出会いと、出会いと 3
(あ……)
またこの夢だ。と黒美は独りでに呟く。
真っ暗で、昏くて、黒くて、暗黒で、漆黒で、……とにかく黒い世界。自分の体さえ見えないのに、痛みだけが腐るほど存在する世界。そんな陰惨な世界に、黒美が一人だけぽつんと存在する、それだけの夢。
(……夢なら何でも出来る、はずだよね)
自分で夢だと自覚できる不思議な夢。意識のある夢。明晰夢。夢を操ることが出来、夢でならどんなことでも出来るはずだが、それでも黒美はこの世界を独りで変えられるとは思えなかった。
例えば、この世界で助けを呼んでみよう。けれど黒美には、助けてくれる人間を思い浮かべることが出来なかった。そもそも彼女は、誰かに助けてもらったことが無い。
例えば、この世界を天国に変えてみよう。けれど黒美には、天国と地獄の違いが分からなかった。そもそも彼女は、死後の世界など信じていない。
例えば、この世界を自分の望む世界に変えてしまおう。けれど黒美には、望みが分からなかった。そもそも彼女は、望みが無かった。
自分は、周りが思っているような人間じゃないな、と黒美は夢の中で笑った。
条件反射のように人懐っこい表情を見せてしまっても、黒美は誰も信用していない。楽しそうに笑っても、黒美はどこか冷めた視線を持っている。悲しそうな表情を見せてみても、黒美は何かもを諦めていた。
二律背反。矛盾。そんな自分の表情筋の異常が、黒美はおぞましくってたまらなかった。
(嫌だな。この夢。……いつ、終わるのかな)
終わることがないのではないかと思うほどの、永くて、永いだけ夢だった。
本当に永遠なのではないかと思うほど、夢の中で眠くなるほど、夢の中で気を失うほど、気の遠くなるほど、気が狂ってしまうほど、それぐらい永い夢を見ていた気がする。まだハイスクールを卒業するぐらいの年齢である黒美が、永遠のような時間と言ったところで、年老いた人々には笑われてしまうだろうが。
(でも)
黒美は知っている。否、覚えている。
人を殺す永遠の悪夢を。
希望さえ無い、真っ黒な世界を。
忘れたいと、忘れてしまいたいと願うほど残酷な世界を。
(――綺麗な黒髪ですよね)
オーキド博士から借りた別荘で髪を整えてくれている時に、リナリアはそう言ってくれた。どこまでも深い色合いなのに、艶があって輝いている素敵な髪だと。私には羨ましいぐらいだと。そういうリナリアのアメジストのように透き通っている紫色の髪が黒美は大好きなのだが、そう言ってもらえて嬉しかったのは覚えている。
けれど、黒美はこの黒髪が大嫌いだった。というより、黒美は黒色が大嫌いだった。さらに言えば、そんな大嫌いな色に纏われている自分自身が一番嫌いだった。どうして? と聞かれても答えは出ないのだけど本当に嫌いなのだ。
「私がずっと、暗い場所に居たから?」
そんな暗い場所に溶け込んでしまいそうなこの黒髪の色が嫌だったのか? そんな暗い場所を表現するようなこの色が、嫌だったのか? 確かにそうではあるんだけど、なんか違う気がする。
「誰か、その理由を知っていたりしないかな」
例えば深白さん。
絶世の美少女。細すぎるぐらいの体からは信じられないような怪力の持ち主。ロキが唯一頭の上がらないイレギュラー。そんな深白さんならきっと、自分の過去を知っていると思う。けど、久しぶりに会ったような口ぶりだったから、それは恐らく黒美が小さかった頃の話かもしれない。ただ、ロキと初めて出会ったときの逸話や、どんな生活をしていたか、ということなら幾らでも知っていそうだった。
あの時出会った深白が放った言葉を、黒美は今でも覚えている。なんて言われたかはさっぱり聞き取れなかったけど、覚えている。それが本当はすぐにでも深白に問い詰めたいほどだ。だけど、深白はどうやらロキ君から口止めをされているらしく、あまり黒美に関わろうとはしてこない。
斜めに構えた風の深白の視線は、黒美を見るときだけ不意に寂しさを帯びていることがある。それが彼女には非常にもどかしかった。まるでそれは、自分が信じていたものが違うものになってしまった、そんな風に感じられている気がして。
リナリアは?
ロキの様子からも分かるように完璧に初対面だ。黒美が過去を聞きだすに値する存在ではない。……けれど彼女は、何かを知っている。黒美が何をされたのか、ギンガ団が何をしているのか。年齢不相応に大人っぽいのも、それが一番の原因な気がしてくる。
ロキ以上に自分の素性を明かさない彼女を信用していいかなんて、最初は本当に疑わしかったけど、今はあまり気にしていなかった。
黒美は、友達である彼女を信頼したかった。
「……なんだか、本来信用できなさそうな人間としか付き合ってないなあ。私」
そう呟いて、黒美はクスリと苦笑を零す。
そしてそれは、ロキにも当て嵌まる。
黒美のパートナー。黒美を助け出した人みたいなマグマラシ。そして、黒美の過去を一番知っているポケモン。けれど彼から黒美の過去を引き出すことは、恐らく出来ないだろう。
ロキは黒美の過去を黒美に話すことを、否、知られることを恐れている。私が記憶の海の底から、過去の思い出を引き上げることを、心の内では反対しているのだ。
(……なら、なんでロキは)
――私を止めないんだろう。
私が何か悪いことをしようとしているなら、止めてくれればいいのに。私が何かまずいことをしているなら、力ずくにでも抑え込んでくれればいいのに。
例えそれが私の本当に望むことであっても、止めてくれれば、いいのに。
そういうこともしてくれないロキは、もしかして私に興味が無かったりするのだろうか。私のことを大切にしてくれている風をして、本当は“違う人を大切に思っている”のではないか?
ロキを疑っているとかそういうことではない。それはすっと頭に浮かんできた考えだった。ロキは私を通じて、誰か別の人を見つめているのではないか、と。
私ではない、私を。
(ん……)
……音が聞こえてくる。硬質な何かを踏みつける甲高い音。髪を揺らす少し強い風の音。
声も聞こえてくる。人の寝ない夜の住民の騒がしい会話。どこか必死で、良く聞き慣れた声。
(私、寝ているわけじゃ、ないの?)
意識が漠然と戻ってきた。涼しい夜風は肌に当たる感触が、地面を踏みしめる感触が。苔むした石のなんとも言えない匂いが。黒美の世界を見つめる視界が。
いつもののんびりした黒美からは考えられないほどの早歩きで歩いていると気付いて、今更のように足を止める。急停止した彼女の足に、何か柔らかいものがぶつかった。
……ろ、き?
「……み、……黒美……っ!」
遠い世界に居るような、奇妙な心地。白昼夢。夢遊病。
――違う。それは、違うよロキ。
「黒美!」
それは違う。それは私じゃない。
「どうしたんだよ黒美! 僕の声が聞こえないのか!?」
周りの好奇の視線も気にせず、ロキが叫ぶ。
喋るマグマラシ。大層不思議に周りの人には見えているのだろう。
(ああ、そういえばロキの声が全く聞こえなくなったことも、あったな。
何時だったっけ。
あれは私が、何をしていた時だっけ?
――私が、何をされていた時だっけ?)
ピシリ、と何かに皹が入る音が聞こえた気がした。
「黒美!!」
「……ロキ」
「やっと反応した……っ! 黒美、この場所はギンガ団の総本部が近くにある。一人で歩くには危険過ぎるよ。さっさと帰ろ……」
「ねえロキ。私はだぁれ?」
ロキの心配性な言葉を遮って、黒美は悪戯っぽく言う。ぞっとするほど、生きているとは思えないほど真っ黒で光の無い瞳で、ロキをじっと見つめながら。
「ねえロキ。私は誰? 私は何? 何者? どんな存在? 必要な存在? 私ってロキにとっての何? 私は深白さんにとっての何? リナリアちゃんにとっての何? 私って何なの? ねえロキ? 分かる?」
「く、黒美……?」
狼狽したロキが、黒美から一歩距離を取る。取ってしまう。
そんなロキを見て、真っ黒な少女は一瞬だけ寂しそうに笑って、俯いた。漆で塗ったような黒髪が、ばさりと彼女のカオに影を差す。
その表情を見て、ロキは自分が犯した過ちに気付く。
「分からないの? じゃあ私が見つけた答えを言ってみるね?」
すっと黒美の目に光が差す。道化のような表情が崩れ去り、感情が表に出る。
突然饒舌になった黒美の変化に、ロキは唖然としたまま動けない。
「私は邪魔者なんだと思うんだ」
笑顔であっさり語るにしては、その言葉は異様な響きを持っていた。
「これね」
自分の体を、心臓を指差して黒美は言う。
「私の居場所じゃないんだ、多分」
多分と付け加えているのに、それは確信めいた口調だった。
「きっと、本来、私じゃない誰かがここに居たんだと、生きていたんだと思うんだ。でもそれを私が奪って、ころした」
華奢な見た目な少女が言うには、その言葉は物騒すぎる。そう、似合わないはずなのだ。
けれど黒美の言葉には、確信からくる説得力がある。そしてそれは、ロキに二の次を踏ませないほどのものだった。
「私は、ひとごろし。しかも、泥棒。なのに私は、のうのうと生きてるの」
言いながら、黒美は笑った。
放たれる言葉と間逆の性質を持つ、清々しいほど綺麗な笑顔。
「ごめんね、ロキ」
けれどのその笑顔に、悲しくなるほどの痛みを湛えて。
「……なんで謝るんだよ。謝られる覚えなんか無いね」
笑顔に笑顔で返して、ロキは言う。
「深白さんも言ったように、黒美は僕を助けてくれた人だ。覚えては居ないだろうけど、キッサキシティに向かう道の、真っ白な吹雪の中で、自分が遭難しかねないのに黒美は傷ついた僕を救いに来てくれた。トレーナーに捨てられて、自分の存在意義を見失っていた僕を、ね」
軽薄な仕草。軽妙な口ぶり。そんなロキを見ると、黒美はどうしようもなく悲しくなってしまう。それはきっと、自分の感情を押し殺し、何かを我慢し、痛みに耐え、それでも前に突き進むためのロキの仮面だから。
「だから、僕は黒美を守るよ。
たとえ君が本当にニセモノであっても。
……たとえ、この命に代えてでも」
(あ……)
その悲壮な決意を聞いて黒美は分かってしまった。
彼はきっと気付いているのだ。自分が本当にニセモノかもしれないことに。
「それに、どうせ僕には他にやることがないんだ。嫌ならいいけど、付き合わせてよ」
(……強いなあ。ロキは)
揺らがない。揺らいでも崩れはせず、崩れても根本だけは残っている。
そんな彼の、縋るような執着心。それは怖いとさえ思う。だってそんなのは、黒美がいなくなったらどうしようもなくなってしまうものだ。
手に入らないものを、失ってしまったものを求める行為は虚しくて、悲しい。そうやって壊れたロキは、一体何をするのだろう。何をしてしまうのだろう。
「……ロキは、ほんとにしょうがないね」
「そりゃどーも」
ロキは笑う。
「ほんとに、しょうがないんだから」
つられて黒美も笑った。今すぐにでも泣き出したいのに、笑った。
泣きそうな理由は分からなかった。その感情も、黒美には分からない。
「……全くだよ。本当にしょうがない“奴ら”だよね」
けれど、悪意たっぷりに呟いたロキの言葉の意味は、すぐに理解してしまった。
何かが噴出す音の一瞬後、
暴力的な水が噴流してくる。。ロキはその攻撃に自ら突っ込み、
灼熱の拳をぶつけた。
転瞬、爆発するように水流が水蒸気へと変貌。摂氏百度を超えるそれから目をかばうために、黒美は思わず顔を腕で庇った。
「なるほど、僕と黒美が孤立するのを待っていたわけか」
気が付けば周囲を囲まれていた。夜目が聞くロキにはその姿がしっかりと一望できる。灰色を基調とした得体の知れない宇宙服。統一された水色の髪。どこか生気の無い瞳。ギンガ団の連中か、とロキは誰に言うでもなくに呟く。。
「カブトプス、ガマゲロゲ、キングドラ……。まだまだ居るなあ。まあこれはご丁寧にも」
前回の失態から一応学んではいるのか、今回の敵ポケモンは水タイプ一色だった。それもポケモンリーグで見かけるような、高位の種族のポケモンたち。どうやら今まで叩き伏せてきた末端の連中とは格が違うらしい。前に戦った、脅せば引いてくれるような甘い相手ではないことが、雰囲気とその錬度の高さだけで分かる。
「……ミルナァル、高みの見物すんな。黒美を守ってろ」
敵に向ける悪意と寸分違わない語調で、振り返りもせずにロキが言う。
その言葉に返答するように、軽い開閉音。
孔雀の様に黄金の尻尾を広げた九尾、キュウコン(ミルナァル)が姿を現す。
……長年居座っているが故にモンスターボールの仕組みはほとんど把握しているのだろうか。モンスターボールからは本来ポケモンは自力では出られない。はずなのだが、ミルナァルはしょっちゅう出てきている気がする。モンスターボールに入りたがらないロキよりはずっと利口ではあるのだが。
「面倒じゃのう……」
おまけに先ほどまで眠っていたのか、場の緊張感にそぐわない大きな欠伸をしていた。そんなミルナァルを睨むロキの視線を言葉通り面倒臭そうに受け止めて、すたすたと黒美に近寄る。
「まあよい。黒美、こちへ来るのじゃ」
「……え、あ」
どこか上の空でロキを見つめていた黒美が、ミルナァルの声を聞いてはっと正気に返る。ミルナァルの方に一度振り返り、どこか名残惜しそうに、悔しそうにロキをもう一回見て、「……うん」と俯きがちに頷いた。
「ロキ、……怪我しないでね」
「無理だよ」
不安げに言った黒美の言葉を、ロキは一刀のもとに切り捨てる。
「でも、死にはしないさ」
多分ね、とどこまでも安心できないロキの言葉に、黒美は唇をかみ締める。
「さあ」
そんな黒美が安全な場所に誘導されたのを確認して、紅蓮の炎と共にロキは嗤った。
心底楽しそうに。心底愉快そうに。
それでも分かるほどの憎悪をその目に宿らせて。
「――死なない程度に、遊ぼうか」