爺さんの変な家 2-3
黒美とロキが熟睡した後、オーキドと二十分程度話をした国際警察の胡散臭い男は、オーキドに面倒ごとを完全に任せて、自分は同僚が居ると言う現場の方に向かっていった。……忙しい男だ、と全く人のことを言えないオーキドは思う。
ハンサムが居なくなって途端に静かになってしまった家は、今まで少しだけ騒がしかったのが嘘みたいな静寂に包まれていた。とりあえずオーキドは、何もしないとお人好しなハンサムにとやかく言われるのは分かりきっていたので、何度かロキと黒美の看病をしたが、結局ロキも黒美もこの日はずっと寝たきりだった。
ご飯を食べないまま眠りこける二人の状態は正直不安要素でもあるのだが、相も変わらず幸せそうに寝ているので、叩き起こすのはかなり居たたまれない。というわけでオーキドは、二時間毎に様子を見に行くのみにして、それ以外は仕事に集中することにした。
「確か、ウツギ君から仕事の以来を請けていたのう。どれどれ……?」
誰宛かも分からない独り言を呟きつつ、若くして成功した同僚の研究者に以前渡された分厚い資料を、オーキドは物凄い速度で目を通し始める。大体二秒ごとに一ページを読み進めている勢いだ。老人とは思えない頭の回転速度は、正に“天才”と呼ばれる代物だろう。
――オーキド=ユキナリ博士は、ありとあらゆるポケモンの知識に精通している老人で、“ポケモン博士”という称号を初めて与えられた人間だ。ポケモンの世界でも最も知名度の高い彼は、ポケモンの研究のほとんどに携わっている。
例え、自分が住んでいる以外の地方の最強のポケモントレーナー(この場合いは、ポケモンを使役して戦う人間のこと)、所謂「ポケモンリーグチャンピオン」の名前は知らなくても、このオーキド博士という人間の存在を知らないものは、この世界には誰一人居ない。
何故なら、ポケモンというものの「共通点」を見出した初めての人間がこのオーキドだから。つまり、“ポケモンをポケモンと定義した人間”ということだ。
そのため、彼の知識を学ぼうとする若い研究者の弟子入り志願とか、研究結果を盗もうと現れる阿呆とかが未だ沸いて出てくるのだが、前者は門前払いして、後者は散々酷い目に遭わせてから警察に逮捕させてきた。
そもそもオーキドは、自分が気に入った人間以外に“ポケモン図鑑”を渡したりしないし、自分の研究の成果を教えたりすることもしない。ましてや自分のポケモンを譲ったりすることなんてするわけがない。偉人に付いて行けば一流になれると思っている勘違い阿呆や、人の研究結果を盗めば一流になれると思っている勘違い阿呆は、正直なところ、あまり好きではないのだ。
穏やかな性格で知られるオーキドだが、その実かなり頑固で、気に入った人間なんて指で数えられるほどしか居ない。しかし彼にはトレーナーに対する審美眼みたいなものが備わっており、彼に見初められたトレーナーは得てしてポケモンリーグで好成績を収めたり、ジムリーダー、果てにはチャンピオンに到達したりする人間さえいる。
だからこそ、オーキドの元へと訪れる人間がたくさん居るのだろう。オーキドに会ってもし見初められなら、自分も才能がある、チャンピオンに到達できるかもしれない、と。
だが、オーキドに見初められるような人間は、オーキドに憧れ、興味を抱いて弟子に志願するような人間ではない。
オーキドとの邂逅を通過点としか考えていない、“ポケモン界の最高権威と呼ばれるオーキドとの邂逅”ですら、“通過点”としか考えていない。そういう人間だ。
「……ふむ」
ウツギ博士が何日もかけて書き上げたであろう論文を五分程度で読了したところで、インターホンが鳴った。
はて、今日は来客なんていたかな? と疑問に感じつつもドアに向かい、覗き穴から来客の見た目を確認する。
穴からは、季節感を無視した大きな麦藁帽子と、薄紫のボブカットという珍しい髪を持つ、真っ白なワンピース姿の少女の姿が見えた。それで即座に知り合いと判断したオーキドは、すぐにドアを開ける。
「どうしたかの。リナリア」
オーキドに“リナリア”と呼ばれた少女は「いえ、ハクタイシティに用が合っただけです」と年不相応な慇懃な態度――どこかそっけないとも取れる姿勢で玄関に入り、靴を丁寧に揃えてからオーキドの家に足を踏み入れる。
「しばらくの間、お邪魔しても宜しいでしょうか?」
礼儀正しい言葉に、能面染みた表情。笑顔も見せない彼女の態度は、人と距離を置こうとする意識が垣間見えていた。
これは、あの黒美という少女と同じだ、心のどこかでオーキドが呟いた。
「そうではないじゃろう?
――ただいまと言いなさい。仮の物だとしても、ここはお主の家でもあるのじゃよ」
オーキドの言葉に、リナリアの動きが一瞬止まる。
「……、ただいま」
とても可愛らしい顔に、一瞬だけ戸惑いの表情を見せ、……けれど瞬き一つの間で、全く可愛げの無いしっかり者の表情に戻り、リナリアは小さく挨拶を零した。
*
リナリア・アージェントは、資産家の娘で、売れっ子の画家だ。
ただ、仕事の依頼は受けずに、自分が好きに描いた絵を売って生計を立てているらしい。どうやら彼女の絵のファンも続々と増えているらしく、彼女曰く「趣味を仕事にしたら、うまく行き過ぎました……」とのこと。
今や「顔を見せない美少女画家―リナリア・アージェント」なんて渡り名も出来上がってしまい、非常に居心地の悪い旅になっているのだそうだ。「顔を見せていないのに、なんで美少女呼ばわりされるのでしょう……」という疑問は、まあ当然のものと言える。
しかし、困ったことに、11歳という年齢から掛け離れた絵の技術、というだけならまだしも(それでも十分すごいが)、噂通りにリナリアは相当な美少女だった。
薄紫の透き通った髪は砂金のようにさらさらで、顔立ちは端整、意志の強そうな深い紫の瞳は下手な宝石よりもずっと美しい。麦藁帽子に清楚な白いワンピースというお嬢様風の出で立ちも良く似合っていて、それが彼女の美しさを増徴させていた。
そして何より彼女には「何か惹きつけられる」雰囲気がある。それが原因で人に付いて来られることも少なくなかったようだ。
成長したらどれだけ美人になってしまうのか、正直オーキドにも予想が付かないところである。
だが、そんなありとあらゆるものに恵まれすぎている彼女が、何故わざわざ家から出て旅をして、道に迷っていたのか。リナリアを此処に連れて来たハンサムから話を聞いても、納得できない部分がたくさんあった。恐らくはうまく誤魔化されてしまったのだろう。
彼自身も判断が付かない部分もたくさんあったようで、何よりリナリア自身が、自分のことを全く話さなかったらしい。
聞かれることも踏み込むことも、関心を寄せることさえ、由としていないようだった。
彼女には「カリスマ」みたいなものが備わっている。その癖自分の内側、領域に踏み込む人間には、ナイフをこちらに向けて距離を取るような、鋭い拒絶と拒否の態度も見せる。
そんな彼女の姿を見る度にオーキドは思うのだ。
リナリアと酷く似た雰囲気を持つ人間が、知り合いに居たと。
だが、年寄りの脳ではそんな記憶など掘り起こすことは出来なかった。ただ、その脳のどこかで眠っているメモリーが、リナリアをこの家の住人として扱う決心をオーキドにさせた要因であるのは間違いない。
――重い。
この小さな家を拠点として利用する住人となったリナリアを見て、そう感じてしまう。
この娘もまた、何か重いものを背負っているのだと。
「座りなさい。ちょうど仕事が一段落済んだところじゃ」
丁寧な仕草で礼を言うリナリアをリビングへ案内し、席に座らせた後、オーキドは読み残していた本を開く。すると、リナリアはすぐに椅子から立ち上がって、台所で作業をし始めた。
「はい。博士」
「おお。ありがとう」
カチャリと音を立てて、コースターの上に紅茶の入ったティーカップが置かれる。お湯は沸いていたはずだが、いつの間にこんな手際が良くなったのだろうとオーキドは首を傾げる。
こうやって、何も言わなくても紅茶を二人分用意する気遣いが出来るところを見れば、彼女もまたいい娘であることは容易に判断できる。
だが、そのいい娘が無理をしているのを眺めているだけ、というのは、オーキドとしても気分が悪い。
なんだか、ハンサム君も同じこと言っていた気がするな、とリナリアには見えないように小さく苦笑した。
「あ、砂糖使いますね」
……後、紅茶の風味を殺すレベルで砂糖をドボドボ入れているリナリアを見るのも、オーキドは気分が悪かった。ただ、この家では少しだけリナリアも息抜きが出来ているみたいなので、紅茶の飲み方を長々とレクチャーするのは勘弁してやろう、と頑固な老人は思う。……ただ、次は許さないとも固く誓った。
「どうでもいいのですが、この家って紅茶かコーヒーしか飲み物がないのですね」
それなりの値段がするだろう食器棚に並べられる、種類ごとに分けられた紅茶葉とコーヒー豆を眺めて、リナリアが呆れたように言う。
「そりゃあ、種類によって味が変わるからのう。一種類の紅茶やコーヒーのみをずっと飲んでいると、飽きるもんなのじゃ」
「……甘いものは?」
「君が此処に居座って管理をしてくれるというのなら、ジュースも買うようにするぞい?」
と言ってもお主は、どうあってもここには留まらないじゃろうがな、と小さく付け足す。勿論、オーキドからしたらそれは軽い冗句だった、……のだが、リナリアは10秒ほど沈黙してしまった。明らかに迷っていた。大人っぽくても子供だった。
「………………、いえ。結構です。カフェイン中毒の老人からカフェインを奪うようなことはしません」
「ほっほ。厳しいことを言うのじゃな」
一瞬、高級な紅茶葉とコーヒー豆の間に場違いなサイコソーダが並ぶ光景を想像して老人は眩暈を起こしかけて軽口を後悔したがが、甘いものの誘惑にリナリアが負けなかったので、ほっと一安心をする。
「でも、せめて、一本ぐらい市販の飲み物が置いてあってもいいのに。……モモンの実の濃縮ジュースとか」
「そりゃ、市販のジュースの10倍の値段はする高級品じゃ」
「……、えっ?」
嘘言わないでください、と言わんばかりのリナリアの表情。
元々庶民であったオーキドは突然不安になって、リナリアに質問を投げかけた。
「お主、サイコソーダが分かるかの?」
「エスパータイプの技ですか?」
「……ミックスオレは?」
「MIX・俺……? なんですかそれは」
「…………おいしい水は?」
水、と言う言葉に、リナリアは目を丸くした。
「水!? 水なんて販売してるんですか!? 詐欺みたいですね!」
「…………」
飲み物販売メーカーに謝れ、と命令みたいな言葉が喉から出掛かる。が、これ以上リナリアに何を言っても無駄なような気がしたので、その言葉をオーキドはそのまま飲み込んで、話を切り替える。世間知らずにしても恐ろしいものがあった。
「そういえば、お主はこの街に何日居座るつもりなのじゃ?」
「三日ほどと考えています。目的が早く済むなら、すぐにでも出て行こうと」
「そうか。のんびりしていくつもりはないのかね?」
オーキドの提案に、リナリアは黙って横に首を振る。
「三ヶ月ぐらい、また留守にすると思います。掃除も出来なくて申し訳ないです」
「構わんよ。どうせ誰も使っておらん家じゃ」
申し訳無さそうにする少女に、オーキドは皺の浮いた顔で笑った。
「でも、また来ると思います。……ここは、とても好きですので」
オーキドの笑顔に釣られるように、リナリアも、人の機微に敏感な者でも見逃してしまいそうな小さな微笑みを見せた。
「……でも、“誰も使っていない”というのは嘘ですよね」
けれど、隙を見せるようなその笑みはすぐに消えた。
次の瞬間にはリナリアは何時もの無表情を取り戻し、すっと目を細めて、オーキドの視線を逃がさないかのように見据えていた。
「だって、誰も居ないはずだったら白衣なんて着ません。『誰かを看護』でもしない限り、それは不必要な服装ですから」
深い深い色合いを持つ薄紫の二つの宝玉に、オーキドの姿が映る。
「……分からんぞ? 実験で着るのも白衣じゃからな」
「ここでは実験はしない、とオーキド博士は仰っていたので。ここでやる仕事は、書類や論文関係のものだけ、と」
はて、そんなこと言ったかな、と記憶に覚えがない自分の発言を思い返す。
と言っても、オーキドも黒美の存在を隠すつもりは無いので、この際だから話してしまおうと、口を開く。
「ハンサム君がのう。“また”連れてきたのじゃよ」
「はい?」
「だから、路頭に迷っている子を、じゃ」
「……あぁ」
その言葉で、全部把握してしまったらしい。リナリアはその美しい相貌に、いかにも呆れたと言わんばかりの苦笑を浮かべる。
「……ハンサムさんって、ほんとにお人好しですよね。私の時だって、『別に助けなくても構いません』って言ったのに、半ば無理やり連れて来られましたから。まあ、困っていたには困っていたのですけれども」
「……ほとんど犯罪じゃな」
「国際警察で恩人じゃなかったら、通報してるレベルです」
そう言って、リナリアはくすりと大人っぽく笑う。どこまでも年齢に不相応な仕草。
「ちょっと、その人の様子を見に行ってもいいですか?」
「? 何故かね?」
「あ……、いえ。駄目なら別に構わないのですが」
「いやいや、勿論様子を見るだけなら構わんよ。今の状態は落ち着いているからのう」
「……今は?」
まるでさっきまでは容態が落ち着いていなかったかのような言い方に訝しむリナリアに、オーキドは頷いてみせる。
「うむ。ここに来た時は少し危険な状態じゃったが、ハンサム君がそれなりに頑張ったようでのう。死ぬような雰囲気では無かった」
「そう、ですか」
そういうと、リナリアは一瞬顔を伏せて、再度問う。
「その子を、見てもいいですか?」
再度尋ねたリナリアは、何故か懇願するような面持ちをしていた。何でリナリアがそんな顔をするのかは、オーキドには理解できない。
「……構わんと言っとるというのに。医療室のところで寝ておるから、行ってきなさい。わしは仕事があるのでな」
「はい。……ありがとうございます」
小さく礼だけ言うと、リナリアは廊下の扉からリビングを出て行った。
やはり、ずっと何かを隠している様子だったが、オーキドは何も追求しなかった。彼女が「自分の目的」さえ言葉にしないのは、話したくないわけではなく、「話せない」からなのだと心得ていたからだ。
それはきっと、黒美やあのロキと呼ばれたマグマラシも同様。
大人にさえ相談できない子供の悩み事。オーキドには、それが何なのか想像も付かない。
手助けなんて、求められても居ないのだ。
「めんどくさいのう……」
だからこそハンサムは、面倒くさい餓鬼の悩み事なんぞ無視して、助けて欲しそうな子供がいるならさっさと助けてしまったのだ。
けれど、老人であるオーキドには、もはやそこまでの行動力は備わっていない。
ただ、困っている子供を助けてあげたい気持ちはハンサムと変わらない。だからこそこの“家”を“三人”に譲った。正確にはまだ譲っていないのだが、彼女たちが旅に疲れ、安住の地を求め始めた暁には、この家を譲ってしまおうとオーキドは思っている。
ただ、困ったことに三人とも家を求めていない。助けも求めていない。自分の求めるものを手に入れるための手助けすら、不要と判断している。だったら、大人たちには何も出来ないじゃないか。
「全く」
どうしようもないのう、と老人は一人ごちた。