始まり
視界を遮る闇はどこまでも底知れなくて、本当に自分が目を開いているのかが分からない。瞬きを何度かしたつもりでも、自分が目を覚ましているのかどうかが把握できない。拳を握ったり開いたりしても、一歩足を踏み出してみても、その動きがとても曖昧で、違和感が抜けてくれないのだ。
地に足が着いていない浮遊感。体が無くて、私と風景が同化しているかのような希薄感。夢を視ている時は、きっとこんな感じなんだろう。白昼夢でも見ているのかとも思ったけど、今の時刻は昼ではないような気がするし、そもそもここに時間という概念が存在しているのか疑問だ。
夢遊病にでもかかってしまったのだろうか。ずっとぼんやりとした気分で毎日を過ごしていた気がする。ぼーっと何かを見つめようとしても、真っ暗な世界ではやはり何も見えない。そんなことをしているうちに、時計の針はグルグルと回っていく。
不意に私は、置いてけぼりを食らったような、寂しい気持ちになった。小さい頃、遠足でグループから逸れてしまったときも、こんな気持ちだったっけ、とおぼろげに思い出す。
私は、いつから目が覚ましていたのだろう。今さっき? 一時間前? 半日前? はたまた昨日? それとも、もっと前から?もしかしたら意識がなかっただけで、ずっと起きていたのかもしれない。
というか此処は、何処?
そもそもなんで、私は此処に居るの?
沸いて出てくる数々の疑問は私の頭を混乱させ、めちゃくちゃな混沌にする。私の心の中までもが、色んなものが混ざり合った黒色――この風景の色みたいになってしまいそうだ。それはまるで、私の心が段々と世界に喰われていっているようで、怖い。何もしないままで居ると、本当にこのまま溶けていってしまいそうだ。
とりあえず、歩こうか。
そんなことを口に出すことも無く、ゆっくりと、しかし確実に歩を進める。頭が動いているという感触も薄いけど、考えると自分の存在が少しだけ認識できるような気がした。
ちゃんと歩くことが出来るのか少し不安だったけど、さっきから、ふわふわした感じは微塵も抜けていないけど、どうやら体はすんなりと動くらしい。むしろ、軽快すぎて気持ち悪かった。
どこに向かうわけでもなくのんびり歩いていると、耳が痛くなるほどの静寂に包まれた場所から、風の音色が心地好い場所へ、知らぬ間に移動していっている。後、体の感覚がちょっとずつ戻っているようで、コンクリートの固い感触から柔らかい土と草の感触に、踏みつける地面の物質が変わっていく。
どうやら、町の中から自然に満ちた場所に変わったみたいだ。視界が真っ暗だから確信は出来ないのだけれども。
……いや、目が暗闇に慣れてきたのか、それとも『目が視力を取り戻したのか』、視界がはっきりし始めている。月光に照らされ、暗闇に薄らと見える緑色の葉。鬱蒼と生い茂る木々を目の前にして、どうして一度もぶつかることがなかったのか不思議な気分になった。まるで、何かに導かれているみたい。
空を見上げると、優しい黄金色の丸が見える。少しも欠けていない、美しい満月だ。思わず見惚れて少し立ち止まる。満月には魔力があるらしいが、そんな戯言にも頷けそうな神秘的な光だった。
「……うーん」
今日、何度目か分からないデジャヴに思わず首を傾げる。どこかで見た光景だ。すごく大事な何かを手に入れた、否、“出会った”時と、状況が似ている気がするのだ。あっちこっちの記憶、というか脳が動いていないのか色んなことが思い出せない。靄がかかっているような気分。分かってはいるけど思い出せない記憶に苛立ちが募る。
「あー……」
なんか口に出せば思い出せるのでは、と思ったがどうにも言葉が生み出せない。語学力とか語彙とかそういう問題ではなく、うなり声とか、うめき声とか、赤子のような意思表示しか出来なくなっているのだ。思考はちゃんとできるのに、なんで言葉として発することができないのか、本当に不思議だ。
「はぁ……」
独り言を言えないもどかしさというのは中々のもので、私は大きくため息を吐いた。
気分もあまり良くなくて、周りに気を配る余裕も無かった。
だから、私は気付かなかった。
――後ろから巨大な影が近づいていることに。
「……!!」
偶然にも、背後を取られる前に来た道を確認しようとして振り返った私の視界に、そいつは入った。
そこに居たのは“何か”だった。
足が無く、手だけがやたらと大きく、腹の辺りに口のような紋様がついた、一つ目の化け物の姿。
すぐに逃げ出そうとするものの、情けないことに腰が抜けて動けない。
そんな私の右足を、その化け物の手が“覆う”。
そのせいか、膝から下が“視えなくなった”。
「ひっ……!」
悲鳴が漏れ出そうになる口を手で抑えて、恐怖が爆発しそうになるのを堪えた。
言葉が突然出るようになったことに疑問を覚える暇も無い。
逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ! 必死で自分に命令して、硬直した身体を奮い立たせた。
「……、放して……っ、放してよ!」
右足を掴む巨大な腕を振り払おうと、めちゃくちゃに左足を動かしてひたすら蹴る。思ったよりも掴まれている力は弱く、簡単に振りほどくことが出来た。そのまま私は、進化を誤った生物のような動作で立ち上がり、何度も躓きながらも走り出す。
動悸が早くなりすぎて、苦しい。走っても走ってもその気配を引き離すことが出来ないから、余計に苦しかった。ずっと背中にぴたりと張り付かれているような、首元にずっと死神の鎌を掛けられているかのような、えも言われぬ恐怖。
振り向いたその一瞬の隙で、魂を吸い取られるような気さえした。
(なんなの……っ!)
結局どうして自分がここにいるかも分からないまま、得体の知れない物に追われている。混乱するばかり。ただ、背後から「死」が迫っていることぐらい、恐怖に塗れた彼女の思考でも分かった。
「あっ」
地面から浮き出た何かに引っかかって思いっきり転ぶ。顔面から落ちて痛みも残るが、それよりも後ろから迫る気配の対する恐怖のほうがずっと痛かった。心臓の音が自分でも分かる。息が止まる。
後ろから追ってくるそいつの名前を、私は今更のように思い出した。
手づかみポケモン、「ヨノワール」。そうだ。化け物じゃない、ポケモンだ。この世に存在する不思議な生き物の一匹が、そいつだ。人を冥界に連れて行くと言われている、ゴーストタイプのポケモン。
冥界。言ってしまえば死後の世界。そんな恐ろしいところに連れて行かれるのか。
死ぬのか、私は。
自分が何者なのかも思い出せないまま、こんな昏い場所で一人、ヨノワールに連れ去られて死んで行くのか。
……そんなのは嫌だった。
死にたくない。
「私はまだ、死にたく、ない……」
懇願した。
“無駄”だと思っていても、生きたいと願った。
『……』
一瞬の沈黙は、そのまま静寂へと移行していく。
何もされなかった。先ほどまで、あれだけしつこく追ってきていたのが嘘のように、ヨノワールは動く雰囲気が無い。死にたくない、という私の言葉を、聞き入れてくれたのだろうか。
不意に風が吹き、周りの木々がざわめく。そのとき初めて、私はここが森なのだと確信した。混乱と恐怖でずっと分からなかったが、時刻は夜だ。なのに森の中は薄らと明るい。満ち足りた月は、こんなにも世界を照らし出すことが出来るのか、と他人事のように感嘆した。何故かその光景は、とても懐かしい。
そしてそのとき初めて、私をずっと追っていたそいつと目が合った。
血色の一つ眼は、月の光よりも強く輝いている。灰色の巨大な手は、片手で人間の首を包むことさえ出来そうだ。足は無く、下半身は蜃気楼のように揺らめいている。夜に溶け込む漆黒の胴体には、黄色い顔のような紋様が刻まれている。
ゴーストタイプだと明らかに分かるそいつの風貌からは、表情を読み取ることは出来ない。……出来ないはずなのに、その紅眼は、やはりどこか悲しげに見えて。
『……』
そいつは何も言わないまま、こっちに手を差し出す。……掴まれ、ってこと?今まで私を死に追いやろうとしていた奴の手だというのに、私は迷いなくその手を掴む。簡単に立たされた。
ぱんぱん、と土の付いた服を叩きながら私は、随分近くに寄ってきたそのヨノワールに問う。
「……貴方は、だぁれ?」
安心からか、少しだけ気の抜けた声の出た私を、ヨノワールはずっと見つめている。
まだ少しだけ残った恐怖を抜きにして見れば、それはとても優しそうな目だった。そして、どこまでも悲しみを湛えた目だった。
『……』
何か言いたげなヨノワールが何を言おうとしているのか、私には分からない。問いても無駄なのに、私は幾らでも問う。
「どうして、私を連れて行かないの?」
『……』
その瞳に、微かな迷いが生じる。無表情にしか見えない彼の目から何故感情が読み取れるのかは、自分でも分からなかった。
「……貴方は、私のことを知ってるの?」
『……』
頷いた、ように見えた。
「そっか」
――じゃあ、どうして私を連れて行こうとしたの?
とは流石に聞けなかった。分からないことが多すぎる現状、色んなことを聞きすぎて余計に混乱するのは良くない。正直言うと気になるけど、これ以上このヨノワールから色々引き出すのは、気の毒な気がして。
同情だった。追われていたポケモンに対する感情としては、あまりに間違っているような気はしたが。
後、私の思考が既に胡乱げになりつつあって、これ以上物を聞いても覚えていられないような気がしたのも理由の一つだ。
眠気だ。そんなものを感じたのは、久しぶりな気がする。
「……、なんで?」
なんで今、私は眠いと言う感情に久しいって感じた? そんなものは、人にとって当たり前の感情のはずなのに。
私の口から出た疑問に、ヨノワールが少しだけ戸惑う目つきになる。
「……あー、違うの。貴方に聞いたんじゃないの。ごめんね」
そう言って、私は眠い眼を擦りながらも考える。思考はさっきみたいにごちゃごちゃし始めて、その上霧まで掛かっている。そのくらい考えづらかった。……駄目だ。やっぱり眠い。
「あー、駄目だ」
せっかく立たせてもらったのに、再び座り込む。うつらうつらとして、もはや思考もままならない。
瞼を閉じる。
そうすると、今までの恐怖や疑問もあっという間に睡魔の闇へと消えていってしまった。
ほんの一瞬、背中に何かの感触を感じた気がした。
その感触は優しくて、私は安心して意識を放棄した。
落ちていく。堕ちていく。どこまでも。