3-1
ポケモンセンターについた。ついた、と言ってはみても、ジムからの距離はわずか五百米もない。大した距離は移動していない。それなのにモンスターボールから出しっぱなしだったブースターは苦しそうにつばさに凭れかかった。
「エマ……?」
今にも泣き出しそうな声でつばさは自分のポケモンを呼んだ。
やわらかな毛並がどこか乱れているように見える。
そのブースターの様子を見て、ポケモンセンター内にいたナースが駆け寄ってきた。抱き上げようとしたつばさを後藤がやんわりと制止する。
「毒だろうね。動かさない方がいい」
「毒?」
あまりにも冷静な後藤の表情を不安そうに覗く。
後藤はぽんぽんとつばさの頭を触ると、ナースの方を向いた。
「タマムシジムからです。あそこは毒タイプを持ち合わせるポケモンも多い。このような状況は少なくないでしょう?」ナースはこくりと頷く。「まずどくけしを与えてください。毒をくらってから経過した時間は三十分未満なので普通のもので効果が十分発揮されると思います。しかし元々体力は減っていたので、あと十分経たない内に意識は失われるでしょう。その前に回復措置を。それ以降は専門であるあなたがたにお任せします」
またナースはこくりと頷くと、内線をつなぎ、襟元につけていたマイクで、どくけしの手配などを要求した。
「大丈夫、心配ないよ」
今度はつばさのやわらかな髪を優しくなでてやる。不安そうな彼女の顔が少しだけ明るくなったように見えた。
ポケモンの状態を冷静に判断して、ナースに任せる事はトレーナーとしてとても大切なのは言わずもがなである。
タマムシジムのポケモンたちは草タイプ。毒タイプを併せ持つポケモンが多い事も有名だ。毒を食らう可能性は高い。
後藤が教えなかったのも性格が悪いが、それを判断し、自分でどくけしを買っておかなかったつばさはトレーナーとしてまだまだ未熟である。それどころか、そんな甘い判断では自分のポケモンを死なせかねない。性ではなかったが、説教をするつもりだった。
「ごめんなさい。ありがとうございます」
震えた声で、本当に申し訳なさそうに、けれど安堵したようなつばさの声が言う。
その瞬間、言おうとしていた台詞が全部消しとんだ。
後藤は甘やかし過ぎではないのかと思ったが、彼女の顔をみたらどうでもよくなった。閉ざし続けている後藤の中の何かを壊してしまいそうな気がした。
「ちゃんと教えるよ。エマを苦しめないためにね」
自分でも驚くような優しい声で、後藤は少し苦笑いする。
つばさの返事を聴いて一安心したところで、急に腕が痛んだ。今まで麻痺していたらしい感覚が戻ってきたのだ。
少し顔をしかめる後藤に、つばさがまた、あの心配そうな瞳を向ける。
「大丈夫ですか?」
「ちょっと、包帯か何かもらってくるよ」
ポケモンセンターはポケモン専門の医療ばかりであるが、包帯は人間用のそれと同じである。タマムシシティに、それもこのポケモンセンターの近くに、人間用の病院もあるが、そこまで行くのすら億劫だった。
ナースに頼んで適当な包帯をくれるかと訊くと、傷を見られ案の定怒られた。
「ひどい怪我じゃないですか! 近くの病院に連絡しておくのですぐに向かってください!」
いいよ、出血は止まってるから、と言ったが、聞いてくれるわけもない。
「リン、もみじ、彼女の近くにいろ」
体調を見てもらっていた後藤のポケモンの内、ハクリュウとウインディにそう指示すると、後藤は残りのポケモンをモンスターボールに戻した。比較的彼女に慣れているこの二体がいいと判断したのだろう。
「じゃあ、ごめんね。ちょっと行ってくるよ」
無愛想に言った。
その声は、いつもより低かった気がして、少しだけつばさはびくりと体を震わせる。怒られている訳でもないのに、何か怖かった。
ポケモンセンターから出て、少し歩いた時、後藤はぱたりと歩くのをやめた。息遣いさえわからないくらい静かになる。
すう、と唇が動く。
「ロケット団か」
ロケット団――。最近世間を賑わしている盗賊である。その、盗賊というのは表の顔であり、裏では他の目的があるのではないかとも噂されている。目立つ格好で町中を闊歩する為、皆から恐れられ、しかしながらまた、目立つ所為で盗みを失敗し現行犯で逮捕される場合も多い。なんとも滑稽である。
しかし、後藤の後ろで息を顰めたのは、そんななりをしていなかった。それなのに、彼はそう、はっきりと言った。
「ダサい名前でしょう?」
出てきたのは小さな丸い銀縁眼鏡を鼻にひっかけた皺の多い男だ。
後藤は振り返らない。
「時渡が信頼する、そして四天王からも一目置かれる研究者か。私は好きではありませんね」
時渡という単語に少しだけ指がぴくりと動く。口を少し開きかけて、やめた。
もう一度ゆっくりと息を吐き出すと、今度ははっきりと発音する。
「時渡の居場所を知っているのか」
「知りません。だからあなたに接触したのですよ」男の白髪がきしきしと揺れる。「逃げられたのです。我々の研究には必要だったのに。だから、あなたか、あの妹を人質にとれば、きっと姿を表す。罠だとわかっていても、です」
大都会の喧騒が耳障りだ。それでも後藤の頭の中で積み上がっていく方程式があった。次の台詞はわかっている。
「だから、僕に、交渉をしにきたのか。おとなしく従えば、彼女――時渡つばさには、手をださない、と」
にやり、とした。
男が一歩、後藤に近づく。
「頭が良いと、話すのが楽――」
「どうかな」
後藤の言葉は殆ど男に被っていて、男が気付いた時には視線の先にあったはずの後藤がいなくなり、頭上にはリザードンの足があった。
「――っ!」
いくら他人のことなど気にしない都会でも、これにはざわめいた。しかし、静かにそのざわめきは止まる。喧嘩などよくある事だ。
荒々しい動作とは別に、リザードンは静かな息をする。
「彼女は渡さない。そして僕も餌にはならない」
「その言葉の意味が、わかっているのですか」
ロケット団という組織は大きい。ひとりでも敵に回せば、それ全てに追われる事になる。警察も、対応しきれないから、パトロールを強化しますとしか言えない。
後藤は答えなかった。
ただ一言、帰れ、と言って、リザードンは後藤の横についた。
解放された男は、ほこりを払いながら立ち上がると舌打ちをひとつ寄越して後ろを向く。
「後悔しますよ。きっと」
後藤は追わない。
隣にいるリザードンの体を一撫でしてやると、心配そうに顔を近づけてくる。
「病院、いこっか。ついてきてくれる? つばさちゃんは大丈夫だよ。リンももみじもいる」
ひらりと白衣を翻し、やっと病院に向かう。
遅いほどつばさが心配するだろうと、心持速足で歩く主人に、リザードンは黙って従った。