き取れないぐらいになってしまった。
 ウルは一瞬呆けた表情になっていたが、すぐに普段の落ち着いた顔に戻る。それから少し意地悪そうな表情になってライトに尋ねる。
「うっとうしいって思ってたらどうする?」
「え、ええっ?」
「ボクが今ここでライトと一緒にいると迷惑だって言ったらどうする?」
「ど、どうするっていっても……」
 言葉に詰まるライト。本音を聞こうと思いはしたが、その後のことを全く考えていなかった。確かに自分のことをうっとうしいと思っている者にかける言葉などライトに見つけられるはずもなかった。
 そうして返答に困っているライトを見てウルは噴き出した。
「ライトってば面白いね! 普段いろいろ振り回されてるから少し仕返ししようと思ったんだけどこんなに反応してくれると……」
 しまいにはウルは腹を抱えて笑い出した。ツボに入ってしまったらしくなかなか笑いが収まらない。
 ライトは「緊張して損した」と漏らし、ぷいとウルから目を逸らす。恥ずかしくなって顔が熱くなってきた。
「ゴメン、ゴメンって」
 ウルは笑い疲れたらしく荒い息を吐いている。目尻に浮かんだ涙を拭うとウルは再びライトの方を向く。
「でもね、確かにそんなこと思うこともあるよ。なんでこんなことするのかなあとかさ」
「それじゃあ……」
 やっぱり迷惑かけてるってことじゃないかと言う前にウルは遮るように言葉を続ける。
「そりゃあボクだって生きてるわけだし、文句の一つでも言いたくなることはあるよ。だけどそれってやっぱり誰かと一緒にいないと出てこない気持ちなんだよ」
 誰かと一緒、その部分がライトの頭の中で何回も反響する。
「ボクは今まで父さんとしか一緒じゃなかったからよくわかんないけど、友達ってそんな感じなんじゃないの? 気兼ねなく迷惑をかけることができて、ちゃんとそれを助け合うことができる。ボクはライトとはそういう感じの仲だと思ってるんだけど」
 ウルの言葉にライトは虚を衝かれた。
 よく考えてみれば、ライトもウルと似たような境遇だった。気兼ねなく接することはできてもやはり相手は大人、どこかで遠慮したり自分とは違うと思ってしまうところはあった。こうして一緒に何も遠慮することなく話し合える相手とは今まで会ったことがなかった。そんなライトは友達という存在がどういうものか、本当は知らなかったのだ。
 迷惑をかけても許し合える。助け合える。それが友達。
 自然と笑みがこぼれた。ウルはつまり自分のことを友達だと、面と向かってそう言ってくれたのだ。
「そういうライトはどうなのさ。ボクのこと」
 ウルは満面の笑みで問いかける。その表情がライトの答えがあらかじめわかっているようで、先回りされた気がして少し悔しかった。
「もちろん、オレは友達だって思ってるよ」
 ちゃんとその気持ちを伝えたくて、ライトは真っ直ぐウルを見て答える。
「そっか、じゃあこの話はおしまい。これからは水臭いことは言わず、お互いを頼ること。まあ、あんまり面倒なことはやっぱりダメだけど」
「あはは、そうだね」
 安心してほっと息を吐く。すると欠伸が自然と口から漏れ出てきた。
「なんか、疲れて眠くなってきちゃった」
「じゃあもう今日はこのまま寝ようか。まだ森は抜けたわけじゃないし、ちゃんと体力を回復しないとね」
 ウルもそう言うと硬い地面に横になる。
 本来ならば野宿をするときは見張りを立てる方がいいのだが、今は二匹とも疲れていてそんなことを考える余裕もなかった。ライトも横になってすぐに目を閉じる。
 今日の出来事が走馬灯のように瞼の裏を流れる。
 この森の見せる幻覚はその者の心に深く刻み込まれたものを見せるという。つまり今日ライトが見たそれらはライトの心に残っていたものだったということだ。それもおそらくライトが記憶を失くす以前の。
 自分は何者なのか。
 今日初めて湧いた疑問。その疑問の答えがわかる日は来るのだろうか。
 自分の旅する目的が見つかった気がした。言ってみれば半ば無理矢理ウルについてきただけであって特に目的らしい目的も今までなかった。それがようやく見つかった。
 記憶を失くす前の自分を探す。
 まどろみの中でライトはそう決心した。
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タダスケ ( 2016/10/01(土) 23:18 )