序・母娘
プロローグ:リウ・アッティール
 


「本当に切るのかい?」

 散髪用の鋏にアルコールを吹きかけながらリウにそう問うのは、叔母のシースである。彼女はリウの、腰のあたりまで伸ばした鳶色の綺麗な髪を見つめて、名残惜しそうに何度も同じ質問をする。
「いいの。短い方が楽だし、パパに買ってもらった帽子もかぶりやすいから。それにあたし、ショートヘアってずっと憧れてたの!」
「まあ、リウちゃんがそこまで言うなら切るけどねえ。じゃあ、切るよ」
「お願いします、叔母さん」
 ずっと伸ばしていた長い髪に銀の鋏が入った。ジャキジャキと小気味よい音を立てながら新聞紙が敷かれた床に落ちていく髪を見つめて、リウは今更だが少し名残惜しい気持ちになった。学校の友人からも綺麗でうらやましいと言われていたリウの鳶色の髪。母親譲りの色と父親譲りの髪質が自慢で、自分でも気に入っていて、前髪以外はずっと切らないで過ごしてきた。
 それを切ろうと思い立ったのは、これから始まる新人トレーナーとしての旅と、憧れているコンテストアイドルの存在がきっかけだった。
「あたしもセリシアさんみたいな素敵な女性になれるかな」
「ああ、リウちゃんが好きなアイドルだっけ?」
「ただのアイドルじゃなくて、コンテストアイドル! テレビに出たりもして大人気なんだから!」
 目を輝かせてセリシアという人物について語るリウ。
 セリシア・ウルベットは、アリビノ地方の若者で知らない者はいないと言われるほどの人気があるコンテストアイドルである。本場のホウエン地方から渡ってきた、「ポケモンコンテスト」という競技をアリビノの各地で開催されるようになるまでに発展させた立役者のひとりである。
 金髪のショートボブが特徴的な彼女は若いながらに美しく多才で、過去にアリビノリーグに出場したこともある、まさに才色兼備な女性だ。
「へえ……ポケモンバトル一本だったアリビノ地方も、変わりつつあるんだねえ。リウちゃんはその、セリシアさんみたいなコンテストアイドルになりたいのかい?」
「んー……」
 リウはセリシアに憧れている。しかし、彼女のようにコンテストに出て有名になりたいという願望はあまり無い。コンテストアイドルというよりも、セリシア本人に憧れているというのが正しい。
「コンテストは旅の途中で、機会があったら出てみようかなあと思ってるくらいかな」
「あら、そうなのかい。出るんだったら衣装か何か要るんでしょ? その時は叔母さんがいいの見繕ってあげるから、早めに知らせるんだよ」
「えへへ。ありがと」
「さて、もう少しで切り終わるよ。そうだ、後でベルタにも写真を送ろうかしら」
 リウと話をしながら手早く鋏を動かすシースの手は、いつのまにか短くなった毛先を整える行程に移っていた。過去にポケモントリマーを生業にしていた彼女の作業は早い。
 リウは、改めて目の前の姿見に映る自分自身を見る。そこには、長かった髪を肩のあたりまでばっさりと切った、晴れやかな表情の女の子がいた。





 *   *   * 





 叔母の家で髪を切って家に帰ると、リウの父、レストが手持ちポケモンのテールナーと一緒に夕飯の支度をしていた。かすかにスパイスの効いた香ばしい香りが廊下にも漂ってくる。
 ただいま、と廊下からリビングに入ったリウを見るなり、レストとテールナーは驚いた表情を浮かべた。
「おお、すいぶん短くしたな」
「てなー……」
「似合ってる?」
「似合ってるよ。……長いときよりもこっちの方がおれは好きかもしれないな」
 手にしていた皮むき用のピーラーをまな板の上に置いて歩み寄ってきたレストに頭を撫でられる。せっかくセットしてもらった髪型は崩れたけれど、リウは父の言葉の方が素直に、じゅうぶん嬉しかった。 
「へへ……あっ、ご飯つくるの手伝っていい?」
「珍しいな、リウが手伝うなんて」
「む、いいでしょ。明日から旅に出るんだから、炊事にも慣れておかないと」
 リウはまな板と野菜が置かれた台所に駆け寄ると、レストが使っていたピーラーを手に取って、テールナーの隣でじゃがいもの皮をむき始めた。しかし、
「あれ、剥けない……? 意外と難しい…」
「刃が逆だぞ。ピーラーすら使えないなんて、先が思いやられるな……」
「むむ……ちょっと間違えただけだもん」
 レストに笑われて頬を膨らますリウ。テールナーも、隣で黙々ときのみに包丁を入れながらも笑いを堪えている。
「ふたりとも笑うなー!」
「ははは、まあリウに刃物を持たせると危ないからな」
「てなてな!」
「そんなことないもん! それとそこ、頷かないっ!」
「まあまあ。明日は出発早いんだからゆっくりしてなさいお嬢さん。夕飯はおれとテールナー作っておくからさ」





 *   *   *









 リウが新人トレーナーとして旅立つ前夜だが、3人の食卓はいつも通りであった。
 いつものように何気ない会話をして、いつものように特別豪華でもない普通の献立を囲んで。いつもと違うところは、リウが特別大好きなパイルのみがたくさん切って食卓に置いてあったことだろうか。
 父とテールナーお手製のカレーと、新鮮なパイルのみをたくさん頬張って、お腹いっぱいになったリウはお風呂に入ってすぐにベッドの布団に入った。
 下の階のリビングから、父が話している声が聞こえる。この時間に来客は無いだろうし、おそらく電話で誰かと話しているのだろう。
「ママ……だったりして」
 そっと呟いて、急に思い出される母親の顔。
 仕事が忙しいのはわかるけれど、リウは、自分が旅に出るときくらいは帰ってきて背中を見送ってほしい願望が少なからずあった。しかし、多忙な母に無理を言うわけにもいかないので、それは心の中だけに留めておいた。
 リウは自分の部屋で毛布をかぶって寝転がったまま、荷造りを済ませたリュックサックとその上にかぶせてあるキャスケットをじっと眺めた。どちらも、明日からお世話になる仲間たちだ。
 リュックサックは緑色の、少し大きめの荷物。口のカバーには大きな黄色いリボンが縫い付けてある。これは叔母が付けてくれた。
 サイドポケットのチャックに掛けたキーホルダー。これは卒業した学校の友達に餞別としてもらった物だ。彼女は今頃ポケモンドクターを目指すために専門学校に通う準備をしているはずだ。
 そして、父からもらった白いキャスケット。つばの横に付いているチェックのリボンと、てっぺんのピンクのポンポンがアクセントになっている。
「頑張ろう、明日から」
 一度起き上がり、リウは天井からつり下がっている紐を引っ張って部屋の蛍光灯の灯りを消した。
 明日の朝、リウの冒険が始まる。
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柊星乃 ( 2016/12/19(月) 04:08 )