2 はじまり
他力本願なのかな、と、男は一人首を捻った。
まだ二十代とも取れる若い男だ。
スーツの上に白衣を纏って、ガラス製の机に頬杖をつく姿は、なんともよく判らない不釣合いさが感ぜられるが、手元にノートパソコンと分厚いポケモンの事典が置いてあるところからして研究者なのだろう。そうであるという事が、もしこの場が研究所らしい研究所ならばすぐに判っただろうが、何せ、大型の機械もなければモンスターボールの並んだ棚もない。あるのはヴィンテージ調のアコースティックギター一本と、埃の被った本棚だけである。
今度はひとつ、ため息をついた。
くしゃくしゃの伸びた髪が、少しだけ揺れ、その間から垣間見れる一重瞼が彼の印象をどこか冷たいものにしている。それだからか判らないが、なんともため息の似合う男ではある。
途端、インターホンがなった。
もう何週間――いや、何ヶ月振りの来訪者だろうか。
男は立ち上がって、壁に置いてあるインターホンを手に取った。
「はい」
『あ、あの、後藤博士はいらっしゃいますか?』
女の声だ。
特に深い意味がある訳ではなかったが、好みだな、と案外好印象を持ちながら、また首を捻った。
「僕ですが」
『よかった、後藤研究所はここであってたんですね。表札も看板もないから不安で』
「はあ」
男――、後藤は困惑したような声を漏らす。
研究所であれば、研究員やらトレーナーが出入りするのは不思議でない。トレーナー志望のものも訪れるのだから、見ず知らずの女性が来る事だって、困惑するに値しないはずだ。
『トレーナー志望なんですけど、紹介されてきました!』
更に後藤は困惑した。
有名な研究所にはよく新人トレーナーがやってくる。しかしながら、後藤研究所など、無名な研究所にわざわざ紹介されてくるなど、まず考え辛かったからだ。
「紹介?」
『はい』
しかし、彼女はそう言い張る。だから恐らくそれが事実なのだろうけど、はて、誰がこのような辺鄙な場所を推薦したのだろうか。近くにはウツギ研究所という極めて有名な場所があるというのに。
「今開けます」
今まで座っていた机にあるパソコンをなにやら操作すると、ガチャリと音を立ててドアは開いた。
「は、初めましてっ! 時渡つばさと申しますっ!」
訪問者は、いまからトレーナーを目指すという割には少し大人になりすぎている印象を受ける、十代くらいの女の子だった。
有名なトレーナーは特に多いように感じるが、トレーナーというのは実に奇抜な衣装を身に纏っている事が多い。
そしてこの女の子――つばさも例外ではなく、白に淡いピンクの小さな花柄が入った浴衣を着ていて、頭には大きな花飾り、それにストールを巻いている。そのストールと浴衣の不釣合いさと、この冬という季節にはあまりに不釣合いなのが目に留まる。
尤も、後藤の抱いた印象はまたしても、好みだな、という一つだけではあったのだが。
「初めまして」
「年齢は十五歳、今はこ、このブースターと一緒に頑張っていたんですが、正式にポケモントレーナーとして認められないと、ちゃんとした試合も出れないし、モンスターボールも高くて買えないし、それで、それでこの研究所を紹介して貰いましたっ」
ポケモントレーナーというのは、ほんの一握りの有名トレーナー以外、収入も極端に低く趣味としてやっている人が殆どだ。
趣味の場合、公式戦に出るための資格として、いづれかの公認研究所でポケモン図鑑やトレーナーカードを貰うだけで、そこに帰属して腕を磨く、なんてことはないのである。だから、本気でトレーナーを目指すのであれば、先にも述べたとおり、有名人を多数輩出しているような研究所に、少し遠くても赴くのが普通だろう。
「誰がこんな所を?」
「昔、兄がトレーナーになるなら後藤研究所へ行けと言っていたもんですから」
「時渡で兄って事は……。やっぱり。そうそんな珍しい苗字がないと思ったよ」
コーヒーを淹れたマグカップを二つ持ってきて、机の上に置くと、つばさに座るよう促した。
どれだけ座っていなかったのかは判らないが、つばさが促された方の椅子には埃が積もっていて、つばさは少しぎょっとして、そのまま立っていることに決めた。
「兄とお知り合いなんですか?」
「ま、ちょっとね。それで、こんな無名の研究所でいいの? 近畿――いや、ジョウトにはウツギ研究所もあるし、少し足を延ばしてオーキド研究所なんかでもいい。僕なんかよりも遥かに優秀だよ」
「兄のこと、尊敬してますから。兄に間違いはありません!」
まだ緊張こそしているものの、その言葉には芯がある。
「後悔しても知らないよ」
後藤はこの少女を後藤研究所として、初めて、最初から帰属させる事に決めた。
埃の被ったまっさらな名簿と万年筆を取り出し、机に置く。
「僕の場合、受ける受けないは適正テストなどせずに、僕の独断で決める事にしてる。
この名簿に君の肉筆で書かれた名前が加わった時点で、君はこの研究所の所属トレーナーとなる。よく考えてから書けばいい」
さて、どのくらい悩むだろうか、と後藤は腕を組もうとした。
――が、
「はいっ! ここでいいんですね!」
つばさは躊躇うことなく、比較的達筆な字でさらさらと名前を書きとめる。
後藤が呆気にとられていると、つばさは万年筆と名簿を笑顔で差し出す。もうこれ以上ないってくらいの満面の笑みだったもので、またちょっと可愛いなと思ってしまったのは兎も角、この少女がこんな無名の研究所からのし上がっていくとは考え辛く、可哀想だという感情が強く前面に出ることになった。
恐らくそんな後藤の表情が不服そうなものに見えたのだろう。つばさは少し不安そうな表情を見せた。
「あ、ごめん。それじゃあまず初めのポケモンだけど、どうしようか。初心者用ポケモンを渡すのは僕の主義に反するんだ。好きなポケモンと共にっていうのがポリシーだから。だから、僕はそのブースターでいいと思うんだけど。
それと、電子化して研究所に捕まえたポケモンを送るというのは、さっきの名簿の注意事項にも書いてあったとおり、機能させてないから。さっきちゃんと読んだかどうかは知らないけど。なんだかポケモンがモノに成り下がっている気がして好きじゃないんだ。だから、六体以上仲間にした時は、わざわざ此処に戻ってきてもらうか、電話してくれたら預かりに行くから」
ボックスの使用禁止というのは非常に厳しい制限である。無名である事や、近くに有名な研究所がある事よりも、この制限があるからこそ、この研究所にはトレーナーが来ないのだろう。
もしその規約を読んでいなかったのであれば、解約にどんな面倒な手続きが必要であろうとも、普通ならば即遠慮する。
先ほどの名簿を開いてから名前を書き始めるまでの早さからして、どう計算してもつばさはその規約を読んでいない。
流石に顔色を変えるだろうか――。
しかし、また後藤の思考に反し、つばさは笑顔のまま頷いた。
「はい! その方がみんなを大事に出来るからいいですね!」
本当に判っているのか、判っていないのか。
「ところで、何のためにポケモントレーナーになろうと? 強くなりたいんだろ?」
「楽しそうだったからとしか言えないんですけど、強くなりたいわけではないんです。ただポケモンを奴隷のようにして戦わせている人を見ると、歴史書で読んだ過去とまた同じ過ちを犯しているような気がして。それで、私はそんな人達にも、ポケモンは奴隷じゃなくて、友達で、仲間で、変な薬なんて使わずに一緒に戦うのが楽しいんだって事、知ってもらいたくて。だからただ強くなりたいわけじゃないんです」
知名度を上げなきゃいけないから、強くならなきゃいけないんですけどね、とはにかみながらつばさは付け加えた。
今までの無邪気な瞳ではなく、真っ直ぐに何かを見据えている綺麗な瞳は、その言葉が全くの創り上げた理屈ではなく、本心からのものである事を見せている。
「そう。よかった、君とは話が合いそうだ」
後藤は初めて少しだけ笑顔を見せて、持っていたコーヒーを飲み干した。
「これから宜しくお願いします!」