始まり。
終わりと、始まり 1-2
「……」
 気が付くと黒美は闇の中に居た。一つも音が聞こえず、空気の流れさえ感じられない暗闇に。
「……あれ? 私今……」
 何を喋っていたのだろう。ロキに対して、何か戒めの言葉を言っていたような気はする。その内容を思い出せないことに疑問に思いながらも、これが夢なのかを確かめるために強く手を握ってみた。
 痛みがないというより「触覚」がなかった。これが夢であるなら当然なのだが、意識だけ合って身体は動かせるというこの状況は、黒美にとって違和感しかない。
 その上、頼りの思考はぼんやりと靄が掛かっているようで、うまく物を考えることは出来ないようだ。これが夢だと分かるぐらいにしか、頭が働かない。見ていることを自覚できる夢、……確か、明晰夢っていうんだっけ。
 宇宙空間に放り出されたらこんな地に足の付かない気分になるのだろうか。
(でも……)
 これは、夢と呼ぶにはあまりに既視感が強すぎる。この真っ黒い何もない世界に、私は見覚えがあった。
 ……これはもしかして、過去に見た映像をごった煮にしすぎて真っ黒になってしまったものではないか? 眠たげに考えた割に、黒美はその考えに確信を持てた。つまり彼女は今、昔の記憶を「一気に」見ていることになる。
(ならなんで?
 なんで私は、この場から『早く抜け出したい』と思っているの?)
 その理由、否「原因」はやはり何も思い出せなかった。記憶が残っているからこそ既視感なのだろうが、それを思い出す「再生機能」が壊れているようだった。動かないわけではないが、どれか一個だけを思い出すことは出来ない。
 なんて使えないレコーダーなんだろう、と黒美は独りぼやいた。
 それじゃあレコーダーじゃなく、ただの記憶媒体だ。
「痛い」
 何が?
 夢の中だから痛覚のない今の黒美には、その痛みの正体が分からない。ただその後すぐに黒美が一つ理解したのは、それを痛みと呼ぶには生易しすぎることぐらいだった。
 “苦痛”。苦しみと痛みが同居する地獄のような代物。
「痛い、痛いよ」
 つーっと、冷たい何かが黒美の頬を伝う。何もかも薄れた夢の世界で、何故かその感触だけはっきりしていた。
 気付けば体を苛む痛みは激痛となって、手、足、肌、五臓六腑全てに広がっている。夢だけではなく、現実の体でも痛みを感じているのだろう。目覚めが近い証拠なのだろうが、黒美の心は逆に前後不覚に陥っていた。
(でも、なんかそんな痛さもどうでもいいなあ)
 けれど、黒美の悲しくなるぐらい心は動かなかった。さっき流れた涙もこの痛みとは関係ないように思う。痛い、と呟く黒美の語調は酷く淡々としていて、動かないというよりは既に動くものが存在していないようだった。
 身体はこんなに苦痛に埋め尽くされているのに、心だけは致命的に動かない。さっきまで心が苦しかった気がするのに、今はむしろ「ああ、またか」という一種の諦観が黒美の中を渦巻いていた。
 それはどこか虚しくて、絶望にも似ていた。
 あたり一面塗り潰された闇の中、寂しいなあ、と黒美は独りごちた。
「……っ」
 “体の反応”で反射的に痛苦に顔を歪める黒美の表情は、どこかわざとらしく映る。どこが痛いのかも分からないぐらい痛いのに。その概念さえ分からなくなるほど、身体と精神の全てが痛みに塗れているのに。
 ただ、それだけ黒美が激痛に溺れても、もはや心地好ささえ感じていたのがその原因かもしれない。
 確かに痛くて苦しくて辛いが、ここで浮かんでいるだけなら、別に黒美は何もしなくていい。悲しむことも、怒ることも、憎むことも、寂しがることも、「希望を抱くこと」も、何もしなくていいのだから。
 堕落したままどこまでも沈んでいける。
「…・・・」
 けれど、こんな場所でも、黒美は考えるのを止めることはなかった。
 ここはどこで、どんな映像が流れていて、どんな世界が広がっている? これだけ辛いのだからきっと碌な過去が流れていない。それでも、黒美は思い出そうとした。記憶を失ったが故に自分のことは何も分からず、今まであのギンガ団に「何をされてきたのか」も知らず、ただロキの言う通りに着いてきた。その状況に不満を感じてないといえば、嘘になる。……それでいいのだろうか。
 否、自分の意志がないまま旅をしても、リナリアやロキに迷惑をかけるだけ。だったら今、覚悟を決めなくては。
 ――私が弱いがために、二人が苦しむのは嫌だ。
 自分が誰なのか分からないこんな状況は嫌だ。
 自分のことを何も知らないまま、それでロキとリナリアたちの足手まといになってしまうのはもっと嫌だ。
 なら、やることなど決まっている。
「こんなところで、立ち止まっている暇なんて無い」
 このまま寝ていたって、ロキに心配かけるばかりだしね。
 痛すぎる夢の中、黒美は強気に笑った。
 それでもその笑顔は、道化そのものだった。




「…み、……くみ、黒美!!」
 余裕のない呼び声で、黒美は一気に覚醒した。
 何度か瞬きをして、ゆっくりと上体を起こす。
「あ、黒美……」
 へたん、という擬音が似合いそうなほど脱力したロキを見て、黒美は不謹慎にも思わずにやけてしまう。いつも飄々としている自分の相棒のそういう姿は、すごく新鮮だった。
 どうしてロキはそこまで狼狽しているんだろう、と不思議に思いつつも、未だ少し眠い目を擦る。
「あ……」
 そうやって初めて、黒美は頬に涙の跡があることに気付いた。そういえば内容は記憶に無いものの、悲しい夢見ていた気がする。
「……心配かけてごめんね。ロキ。さっきほど酷くはないから、大丈夫だよ」
 安心させようとして、黒美は力なく笑う。
 だが、気を抜いたとはいえ、心配性なロキはそれでも仏頂面をやめようとはしない。怒っているわけでは無さそうだが、黒美が嘘を吐いていたら昏倒させてでも眠らせてやる、みたいな眼でもあった。ロキが黒美に手を出すことは、天地が翻ってもありえないだろうが。
 そんなロキの表情に苦笑を零しながらも、身体を解すために軽く伸びをして、辺りを見回す。病的に綺麗な病室のような部屋。家というよりは拠点みたいな扱いの、オーキド博士の別荘だ。
 ジト目で見てくるロキの頭を撫でた後、さっきから妙に静かなリナリアの方を見る。……ロキを見て和んだ気持ちが全部吹っ飛んだ。
「良かった。良かったです黒美さん」
「……あー、ごめんね。リナリアちゃん」
 “こっち”の方はロキよりずっと余裕無さそうだった。ぎょっとした黒美の笑顔が引っ込む。黒美が無事だったのを確認してほっと息を吐いたリナリアは、既に目が真っ赤だった。しかし、まだまだ涙は出るようで、俯いていた顔をぱっと上げるとぼろぼろと目から雫が零れ落ちていった。
「……わぁ! 泣かないで!」
「だ、だって……。突然倒れてしまいましたし、一日目を覚ましませんし、私もう、どうしたらいいか……。く、黒美さんに無理させすぎて、しまったの、かと……。助けに行くのも、間に合わ、なかった、ですし……ぐすっ」
「……だ、大丈夫だよ! これぐらいなんてことないから!」
「ロキさんには嘘を吐くなというのに、ご自分は嘘を吐くのですね……ぐすっ」
「……、う」
 リナリアにティッシュケースを渡しながらも、黒美はその言葉に押し黙る。自分でも良く分かっていない力を使って倒れたのだから、大丈夫と言っても説得力が全く無い。だから嘘だといえば、確かに嘘だった。
 勿論、騙すつもりでいった嘘ではない。なんとかリナリアとロキを安心させられれば、と思って咄嗟に放ってしまった言葉だ。その結果、余計にリナリアを悲しませることになってしまったみたいだったが。
 それにしても、まだここに住んで大した期間を経ていないのに、「ああ、帰ってきたんだ」という安堵感があるのが不思議だ。その雰囲気のおかげか、黒美も幾分か落ち着いてリナリアをなだめることが出来る。
「あの良く分からない力とか、黒美さんの過去とかを追及するつもりは、ありません。……でも、ぐすっ。せめて、自分の体調ぐらいは、本当のことを言ってください……。今回みたいに急に倒れられたら、……ぐすっ、私、どうすればいいか分からなくなります……」
「……ごめんなさい」
「分かってくれたのなら、ぐすっ、いいですっ! 今後は、許しません! ぐすっ」
 黒美から差し出されたティッシュケースを乱暴に奪い取って、これまた乱暴に鼻をかむ。その様子が可愛らしくて思わず笑ってしまう黒美だが、直後にリナリアに睨まれて小さくなった。
 そんな二人の様子を見て少しは緊張感も解れたのか、はぁ、とため息を吐いてロキがぼやく。
「あー……。でも本当に良かったよ」
 少し緊張感の無い、彼にしては珍しい雰囲気のロキがニヒルに笑う。
「もし黒美が駄目だったら、逃げるギンガ団を皆殺しにして自分も死のうかと思ってた……」
「ロキ」
「嘘だよ」
 本気でやりそうな語調でさらりと物騒なことを呟くロキだった。リナリアも呆気に取られていた。
「……まあとりあえず、もうちょっとオーキド博士にはお世話になったほうがいいかもね。黒美の体力に問題ありまくりなのは今に分かったことでもないんだけどさ」
「そうですね……。まあ、ギンガ団もあれだけ派手に暴れたわけですし、もうしばらくは表立って行動することも出来ないでしょう……、って、なんで目を逸らすんですかロキさん」
 明らかに眼を泳がせるロキと、彼を睨みつける黒美の姿を見て、リナリアが不思議そうに首を傾げる。
「い、いや、別になんでもないよ。大丈夫」
「……じー」
「黒美、その、視線、やめて。痛い」
 ただでさえ感情が表に出ない黒美の黒眼だ。それで睨みつけられると、萎縮するというよりは背筋が凍ってしまう。三十秒ほど、ロキがだらだら冷や汗を流すのを見据えてから、黒美がとあることを思い出す。
「そういえば、ミルナァルさんは?」
「……あー、知らないしどうでもいいしどうでもいいけどそういやどっかに行ったね。その辺でくたばってるんじゃないの? むしろそうなってることを希望」
 ミルナァルの話のせいで、分かりやすく不機嫌になったロキを見て苦笑しつつも、リナリアにも同じことを尋ねる。
「えーと、何やら『急用が出来たようじゃ』とのことですよ。確かロキさんが寝ている間に去って行きましたね」
「へえ。顔合わせたくなかったし、ミルナァルにしちゃいい配慮だ」
「『黒美がぶっ倒れたせいで相当にうろたえるロキの面白い顔が少しの間見られなくなるのは残念じゃが、またの』とも」
「道端で野垂れ死んでしまえクソ女狐」
 素早すぎる掌返しだった。
「まあ、居なくなってしまったミルナァルさんはいいです。別にあのキュウコンは、なんか死んでも死ななそうですし……」
「……残念だけど、それは言えてる」「そういう雰囲気はあったね」
 リナリアの言葉に納得して、同じようなタイミングで頷いてしまうロキと黒美。
 息の合いすぎる二人の姿に、リナリアは思わず噴き出した。ロキと黒美が揃って呆気に取られている間もリナリアはずっと笑っていた。
「ふふふっ、全くもう。貴女方は本当に……。本当に、二人とも無事でよかった」
 やっと涙と笑いの渦が引いたのか、擦りすぎて既に真っ赤な目でリナリアが言う。
「黒美さんも、さっきの“力”がどう身体の負担になるのかも分からないのだから、無理はしないように! ロキ君も病み上がりなんだから、あまり無茶しないように!」
「「はいはい」」
「返事は一回です!」
「「はい!」」
「……、ほんと貴女たちは」
 無駄に異口同音する二人の姿に呆れるリナリアである。ここまで来るとわざとやっているのかと勘ぐってしまうが、調子の合いすぎる二人(一匹と一人)自身が不思議そうにしているのだからそれは無いだろう。
「と、脱線している場合ではありませんね」
「居なくても話を脱線させる存在なんだなあいつ。しねばいいのに」
「ま、まあまあ」
 ミルナァルのことを思い出すたびに分かりやすく不機嫌そうな顔になるロキを抑える黒美。既に見慣れた光景になりつつある。脱線したのは黒美とロキの息が面白いほど合ったからであって、それをミルナァルのせいにするのは単なる八つ当たりに過ぎないのだが。
「とりあえず、黒美さんの体調がある程度万全になるまではこの街で静かに暮らしましょう。伝で聞いた情報ですけど、この街のギンガ団本部は何故か非常に混乱しているようなので、一ヶ月の安息ぐらいなら案外どうにか出来るようです」
「……僕は何もやってないよ?」
「いや、別にロキさんを疑っているわけではありませんが。……だからなんで黒美さんはロキさんを睨むのです?」
 そう尋ねながらリナリアは、ものすごく冷たい視線でロキを突き刺す黒美を見る。向けられたら咄嗟に目をそらしたくなるぐらいの、絶対零度の目つきだった。
 遅れてやってきたリナリアは知らないだろうが、ギンガビルの混乱はロキが原因だ。彼の手による二度の残虐な襲撃のせいで、ギンガビルは八割壊滅の散々な状態なのである。“戦争”では五割壊滅で敗走らしいので、八割ともなるとほとんど再起不能である。
「んー? なんでもないよー。別にぃー?」
「は、はぁ……。それはいいのですけど、黒美さんちょっと怖いです」
「戒めとしてはこれぐらいがちょうどいいの」
「……」
 何があったかは知らないが、ちょっとだけロキに同情するリナリアだった。
「そういや、この家ってオーキド博士のものなんだよね?」
「え? ああ、はい。そうですよ。もうあの方は仕事で別の地方に飛んでしまっていませんが、鍵は預かっています」
 そういって、キーホルダー一つ付いていないシンプルな鍵をポケットから取り出すリナリア。
「既に『掃除さえすれば使ってくれて構わん。まあ、地下室に入るのは危険すぎるからオススメしないがのう。それだけ気をつけとくれ』とのお言葉を預かってます」
「オイ。なんか不穏な言葉がさらっと入ってるよ」
 黒美の視線に当てられたのか、若干顔の青いロキが思わず突っ込みを入れる。睨むだけでこれなので、これ以上やったらどうなることやら。
 黒美さんを怒らせるのだけは絶対に止めておこう、と心に固く誓いながらもリナリアが続ける。
「とは言ってもベッドは人数分以上にありますし、家具も家電も全部揃ってます。しかも生活費も博士が負担してくれるというこんな環境は、他にありません。ちょっと危険でも好意と思って我慢するべきでしょうね」
「ちょっとどころじゃない気がするんだよ……」
「……、まあ、なんとかなりますよ。なんとか」
「不安すぎるよ!」
 思わず叫ぶロキ。
「まあ、流石に興味本位で地下室を覗きに行ったりする人もこの中には居ないでしょうし、放っておいても大丈夫でしょう……、ってロキさん、何故黒美さんを睨むんです」
「んー? いやなんでもないよ。全然なんでもない」
 今度は黒美が無言で冷や汗を流す番だった。
 覗きに行ってみたいとちょっと思っていたなど、ロキには怖すぎて言えない。言えなくてもすぐに見透かされてしまったようだが。
「……まあ、二人が何を隠しているかは知りませんが、それは別にいいです。外に出る準備をするなら、服が必要ですよね?」
「それはまた随分突然だね」
「こうでもしないと話が進まないんです! 既に脱線三回目ですよ!?」
 それもそうだ、とロキと黒美は二人して拳を掌に当てて納得する。
「なんでさっきから貴女方は動作が同じなんですか……」
 さあ? とまたも二人して同じように首を傾げたロキと黒美にリナリアはほとほと呆れ返ってしまった。ちなみに。
「――そりゃあ決まっておろう。ロキがその娘を大好きだからじゃ」
「きゃあっ!?」
 その返答はリナリアの背後から聞こえた。少しだけ枯れた澄まし声に、リナリアが驚いて飛び上がる。
「くくく。お主ら中々いい反応するのう」
 呆気に取られたロキと黒美と、尻餅を付いたリナリアをそれぞれ眺めて、その九尾は笑う。
「じゃが、何を驚いておるのじゃ主らは? 先ほどちゃんと約束したじゃろうよ。今やわしは黒美のポケモンじゃ」
「でも、急用って……」
「わしを使い走りにする小ざかしい娘の用じゃよ。全くわしの姿は人の中じゃ目立ちすぎるというのに、見つからずに届けろなど無茶振りをしおってのう。……ほれ」
 がしゃん、と物々しい音を立てて大きなケースが放られる。その金色の毛並みを持つ九尾を使って器用にも持ち運んできたらしい。しかも人の目に触れず。無茶を言う依頼者もアレだけど、その無茶を達成するのはもっとアレだろ、とロキは小さく突っ込んだ。そんなロキの突っ込みを分かり易く無視して、ミルナァルは話を続ける。
「リナリア。お主が頼んでいたものじゃよ。黒美の服じゃ」
「ま、まだ何も言ってなかったのに……。仕事が早すぎます」
「奴は“先を識る”者じゃからな。行動も何時も早すぎるのじゃよ。……ふむ。ご丁寧に手紙も付いておるのう」
 四つ折りにされたルーズリーフの紙をこれまた尻尾で器用に開き、ミルナァルは淡々と読み上げる。
『リナリア、約束のものよ。貴女たちのことだし、どうせ取りに来るタイミングを逃すことになりそうだからこっちから送っておくわ。着替え用に計三着。趣味でやらせてもらったのでお金は要りません。どうぞお好きに着てください。少し着るのが面倒な代物だけれどきっと気に入ると思うわ』じゃとよ」
「なんでそんな無表情に読むのさ。貸して」
「あっ」
 珍しく表情を抑えて読んでいるのが気になったのか、ロキがミルナァルから手紙を掻っ攫った。すぐに取り返そうと躍起になるミルナァルの尻尾を華麗に交わしながら、ロキが中身を確認する。
「……ん?この手紙続きあるじゃないか。何々? 『P . S . そこの放浪するにしか能のない馬鹿狐は散々扱き使ってもらって構わないわ。放浪するにしか能はないけれど、戦いともなればそれなりに役に立つはずよ。と言ってもやっぱり放浪するにしか能はないから、黒美の盾ぐらいに使ってあげて。日向 縁』。……ってうわあ」
「……やめい。そんな目でわしを見るんじゃのうて」
 半ば同情の混じったロキの視線にミルナァルは首を振る。
「君も苦労してるんだね。ミルナァル」
「やめろ。同情するのじゃのうて」
「君も、苦労、くすくす、して、ぷくく、いるんだね。くくくくくっ」
 勿論、この偏屈マグマラシがミルナァルの同情などするはずもなかったが。
「……一瞬でもお主を信用したわしが馬鹿じゃったな。表出ろ」
「いいよ。そろそろぶっ飛ばしてやろうと思ってたんだ」
 炎タイプのポケモン二人が部屋の中で文字通り火花を散らし始めた頃。
「いい加減にしなさい二人とも!」
 ご、っと鈍い音が響き渡った。
「「〜〜っ」」
「これ以上脱線するなら、話を脱線させるなら、二人を水風呂に沈めるからね」
 大量のポケモンを捻じ伏せる実力を持つ二匹がたかが少女の拳骨で涙目になっているのは、なんともシュールだし、その少女の脅しで真っ青になっているのもまたおかしかった。
 黒美さんも脱線している原因の一端ですよ、というリナリアの突っ込みは見事にスルーされたが。
「く、黒美さん、それはやりすぎなんじゃ」
「後、二人が私のポケモンになった以上は、一つだけ守ってもらうから」
 静止に入ったリナリアを手で制して、黒美はロキとミルナァルと向き直る。
「対立するな」
 そして、一言だけ言い放つ。
「以上。喧嘩ぐらいなら赦すけど、私の護衛をやってもらうからには体力の浪費はしないでもらうよ。いいね?」
「「えー」」
「リナリアちゃん、風呂の準備」
「「誓わせていただきます」」
 やっぱり黒美ちゃんは絶対に怒らせちゃ駄目だ、とリナリアは震えながら再度誓うことになった。
「えーと、続けてしまってもいいでしょうか」
 黒美が怖いのか、だんだんと姿勢が低くなるリナリアに対して、黒美の方は段々と
「うん。いいよ。あの馬鹿二人は無視して」
「「何言ってるんだ(じゃ)! 馬鹿はこいつだ(じゃ)!」」
「いい加減にしないと本当に沈めるよ? いいの?」
「「ごめんなさい僕(わし)たちが馬鹿でした」」
 黒美も二人を虐めるのが楽しくなってきたのか、だんだんと笑顔になってきた。感情の篭っていない上に目も笑っていないので、背後に何か鬼でも見えそうだったが。
「それでリナリアちゃん、その中には何が入ってるの」
「……分かっているのに付き合ってくれて有難うございます。この中身は服ですよ。黒美さんのね」
「まあ、さすがにこの格好じゃ出かけられないしね……。あ、この手紙の裏もあるよ。何々?
 『ちなみにその服結構値が張るから気をつけなさい。世界で三着しかない特注品よ』。……、タダなんだよね?」
「で、で? い、幾らなんですか?」
「『少なくとも0が六個』、だって」
 パタリ、と今まで頑張っていたリナリアが脱線。否、脱落。
「七桁……。私の仕事絵二十枚分……」
「ああ! リナリアちゃんが眩暈を起こしてる! あーもうもう話が進まないよ! 開けちゃうね!」
「ああ、はい。もうどうでもいいです。開けてください」
「……駄目だ。リナリアちゃんが完全にあっちに行ってる。もういいや開けます!」
 ガチャリ、と物々しい音を立ててスーツケースが開く。
 開いた瞬間にあったのは、「黒」。真っ黒なフリルにフリル、どこまでもフリルだった。
「……これ、私服には絶対おかしいですよね。何考えてんですかねあのエセ預言者」
 一瞬で復活したリナリアが呆然と呟く。恐らく、綺麗にたたまれたこの真っ黒の服を広げると、かなり豪奢なものになるはずだ。……今時の私服にはありえない木製のコルセットが付属している辺り、それが良く分かる。
「……ん、僕もそう思った。でも絶対似合う」
「……よし、では早速着せますね。縁さんがご丁寧に着方を書いた紙まで準備してくれてるからなんとかなるかと」
「……縁はマメじゃのう。コルセットはどうするんじゃ? 流石に苦しいのではないかの」
 ばさり、と恐ろしく値が張るその服をリナリアが綺麗に押し広げると、喪服とも勘違いされかねないほど真っ黒いドレスになった。ゴシック・ロリータとも呼ばれる、ここよりずっと東の国で主に爵位を持つ人間が着ていたとされる服だ。ちなみにゴシックとは「黒」という意味を持つのではなく、その時の東洋の国々の美術様式のことを指す専門用語だ。
 使う布の量や質もかなりのものでないと見栄えが悪いため、基本的に普段着として着られるような物は恐ろしく値が張ってしまう。……それにしたって、七桁はやりすぎだと思うが。
「勿論着せます。黒美さんはそのままでも十分スタイルはいいのでしょうけど」
「鬼かお主」
 ミルナァルも恐れ入るリナリアの拘りだった。
「では黒美さん、あっちに試着室があるので行きましょう」
「な、なんか私を無視して話を進めてない……?」
「行きましょう」
「え、あ、うん……」
 何故かすごく元気になってしまったリナリアに引きずられるように、黒美の姿が見えなくなっていく。
「……ってかなんで試着室あるんだよ!? 何考えてんだよあの爺は! もうこの家の配置物に不安しか感じないよ!」
 ロキの心配と突っ込みはスルーされた。どいつもこいつも自分の都合の良くない人の発言はスルーしすぎである。

 その後、苦しそうな黒美の悲鳴が家中に響き渡ったりするのは、また別の話。

■筆者メッセージ
こんなに台詞ばっかりで良いんだろうか……、
鳩平欠片 ( 2012/10/31(水) 02:28 )