終わりの始まり
夢の中で目を覚ますと、そこはどこかの草原だった。青々としたそれは、草の海と表現しても良いほど広い。感触はしないが、視界の隅に靡いた髪が時たま入ってくるので、風が吹いているようだ。木にも岩にも、建物にも人にも何にも邪魔されない自由な風たちは、大層気持ちいいのだろう。夢で無ければ、生い茂る葉の匂いが鼻腔をくすぐるのだろうな、と私は想像する。今すぐにでも飛び込んで大の字になってしまいたい。……こんな場所に行けたら幸せだろうなあ、と私は嘆息にも近い思考とで思う。
……どうやら、そんなことを思ったのは私だけではないらしい。振り返ると、どこかで見たことのある少女が草の絨毯で寝転がり、笑っている。散々はしゃいだのだろう、まだ幼い雰囲気の彼女の髪には、緑色の葉々があちこちに引っ付いていた。そのパートナーだと思われる一つ目の“おむかえポケモン”、ヨマワルの方はというと、ひっきりなしに服と顔を汚す相棒のことが心配でたまらないようで、右往左往ふわふわと浮いている。
きっとあれは、さっき見たヨノワールが成長する前の姿だ。何故か確信が持てる。……だとすればこれは、あのヨノワールの過去なのだろうか?
でも、なんで?
何で私は、幸せそうに笑うその子の姿を見て、泣き出したくなってしまったんだろう。それは、ヨノワールの過去のはずで、私には関係がないはずなのに。
「おじいちゃんがね、言ってたんだ」
少女は笑う。私の心を苛む、綺麗な笑顔で。
「人は死んでしまったとしても、素敵な世界に行くことができるんだって。それでね、ヨマワルが最後まで進化したヨノワールなら、その案内役を買うことができるんだって!」
ヨマワルも私も、黙って少女の言葉に耳を傾ける。前者は興味津々に。後者は聞きたくないものを聞かされる心地で。
「だから私は、それ君に頼みたいの」
そう言って少女はヨマワルの髑髏のような顔を撫でた。楽しそうに話す少女にヨマワルは嬉しそうな仕草を見せるが、私の面持ちはどんどん後ろ暗いものにあるばかり。だってその言葉は、無垢な子供が言うにしたって残酷すぎる。先に逝くということは、“彼”を一匹で残して逝ってしまうということに他ならないのだから。私を送って独りになってくれと、言っているようなものなのだから。
「……まあ、ずっと先の話なんだけどね」
そういって少女は苦笑を零した。その表情を見ると、何故か私はどうしようもない気分になる。悲しくて胸を掻き毟りたくなってしまいそうになる。
(あ、)
不意に世界が崩れ始める。地面に叩きつけられた硝子が、パラパラと何も無い空間に散っていくかのように。
(待って)
私は、この先の光景を見なければならないのに。
この先で何が起きたのかを、知らなければならないのに。
*
覚醒した。
シックな色合いの木造の部屋に、申し訳程度のこ洒落た窓が一つ見える。それに掛かったセンスを感じるクリーム色のカーテンからは淡い朝日が零れ、外からは鳥のような生物の鳴き声がはっきり聞こえた。この三つ重なったやかましい鳴き声は、恐らくドードリオだろう。三つ首の飛べない鳥は、良く朝になると合図か目覚ましかのように嘶いている。
この光景をすごく久しぶりに感じた。ずっと夜の景色か暗い森の中の風景しか見ていなかったから、眩しさを覚えるこの朝が懐かしいのだろうか。それとも、この部屋が懐かしいのだろうか。
どれだけの長い間記憶能力を失っていたのか、今となっては自分でも分からない。何も記憶をしないまま意識だけが残っているというのは、一体どういう感覚だったのだろうか。……ぞっとしたので思考することをやめる。一瞬の連続。連続していながら何も続いていない。ゼロがひたすら多いフレームごとに写真取り続けているような。……駄目だ。やっぱり想像がつかない。
夢を見ていた。私の過去か、それとも私を捕らえようとしていたヨノワールの過去かは分からないけれど、寂しさを感じる映像だったことは覚えている。夢を見ることすら久しぶりだった。当たり前だ。何も記憶をしないのに、記憶を整理する行動である夢を見るわけがない。面白いぐらい何もかも久しすぎて、新鮮さすらある。その感覚が何故か楽しくて、私は小さく笑ってしまった。
「……ん?」
不意に、扉の向こうから話し声が聞こえてきた。慌てて隠れる場所を探そうとしたが、なんだかすぐに面倒になってしまい、息を潜めてドアに聞き耳を立てるだけにする。ストリングスの奏でる音楽と一緒に、独り言のような女性の声が聞こえてきた。
「あー、また貴方は外に行ってたのね」
少し心配したような、呆れたような、そんな声音。思わずびくりと反応する。
「“あの娘”を探すのは構わないわ。約束を果たそうとするポケモンに協力しないトレーナーは居ないもの。私はしがない喫茶店の店長だけど。でも、せめて出かけるなら私に一言声を……って声出せないか。一度出かけるってサインをしてくれれば嬉しいのよ」
気の強そうな語調だったが、それでもその人の優しさが伝わってくる言葉遣いだった。きっとあのヨノワールは、無言で小さく頷いているのだろう。そう考えると少しだけ楽しい気分になる。こんな気分になったのも、やっぱり久しぶりだった。
「まあ、いいけど。私は気にしないけど、貴方が傷だらけで帰ってきたりすると心配になるのよ。それに説教は苦手なの。だから、なるべく無事に帰ってきてね」
どこまでも柔らかい言葉だった。
「……さて、お店を開くから手伝ってくれる?」
そう言ってエプロンか何かを叩いたのか、パンパンと何かを叩く音する。続いてテーブルクロスをバサリと広げる音。食器を並べるときの甲高い音。お湯を温めるポットのコトコトという淡い音。ドードリオはすっかり鳴きやんで、今は代わりに綿雲の様な羽を持つ鳥ポケモン、チルットの優しい囀りが聞こえる。ああ、この空間好きだな、と私は誰にでもなく呟いた。私がこのお店に通う客だったら、きっと何をするでもなくいつまででもぼーっとしていられる。窓から入る朝日もちょうど暖かくなってくる頃だ。窓から外を覗くといっぱいの花畑が見えるから、恐らく季節は春。紅茶やコーヒーは冬に飲むと、その熱がカップ越しに手に伝わったり、体がぽかぽかしてきていいものだが、春の気温で飲むのも悪くない。読書をしながら飲んだりしたら、きっとそのまま寝てしまいそうになる。 そこまでして私は、太陽の光の熱を感じ取れるようになっていることに気付く。あんな真っ暗な森でも寒さを全く感じていなかったので、久しぶりの熱は不思議なものに感じた。今まで当たり前のものとして触れてきたものが、何もかも愛おしい。
「それで、結局、見つかったの?」
喫茶店の店長さんの声が聞こえてくる。
「……そう」
ヨノワールの反応を見てか、少し残念そうだった。
「見つかるといいわね」
そういう店長さんの声は寂しさを帯びていて、それがなんだか切なかった。
*
困ったことになった。既に三十分程度ベッドをゴロゴロしながらも私はため息を吐く。どうやら店長さんは、ヨノワールが私をここに連れ込んだことに気付いていないようで、黙々と店開きの作業を続けている。おまけにそれを手伝うヨノワールは私を隠し通す気満々のようで、先ほど店長さんと会話をしてからは意思疎通の意志さえも見せない。……もしかして、毎日こんな感じで店の準備をしているのだろうか。信頼関係は感じられるものの、もうちょっと会話をするとかしないのだろうか……。いや、ヨノワールは喋られないんだけど。そもそも、人と会話できるポケモンなんて探してもほとんど見つからないと思うけど。
幾らこのお店の雰囲気が良くたって、こうも長時間居座ることになると幽閉されている気分になる。もしかしたらそれはあながち間違いでもないかもしれないし、逆にあっさり外に出してもらえるかもしれないけど。暇を潰せそうな道具は揃ってはいるものの、人のものを無断で使うのは気が引ける。あの店長さんのものだと考えると、尚更だった。まあ、見るぐらいならいいかなと開き直って、改めて部屋の中を物色する。
天井まで付く大きい本棚が四つ。それぞれ本がぎっしりと詰まっていて、タイトルから察するにちゃんとジャンル分けまでされている。本棚に入らない本が机の上にも山となっているのを見る限り、もしかしたらもっと本があるのかもしれない。読書家で知識人な喫茶店の女店長……。筋書きだけでも既に素敵な人なんだろうな、と想像してしまう。紅茶やコーヒーの味がおいしかったりしたら最高だ。私だったら絶対に入り浸る。店長さんと話をしながら、アフタヌーンティーで一時を過ごす。夢のような時間帯なんだろうなあ。
とは言っても、現状不法侵入みたいな形になってしまっている私がそんな穏やかな時間を得られるとは思えないし、そもそも、何もせずにだらだらするのもいい加減飽きた。外に出るなら窓から出てしまえば早いのだけど、出た後に窓締めをすることが出来ないのでこの案は無し。ドアから出て気付かれずに外に出るのは物理的に無理。……って、そうなると外に出る案なんかどこに無いじゃない!
「はぁ……」
今日何度目かも分からないため息。窓から見える碧空とは対照的に、私の気分は憂鬱だった。
外に出ることが出来れば、私の機嫌も少しはマシになると思うのだけど。
「――うん。考えていても仕方ないな」
とりあえず靴を探そうとして、土足(ブーツ)のまま家に上がりこんでしまっていると言う事実に気付く。出かけるにはお誂え向きに動きやすい格好。ベルトを締めたホットパンツに、白いTシャツにカーキーのシンプルなジャケット。まあ、ここに出る前は外にいたのだし、店長さんにもここにいるとバレていないから着替えていないのは当然と言えば当然だが、恐らく腰の辺りにベルトの跡がついているんだろうなあ……。
土足で上がりこんでごめんなさい、と小声で謝って、私は本棚の近くにおいてある脚立の位置を窓の近くまで移動させる。引きずったら確実に物音で気付かれてしまうから、ちょっと重いけど持ち上げて。窓の鍵をゆっくりと開けて、音が出ないように静かに開ける。一度だけ窓の外に人がいないか、足を痛めない高さか、を確認し、そのまま脚立から窓を潜って、半ばぶら下がるように飛び降りた。すたっ、と我ながらびっくりするほど静かに降りることが出来た。
「ふふふっ」
こういう無茶をするのも久しぶりで、なんだか楽しい。お忍びで家から抜け出して小さな冒険するのが夢だった少女時代が、私にもあったのかもしれない。……記憶は無いけど。
「さて、とりあえずあっちの花畑に行こうかな、っと!」
そんな夢を現実にするために、私は走る。今まで全感覚が無かったとは思えないほど体は軽く、走っているうちに空を飛んでいけそうな気さえした。早朝五時頃の時間帯である今は住民も寝静まっていて、誰かに遠慮して走る速度を下げる必要も無い。生きていることを満喫するように私は全力疾走した。どうやら、私は走ることも好きらしい。
そうやって、一つ一つ自分の好きだったことを思い出していくのは、案外悪くない。面白い映画を見た後に「記憶を消してまた見たいな」なんて贅沢にも思うのに似ている。本が好きで、雰囲気のいい喫茶店が好きで、紅茶とコーヒーが大好きで、運動が好きな奴。後多分、ポケモンが大好きな奴。アグレッシブなのかインドアなのか良く分からない人間だな、と自分のことなのに苦笑してしまった。
どうやら自分でもびっくりする速さで走っているらしく、色とりどりの花が飾られた花壇と、それに囲まれた木造の年季を感じる家々が次々に通り過ぎていく。遠くを見ると、水平軸の大きなプロペラ風車、風力発電所が見える。機械のはずなのに自然の風景の中でも違和感の無い不思議な建物であるそれも、私は好きだな、と思った。風が吹くと、まるで花たちの香りに絆されるように風車が回る。ゆっくりと回転する風車は遠くから見ても十分に迫力があるので、遠くから見るともっとすごいのだろう。花畑を見に行った後、ちょっとだけに寄って行こう。
花畑の前は木々によって形成されている自然のトンネルのようになっているらしい。どうやら管理する人間はいても閉園時間みたいなものは無いようで、朝早い今でも入ることが出来るようだ。好都合だ、と私は思わず悪い笑顔を浮かべてしまった。別に花を勝手に摘んだりするつもりはさらさらないけど、万が一人に見つかったら面倒なことになる気がする。
「……ま、いっか」
楽しければ、それで。
なんとなく幸せな気持ちになりながら、私は花畑に足を踏み入れた。
――多分それが、終わりの始まり。