終雪の果てに咲く
白銀積もる氷山に、さざれ刺すように止まない氷雨。同じく誉れ高き純白の体毛に、混じり黒き一太刀が、一匹。
しかし、異質なのは、その足元に横たわる積雪では隠せぬ鮮血と生臭さ漂う残骸か。
アブソルは、災いや自然災害を察知することに長けた種族だ。その力ゆえに、人々や他の種族からは、姿だけでも忌み嫌われる等していた。
だが、彼にはどうでもよかった。彼からすれば、同胞も人間も石ころも等しかった。花に色はないし、星は瞬かない。このアブソルという種族は、確かに争いを好まない。だが、穏やかで友好的だなんて、誰も言わなかった。特段、彼は同族内でも理解を得られない、はぐれ者であったから致し方ない。
彼は、同族内でも知略に長けた者であった。しかし、本来ならば持ち合わせる、良心や道徳を抜き取られたように失くして生きていた。その為、彼は自分を守る為には手段を選ばず、自身の種族の悪しき謂れを使って、他の種や人間を煽動したりもしてのけた。
当然、彼を咎める者もいた。が、『いざとなれば、この頭の鎌で掻っ切ってしまえばいい』そうも考えていたので、いつしか彼に近づく仲間は居なくなった。
お互い、野生に生き、命を掛けているのだから当然だろう。その考えは揺るがなかった。
*
同じく、海抜高くジオラマのように聳り立つ、氷山のこちらは内部、地下鍾乳洞。アクアマリンの瞳に、九つの尾は独り美しくたなびく。
だが、彼女の周りの生きたままの氷像達に、見た者は、目と精気を奪われるに違いない。
このキュウコンは、自在に雪を降らせる能力と、非常に長い寿命から、人間からは神獣だと思われていた。
だが、神は神でも厄神であった。彼女は同族だろうと何だろうと、気に入らない者は全て氷漬けにした。住処の氷山には、嘗て多くの同胞がいたが、特に優秀な能力を持つ彼女が君臨した。後は、語らずとも察するだろう。
彼女は、特に人間が気に入らないようであった。本来ならば、迷い人を山の麓に返すと言われるキュウコンだが、彼女がそうするはずもなく。いつからか、この鍾乳洞に入った人間は、あの厄神に生きたまま氷にされ、ユキメノコに化かされてしまう、という伝承すら作り上げてしまった。
美しい彼女もまた、野生に生きる者としての能力と尊厳は存分にあったが、礼儀は持っていなかった。
お互いに本来の意味の厄神であるアブソルとキュウコン。運命の悪戯か、シンオウ時空神の導きか。得てして、この二匹は出会ってしまう。
*
きっかけは、至極単純であった。
安全な寝床を探すアブソルは、氷穴を発見する。オーロラがそのまま氷漬けになったかのような、蒼と翠の揺蕩う美しい氷群。だが、彼にそれを感じるような感性もなければ、興味もなかった。
しかし、奥に足を進めた辺りで、異変に気付く。危険を告げる黒いツノが、わなわなと震えている。警鐘だ。引き返そうとした時には、もう遅い。
アブソルの足首は、凍てつき始めていた。振り向くと、九つの尾を靡かせる、冷酷なる姿。キュウコンに他ならなかった。
「お前……成程な。神獣様がいらっしゃったんだな。通りで」
やけに広く安全な場所だ、とアブソルが声にする前には、キュウコンの放つ眩い光を浴びていた。痛みに呻き、倒れるアブソル。
「貴様には話す権利はない。して、貴様はアブソルだろう? あの“厄神”の」
キュウコンは、アブソルの肢体に乗り上げ、氷輪の瞳を差し向ける。当然動けはしないが、アブソルはアブソルで、派手に痛みに喘いでは、強かに『ふいうち』を打ち込む機会を窺っていた。
滑稽なことに、互いに厄神を見て、内心せせら笑っていたのである。
アブソルとは違い、余裕に溢れるキュウコンは口端を上げ、何かを思考したらしい。睨む赤眼を、哀れんで見ていた。
「ふむ、単刀直入に言おう。私の役に立つなら、貴様を生かしてやる」
隙を窺うアブソルだったが、彼女の提案に一瞬気が緩む。しかし同時に、冷静に歴然とした力の差も実感しつつあった。相手は千年生きるという妖狐。それに加え、天敵に近い相性の悪さだったからだ。
「役に立つ、とは?」
アブソルは、あの白く美しい体毛に、血反吐でも掛けてやりたい気持ちだったが、ぐっと堪えて顔を見上げる。蒼い瞳は、鉄でも切れそうな冷徹さだ。
「私に危険を知らせろ。そうすれば、貴様の生命程度ならば、保証してやる」
キュウコンが言うには、最近になって人間の干渉を無視出来なくなってきたという。要は、彼女がそれまで幾多の氷像を作ってしまった、その焼きが回ったのだ。その為に自分を利用しようとは、またとんだ傲慢さだと、アブソルは羨ましくもあった。
だが、一方で彼自身にも悪くはない提案だった。直ぐに一悶着起こす彼は、そろそろ殺生は悪癖だと考え始めていたからだ。
何処か高山に棲み着きたいが、今までの癖が出ては意味がない、とここまで来た。その全く知らない土地の安全が保証されているならば、アブソルには悪くない話なのだ。
それは、彼女の言葉が真で、この妖狐の下に敷かれることを除けばだが。
「……いいだろう、神獣様。従ってやらなくはない。それに、お前からは似た匂いも感じる」
キュウコンは、満足そうに目を細めたが、直ぐに狂気とも言える刮目を見せた。
「愚弄するなよ、疫病神風情が。何処に、貴様と私の共通点がある?」
冷たい吐息が、薄らとアブソルに掛かる。それは、彼女が初めて彼に見せた“顔”かもしれない。特に動ずることはなく、淡々と口を開いた。
「お前この氷を、“美しい”とか思わないだろう? 少なくとも俺はそうだ。冷たくて、身体の機能阻害をしかねない、障害物にしか見えん。ただ、美しく見えるのを知っているだけだ」
今まで揃って美しくたなびく九尾が、一瞬逆立つ。規律が乱れる。アブソルは、それ見たことかと目に留めていた。キュウコンは、二度ほど瞬きをしてから、アブソルから退く。
そして、少し高笑いを響かせ、再び美しい妖艶さを携えていた。
「……今ので貴様を気に入ったよ。まさか、同じだなんてね」
「俺には判る。お前が、本心から一欠片も優しさなんて持ってないこともな」
二匹は、真正面から向き合って、強かに赤と蒼の双眸で鍔迫り合いをしていた。それは、確かに利用し合う、利害関係でしかなかった。いつ覆るかも分からない、危険な駆け引きの一端。
しかし、この時から既に、互いに良心を持たぬ者として。世界に色彩を、温度を見いだせない者として。ある意味、最高の相互理解者であるという、皮肉な事実だけが生きていた。
*
「おい、神獣様。邪魔だ」
「貴様が退け、奴隷」
アブソルとキュウコンによる、契約に近い共同生活が始まった。と言っても、元からキュウコンの棲む鍾乳洞は、天敵を薙ぎ払っただけあって、安全そのものであった。二匹は、食料のみを調達し、それからは、できる限り離れた寝床で休息した。
警戒は互いに怠らず、アブソルは常に一本角を研ぎ澄ましていたし、キュウコンの尾は、最低一本は動いていた。
特に、為すべきことのない平坦な日常。仕方ないので、キュウコンはアブソルに話しかけるようになる。アブソルはアブソルで、会話から弱味を握り付け入ってやろうとしていたので、無愛想ながらも話す機会は多かった。
「おい、奴隷。仲間が死んだらやはり悲しいのか?」
「そうらしいぞ、クソったれ神獣様。普通、群れで行動するだろう。その機能が減るからな」
「そうか、感謝するが祟られろ」
こうした具合に、多少の罵詈雑言を飛ばしつつ、二匹は互いに疑問だったが、誰も教えてはくれなかったことを話していた。何故、家族や仲間は大事なのか。何だって、人間とポケモンは共存するのか。
どうして、生命は尊いのか。
「貴様も、群れから追い出されたのか?」
「半分な。もう半分は逃げ出したんだ」
これまでに一度も“同士”と出会って来なかった彼らには、新鮮さに溢れていた。『お前はおかしい、狂っている』左様な言葉だけを浴び、いつしかそれが自分なんだと自覚し、時には傍若無人に振舞っていた彼らは、初めて自分を投影出来る“対等な相手”を見つけたのだ。
それは、両者共に思ってもない発見だった。誰にも理解されない、と自暴気味だったところに、本当の理解者が現れてしまったから。気を遣わなくていい会話が心地いいと。お互い深く踏み入らない交流が、こんなにも心に凪くことを。
二匹は、それを知る頃には、寝床の距離が縮まっていた。キュウコンは尾を全て伏せ、アブソルは頭を埋めて寝ているのだった。
*
もう三度の春を迎え、季節は咲きゆく吹雪の明けた明くる晩。やはり、二匹はしんとした瞳に星を映し、しかしながら、その魅力は分からずにいた。
「なあ、ちょいと良いか?」
「なんだ、アブソル」
キュウコンは、自覚せずとも奴隷と呼ぶのを止めていた。アブソルはというとそうでもなく。しかし、蔑視を含めた“神獣様”呼びは消えていた。安心しているようで、ゆたりと振り向く。
「俺とお前、二匹で……誓わないか?」
「もう誓ったろう」
アブソルは呆れ返る。首を振られたキュウコンは、不思議そうに瞳を捩り、澄ました隣の紅い瞳を見つめた。
「もう他のポケモンや人間を、殺さないと」
それは、アブソルにしては抑揚のある声だった。数々の奴隷扱いに、怒りにも狂わない彼が、珍しく見せた本心に違いなかった。
キュウコンは、しばし氷穴から空を見上げて見る。相変わらず彼女には、『空』でしかなかったが、そこには満天の金星が彼女らを見守っている。やはり、見たところで、彼女には何も与えてくれなかった。
「……私は良いぞ、但し」
「相変わらず、注文が多いな」
尖った蒼穹が、初めて緩やかな曲線を描くように弛たんでいく。新雪の如き体毛が、はたはたと風に揺れる。
「こうしよう。抑えられなかったら、私で我慢しろ。私は貴様で我慢してやる」
やや震えた声は、透き通って鍾乳洞に反響する。キュウコンにしては、覚悟のある一言だったからだ。それに対する、アブソルの返答は早い。
「嗚呼。俺も構わない」
「そうか」
自然と、二つの影は重なっていた。靡いた九尾は、アブソルを包むように揺れ、二匹の瞳は互いの色を混ぜあっていた。
考えていることは、同じ。理由は分からないが何故か、此奴と一緒に居ると、隣に居ると、落ち着くということについて考えていたのである。分からずとも、良かった。ただ、共に時間が流れるだけで、二匹は満足していたのだから。
例え、見える世界が全て乾いていても。セピア色に染まっていても。目の前の相手だけは、何故か鮮明に見えるようになったのだ。
*
幾度も新芽が芽吹き、大樹が緩やかに大地に還り。徐々に樹液が硬質化していき琥珀になり、巨大な氷山が海に溶けては、険しい山脈をなだらかにする程の時間が経った。
きっかけは、五度目の雪解け辺りで、『もう話のネタがない』と彼が言ったことだった。アブソルもキュウコンも、誓いを守りながら旅をして生きていくことにした。人間の脅威もあるのだから、もう、ここに囚われる理由もなかったからだ。
中には、彼らの生命を狙うものもいたが、戦闘面でも二匹は相互補完をしていき、事なきを得ていた。元から合理主義な二匹は、戦闘でのコンビネーションも無駄がなかったのだ。
エメラルドの海、金の砂漠、黒鉄の街。様々な風景と大地を渡り歩く、乾いた二匹。何を見ても変わらなかった感想は、次第に『温かい』や『染みる』のような、不器用ながらも彼ら自身の言葉に変わっていった。
彼らが歩き続けるうちに、自然は硬いコンクリートに侵食されていき、空には電線が走り、蒸気機関車はリニアモーターになっていた。
そうして、また幾百かの春風が吹いた頃。
「……桜、って花を見に行かないか?」
「良いぞ。何処にある?」
いつも通りのアブソルの提案。それは、彼女には新しい目的地の合図だった。もう随分と険が取れて、丸くなった瞳は昼寝をする彼を見ていた。
「直ぐ、そこだ」
黒いツノで差すのは、川沿いに咲く淡い桃色の花を付けた老木。深緑の河川には、あの花弁が満遍なく舟のように流れている。
アブソルには、分かっていた。この軋む老体ではもう寿命は残り僅かであると。いくら長齢の種族とはいえ、自分とキュウコンでは、生きていられる時間が違いすぎると。
彼女もまた、何処かでは分かっていた筈なのに。お互い、何も言わないままに旅を続けていた。健康なはずの胸の辺りが、不思議とじくじくと痛むのを、錯覚だと思っていたのだ。どうしてだろう。彼女のことを考えていると、アブソルは身体の痛みが増すようになってしまった。
誰よりも落ち着ける、静かな湖畔に似た存在だったはずなのに、だ。
二匹は、とりわけ大きな桜の樹の根元に横たわってみた。散った花弁が、緑の芝生にふかふかと敷き詰められている。花の、薄甘い匂いがした。
「どうした? 眠いのか?」
「……そう、みたいなんだ」
彼女の純白の体毛に、埋まるように寄り添う。白に黒が包まれゆく。穏やかに、目蓋が落ちてくるのを、アブソルは感じていた。温かい。キュウコンは氷タイプのはずなのに暖かかった。
「俺……氷は美しくないって言った、ろ?」
「あったな、かなり最初の会話だ」
忘れもしない、と彼女が彼を見る瞳もまた、いつに無い氷雪の美しさである。今にも、溶けてなくなってしまいそうな薄氷の儚さだった。
「氷は……な。でも桜と、キュウコンは……綺麗だったんだ」
時針のように、ゆっくりと閉じられた目蓋には、ひとひらの桜の花びら。薄紅色の柔らかなちぎり切手。それは、やがて風に舞っていった。
その日は、開花シーズンにも関わらず雪が降っていたという。桜の束には、次々と新雪が積もった珍しい光景が見れたようだ。
『雪桜』には、桜隠しという意味があるという。この雪が、そのように彼女の涙を隠していたのか。それは分からない。何故なら、アブソルだけが分かっていてくれれば、彼女はそれで良かったからだった。