言えない気持ちはホットチョコレートに溶かして
豆の香りが芳ばしく香る、マホガニーの液体。暖かなグランブルーマウンテンは今日も香り高い。
サイコキネシスで絞った、マホイップのようなホイップクリームをそっと載せて、ココアを上からぱっぱと振り掛けて、トッピングのウエハースを刺したらできあがり。私は笑顔でお客さんに手渡す。
「ありがとう、イエッサンちゃん」
両手でマグカップを持ち、斜め向かいにそのお客さんは座った。その綻んだ笑顔が私は何より嬉しく、こちらまで温かなエネココアを飲んだ時のようだった。
昼下がりのポケモンセンターは、ポツポツと談笑するトレーナーや、フレンドリィショップで買い物をする客が見られる。ジョーイさんはまたポケモンを預かっていた。いつも代わる代わるたくさんのポケモンを元気にしてあげていて、大変だな。あの人はきちんと休めているのかな、なんて思ったりして
そうして、ポケモンセンター内を眺めていると、隣のご主人が私に向かって微笑んでいた。ご主人はマスターと呼ばれていて、このカフェの主であるだけじゃなくて、私たちポケモンの忘れてしまったわざを思い出させたり、私たちポケモンのニックネームを考える姓名判断をしたりしている。
いつも隣で手伝いをしながら、きっとトレーナーには欠かせない存在なんだろうと思った。そう思うくらい、毎日ご主人を訪ねるトレーナーは多い。色んな人もポケモンも相手取るご主人は本当に凄い、と私は思う。そんなご主人に私が最近思う事がある。
「イエッサン、どうかしたのかな?」
「ふぃるるう」
私がご主人について考えていた時に限って、目の前のお客さんじゃなく私の様子を伺ってくるだなんて。ご主人の方がよっぽどエスパーなんじゃないかしら。そんな思いを気持ちの底に沈めながら、私はなんでもないというように微笑んで首を振る。
そうすると、ご主人はカップを拭きながらまたお客さんの話に相槌を打ちに、正面を向いた。それにほっとしたような、少し寂しいような感情を覚える私がいた。
さっきのグランブルーマウンテンラテを頼んだお客さんと、最近話題のチャンピオン直々に推薦された、ジムチャレンジャーの少年について話していた。
私が思う事というのは、ご主人に“ありがとう”が言いたいな、という事だ。私が普段、こうしてご主人のお仕事を手伝っているのは、私たちイエッサンという種族の、従者の傍で世話を焼くという性質もある。けれど、それ以上にやっぱりご主人の事が好きで少しでもその役に立ちたいからだ。
私たちイエッサンはツノで感情を受け取る。そういえば、ラルトスというポケモンも同様の性質を持っていると聞いたことがある。人間の喜びや楽しい、嬉しいという感情を受け取った時に、私たちは言葉では言い表せないような、ぽかぽかとした暖かな感情が心の中を支配するのだ。
人間の、それも付き合いが長く心を許しあっているご主人のそんな感情を受け取りたくて。そして、私に仕事を教えてくれたり、私のお世話してくれたり、いつも一緒にいてくれる事に“ありがとう”と言いたかったのだった。
でも、どうやって伝えたらいいのだろうか。ポケモンと人間では言葉を交わす事ができない。たった一言の、“ありがとう”さえ、私にはご主人に言う資格がないんだろうか。
「そういえば、もうじきバレンタインの季節ですねえ」
ふと、ご主人の言葉に耳を傾けた。聞き慣れない言葉の一つに私は首を傾げる。“バレンタイン”とはなんだろう。人の名前みたいに聞こえるけれど、ご主人の言いぶりからして、多分イベントの類いなんだろうなと私は想像を巡らせる。
「いえー?」
「ん? ああ、イエッサンはバレンタインが気になるんだね」
私が疑問をぶら下げて鳴くと、ご主人はすぐさまこちらの問いに気付いてくれた。流石の気遣いっぷりだと私は密かに感心していた。伊達に、何年も接客業をやってない。ご主人の言葉に私はこくこくと頷く。
「バレンタインというのは人の名前でね。若者の結婚が禁止されていた時代に、聖バレンチノという司教が皇帝に秘密で恋人達を結婚させていてね。それを知った皇帝が怒ってバレンチノを処刑してしまうんだ。しかし人々はバレンチノの勇気ある行為に感動し、彼が処刑された二月十四日を彼を祀る日、バレンタインデーとしたんだ。ちょっと難しかったかな」
私だけじゃなく、ご主人の目の前に座っていたお客さんまでが聞き入って、なるほどと深く頷いていた。本当に人の名前だったんだ。でも結局、何をする日なんだろう。そのバレンチノという人をお祝いするのかしら。クリスマスみたいに。私が首を傾げて色々考えていると、すかさずご主人は続きを補足をしてくれた。
「今ではその名前だけが残って、女性が意中や仲のいい男性にチョコレートを贈る日、の方が一般的かな。最近は女性同士で贈り合ったり、男性からも贈ったりするみたいだけど」
どうしてチョコレートなんだろうね? とご主人は私に向かって人の良さが滲み出た目尻を下げながら呟いた。つまり、女性が日頃の感謝や思いを込めてチョコレートをプレゼントする日。考えながら私は気付いた。
これだ! まさに私が考えていたご主人に“ありがとう”を伝えるきっかけ。そう分かってからはずっと、そのバレンタインデーに向けての意識ばかりが尖ってしまい、焦ってしまった為かその日の仕事には少しミスが目立ってしまった。反省しなくては、と自戒をカフェラテに溶かしながらぐるぐるとかき混ぜた。
*
バレンタインデー。そう呼ばれるらしい二月十四日まではまだ少し日がある。この催しものは、言われてみると確かに街一帯、いや、世間一帯で祭り上げられているようだ。街の電子公告には製菓会社のものらしいハートスイーツを持った女性やメスのイーブイが映っていた。去年もこんな装いだったのだろうか。全く気が付かなかった事が少し悔しい。
ご主人にバレンタインデーの贈り物をするという事を決めたのは良かったが、私は生憎チョコレートを製菓するどころか、一匹でお菓子を作った事がない。カフェの仕事の手伝いで飲み物を作る事は多々あるが、本格的な料理などはもっぱらご主人が担当していた為である。つまり私は、ご主人に隠れてチョコレートの作り方を勉強し、見えないところで二月十四日に合わせて作る必要がある、ということになる。そう考えると意外と時間がない。
「うーん、じゃあホットチョコレート。レギュラーサイズ」
目の前で、メニュー一覧を見てから顎を抱えて悩んでいた女性が注文した。用意するのは生クリームにチョコレート。温めた生クリームにチョコレートを入れながらぐるぐるとかき混ぜながら、はたと思った。これは私が用意しなくてはいけないチョコレートの材料と同じ。というよりホット“チョコレート”なんだから考えなくてもこれも立派なチョコレートなのだと気付いた。
仕上げにココアを振りかけながら考える。だったら、私にも希望が見えてくるというものだ。ホットチョコレートの淹れ方なら私にも分かるから、こっそり練習しなくてもご主人に美味しいものを渡せる。
「ありがとう。働き者だねぇ」
女性に淹れたてのホットチョコレートを渡して微笑んだ。ご主人は隣で別のお客さんの姓名判断をしているみたいで、花言葉や言葉の響きから考えたであろう名前がちらりと聞こえてきた。ご主人は数多のポケモンの名前を考えて、唯一無二のものを与えてきた。
それでも私を呼ぶ時は、種族名のイエッサン。それが淋しいような、ニックネームが恋しいような。複雑な思いとして在った時のことを少し思い出していた。
「ねえマスター、ここ辞めちゃうって聞いたけど」
「ええ。そうなんですよ。急に決まった事でね」
それはチョコレートよりも甘い私の考えを断ち切るように。使ったお皿やコップをシンクの水に浸しながら、聞こえてきた声に私はひどく動揺した。心臓が跳ね上がるように驚き、すっかり手を止めてご主人と会話する先程のお客さんを見ていた。
感じたことのない程の寒々しいものがあった。何も考えられないのではないかと言うくらいの思考の泡沫さだった。
「どうにも母の容態が悪くて。私が看てやらなくてはならなくなったんです」
ご主人は、悲哀を隠すような隠微の瞳を伏せて喋った。そんなの、初耳だ。ご主人のお母様はご病気で体調が優れないのは私も知っていた。介護が必要になるかもしれないから私にその手伝いを頼むかもしれないという事も。
でも、そういう話をするだけで私が実際に手伝った事はなかった。いつも一人でお見舞いに行き、良好ではない経過を横顔で語った。
「それは大変だわ。本当にもうご苦労さま」
「いえ、実はあの子にはまだ話せていないんですよ」
女性は心底同情するように言った。私はその声に気付いて、慌てて手だけを動かした。特に自分は何も聞いていない、熱心にお仕事をしていたという風体を装う。
刺し痛むほどの罪悪感。そして寂しさと物哀しさ。私がご主人からキャッチした感情はそれだった。胸が詰まるように痛くなった。私が欲しいのは、それではないのに。
「あの子はここで働くのが何より好きですから。だから少し迷っていましてね」
この時、ご主人が口を動かすのがすごくスローモーションに見えた。その続きを紡いで欲しくなくて。誰かにこれは悪い夢だと言って欲しくて。けれども耳を
攲てるのはやめられなくて。憂いに染まった瞳に釘付けになっていた。気付けば、その一字一句をダビングするようにゆっくりと、ゆっくりと。飲み込んでいく。
「お別れのタイミングなんじゃないかなと」
*
一日の労働を終え、ご主人と一緒に店じまいをしながら私は考えていた。ご主人は私と別れたがっているのだと。何度も何度も先程の言葉が反芻した。分かっても尚、認識するのが辛かった。
それは絶対に私の事を想ってだ。ご主人は出会った時からそうだった。誰かを思いやって行動できる心根の優しい人だ。自分を軽々と犠牲にできる殊勝な人だ。私はご主人のそういう部分が好きで、ある意味ずっと嫌いだったように思える。
確かに私はここで働いて、人々やポケモンから感謝をもらうのが休憩時間に食べるシャラサブレよりも大好きだった。誰かに求められると、自分が必要とされているみたいで嬉しかった。私が生きている事を、強く肯定されたようだったから。
きっと、ご主人だってそうだったんじゃないかと思う。接客業をずっとやっているのは、稼ぎよりも誰かに必要とされたかったからなんじゃないか。だって、ニックネームを考えてあげて、新しい名前にときめき、まだ見ぬ明るい未来を夢見る人々の顔を見る時のご主人は、春の陽の光よりも暖かな、そして朝焼けのように清々しい、そんな気持ちだったから。
それはずっと彼の隣で見てきた私には明白だった。例え、私がイエッサンでなかったとしても分かることだろう。
伝えなくちゃ、私の思いを。例えこの身を焦がした果てに言えなくても。たった一言の“ありがとう”の調べを辿ることが出来なくとも。
私は、彼に感謝を伝えなくては。
この仕事を辞めても一緒にいたいと。貴方は人々からマスターと呼ばれなくなっても、私のたった一人の“マスター”であると。それだけでいい。それだけで私とご主人は分かり合えるだろうから。
「ふぃるぅ」
「どうしたんだい、もう片付けてしまったよ?」
ご主人の言葉と制止を振り切り、私はいつものジューサースタンドに立った。仕事中にこっそりと一人分取っておいたチョコレートと生クリームを、マジカルフレイムでことことと温める。本当なら二月十四日にきちんと渡したかったけれど。なんてちょっぴり残念に思うのを押し込めて。マグカップに生クリームとチョコレートを入れてぐるぐるとかき混ぜる。
ご主人の驚く顔を見ながら。言葉を話せないという、神から与えられし無情を噛み締めながら。
そして、何より今までのありったけの感謝を溶かすように。私はゆっくりティースプーンを回す。そして仕上げにいつものホイップクリームとココアを一振り。
「イエッサン」
ご主人が私を見る目は、色んなものが混ざった曇天のような灰色の瞳だった。唐突に調理を始めた私への戸惑いだとか、自分に対して淹れている事が分かって、その気遣いへの感謝だとか。私が伝えんとしている事への迷いだとか。
それでも、私はいつもと同じ、いやそれ以上の笑顔でマグカップを差し入れた。ご主人は一笑してから受け取り、口を付けた。
紡ぎ出される、彼からの言葉が怖くてたまらない。思わず耳が縮こまってしまう。
「甘い、いやそれよりも」
しんとした、静かな湖畔のような澄んだ瞳だった。持ったマグカップをまじまじと見つめ、何度も瞬きしてから再びホットチョコレートに口を付けた。
緩んでいた目元が、静謐な眼差しに変わっていくのを見守る。
「温かい」
ぽつりと溢れたのは、これ以上ないくらいに簡潔で、包括された彼の感情。今更に、何かが崩れたのを私も感じていた。
さめざめと泣いていたのは私も同じだった。私たちはどうしようもないくらいに同じ気持ちだったはずだから。哀しいくらいに相手の事を想ってしかいなかったのだから。言葉は紡げないけれども、心で繋がっていたのだから。
「知らなかった。私達には言葉なんて、そんなものなくたって、きちんと」
噛み締めるように、振り絞るように。ご主人が言うのを私は微笑んで頷いていた。熱い感情の一縷が頬を伝う。視界がモンタージュ写真のようにぼやけていく。混ざっていく。
それでも、頷き続ける。
「私からも言わせて欲しい。本当に、本当にありがとう。イエッサン、これからも宜しく頼むよ」
頭を撫でられ、私は今までにない程の、とても持て余しそうな太陽のように温かな感情をまざまざ全身で感じながら何度も頷く私。
はらりと零れ落ちた、もう必要のない安堵は、あのチョコレートとは似ても似つかぬしょっぱさだった。