3 きっかけ
ジムというのは、トレーナーの持っているジムバッチの数に応じてレベルを変えてくる。当初、そのシステムがなかったため、全てのジムが強くなりすぎてポケモンリーグに出場するトレーナーが古参ばかりになってしまったからである。
ただ、一個目を取るのはやはり鬼門で、素人がたった数週間や数ヶ月で取れるものではない。
「勝ちましたよ!」
つばさがそう嬉しそうに後藤のもとへ駆け寄ってきたのは、初めて結城の育て屋に行ってからたった三週間過ぎた頃だ。
後藤は相変わらずの無愛想のまま彼女の頭を撫でてやった。
「おめでとう」
優しい言葉とは裏腹にその白衣の袖口から覗く生々しい傷がただ祝福していられる状況でないことを窺わせる。
この三週間。後藤は徹底的につばさを鍛えた。他のポケモンは持たせず、ブースターのエマだけを鍛えた。
常につばさの近くにいるつもりでもきっと穴はある。少しでも彼女が自分の身を守れるようになる必要があったからだ。
しかし、彼女がトレーナーに向いていないことはすぐに気づいた。
『休ませてあげてください』
辛そうな表情でそう訴えたのはブースターの息が上がり足が震えだした頃だった。
ポケモンバトルで物理的に体力を消耗するのは言わずもがなポケモンだけである。鍛えようとすればトレーナーはただ弱っていく自分のポケモンを見ていることしかできない。それがつばさには耐えられなかったのだ。
あいつに似てるな、と後藤は思った。後藤が昔、修行を手伝ったトレーナーの顔が浮かぶ。
生ぬるく育ってきたポケモンは、いくらトレーナーを信用していてもそれなりにしかならない。その期間が長ければ長いほどそうだ。
ここまでかな、と近場にあった岩に腰掛けた時である。
「―――っ」
ブースターは涼しい顔をした後藤のウィンディに飛びかかった。
オレンジの太い足に必死で噛みつきウィンディを睨めつける。
「火炎放射」
指示通りウィンディは大口をあけて火の束を吐き出した。
ブースターは貰い火という特性を持っていて炎タイプの技は通用しない。もちろんそんなことくらい後藤は知っている。
最初の数瞬だけ炎を纏って地面を踏みしめる足の力が増したように見えた。
刹那――、
地面にあったはずの四本の足が宙に浮き上がりつばさの後ろにあった崖の上に放り出される。
「エマっ!」
叫ぶのが先か、ウインディが駆け出すのが先か――。
絶妙なタイミングで飛び出したウインディはブースターの首筋を口でくわえ崖から足を踏み外すか踏み外さないかぎりぎりの位置で止まった。
ぱらぱらと足元から小さな岩の欠片が落下する。
額に汗を浮かべうるんだ瞳でつばさが振り返るまでのほんの数秒に満たない出来事だった。
「素早さは僕のウインディが圧倒的に上。特殊に対する防御も物理に対する防御も低い。物理系の攻撃力は悪くないがブースターという種族上、技のバラエティに欠ける」
いつの間にか立ち上がっていた後藤はさく、と地面を踏みしめる。つばさは胸が締め付けられるような気がした。
「でも――、根性と体力だけはある。天才的な強さはないが十分だ」
やっと、真一文字の口許が緩んだ。
暫くぽかんとしていたつばさだったが、後藤が少なからずブースターを認めてくれたのだと気付き顔が明るくなった。この日、初めて笑った。
――戦っているのはポケモンだけじゃない。
精神論でしかないが、その思いはポケモンを強くする。ただのギャンブルや喧嘩とは違う。それを知っている者しか強くなれない。
後藤が何度聞いても自分の意思となすことができなかった言葉をそのままつばさにくれる。彼女はそれを飲み込んだようだった。
彼女がなんとかトレーナーとしてやっていけるだろうと少し安堵したと同時に、強さを求めるトレーナーには向いていないことも再認識した。
「それじゃあ続けようか」
後藤の言葉を合図にウインディはブースターを足元に下ろし、主人の前に戻る。倣ってブースターもつばさの前に構えた。
それからブースターの成長っぷりは凄かった。ちんけな言葉でしか表現できないくらい圧倒されるものがあった。
もちろん後藤の並外れた能力のお陰である。しかしついてきたのはつばさとブースターの精神力だ。
夜、宿で休む前にいつも後藤は知ったようにつばさとブースターに声をかけた。
――お疲れ様。よく頑張ったね。
――ゆっくり休んで体をやすませなさい。
――精神的に辛くなっても君たちなら大丈夫だ。
なんて、――滑稽。いや、不可思議だった。
考えてすらないただの音を彼女らに寄越す。それがなんの意味を持つのかすら理解しないままだ。
けれどもつばさは嬉しそうにその言葉を受け取っていた。毎日毎日飽きずに受け取っていた。
そうして、ある程度の力をつけ、初めて挑戦したのはタマムシジムである。
完全に勝てると踏んでいた。
だから勿論つばさは勝った。
草使いのジムだ。それに後藤の完璧な計算が叩き込まれたトレーナーと、その指示を完璧にこなせるポケモンがいれば、負けるわけがない。
「バトルレコーダーでちゃんと録ったかい?」
バトルの余韻に浸っているつばさに、柔らかい声をかける。
「はい!」
先程のバトルの様子が録画された小さなレコーダーを後藤に手渡した。
今後、つばさをどう鍛えるか、それを検討するために持たせたものだ。
後藤の勘では彼女は指示通りの完全な試合をしていない。ちょっとした予定のずれで焦りや緊張が増幅し彼女らしい彼女自身の試合を見せているはずだ。
それがどんなものか把握して、更に方向性を修正していく。
ふと、何をしているんだろうという思考が風船のように膨らんだ。先程つばさを襲撃してきた連中をなんとか追い払ったばかりだと言うのに、もう彼女をどうやって強くしてやろうかなんて考えている。
「後藤さん?」
不意に不安そうな声がした。
やっと彼の腕の傷に気付いたらしい。
「大丈夫だよ」安心させるようにまた頭を撫でてやる。「大丈夫だから」
二回言って、傷が見えないように白衣のポケットに手を突っ込んだ。
尚不安そうなままのつばさに、やっと微笑んで見せる。
「エマを休ませてあげよう」
近くのポケモンセンターを指差し、ゆったりと歩き始めた。勿論つばさはそれに従う。
つばさがついてきていることを確認するように後藤は振り返り、もっと遠くを見た。つられてつばさも振り返ったがもうなにも見えない。ただ、大都会の昼間の喧騒に何もかもが埋まっていた。