3-4
「つばさ。おいで」
優しい声がする。ふらふらとその声がする方へつばさが歩いていくと、そこには時渡りゅうがいた。
――お兄ちゃん!
呼ぼうとするが声がでない。かけ出そうとした途端、足が床に張り付いて動かなくなってしまった。
力が、入らない。
「つばさ、いい子にしてたか?」
ジーパンに七分丈の黒いシャツ。それに首からじゃらじゃらとアクセサリーをつけて、少し襟足の長めのくしゃくしゃな髪。それでいて、優しそうな笑顔。
つばさは必至で首を縦に振る。
「そっか、じゃあ安心だ」
彼は静かにつばさに背を向ける。
――待って!
やはり、声が出ない。必死に呼びとめようともがいて、けれどもなにも出来ないまま小さくなっていく兄の背を見つめているだけで――。
へんなゆめ、だった。
起きたら全身汗でびっしょりで、背中にシャツがはりついていた。
つばさがゆっくりと体を起こし、時計を確認すると午前二時を指している。久しぶりの個室の静けさは妙に落ち着かない。せっかく後藤が気をきかせてくれたというのに、柔らかすぎるベッドの感触は少し居心地が悪い。
彼女は兄がいなくなった日のことをあまりよく覚えていない。ポケモントレーナーを生業にしていた彼は突然何日か帰ってこなくなることなんてしょっちゅうだったし、連絡がないのもよくあった。
つばさが不安にならないというわけではなかったが、仕方ないのかなとも思っていたし、物心ついたころには両親がいなかった彼女にとって、それほどひとりが苦ではなかった。それに幼い頃から面倒見のいい、“近所のおばちゃん”たちが親を亡くした兄妹のことをなんだかんだ世話を焼いてくれ食うにも困らなくて済んだ。
そんな中、いつの間にか、本当にいつの間にか兄はいなくなっていた。
ひとつき、帰らなかった。今回は遠くまで行っているのだろうと、それほど心配はしていなかったが、少しだけ兄が恋しくて、二人だけが繋がっている携帯電話にメールを一通寄越す。
ふたつき、帰らなかった。いつもならそろそろ帰ってくるはずだと、つばさは毎晩、兄の好きなものを作って待った。近所からも心配の声が聞こえる。
みつき、帰らなかった。携帯には何度か連絡を入れている。持っているかもしれないポケギア、ポケッチ、Cギアにもメールを寄越した。不安と寂しさが増す。
それから、彼女は家から一歩もでなくなった。帰ってくるであろう兄の存在を待ち続けて、ただひたすら台所の椅子に座り続ける。そんなつばさを心配した近所の人たちがご飯を持ってきてくれる。毎日、朝、昼、晩。一緒に食べてくれる。そして他愛もない雑談をしてくれる。それを心ない笑顔と、心ない言葉で返す。その、繰り返し。
彼女の横にはいつもイーブイがいた。兄がくれたイーブイだ。正確には兄からとったようなものだ。ある日たまたま捕まえてきたイーブイを兄は家において言った。そのモンスターボールが珍しく、つばさが触っている内にポケモンが飛び出してしまって、驚きながらもそのイーブイと接している内に仲良くなった。その、イーブイが隣にいる。
彼のことを最近見ないと、この子は少しでも思っているのだろうか。
「エマ!」
イーブイが楽しそうにひとり遊びをしていると、いつしかそう叱りつけてやめさせるようになった。
いつの日か、イーブイは笑わなくなっていた。ポケモンが笑う、というのはおかしいのかもしれない。けれど、知らない内に、はっきりと、そう感じるようになった。
そんな生活をどれだけ続けていたかは定かではないが、ある日、近所の人がひとつのプレゼントをくれた。それが、兄を探しに出ようと決めるきっかけにもなった。
ほのおの石。それはとても不思議なもので、透けた中身がゆらゆらと赤く揺れて見えた。その波長に共鳴したのか、つばさのこころも揺さぶられている気がした。
その、ほのおの石。なんでもイーブイを進化させることが出来るという。イーブイの進化については兄からよく聞かされていた。彼女も興味が湧いて、近くの図書館でイーブイに関する文献を読みあさっていた。ほのおの石を使えば、イーブイがブースターに進化することは知っている。前々から、進化させようと思っていた種族でもあった。
ほのおの石を使って、イーブイを進化させようと決意したのは、更に次の日だった。