鴟梟
それは、
鴟梟だった。
音も形も、影さえも。全てがこの夜を包括する宵闇にうち溶けてしまったかのような、恐るべき静寂さであった。噎せ返るような沈黙であった。
そこに在るのは二点の燭。燭は動かない。磔にされたように頑なに私を見つめる。無表情すぎるその燭は、かえって底知れぬ残忍さを私に抱かせた。
ヨルノズク。闇夜の帝王とすら呼ばれるその威容なるポケモンは、私の存在を視界に捉えてもなお未だに微動だにしない。しかしながら、確かに潜在的敵意を持った燭で私を見つめていた。ピアノ線をピンと張り詰めたような緊張感が場を支配している。僅かな呼吸音を出すのもままならない。
いつからそこにいたのか、私には分からなかった。上空から私を見つけたのか。それとも、偶然にも奴の住み処に私が邪魔してしまったがために、こうして臓物を握り潰されるような心持ちを味わってしまっているのか。
何れにしても、私はこの鴟梟から逃れなくてはならなかった。先程手に入れた、ターゲットの入った特殊加工の施されたモンスターボールに微かに手を伸ばす。私の手は緊張の染み込んだ汗で僅かに湿っていた。
*
「あの森にはな、トゲチックがいるんだよ」
喫茶でいつもの珈琲を嗜んでいる時だった。私はそこではロールケーキの付いたケーキセットを頼み、小説片手に二、三時間程居座って帰るのがお決まりになっていた。ミルクは入れないのかと向かいに座る男に訊かれたが、私は首を振った。相変わらず大人だな、なんて言われたが、珈琲店のケーキというものは、珈琲との食べ合わせがいい、砂糖たっぷりの胃もたれしそうな甘い物がほとんどだろう。私は甘い物を食べ過ぎると頭痛がするので、それは避けたかった。ただそれだけだった。
トゲチックがいる。その言葉には、私も思わず淡々と活字を追っていた目を移してしまった。男は綽々とした様子で灰皿に灰殻を落としていた。ヤニの烟るような悪臭が鼻を掠める。私が興味を持ったことが判ると、口元を歪めた。
幸せを齎すためにその姿を現すという、吉兆と幸福の象徴のようなポケモン。だが、その性質のためか滅多に人前には姿を現さない。その為かなり希少で、トレードも高い人気ポケモンだ。野生個体となればその価値の高さは尚のことだ。
「とある財閥のお偉いさんが欲しがっている。娘にやるんだと。トゲピーから育てりゃいいのにな。ま、こちらには好都合だが」
「懐かせる手間が面倒なんだろう。いかにも金持ちが考えそうなことだ」
依頼主の事情なんてものに私は興味はなかった。どうせ、飽きれば直ぐにボックス行きだろう。ポケモンは便利な道具であり、金品だ。私も奴らも変わりはしない。もしもポケモン大好きクラブに見つかったら、柱に磔にされ、業火で灼かれる。そんな人種だ。
ポケモンの密猟、そして金銭取引。ヤミカラスの黒翼よりも真黒なその仕事こそ、私を生かす生業だった。
罪悪感などなかった。生き甲斐なのかと訊かれれば、それも首を横に振るだろう。ただ、冷然と仕事を熟していた。幸い、その手の腕はあったらしく、生活には困っていなかった。
私を知る人間は時々、私を無個性だとかつまらない人間だと評す。それは、表立って個人の趣味や嗜好を示して、演説をする立候補者のように媚び売ったグッドルッキングを着こなしてないからだと説明してやると、大抵の人間は私を堅物の偏屈な変人という評価を確信し、離れていった。孤独が心地良かったので気にも留めなかった。今回も何も変わらない。そのトゲチックを捕獲し、受け渡す。そして報酬を受け取る。それだけでいいのだ。それだけで私は満足出来る。
「請けるだろう?」
「ああ」
「だろうな。仕事が恋人だもんな」
そう言うと、目の前の些か軽薄そうな男は冷めきった紅茶をあおった。釣り上がった瞳からは、幽かに嘲笑を感じた。
「そんなに鬱陶しいものじゃない」
「だったらなんだ?」
煙草を弄りながら、男は窓の外に目を向けていた。閑散とした街の通りには、休日にも関わらず、人っ子一人いない。やけに鮮やかな街路樹が色褪せた街並みに浮いていた。
「靴下、みたいなものだ」
「なんじゃそりゃ」
私の返答にいかにも大袈裟に顔を顰めた。この男は、誰に対してもこうして面白おかしく茶化すことにしているんだろうか。それは、私にはカロリーの無駄に思えてならなかった。
「無いとムズムズするだろう」
「成程ね」
納得したというように目を細めた。
もうこの浮薄な顔を見るのも飽きたので、私は持っていた小説に目を落とした。明朝体の波が視界を覆う。冴えない主人公が複数の女性との恋に溺れる、呆れるほど既視に溢れたストーリー。それでも、目の前の男の顔を見ているよりはマシだった。
「アンタのことだから上手くやるんだろうが、だがこれだけは忠告しておく」
男の声色が変わった。それは、曇天が鈍色の雲を纏って雨差すように。克明に、暗澹たる鮮やかさで。何か倉皇としたものを感じて、再び目線を上げる。
「あの森には鴟梟がいる」
*
息も絶え絶えに走る。木々を縫い、段差を飛び降りて。舞い散る枯葉が視界を掠める。鬱陶しいことこの上ない。だが、立ち止まっている暇などない。相手は晦冥に澄んだ目を持っている。それが、ヨルノズクを闇夜の帝王たらしめる理由の一つだ。
あの鴟梟と遭遇してから、私は怯懦の静寂に僅かに戦いていた。しかし、ここに来て初めて前方の草むらから葉の擦れるような音がする。堪らず、立ち止まった。
全身の血液が激しく循環しているのを感じる。呼吸を整え、目を凝らすが何も見えない。もう随分と暗闇には目が慣れたつもりでいたのだが。野生ポケモンなら、拘束しなくてはいけない。仲間を呼ばれては厄介だからだ。弱い奴ほどよく群れ、そしてけたたましいのを私はよく知っている。そうして音の鳴る方へ少し歩みを進めた時だった。
飛来した鋭利なる風音。周囲の枯葉が舞い、ゆっくりと視界を斡旋した。私のほんの数センチ隣には切れ味鋭い断裂が生じていた。地が、激しく抉れていた。
すかさず見上げると、そこには鴟梟がいた。酸鼻たる冷酷さで私を見るあの鴟梟がいた。
心臓が、跳ね上がるのを感じた。全身の血の気が引いていき、呼吸が荒く、そして凄まじいほど速くなっていく。逃げられない、という訳か。
辛酸を舐めさせられた心持ちだった。ターゲットの捕獲は比較的スムーズにいったというのに。仕方なしに、私は二つの紅白のボールを投げる。戦闘は周囲の人間に気付かれる可能性も高くなる。私はこれまでなるべく避けて事を済ませてきた。しかし、今回ばかりはそうもいくまい。それに、いくら頭の良い個体とはいえ、数の力の前では無力だろう。
だが、その考えはあまりにも希望的観測に依るものだったと直後に気付かされる事となった。
鴟梟は鳶色の翼を大きく膨らませると、風の刃を二発投擲した。それは、目掛けた二つのボールが中身を解放する前に命中した。ボールは真っ二つに切り裂かれ、ボトボトと木の葉に埋まった。それは、飛ぶ鳥ポケモンを仕留め、撃墜したような軽やかさだった。居合斬りのような一閃だった。敵ながら拍手を贈りたくなる。
中にいたポケモンはどうなったのか。生きてるのか、それとも切られた瞬間に屍と化したか。それは到底分からないし、愛着などない私には大した興味はなかった。そして、それ以上に今の私には考える余裕もなかった。
非常用の催涙ガスを使うか? いや、駄目だ。相手に届かない上に、風を起こされたら終いだ。煙玉もこの距離では届かないだろう。何より、鴟梟にはあの眼がある。目くらましでは意味が無い。
考えろ、何か策を。あの怜悧なる梟を撃退は出来なくとも、一時足止め出来れば十分だ。遠隔から正確な攻撃を放つ相手を撒くにはどうしたらいい。必死に頭を巡らせる。歯を食いしばり、汗が頬を伝う。生温い風が癇に障った。
風、そうか。私の中に一つのアイデアが閃く。思い付いた時には、既に腕がリュックサックの中を探っていた。鴟梟は相変わらずの悍ましい沈静さで私を見ていた。双眸は不気味なほど皓々と発光していた。
北から強く靡く風、今だ。私はリュックサックから取り出した光の粉を高く放り投げ、ぶちまける。銀砂はたちまち風で舞い、月の光を浴びて
奕々たる光を放つ。それは弾幕のように鴟梟の視界を遮った。しかし、これは本命ではない。この間に少しでも距離を離すべく、私は駆ける。
喉が焼き焦がれるように熱い。だがしかし、私は走る。走らなければならない。
私は呑気のお香の蓋を乱雑に開け、その中身に虫除けスプレーを突っ込んだ。そして、スプレー缶の中身を充塞させる。ポケモンに持たせると相手の攻撃が当たりにくくなるという、なんとも胡散臭いお香だが、まさかこんな形で役立つとはな。そうして出来たお香は、虫除けスプレーの鼻を刺す独特の刺激臭を辺りに撒き散らしている。
音を置き去りにして、私を追っていた鴟梟はやがてその匂いに顔を僅かに歪めた。そして私に近づくのをはたりと止めた。
やはり相手はポケモン。人間の理知の結晶、化学の力には適わないのだと私にも判った瞬間であった。私の体力は限界に近いが、このまま距離を離せば相手は追いつけなくなる。あと少しの辛抱だ。心臓が急かすようにやけに脈打つ。走り続ける私は微かに勝利を確信した。
私の視界に映るそれは、不敵な笑みだった。あの冷酷な能面が愉悦に歪むのを私は初めて見た。
認識する間もなく、こめかみに痛みが飛来した。脳を揺さぶるような激痛に、私は当然倒れ込む。時間差で、傍らにぽとりと石片が落ちる。どうやら私を襲った正体はこれらしい。神通力で投石したのだろう。眩み、歪む視界でそれを確認する。
当然であろうかの如く、鴟梟は這い蹲る私の眼前に悠然と立っていた。音もなく、黒い影が落ちてきた。私は鴟梟の輪郭をその時初めてまともに視認した。恐ろしく寂静なその眼を、辛うじて見遣る。そこに在ったのは勝ち誇ったという、誇大な微笑だった。
「私の完敗だ。仲間は好きにするといい」
そう嗄れて言いながら、私は改造されたモンスターボールを取り出す。そして、指紋を合致させるとロックが解除された。キューブ型だった装甲が解け、ごくありふれた紅白のボールになった。
もはやここまで無残に追い詰められて、私は仕事を投げ出したい気持ちで堪らなかった。信頼を失い、評価も下がるだろうが、そんな地位だとか名誉だとか、他人の価値観に依存するものに私は固執していなかった。足を洗うことは出来ないだろうが、しばらく身を隠すのも有りかもしれないと考えていた。
鴟梟は紅白のボールを前脚で掴むと、さも興味なんてないように、無碍に放り投げた。その様子に私は呆然としてしまう。ボールが投げ出された衝撃で、トゲチックが中から出てきた。トゲチックは私を見ると同時に、怯えてすぐさま逃げるように飛び去ってしまった。鴟梟はそんなトゲチックを一瞥もしなかった。
そして、鴟梟は待っていたと言わんばかりに鳶色の翼を鋭く切り立て、私の首筋を狙った。風が畝る。
ああ、そうか。最初から私だったのか。
私は靄を取り払ったかのような、妙に冷静な頭で思考していた。そして独りでに納得していた。
お前が闇夜の帝王でも、ヨルノズクでもなく、“鴟梟”なのはそういう事だったのか。
*
アイアントの群れは、規律正しく列を成していた。その列の目指す先にアイアント達には些か大きい屍が転がっている。若々しい肌や髪は彼が死期を迎えるには、相当早期であったことを物語っていた。切り裂かれた頸動脈の辺りの枯葉は、大量に乾いた血で銅色に変色している。腹には抉り取ったであろう風穴が空いており、砕けた臓物が散っている。人が見れば、その凄惨な事故現場に失神するかもしれない悍ましさだった。それらを小さく切り刻み、アイアント達はせっせと巣穴に持ち帰っていた。
彼らは知らなかった。
この森の帝王たるヨルノズクが、昨夜一人果敢に狩りに出たことを。この人間が世間では蔑視されるべき悪人だということも。この裏で二体のポケモンが死に晒していることも。彼らは何もかも知らなかった。アイアント達はただ機械的に列を成していた。
それは、さも人間が一人死んだところで世界は何も変わりはしないと言いたげだった。