「 」
初対面、かと思った。
誰にもバレないように静かに、このギンガビル奥の最重要研究室にまで到達したマグマラシが、その場で体育座りで居る少女に抱いた印象はまずそれだった。
文字通り漆を塗りたくったような黒髪、どこまで深い色合いをした闇色の瞳。可哀想なぐらい痩せていたとしても人目で美少女だと分かるほどの美貌。じっくり見ればその人こそがマグマラシが捜し求めていた存在で間違いないというのに、それでもマグマラシは疑ってしまった。
誰だこいつは、と。
「……?」
その少女は、その闖入者に気付いても動じた風は無い。恐らくはここで研究を受けているポケモンの類だと判断したのだろう。眠そうに欠伸した後、窮屈そうに揃えた膝に再び顔を埋めてしまった。
その反応はまるで予想外だったのだろうか。マグマラシは唖然としたまま、しばらく固まってしまった。
「……『 』?」
そんなはずはない、そんなこと信じたくない。
目を逸らしたくなるほど残酷な現実に、それでもマグマラシ――ロキは立ち向かった。彼に呼ばれた“はず”の少女の反応は鈍く、自分が呼ばれていると気付くのにはかなりの時間を有した。
「……誰のこと、かな?」
透き通った声で放たれる現実は、ロキを絶望させるには十分すぎた。
何も喋られずにいるロキを不思議そうに見ながらも、その少女は続ける。
「……わたしの名前はくみっていうんだよ。
ここの職員が付けた名前なんだって」
「く、み」
「そう。くろくて、“みにくい”って書くんだって。
なんか私は、表情がおかしいから、そんな風に名づけられたんだって。
……ってわあ! 君ポケモンなのに喋られるんだね!」
「まあね……」
捻くれっぽく相槌を返すロキの語調は震えていた。自分への、それ以上のギンガ団への怒りに。少女の、感情の全く篭らない表情を見た悲しみに。取り返しの付かないことをした、自分への後悔に。残酷すぎる“彼女”への仕打ちに。
「……どうしたの? 泣いてる、の?」
「……違うよ。目にゴミが入っちゃったんだ。
ほら、ここ少し埃っぽいでしょ?」
不安そうに顔を覗いてくる彼女に心配をかけたくなくて、ロキはすぐに涙を拭った。そんなんじゃ雫は止まりそうに無かったが、それでも彼は立ち止まっているわけには行かなかった。
「ねえ、くみ」
「なあに?」
「君は、ここから外に出たくないかい?」
「出たいよ」
即答だった。その切り返しにロキは、苦虫を噛み潰したような、痛みを堪えるような表情になる。痛み、苦しさ、悲しみ、怒り、絶望、後悔。今日は、いろんなものに耐えなきゃ行けない日だと自分でも覚悟していた。それでも、あまりにあまりだった。
くみを、彼女を助けるために頑張ってきた今までの自分が否定されるのは構わない。それでも、その即答はロキの心を苦しめる呪いとしては十分な威力があった。
「そっか。……僕はね。君を助けにきたんだ。くみ」
「……そうなんだ。嬉しいな」
微笑む。その微笑みはどこか、ピエロのような胡散臭さとおぞましさを持っていた。
ああ、僕は“彼女”を助けられなかったんだな。とロキはそこで海のように深く理解をした。もはや逃げようもない事実だった。
「この時間帯はね。警備員やギンガ団、研究員の人たちもほとんどいない。
いたとしても、僕がくみを守るよ」
「……ありがとう。でも、どうしてそこまでしてくれるの?」
その言葉に、ロキは一瞬嘘を吐こうと思った。口八百でどんな状況でも打破してきたロキには、彼女を騙すなんてわけもないことだった。
「……君が、僕にとって大切な人だからさ」
それでも、“彼女の顔をした少女”を騙ることは、ロキにはできなかった。
ちょっとふざけたように、彼は本当のことを言う。
「それとさ。黒くて醜いってのは人の名前としてはあんまりだよ」
「……そうかなあ。私は“納得”してるんだけど」
「それでも! 駄目!」
意地になったように声を張り上げたロキに、黒美が少しだけ狼狽する。
「……うー。でも、くみっていう響きは気に入ってるんだ……。
それが、私が生きている証拠みたいに感じて」
「なら、字だけ変えよう。反転させよう。そっちの方が相応しいよ。
黒くて美しい。それで黒美」
「……わ、わたし、美しくなんかないよ?」
「その言葉、絶対に女性の前じゃ言っちゃ駄目だよ?」
「……え、ええ?」
「とにかく、今日から君の名前は黒美!
異論は認めない! 以上」
「……う、うう」
合点いかない雰囲気の黒美に、今日始めての笑顔を見せながらロキは言う。
小さく、それでも道を切り開くには十分な力を持った手を差し伸べて。
「行こう。早くしないとタイミングを逃すよ」
「……はい。エスコート、お願いします」
「なんだよそれ。いや、お守りしますよ。姫様」
軽薄な口調で言うロキに、黒美は笑った。
どこまで醜く見える彼女の笑顔は、やはりロキには愛おしかった。
*
「……仕方ないけど、夢見悪いよなあ僕って」
早寝早起きなリナリアでさえ起きていない朝四時半。鳥ポケモンの鳴き声さえ聞こえず、空はまだ薄暗い。満ち足りきらない月ははっきりと見えるし、外には人の影一つ無い。
過去の映像を思い出して気分が悪くなったロキは、窓から静かに外に出た後、散々吐いた。リナリアが作ってくれた料理、おいしかったんだけどな、と暢気にぼやくロキの姿は、姿見的には愛らしい類であるマグマラシにしたって随分情けなかった。
「ふー……」
吐いたら少しは落ち着いたのか、ハクタイシティの澄んだ空気をめいっぱい吸い込んだロキが一息吐く。
あれは、ギンガビルの奥で黒美と会ったときの映像だ。しかし、忘れられないとは言え、黒羽雪がいなくなってからずっとこの夢だけを見ているのは異常だ。まあ、自分が異常性を孕んだポケモンだってことは間違いないんだけどね、とロキは自嘲気味に笑う。
後悔と憎悪に塗れた自分は、さぞ醜いのだろう。こんな本性を知られたらどれだけ失望されるのだろうか。リナリアに。黒美に。……そして、強すぎるあの人に。
「……、めんね。ごめんね……。『 』」
小さな、消え入るような声で誰か謝って、ロキは元来た道を戻っていく。
「今度は、今度こそは守るから」
弱い弱いマグマラシは、何度目か分からない誓いを呟く。
どこまでも芯がはっきりしていて強いはずのそのマグマラシの、その心の弱さは、誰にも見られずに消えていった。