爺さんの変な家 2-1
(寝てしまったか)
背中から聞こえる安らかな寝息で、ハンサムはそう判断した。
今抱えているロキだけでなく、黒美もかなり疲れが重なっているようだったから、そのまま放っておいてあげよう。睡眠して脱力し切っている黒美の体を揺らさないように気をつけながら、ハンサムは少し早歩きで公園に向かう。
それが幸いしてか、公園にはすぐに到着した。
夜の公園というのは子供の姿も人通りも無く、時たま吹く風に木々が揺れるだけの、国際警察の抑えた足音でさえ響くような静かな場所だ。雲間から見える月の光は、辺りを照らし出すには若干心許ない。
(お気に入りのスーツを、すっかり汚してしまったな)
もう血がこびり付いてしまっただろうから、洗濯しても着ることは出来ないだろう。変装をするためにいろんな服装はするのだが、彼にとっての正装に近いこの服は、優秀さを認められて国際警察に勧誘されてから長い間、愛用していたものだ。
まあ、安物のスーツだ。生地のほつれや手直しの後も目立つようになってしたし、変え時かもしれない。
「さて」
誰にともなく呟き、ゆっくりと衝撃を与えないように、近くのベンチにロキを降ろす。背負ったままの黒美を起こさないように別のベンチに寝かせて、ロキの傷と状態を見る。
圧倒的強さと残虐さを誇ったマグマラシの全身からは力が抜けていて、赤ん坊のように首が据わってない。死後硬直のない死体のようだ。
(こんな状態になるまで、この女の子を守り切り、ギンガ団を潰したのか……)
ロキを真っ赤に染め上げている血をタオルで優しく拭き取り、赤い斑点の目立つ額に「げんきのかけら」を押し付けながら、ハンサムは思う。
ロキを抱き抱えて気付いたことだが、その体にこびり付いた紅は、何もギンガ団団員やそのポケモンたちのものだけでは無い。
むしろ、「黒美を庇って出来たのだろうという無数の傷」の方が、多く刻まれていた。
下手したら致命傷になりかねないものも幾つかあり、どれだけロキが無理をして戦い、どれだけ黒美がそのロキの姿に精神を擦り減らしたかが分かる。
なんという忠誠心、なんという憎悪だ。恐怖を通り越して感嘆を覚える。
「……お?」
リズム的になってきた小さな吐息を聞いて、思考を現実に戻す。
「げんきのかけら」の効果で致命傷だった傷も死なない程度に塞がり、血が止まっている。まだ危ない状態であることには違いないが、ここまで落ち着いたら、後は「すごいきずぐすり」を塗りたくって休ませれば、命の危険は無いだろう。
「とんでもないな……」
もはや生命力の問題ではない、不死身の域だ。
「急所に当たった!」
ゲームでならそうメッセージが出て、一撃でポケモンが瀕死に陥るようなダメージを何度食らっても、痛みを忘れたかのように襲い掛かってきたのだろう。
大体、これだけロキが弱っている状態でも、追撃に来るギンガ団が誰も居ない。
もちろん、奴らが身体をほとんど動かせないのもあるだろうが、本来逃がしてはいけないロキや黒美を見逃しているのは、単純に「もうあのマグマラシとは戦いたくない」という願望があるのだろう。
(そりゃ何度瀕死のダメージを負わせても倒れないのでは、トラウマにもなるだろうな)
さぞかし恐ろしかっただろう、こんな“怪物”と対峙することになったギンガ団の連中は。嫌いな輩共だが、ほんの少しだけ同情した。
“最終形態”ですらないマグマラシに何十匹のポケモンを戦闘不能にさせられ、部隊の人間を全員気絶させられたら、自分は冷静でいられるか? そんなのは無理だ。
幹部やボス、精神的支柱も居ない状況下。部隊崩壊まではあっという間だっただろう。
……ちなみにだが。あの地獄のような場に転がっているギンガ団には、国際警察の下部組織からの救援が来るように手配してある。ざっと眺めてみたが(眺めたくはないが)、手足がぼっきり折れている奴はたくさん居ても、心臓付近や頭をやられている、という奴は居ない。
つまりあのマグマラシは、あれだけの殺気を抑え込み、誰一人殺さなかったことになる。
その事実がより一層、この“怪物”の強さを証明していた。
「ポケモンが、人間を殺さないように手加減しながら打ちのめす……。全く持って恐ろしいな。このマグマラシは」
ともかく、救援が来てから処置を行われることになっても大丈夫だろう。そもそもあの人数をハンサム一人で助けるのは不可能だ。
何より、もうすぐ到着するとの連絡も来た。ならほっといていいだろう。
「あ、あの」
ハンサムが思考に耽っていると、目を覚ました黒美がおずおずと話しかけてきた。
「ん? ああ、もう起きたのか。どうした?」
「はい。ご心配かけました。……その、ロキは大丈夫なんでしょうか?」
「ああ、少し不安だったけど大丈夫そうだ。意地でも死にたくないらしい」
「そうですか……」
それだけ聞くと、黒髪の少女は再び黙り込んでしまった。
俯いてしまったため表情は分からなかったが、安堵したのだろうと国際警察は判断した。この二人の関係がどういうものかは分からないが、トレーナーと手持ちポケモン、という間柄で間違いないだろう。自分の手持ちのポケモンが無茶して死に掛けたら、ハンサムだって不安になる。
「良かった……」
「げんきのかけら」と「すごいきずぐすり」の効果が聞いたのか、大分落ち着いた表情になっているロキを見つめる黒美の顔は、小さく微笑んでいた。業火だろうと燃えない黒い毛を、優しく撫でながら。
絵師が通りかけたら、そのまま絵画のモチーフにしてしまいそうなほど温かな光景に、ハンサムも知らず笑みがこぼれる。
「そういえば、一つだけ質問してもいいか?」
「はい」
「君たちは、元々どこに居たのだ?」
ハンサムの質問に答えようと、「そうですね……」と一瞬自分の記憶を引き出すべく微かに眉を寄せ……。
黒く美しい黒髪を持つ少女は、はっとして、そのまま言葉を失ってしまった。
その表情を見て、失敗した、とハンサムは即座に悟った。言い訳をするなら、世間話のつもりで、張り詰めた空気が抜け切っていない少女を安心させるつもりで放った質問だったのだが。
「いや、話しにくいことならいいんだ。すまない、流してくれ」
「……え? あ、いえ。大丈夫です」
こんな場所に、こんな貧相な服装で、こんな痩せ細った状態で居たのだから、碌な過去は持っちゃいないことぐらい予想の付いたことだろうに。デリカシーの無い自らの質問に、ハンサムは小さく舌打ちをして自己嫌悪をしてしまった。
「良くある話」通りなら、黒美は孤児かなんかだろう。なら喋りづらいのも詮無きことだし、喋りたいような過去が無いのも充分に有り得る。
……ただ、少し気になるのは、「少女も軽い気持ちで返答しようとしていた」ことだ。その上、俯いて影になった黒美の美しい顔には、何か忘れ物を思い出したような、“忘れていたことを思い出した”ような、奇妙な面持ちをしていた。
無論、ハンサムもそこまで深く踏み込むつもりは無い。彼女の心に土足で踏み込むのを失礼な行為だと判断したからだが、どこかで“この娘と関わる危険なのではないか”という危惧があった。
といってもそれは、黒美とロキを助けてしまった時点で手遅れとも言ってしまえる、無意味な危機感だったのだが。
余計な考えを振り払うように、ハンサムは立ち上がる。
「ついでに聞くが、黒美はこいつのボールを持っていないのか?」
「……、ボール?」
「なんですかそれは」と言わんばかり反復する少女のあまりの無知さにハンサムは内心呆れ返った。
そりゃ、この世界の住人なら確実に知っていなきゃいけないことだろうに。
「モンスターボールのことだよ。赤白、青赤、黄色黒、色々あるボールのうち、こいつを入れているボールを持っていないか?」
「……ええと、多分これのことだと思います」
訝しげな視線を送るハンサムに気を悪くした風もなく、少女はポケットから小さく圧縮された紅白の玉を取り出した。一番安価で一番普及しているタイプのモンスターボールだ。
「そいつの中に入れておけば、ポケモンは基本的に弱らないようになっているんだ。便利だから、覚えておくといい」
「はい、分かりました」
「んじゃ、そのモンスターボールをこいつに当ててくれ」
「……こ、こうですか?」
ちょん、とロキの体にモンスターボールをくっ付ける。
……何も反応しない。
「……あ、あれ?」
「……。……悪いが、衝撃を感知しないとモンスターボールはポケモンを収納できないのだ。もうちょっと強く当ててくれ」
「……え。あ、は、はい!」
良い返事だなオイ、と思わず心の中で突っ込みを入れてしまう。
恐る恐るボールを当て、コツン、という擬音が似合いな音を立てて今度こそロキを収納することに成功した黒美を、ハンサムは心配な気持ちで見ていた。
この子、色々と大丈夫なんだろうか……?
モンスターボールの扱いを知らない子供なんて、同じ年代じゃほとんど居ないだろうに……。
他にも社会常識な知識もかなり欠如しているようだし。体力も無さそうだし。
このまま放っておくのはかなり心配だ。
ロキの入ったモンスターボールを大事そうに持つ黒美の弱弱しい姿を見て、ハンサムは決心する。
やっぱり、人に物を教えることの出来る教養の深い人に一時的に預かって貰うのが良い。頼るべきはあの人だな……。
「さて、同僚(むこう)も到着したようだし、私たちも行くとするか」
「……どこへ、ですか?」
「子供の大好きな耄碌爺さんの家だよ。確かこの時期はハクタイシティに居座っているはずだからな」
ポケモン学の権威とも言われる御人好しなお爺さんのことを思い出しながら、ポケッチで番号を選んで連絡する。
時刻に2:00と出ていたような気もするし、確実にあの人なら爆睡しているような気もするが、無視。
まあ、可愛い女の子が見られるなら喜んで起きられるだろう、うん。と自分の中で勝手に納得をして携帯を耳に当てる。
『……もしもし。オーキドじゃが』
「簡潔に言います。もしも可愛い可愛い女の子が困っていたらどうしますか?」
ハンサムの予想とは違い、普通に今まで起きていたという声に、ハンサムは名乗りもせずに本題を突き刺した。
『…………ハンサム君、君はどれだけわしのところに面倒ごとを』
「で、どうします?」
『………………、三人目じゃぞ? そろそろこの家が狭くなってくる頃じゃ』
……気のせいだろうか。電話のスピーカーから長いため息が聞こえたような。
黒美がおかしく感じる間も、ハンサムのえげつない交渉は続いていく。
「どうせあの二人はそのまま拠点として扱ってるだけじゃないですか。なら問題はありませんよね?」
『……………………お主、いつの間にそんなに外道になったのじゃ』
……電話の向こうにいる人間の沈黙が、だんだん長くなっている気がする。
「いいじゃないですか。いつも使わない家に居候が出来ることである程度綺麗さを保つことが出来る。使い切れない金も少し消費出来る。良いこと尽くめじゃないですか。博士の寿命は減るような気がしますが」
『耄碌ジジイの後僅かの寿命を奪うと言うのかお主は!』
「でも、可愛い可愛い女の子が路頭に迷うよりは良いですよね?」
『ぬ、ぬぐ……』
「え? えぇー? もしかして博士ってそういう人間なんですかー? 自分の寿命やら家のスペースのために可愛い可愛い女の子が困ってるの放って見捨ててしまうような人間なんですかー? 可愛い可愛い女の子が泣いて懇願してるのを無視して自分の家に引きこもってポケモンの研究するような冷血冷酷最低最悪極悪外道の餓鬼魑魅魍魎の類の人種だったんですかー? だったら早く死ねばいいのにー」
『…………』
(あ、電話越しの人間が本当に沈黙した)
なんだかキャラ崩壊までしかねないほどの毒舌を放つハンサムの姿に、黒美は絶句してしまった。でも、可愛いって連呼するのは止めて欲しいと、恥ずかしさで頬が若干赤く染まった少女は思う。
『……ふむ。分かった。そこまで言うなら仕方あるまい』
「さっすが博士! 話が早い!」
『どうせお主が匿おうとするような子じゃ。まともな事情では無いのじゃろう?』
全てを見透かした聡明な老人の言葉に、今度はハンサムの方が黙る番だった。
「……はい。でも、良い娘だとは思います」
『どうせそんなことじゃろうと思ったわ。早く連れて来なさい。どうせ仕事が終わったばかりでこっちは暇なのじゃ。話し相手にでもなってもらおうかの』
「はい、……ありがとうございます」
『それとハンサム君』
「……なんでしょう」
『公私混同は良くないのう。ほどほどにしたまえ』
老人のしゃがれた笑い声を最後に、電話は途切れた。
あっという間に形勢を逆転され、ハンサムには言葉も無かった。
「……あ、あの?」
電話を切った後も言葉を発さないハンサムの姿を見て、黒美が不安そうに声を掛ける。
全く。あの爺さんには敵わんな……、と内心苦笑を零しながら、黒美の方に向き直った。
「すまんな。丸め篭められてしまった」
「……えと、今話していた人は……?」
「ああ、オーキド博士。知らない名前じゃないだろう? その人の家にしばらく居候させてもらえることになったから、しっかり寄りかかって頼りなさい」
「え? あ、はい。……ありがとうございます」
どうやら、今の会話で交渉を済ませてしまったらしい。
なんだか、うまく行き過ぎていないだろうか。何から何まで世話になってしまっているのだが、本当に良いのだろうか。親切にされすぎて、黒美は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
――人間なんて誰一人信用できない。だから、僕が黒美を守る。
信用してもらえるかな?――
黒美を守ってくれたあのマグマラシはそんなことを言っていたが、案外、人間も悪くないものなのかもしれない。
少なくとも、黒美とロキを助けてくれたこの国際警察の人と、さっき言ってたオーキドって人は、信用してもいいんじゃないかな、と思う。
それがなんとなく嬉しくなって、黒美は小さく笑った。
それは、笑っているようで笑っていない、ピエロのような微笑みにも見えた。