終わった物は始まりを告げる 3-4
その場は、全て終わっていた。
間に合わなかった、では済まなかった。気が抜けていたでは、気付かなかったでは。
結局フェイルと一緒に到着したリナリアの目の前には、この上ない地獄の中の地獄があった。おそらくは、以前ハンサムに聞いていた「ロキの作り出した惨状」よりも、もっともっと最悪なものを。
「あ、あ、あ……」
言葉は何も浮かばない。足が竦んだが、“床に散らばったもの”に触れたくなくてなんとかバランスを取り直す。胃から色んなものがせり上がってきたが、地面に手を付きたくなくてそのまま飲み込む。最低の味だった。
その光景は、トレーナーをやってまだ三年しか経っていない少女には重すぎた。
立っていたくないと、今すぐ逃げ出したい気持ちと足を抑え込んで、一歩だけ踏み込む。
柔らかい何かを踏んだ。
赤い飛沫。
また、踏んだ。けれどリナリアはあくまでも地面は見ない。見据えるのはただ独り、中央で佇む少女のみ。それ以外のものを見たら、心が折れてしまいそうだった。
「黒美さん」
声を掛けても反応を見せない少女の姿に、リナリアは彼女の正体を確信する。
「『陽(あかり)』」
その名前に、彼女の細身が揺れる。
「『日向 陽(ひなた あかり)さん。ですよね?」
疑問系を伴っている割に、それは確認に近いものだった。
ふとリナリアの脳内にその名前の響きが引っかかる。以前どこかで聞いたような違和感。だが、今は関係無きことだ。振り返ろうとしない少女をもう一歩だけ近付いて、紫髪の少女は続ける。
「一度、会ったことがあるのですが、覚えていますか?」
貴方が“あそこに”居たときに。一度だけ。
リナリアの言葉に、真っ黒な、……いや、真っ赤な少女が振り返る。
「覚えているわ。“あの男”と全く同じ目つきなんですもの。忘れようもない」
手を広げて微笑んだ少女の狂気に当てられて、リナリアは一歩引き下がりそうになった。リナリアが綺麗だと褒めた黒髪は真っ赤になるほど返り血に塗れ、あれほど黒美が気に入っていたゴスロリの服も黒ではなく赤黒く染まっている。美しい少女に、綺麗な微笑み。豪奢な服に紅の化粧。なるほどこれは最悪だ、と内心の恐怖を押し殺すように思う。
「でも、だからどうしたってことはないわ? あの時の貴女はまだモンスターボールを手に入れた頃の小さな女の子でしかなかったし、既に私は『助けなんて期待してなかった』もの。貴女が罪悪感を覚える必要はない。いや、私がこうなったことに対して何か思う必要も無いの。そこにいるマグマラシも、ね」
言って、彼女は建物に寄りかかるロキを見た。どんな戦闘をしたのか、体中のあちこちがボロボロになっている彼の姿を見て一度嘆息した後、陽と名乗った少女は続ける。
「だって、そんな“くだらない”感情のせいで貴女たちが苦しむのは嫌だもの。痛い目に遭うのも、傷つくもごめんだわ。だから」
全てを包み込むように、広げていた手で何かを抱き寄せる。
「全部壊す」
そして、掌にあった「肉」を、ぶちりと潰した。
「全部全部、私の敵は、私への害は、私への悪は、私への毒は、私への魔は、私の罪は、全て壊してしまうのよ」
壊れた少女は、醜悪に笑う。壊すと宣言したものを全て詰め込んだ彼女の笑顔は、例えそれがどんなに美しい造形であっても醜かった。
「さて、ギンガビルはどこかしら」
服に付いた血を払うことすらしないで、陽は踵を返す。
「ま、待って……っ」
リナリアはそんな彼女を止めようとして、自分の足が止まる。彼女がいた場所を見て、動けなくなってしまった。
コンクリートの地面に、彼女を中心にして大きな花が咲いていたから。
「さようなら、かしら? 貴女は、きっと私なんかに関わるべき人間ではないのだと思うの」
「――おいおい、決死の覚悟をしたリナリアに、その言葉はねえだろ」
轟、と凄まじい音と共に砂嵐が舞う。そんな中だというのに、不敵な彼の声は良く響いた。
「冷てえなあ陽は。三年ぶりだから色々加算されてるだろうが、お前ってそんなんだったっけ?」
惨状が惨状で塗り替えられる。思わず皆が咳き込むほどの砂量によって、真っ赤だった景色が黄土色に変わっていく。
重力を感じさせない身軽な動きで降りてきた緑黄色の龍に、真っ白な人が乗っていた。女性と見紛う美しい顔、真っ白な髪、痩せぎすの身体、そして、大人が腰を抜かすほどの強い光を放つ、血色の双眸。
けれどそんな状況になっても、そんな少年に見据えられても、少女は眉一つ動かさない。羽ばたきによって舞う砂塵が、彼女には全く触れずに避けていく。
「何? 貴方は」
冷たい語調で、陽は深白を見据える。
「何? ……じゃねえだろ。そりゃこっちの台詞だ」
微笑みのさえ無くした深淵の色の少女に、深白は笑いかける。心底楽しそうに、心底嬉しそうに。
「久しぶりだな。こういうのはなんだが、“まだ生きていてくれているとは思ってなかった”」
少女とは相入れない色で染め上げられた彼は、無垢ささえ感じさせるほどの無邪気な声でいう。
「……そう。私も、今更会いに来てくれるとは思っていなかったわ」
「そりゃどうも」
ひょい、と緑の龍(フライゴン)から降りて、そいつの胴体に紅白色の球を軽く当てる。赤い光が龍の体躯を包んだかと思えば、一瞬でいなくなっていた。モンスターボールに収納されたのだろう。
「ありがとう。生きていてくれて」
その言葉に、少しだけ陽の頬が緩む。今までの恐ろしさが消えそうになるほどの、柔らかい微笑だった。
けれどそんな彼女を見て、彼は笑顔を引っ込める。
「これで俺は、お前のことをすっぱり諦められるよ」
そして、言い放った。
「……、え?」
それは、期待していたものとは違う返答が返ってきた時の、失望さえ出来ていない驚きの感情だった。その反応を見て、深白は小さく溜息を吐いた。
「……お前、何をやったか、何をやってしまったのか、分かってるのか?」
まるで諭すようにそういう彼の声は、先ほど見せた透明さを忘れさせるほど厳しかった。それは言い訳のしようもないほどの怒りの感情。辺りが静まり返るほどの圧力に、その場にいる誰もが動けなくなった。
ただ一人、真っ黒な少女を除いて。
「分からないの? 私を愛しているのに?」
「愛していようが憎んでいようが無関心だろうが、人の感情なんか言葉に出さなきゃ分からねえよ。言葉にしても伝わらねえことすらあんのに。
もう一回だけ聞くぞ? ……何してるんだ?」
「決まってるじゃない。復讐よ」
トーンは変わらぬまま静かに問うた深白の言葉への返答は、実にあっさりしたものだった。けれどその何気ない言葉が、彼女の残酷な決意の強さを案に示していた。
もはや迷うことは、……いや、失うものは既に無いと。
「もう、手遅れなのよ。深白君」
そう言って微笑み直した彼女の笑みには、何も浮かんではいなかった。
「だって私は、もう壊れてしまったわ」
壊されてしまったわ。メトロノームのように同じイントネーションと語調で繰り返す。
「そうじゃねえんだよ」
「いいえ、そういうことでしかないの。だって私、何回も殺されてしまったわ?
だからわたしはもう、私を苦しませて、壊して、殺して、捌いて分解してかき混ぜてぐっちゃぐっちゃのめっちゃくちゃにして、また殺して、バラして指の先から髪の一本残らず全て壊し尽くして内蔵を血管を爪を目を引きちぎって私の目の前に並べて、また殺し殺して、挙句殺すことはせずに生かしてまた苦しませて泣いても許してくれなくて痛くて痛くて痛くしてまた死なせて、それでも私を使って散々遊んで侵して犯してまた捨ててまた作り直して殺してと頼んでも許してくれなくて、殺されて生かされてもう自分が思い出せなくなるほど殺してくれたあいつらを、あの人とあの人とあの人とあの人とあの人とあの人と、あの人もそっか、後はあの人あの人にあの人。全部覚えてるよ。みんな赦さないの。全部忘れられなかったの。おぼえてる。私の腕をホルマリン漬けにしたあの人も、私の目を目の前でプチプチ針で刺した人も、笑顔で私の身体を私の意識があるままバラバラにした人も。麻酔を使わず私のお腹と臓器を捌いた人も。みんな忘れたいの。でも、むり。そんな人たちを忘れたいから私はもう許せない。許したくない赦さないゆるさないゆるさないにがさないにがさない。今度はわたしがえがおであいつらを、色んな方法でおわらせるの。おわらせてころしてばらしてさらしてくだいてひきちぎって、もうなんでもいいけど楽しく殺すの。わたしがいままでできなかった楽しいことをその時にするの」
もはや彼女の目には何も映ってはいなかった。くるりと一度回転して、改めて深白に微笑む。
ロキもリナリアも見つめられなかった彼女の笑顔を、深白はあろうことか真正面から受け止めた。
「ふふふふふふ、うふふふふ。ふふ。ふふふふふ。くすくす。クスクス。ひひ。あはははは。まあいいや。いいの。疲れたわ。私は眠るわ。たくさんお話しして疲れてしまったわ」
言葉通り疲労が透けて見える彼女の笑顔には、いろんなものが詰まっていた。
恐怖で止まっていたギンガ団の人間も、ロキも、ミルナァルも、リナリアもフェイルも、誰も動けなかった。
彼女が地面に崩れ落ちても、しばらく身じろぎすら出来なかった。
少女が目を閉じた瞬間に走り寄って受け止めた、真っ白な少年を例外として。
「はは」
意識を失った少女の息を確認して、一度空笑いをした深白は、一度ギンガ団たちと向き合い、言う。
「なあ、早く俺の目の前からいなくならないと、俺がこいつの復讐を肩代わりすることになるぜ?」
冗談のように、冗談ではないトーンで彼は言う。
けれどギンガ団員たちは、恐怖のあまりに動けない。
「おい。お前ら、察しが悪いぞ」
叫ぶ。
「……早く失せろ。じゃねえと、お前らを殺さずに済む自信がねえんだよッ!!」
爆発した彼の感情は、ギンガ団の生き残りを蜘蛛の子にするには十分すぎた。
五分も満たない時間で誰もいなくなり、その場にはロキ、倒れ伏したヘルガー、ミルナァル、リナリア、深白、そして黒美が残された。
誰も言葉を発しなかった。
発せなかった。
気を失った少女を抱きしめたまま、深白は動かなかった。