#4 鮮花
「はい、それではイーブイちゃんとヒコザルくんをお預かりします」
「どうぞ、お願いします」
「大丈夫ですよ。二人共、衰弱にはなっていますが、ちゃんと休めば回復できますから。ところで、イーブイちゃんの、その、一体……何がありましたか」
やはり、この不気味な赤黒いシミをジョーイさんは見逃さなかった。改めて近くで見ると、右前脚から体へ、まるで赤き彗星の尾を引く様にも思わせた。シミっていうより、かつて赤い液体を塗られて時間が経つにつれ、固まった様なものだった。首周りの白い毛に付いているその汚れを押しつぶしてみた。汚れはパキッと小さな音を立てて粉々に散った。
「ええっと、最初にこの子と会った時も、これと全く同じ状態でして、この子の身に何が起こっているのか、僕にもわからないんです」
僕の口は、今度は素直に開いてくれた。全く重みを感じなく、思いのまま喋ってくれた。それと同時に、情けないくらい小さな声になってしまった。『ヤツら』にどうしても答えてほしかったこの謎。ヘリで去る前にどうしても確認したかった。しかし、その時は、エレキブルの時間差によって戦闘不能になった奇跡を目の当たりにして、思わず口が固まってしまった。しくじってしまった。
もしかしたら『ヤツら』にも、事実を知らないのかもしれないのではないか? そんな徒労の想像がむんむんと膨れ上がる。いつの間にか僕は眉間にしわを寄せる。その後、僕の顔を窺ってからジョーイさんは突然にっこりと笑う。それはまるで天使のよう。
「わかりました。その事については今後一切何も問いません。ここ最近、自分のポケモンに暴力をふるって怪我をさせる事件が多発しているから。それで心配しただけなんですよ」
知ってる。ニュースなんかでちょくちょく見ている。ホント、最低なヤロー共だよ。あんな利口そうなのに、なぜ殴る、なぜ蹴る! いや違う。逆だな。利口なのに理解してないんだ。どのポケモンも立派に強くなれる可能性が秘めている。それをどう力として生み出せるのかがトレーナーの役目。だが、誤った育成を続ければレベルの数値は一向に上がらず、敗北の日々を味わうはめになる。なのに、その敗北の原因を自分とは全く考えず、自分のポケモンだと断定してしまう大間抜け共がいる。それで酷いお仕置きをされ、身体にも心にも深い傷跡が生じてしまう。腕力だけでも十分息の根を止められるのに、わざわざ武器を使う。武器といってもいろいろ。棒だったり、レンガだったり、首輪を使って拘束したり。少しずつじわじわと暴力されるっていうのもあるし、一発で蒸発されたのもいる。地獄に墜ちればいいんだ。あんなクズ共。トレーナーの、人間の風上にも置けない信じられない奴等だよ。
死ねばいいのに。
いっそ逆の立場になって死ね。
死んでくれれば、こっちも楽になるのに。
なんで生きてんの。生きて何になんだよ。
生きててもロクな事しか脳にない**が。
死んじゃえよ。***の分際でよぅ。
どうせなら、眼玉くらい引っこ抜かれて死んでしまえ。
「あの、大丈夫ですか?」
その言葉にふと我にかえる。しまった……またこの悪癖が。
「は、はい」
とりあえず返事をした。
「クスッ。あなたもお疲れのようね。今夜はぐっすり眠ることですよ。それでは、二人の具合が良くなり次第ご連絡を回しますので、その間、ゆっくり休んで下さいね。ハクトさん」
ジョーイさんは深々一礼をして奥の部屋に向かう。その後、僕はフロントのテレビに近いソファーに腰掛ける。しかし、よく覚えているなぁ。あのジョーイさん。まだ名乗ってもないのに。十分ずつ時間が経つにつれ、脚の組み方を変えたり、右手の人指し指をリズムよく脚に打ち付けたりする。
「そんなにCMが長いか」
隣にいるソウルが、不意に問いかける。テレビの画面を確認する。迫力のあるグラフィック映像や盛り上がる音楽を使用した、最新作ゲームのCMだった。ちょうど欲しかった物だ。じゃなくて。
「もうすぐ一時か。そういえば、この時間はアニメがあったよな。お前の好きな」
「うん、小さい頃からずっと、毎回欠かさず観ているよ。『魔人改造ポチャケーン』。って、そうじゃなくて」
僕はそう言って、右手を勢いよく脚に叩く。その乾いた音はさっきジョーイさんと会話してたカウンターにまで、響き渡っていた。
「今はテレビなんてどーでもいーんだ。イーブイの安否が気掛かりなんだよ」
「そんなに心配か」
「ああ、そーだよ。それに、あの赤い何かも気になるんだよ。やっぱり血生臭かった。あれはどう考えても血だね。しかもあんな多量に。殺人事件の臭いがするね」
「俺は、それ以外にも気掛かりなものがあるが。」
「ギンガ団とか名乗る、ヘンテコな奴等のこと?」
「エレキブルとの闘いについて。おかしいんだ」
「おかしいって?」
「俺のはどうすいせい≠セけで、あいつを倒せるはずが、ないのに」
「だけ?」
何言ってんだ、コイツ。
「だけって、そりゃなんの話?」
「お前も見ただろ、あいつの防御力を。タダモンじゃないさ。俺の“はどうだん”を打ち砕くほどなんだぞ。しかも“かみなりパンチ”でだぞ? 技の威力では勝っているはずなのに!」
ちょっと、そんなに熱くなるなよ。
「い、威力だけの話で片付くもんじゃ、ないんじゃない? 腕を捻るとか、パンチを出すタイミングとか、そんなちょっとした小技を加えたに過ぎないんじゃない? でも結局はさぁ、あのはどうすいせい≠ナエレキブルをズザズザーって押したじゃない。それで最終的には倒したんじゃん」
「だから、俺はそれについておかしいって言ったんだよ! あ……」
まるでクラッカーのよう、突然に凄まじい大声がソウルの口から勢い良く飛び出す。また今度はブーメランの様に、フロント中に広まったそれは、ソウルの元に響き返ってきた。決して騒いではいけない公共施設の場だと思いだし、ふと小さな声を漏らす。二人揃ってゆっくりと後ろを振り向く。数人こちらを睨む。「スイマセン」の代わりに、軽く頭を下げて謝罪をする。
「スマン」
ソウルからも謝罪の言葉を。
「うぅん、そもそも僕が種を撒いたせいだから、こっちもゴメン。で、何がおかしかったの?」
すぐさま、話題を戻す。
「ん、あ……あぁ。で、実は。あの時のはどうすいせい≠フ威力では普通、エレキブルの体力を上回る事ができなかったんだ」
衝撃発言だった。
「えぇ、なんで! ムグゥ」
咄嗟に手で口を抑える。危ない。また懲りずに騒いだと釘を刺されるとこだった。
「忘れたのか、ハクト。はどうすいせい≠フ攻撃パターンは二種類で存在すると」
あぁ……そうか。そうだったね。ようやく気付いたよ。
「ごめん。あの時なぜか忘れちゃったんだ。でも大丈夫。ちゃんと説明できるよ。えぇと、まず。さっき話題にした、エレキブル戦に使用してたパターンから説明するね」
僕はリュックからノートと筆記用具を取り出す。
「問題のそのはどうすいせい≠ナは、名前と異なった攻撃演出だったね。実際には彗星というより、流星と呼んだ方が相応しかったかもしれない。だけど、これも一つのパターンとして扱う。んで、このパターンが『流星』」
ノートに簡単なイメージ図を書き留める。棒人間を飛ばし、パンチを繰り出し、パンチから何本もの直線や放物線を描く。
「次に、パターン名『彗星』。これが真のはどうすいせい≠フ攻撃演出。『流星』と同様、“しんそく”を使い、遙か上空へ登り、高速パンチを繰り出す」
さっきと同様にパンチを出す体勢の棒人間をまた書く。
「けどここから演出が異なる。左右交互に高速パンチし、一時的に波導を溜める。ある程度大きな塊が出来たら、思いっきりそれをパンチング。放ったその姿は正しく彗星。これがパターン『彗星』」
棒人間の拳の前の大きめの黒い塊から、一直線に大きな拳が飛ぶ姿まで書きなぐる。
「以上がはどうすいせい≠フ攻撃パターンです」
すると、ソウルがぽんぽんと拍手してくれた。
「ご名答。更に補足する。その二つのパターンは攻撃演出だけではなく、能力にも変化がある。溜めに溜まった波導を一気に放つ『彗星』は特攻が高い。逆に、何十発もの波導が乱舞する『流星』は素早さに特化している。エレキブルの真後ろにイーブイという最悪なアングルから撃つには、威力を遠慮し、普段はあまり出さない『流星』でのはどうすいせい≠撃ったんだ」
「だから、エレキブルの体力が尽きることがありえないはずだっていうんだね」
「そうだ」
じゃあ、なぜエレキブルは倒れたのだろう。更に余談だけど、この技を完成した当時は、はどうすいせい≠ニはどうりゅうせい≠ニして分けるべきではないかと、数々のスポンサーからの電話が殺到した。今ではもう解決済みだから関係ないけど。
今日は朝から変だ。通りすがりのイーブイは血まみれ(?)で出て来て、助けようとしたら“でんきショック”で気絶。誘拐したにも関わらず、最寄りの発電所に留まる。『ヤツら』の目的が不明。エレキブルの奇怪な戦闘不能。なにからなにまで変だ!
「あぁ、もう。なんだってんだよ!」
カリカリと髪の毛を掻き乱す。ホントにワケわかんなーい。
「うおおおおおぉぉぉ」
廊下をドタバタと駆けてくる誰かが、叫び声を上げながらこっちに向かう。どっかで聞き覚えあるような。
「ハークトー! しそーのーろー、シソーノーロー!!」
どがっ。
「ぐほぅばっ!!」
誰かが僕の背中にタックルをしかけた。思わず体がくの字に変化し、地面に叩きつけられる。
「いつつ〜。たく誰だよ。ってセキマルじゃないか。いきなりなんだよ」
セキマルはかなり息切れになっている。廊下をそこまで走るか、普通。
「そ、そんなことより。イーブイがいなくなったんだ。シソーノーローだ!」
あん? 何言ってんだ、コイツ。
「も、もしかして、歯槽膿漏じゃなくて、失踪だっていいたいのか?」
ソウルはセキマルに問う。
「おう、そうだ。シッソーだ!」
「な、なーんだ。失踪かよ。驚かすなよ、って、えぇ!? 失踪ぉ?!」
僕は、叫んだ。場所を弁える余裕などなかった。
「いなくなったって、どうゆうコト? あ、跡形もなく消えたなんて言うんじゃないだろうな。っていうかセキマル。なんでお前がここにいるんだよ! なんでイーブイがいなくなったって知ってるんだよ。あぁもう、この際そんな事はどうだっていい。それより、いつ、どこで、何が、どう、なったか、早く、言、え、セ、キ、マ、ル!」
僕はセキマルを高々と持ち上げ、前後上下左右、不規則にブンブン振り回す。変な言い方で言えば、遊園地によくある人気アトラクション。人間ではなくロボットが動かせば、あっという間に行列が出来上がるだろう。
「おい、ハクト。落ち着け。とりあえずセキマルを降ろせ。セキマルはまだ病み上がりなんだぞ。だから止めろ! 聞いているのか?」
あぁ、またやってしまった。つい気が動転して。はぁ、僕も今朝からおかしい。ソウルに言われた通りに、セキマルをゆっくり降ろす。セキマルの二つの眼には、ニョロゾのお腹の模様がぐるぐる回っていた。
「ごめんセキマル。大丈夫……じゃないか」
「お〜。らいひょ〜ぶ〜。おぅ、そうだ。オイラ、ラッキーと一緒にイーブイが休んでいる部屋まで案内してもらったんだ。ドアを開けた時、ベッドには誰もいなかった。代わりにそのベッドの隣の窓が空いてたんだよ。もしやと思って部屋中を捜してみたんだけど、やっぱりいなかったんだよ。間違いなくイーブイは部屋から逃げたんだって思って、大急ぎでハクトに知らせようとしたんだよ。一刻を争う事件だって思って来たのに、まさかシェイクされるとは。オイラの身体からはコインは出ね〜って、おい。ハクト!」
僕はリュックを手に、急いで入口へ向かう。そして、自動ドアの前まで来て又もや180度体を反転する。
「ソウル、セキマル。早く来いよ。まだそんなに遠くへは行ける身体じゃないはずだ。けど、体調が悪化するのも時間が問題だ。早く行かないと。僕はもう行くよ。イーブイにこれ以上心配させないためにも」
それだけ言い残し、開きっぱなしのドアから腕を大きく振り、走る。風になる。あの時よりも、外は一層暑い。
「えぇ、ちょっと待てよ。もうすぐ『ポチャケーン』が始まるっつうのに」
「また来週見ればいいだろ。それにお前が来なければ、どっちに行ったか分からないからな」
「そんなの知るか〜。そんなのソウルの波導で捜せば一発だろ。ぽちゃけ〜ん……」
二人も走ってくる。約一名、凧になりながらでも出発を拒み続けるヤツがいるが。
そうだ。彼女の身体を見れば、一目瞭然だった。僕と会う以前は、僕たちも考えられないほどの恐さと辛さを抱えたに違いない。何者かによって殺されかけになったのか。何かの集団に暴行を受け、逃げたのか。理由はともあれ、彼女は不安でいっぱいで逃げたんだ。何であの時、イーブイの傍にいなかったんだ。のん気にTVなんか見るんじゃなかった。一緒に連れて行ってもらえれば良かったのに。そうしたら彼女が目覚めて、もう少し近い目線で見て、安心させて、初めて、彼女のとびっきりの可愛い笑顔を見れるというのに。
気が付けば、薬品臭いニオイの誰一人もいない病室のベッドの上に佇む。それはなんという息苦しいのだろうか。なんという心細いのだろうか。何一つ音を立たない空間にセキマル達の声が聞こえ、一気に恐怖心が高まる。正体が分からないモノが接近し、ますます冷静さを失う。あまりの恐怖に耐えきれず、窓をガリガリと爪を立てる。それによって少しずつ窓は開き、脱出を試みて体を入れる。そして、自分の力が尽きるまで全力で走る。やった、うまくいった。これで自由だ。もう誰も追って来やしない。ところでどこへ行くの? どこまで行くの? 『ヤツら』に絶対に見つからないくらい、なるべく遠くまでだ。でも、なんだか目の前が歪んでて、霞んでて、何も視えない。おまけに眼から、なにやら熱いモノが流れてて、痒い。それでも前だけ目指して、走るのみなんだ!
そんな思いで走ったのだろう。僕も今、同じ様に走ってる。けど、僕はこんな思いで走った事は一度たりともしたことがない。イーブイはなぜこんな思いを抱いて走って行ったのか。なぜ目の前が歪んでいるのか。
それは僕のせいだ! だから償う。この一分一秒は長い。今度こそ、彼女の笑顔を見るまで。走る。
いつの間にか僕等の周りは一面花に囲まれた。ピンクに青、緑から黄色まで。多彩な花びらの色で着飾る花畑は、まるで鮮やかな虹色のカーペットだ。あまりの絶景に忙しい脚がふっと止まる。周りを見てないでよくここまで来たもんだな。
「臭う」
え?
セキマルは眉間にしわを寄せ、この静寂の空間に口を切った。何が臭うの。どこから臭うの。口にする前に自らも鼻をクンクンと嗅ぐ。205番道路に負けないくらい心地い花の匂いしか匂わない。もう一度。すぅ。するとここには相応しくない、一度は嗅いだこの臭いが。まさか。
「やっぱりな。あそこだ」
セキマルは指さす。遙か地平線上にある、小さな影を。
「あっ、あれって」
僕の眼はとうとうその影を捉えた。
「セキマル、カムバック!」
腰にあるモンスターボールを取り外し、セキマルに向ける。
「えぇ、ちょっと待て。なぜここで戻されなきゃなんないだ」
「いいからさっさと戻れ。一刻を争うんだろ?」
ボールから出る赤い光線がセキマルに当たり、この次元から姿を消す。正しく言えば、ボールの中に入ったともいうが。
「よし、頼んだぞ」
再び、地平線まで続く長い虹色のカーペットの上を走る。影にはまだまだ距離がある。だけど、もう少ししたら間に合う。僕はセキマルの入っているボールを足元に軽くポーンと投げる。それと同時に右足を高々と上げる。途端に時間がゆっくり感じるようになった。連続写真見たいに等間隔にボールが落ちる。足もゆっくりと降ろす。ついにボールも地面すれすれまで落ちてくる。だが、ここで落とすまいと足の甲がボールの下に来る。接触。ここでもう時間が止まった。あとは力いっぱいに飛ばすのみ。
ぐぐ……ぐ。何の角もなかったまんまるのボールが、足の甲にフィットするかのように、くの字に変形した。
人間の感覚は本当に面白いものだ。もうボールがあの真っ青な空に向って一直線に飛ぶ。まだまだスピードは衰えず、どこまでも飛んで行きそうだ。だが、ある地点からゆっくり上昇を止め始めた。アーチや虹を描くように迂曲する。万有引力に従い、またもやボールは地表に向かって隕石の如く落ちる。そして、地上3mくらいになれば、破裂したかの様に白く光り出す。その光を頼りにまた忙しく脚を動かす。
見えた見えた。赤と茶の二体が。茶のイーブイが、赤のセキマルを心配そうに見ている。当の本人のセキマルは、また腕や足を大の字でうつ伏せになっている。
「はぁ、はぁ、セキマル。お前何やってんの?」
「何やってんの、じゃねーよ! 何でいきなりオイラを蹴飛ばすんだよー! しかも変な所で出されて着地も儘ならねーよー!!」
相当、怒っているな。
「ごめんねセキマル。だってしょうがなかったんだもん。一刻も早くイーブイを助けようと思って焦った結果が、これしか方法がなかったんだって。でも、外見から見てそんなに心配する様なところはないね。よかった〜」
「よくなんかねー! 頭から突っ込んだんだぞ!」
「あー、セキマル。お前じゃないお前じゃない。イーブイの方」
僕は体勢を低くし、体長0・3mしかない彼女の大きな眼を合わせる。
「大丈夫だった?どこか怪我してない?」
まだ怯えているようだが、ゆっくりと口を動かし始める。
「あ、あの。もしかして、あなたが私を助けて下さった人ですよね。あの時は本当に申し訳ありませんでした。何の確認もせずにすぐあなたを敵だと思って、変に暴れてしまって。本当に、なんとお詫びしたらいいのかしら」
「そんなぁ、お詫びなんて。それどころか僕、君を足止めした様なもんだし。それにさ、君が無事だったことで安心したよ。いなくなったから心配したんだ。疲れたしお腹すいただろ。センターに戻ってゆっくりしていきなよ」
最後は笑いかける。しかし、イーブイの顔にはまだ緊張感が残っていて、ムッと口を閉じてしまった。
暫くの沈黙。ようやくまた彼女の口が開く。今度はなぜか、暗い顔つきだった。
「ごめんなさい。お気持ちだけ十分です。確かに、私はあなたに会ってから既に疲れていますし、お腹もペコペコです。でも、私には、今やるべき事をやり通さなければいけない時があるんです。私だけの問題なら、もう投げ飛ばしたのでしょう。けど、なぜこれほどのものを私は背負ってしまったんだろう。数多い中から何故私が選ばれたのだろう。自分一人だけじゃ重くて死にそうなのに。かといって他人を巻き添えにしたくない。そう思う度に、また腸が煮えくり返ったような感覚に陥って、目の前にいる何の罪もないヒトを。だからあなたも私から離れて下さい。さもないと、あなたも……」
最後の一言が言い終わると突然に彼女の声が震えだす。さっきと全く同じ、何かに怯えているかみたいに両前脚で頭を抱える。僕は絶句し、熱い熱い怒りを覚えた。この子にこんなことをしたクソヤローは何処のどいつだと。ギリギリと強い歯軋りはならしてしまった。それでも、頬の肉を上げて話しかける。
「僕も手伝ってやろうか」
「え?」
イーブイの大きな眼が更に大きくなって僕を見つめる。
「なんでもかんでも一人で考えちゃダメ。自分以外の人を守らなければという思い込みで自分を追い詰めるな。だから誤った選択しか選べられないんだ。そんなんだから自分が憎たらしいと思うんだろ? だから君は弱いんだ! もし良かったら、一緒に来ないかい? 強くなって、過去の自分という抜け柄を剥いで脱出してみないか。僕が君を強くする。約束するよ。君を信じるよ。だから、君も、僕を……信じて!」
ブワァッ。
突然、今まで感じたことがなかった強い横風が吹いてきた。髪も花びらも舞う。ふと僕は風に乗った一枚の葉っぱを追い、左に顔を動かす。
もう、言葉を奪われた様だった。
「「「ぅわぁ……」」」
隣からセキマル、ソウル、イーブイ、三人の声が聞こえる。これほどに僕達を圧巻させたものは一体。まだ自分は眼を疑う。目を擦って、三人の焦点を追うように上を向く。
ホントに奇麗だ。風に乗って散った沢山の花びらが、見事な立体芸術を造る。まさに竜巻。滑らかで優しい動きで回っている。その巨体はだんだん上へと上昇ていく。それと同時に花畑のあちらこちらから、また何千何万の花びらや葉が吸い込まれていく。絶間もなく竜巻は次第に巨大に。
あれから何分の時間が過ぎたのだろう。途端に竜巻は散る様に消滅した。目の前にはもはや、オレンジに染まる雲と空しかなかった。暫しまた静寂の時が続く。フゥと一つ溜息を吐き、足元に目を落とした。すると、ほんの数m先にキラリと何かが光を放った。僕はその光が気になり、急ぎ足でその光った場所に向う。光沢の様な輝きだった。なんだろ。そう思ったその刹那、さっき見たオレンジの雲みたいな色の物体が転がっていた。手に取ってみる。結構重いな。ビンだ。ソノオタウンの名物、甘い蜜が瓶詰に入っていた。
「どうした、ハクト」
ソウルの声が真後ろから聞こえる。僕は得意げにビンを高々と上げて、三人に振り替える。
「へっへ〜ん。ラッキー、どう? 甘い蜜だよ。偶然そこで見つけたんだ。知ってる? ここはね、とっても甘くて美味しい蜜が採れることで有名なんだよ。そうだ。これで何か付けて食べてみない? すっごい美味しいよ」
「おー。いいね、いいね。オイラ、甘い蜜食べんのも見るのも初めてなんだ。ハクト。早速蓋を開けて……」
セキマルが蜜目がけて飛んでくる。それを僕は空いた左手で、セキマルの頭を掴み抑える。
「ダメ。センターに帰って、手を洗ってからにしよう。イーブイも一緒に食べる?」
ほんの気紛れで彼女に問いてみた。彼女は、少し下を向いて黙ってしまったが、素早く顔を上げて笑顔で、
「ハイッ!」
と、元気で可愛く返事をしてくれた。
「よし、決まり。じゃあセンターに戻って、先にイーブイの体を洗おう。それから食事にしようか」
「え〜? オイラ早く蜜が食ーべーたーいー!」
「だだ兼ねてるんじゃない。洗い終わった後に『ポチャケーン』の再放送が始まる時間になっているはずだ」
「何! マジか、ソウル!よし、早く戻ろうぜ。ビューン」
セキマルは脚がナルトの模様に見えるくらいの速さで南を目指す。僕はイーブイを優しく抱き上げる。
「待てよ〜。セキマル、部屋番号知ってんの〜?」
「全く、やれやれだぁ」
「ふふっ」
そして、僕たちもセキマルの小さい背中を追って戻る。時間は、四時半過ぎだった。