プロローグ:ベルタ・アッティール
明るい一室であった。部屋というよりもホールと云うべきか。湾曲した天井は高く、彩り豊かなステンドグラスがあてがわれた窓の高さは人の身長の倍を優に超える。中央には白いクロスが敷かれた長いテーブルと、それに添えられるようにして重厚な黒材の椅子が5つほど並べられている。
その席につく、4人の男女がいた。
みな肌や髪の色がバラバラで、年代も初々しい見た目の若い女性から白髪交じりの壮年の男性まで幅が広い。――――彼らは、このアリビノ地方ポケモンリーグの重鎮、いわゆる四天王と呼ばれる地位の人間たちである。
かといって、ポケモントレーナーの、いわばプロである彼らが集まるこの室内の空気が堅苦しい雰囲気であるかと問われれば、そのようなことは無かった。
「ねえねえルミさん、この間のアリビノお笑いチャンピオンシップ見た?」
この議場に集まって最初に口を開いたのは、彼らの中で一番若そうな青年だった。
彼は向かいの席に座る若葉色の髪の女性に、軽い口調で問いかける。ルミと呼ばれた彼女は、なれなれしい青年に向けてため息をついて、会議の前ですよ、と軽く注意しつつも話題に乗っかる。
「ええ、見ましたわ。ちなみにわたくしが推しているのはフランスパンマンなのですが、今回は彼らのコントにはキレがなくて残念でした。イファルさんが好きなのはどなただったかしら」
「俺が好きなのはアホリズムだよ。最近そういう番組には出ずっぱりだから嬉しいんだ」
青年イファルは、端正な蒼の目元に笑みを浮かべてルミの問いに答えた。
と、その時。イファルとルミのふたりの会話に、壮年の男性の乾いたため息が割り込む。
「イファル・ロンロード。会議中にお笑いの話題など……それにルミ・グラシエールも。注意しつつ話に乗ってどうするのだ」
「あら、ロイさんはこういった話題はお好きでなくて?」
「好きな方ではないな」
「では、テレミュアさんは?」
テレミュアと呼ばれた女性。白いス―ツに身を包んだ彼女は、たった今ルミに話を振られるまで、じっと腕を組みながらイファルとルミの会話を面白そうに眺めていた。
テレミュアが、そうだなと呟きながら椅子の背から身を起こすと、彼女の白銀の美しい髪が肩から滑り落ちた。彼女は切れ長のアイスブルーの目をルミに向ける。
「コント番組の類は全くと言っていいほど見ないな」
「あら、そう。残念」
「えーっ、ここに俺の味方ルミさんだけー? あっそうだ。ベルタさんはどうなんだろ」
「チャンピオンがそんな物を見るわけがないだろう。いいから静かに待て。そろそろお見えになるはずだ」
――――ちょうど、その時だった。
ステンドグラスの窓が並ぶ反対側。ぎぃ、と金具同士がこすれる音が室内に鳴り響き、左右から開けられた重厚な木製の扉の向こうから、ひとりの女性が姿を現した。膝まで届くほどに長い鳶色のストレートヘアを揺らして、四天王たちが集まるテーブルに向かう凛々しい女性。大理石の床にヒールの足音だけがやたらと響く。
彼女こそがアリビノ地方のチャンピオン、ベルタ・アッティールである。
「遅れてごめんなさい」
ベルタが席につくと、それまで談笑していた四天王全員が、改まった態度で礼をした。先ほどまでへらへらと軽薄な笑いを浮かべていたイファルでさえ膝の上に行儀よく手を置いている。
「では、これから定例議会を始めます。今日の議題は、いつもとは少し違った種類のものです。一言で言うなれば、事件……でしょうか」
「事件、とは……? 思い当たりませんな」
ロイが首を傾げる。他の面々もベルタの言う、「事件」が何を指しているのか思い当たらず、似たような反応を見せている。
「正確に言えば、そういった事態になりかねない可能性を孕んでいる案件でしょうか。……近頃、アリビノ地方の各地で、集めていたジムバッジとポケモンが奪われたと、たくさんの新人トレーナーから協会が報告を受けているそうなのです。何でも、ジムバッジを奪われたトレーナーたちの報告によると、犯人は全員似たような恰好をしているようなのです」
「同じ恰好……徒党を組んでいるという解釈でよろしいのか。カントーのロケット団などのように」
「ええ、テレミュアさんの読み方でおそらく間違っていません。犯人は全員、頭から足まで黒づくめで服装はパーカー。顔は黒いマスクで半分を覆っているため詳しくは確認できないそうです。そこで、私はアリビノ地方のポケモン協会に対策本部を設置するように要求するつもりです。異論はないですか」
四天王全員が頷く。反対意見の者はいないようだった。
「では、そのように文書を取りまとめさせて頂きますね。犯人について詳細が分かりましたら、追ってお伝えします。……さて、次の議題は……」
* * *
「そう。リウは明日旅に出るのね。うん……じゃあね」
ベルタは解散が済んだ議場から出た後、最寄りの駅の公衆電話で自宅に電話を掛けていた。受話器を取ったのは夫で、彼から明日自分たちの娘が新人トレーナーとして旅に出るということを電話越しに聞かされた。
夜で、時間が遅いこともあって娘はすでに寝ているそうだ。旅立ちの前に行ってらっしゃい、とひとこと声でも掛けたかったのだが、寝ているのならば仕方がないと思い、そのまま夫と何気ない談笑を続けた。
アリビノ地方のチャンピオンという立場上多忙なベルタは、自宅に帰って家族とゆっくり食卓を囲める暇は年に数回あるかどうかだった。家事は夫任せで、娘にも親らしいことをしてあげられていないことに後ろめたさがある。そうして顔を合わせない時間の方が多かったからか、娘は会う度に素っ気なくなっている気がして、自分との間に心の溝ができてしまっていることをベルタは彼女に会うたびになんとなく感じていた。
気がつけば、娘は14歳である。
アリビノ地方では14歳になるまでは義務教育の普通学校で学び、晴れて学校を卒業してから、進路を自分で選ぶことができる。
進路は大きく分けて3つ。ポケモントレーナーとして旅に出るか、そのまま高等の普通学校に進むか、ポケモンに関する仕事に就くためにドクターやブリーダーの専門学校に進むか。それらの選択肢から枝分かれする道もたくさんある。だが、ベルタは娘の進路に口出しするつもりは無い。
親としてまともに娘の面倒をみてこなかった自分に、彼女の希望についてあれこれ言う権利は無いと思っているからだ。それに、将来のために何を選ぶかは彼女の自由だ。
「リウ……」
通話が終わった受話器をもとの場所に置き、ベルタは娘の名前を呟く。途端に、周囲の喧噪や雑音がやけに大きくなったように感じられた。
「ねえ、あれチャンピオンじゃない?」
自分を指しているであろう言葉が耳に届いた。しかしベルタは振り返ることはしない。
人が集まり始める公衆電話のそばをすっと離れ、ベルタはリーグの拠点に戻るべく、特急列車が停車している3番ホームへと歩を進めた。