好意と、憎悪と 1-4
「……私には、記憶が無いんだ」
さらり、と風が吹くように自然に放った黒美の言葉。
「……何時から? と言われても分からないし、どこまで? と言われても分からない。……私に分かるのは“私に記憶なんてものは無いってこと”ぐらい。だから私はね。言葉を喋ることの出来る赤ん坊みたいなものなんだ」
「……、そんなのって……」
途切れ途切れに絶望的なことを語る黒美に、リナリアは言葉を失くした。黒美の表情から、本当になんでもないことのように語っているのが見て取れるせいで、余計に絶句してしまった。
(それじゃあ、それは記憶障害と言えるレベルのものですら無い。“自分という物自体を忘れているに等しい”じゃないですか。
自分が何者かも分からないというのに、自分がなんなのかさえはっきりしていないのに、“自分のことさえ信用出来ていない”と言うのに、それでも黒美さんは、私を信じると言ってくれたのですか。
それは、――なんて覚悟なんだろう)
私には、そんなことは出来ないとリナリアは思う。この状況で私を信じてくれている黒美さんのことを、利用しようとした私には。
「……まあ、そう言っても別に気にしてないんだけどね」
にへら、と見ていて気の抜けそうな黒美の笑み。
気にしていないように見せているのがすぐに分かる、道化の微笑み。
「……ロキも私を助けてくれたし、ハンサムさんにもお世話になったし、オーキド博士も居場所をくれたし、リナリアちゃんも私と仲良くしたいって言ってくれた。私は、今幸せなんだなあ、なんて思うよ」
「それは……」
今まで不幸すぎた、その反動みたいなものなんだ。
そんなことは、リナリアの口からは言えない。
「……とにかく、私には記憶が無い。別に良いんだけどね。ロキも、“思い出さないほうが良いかもしれない”って忠告してくれたわけだし」
「かも、だとは思わないけどね。……黒美、本気なの?」
「……構わないけどさ」と言いつつ、若干不機嫌そうな表情を隠そうとしないロキに黒美は苦笑。
ロキは、自分の忠告を信じない黒美に不満なわけではなくて、危険とも言える決断をした黒美の無茶に、怒っているのだろう。
「……うん。心配ばっかかけて、ごめんね」
手を合わせて謝る黒美からロキはそっぽを向いて、再び目を瞑って静かになってしまった。どうやら彼の機嫌を損ねるような決断らしい。
そんな彼を黒美はしばらく申し訳なさそうな目で見ていたが、俯いているリナリアと神妙な面持ちのオーキドの方に向く。
「だけど私は、“私の記憶”を知りたい」
決意した少女の瞳は、真っ暗なのに、ハイライトも差し込まないのに。
どこか輝いて見えた。
「私もロキも、本当に酷い目にあったんだって。きっと私は、それを思い出したくないから忘れたんだろうな、ってことは、心のどこかで知ってるんだ。……私自身が何者かなんてことに、執着は無いんだけど」
「でも、」と長く喋り続けて少し体力を使ったのか、黒美が言葉を止める。
「私がこれまで関わってきた人たちには、もう一度会ってみたいし、私とどんな風に関わっていたかは、知りたい。
だからそれを知るために、私は旅に出ようと思ったんです」
リナリアの方から視線を移し、オーキド博士の方へ向く。
「だから、私にトレーナーとしての許可を下さい。お願いします」
そういって、黒美はオーキドに頭を下げた。
「オーキド博士! 私からもお願いします!」
黒美の隣に立って、リナリアも頭を下げる。
――その状態から、どのくらいの時が過ぎたのか。
しばらく経っても頭を上げようとしない二人を、しばらく厳しい眼差しで見つめていたオーキドだったが、ふっとその表情を穏やかな物に変えると、「頭を上げなさい」と優しい声色で二人に言う。
恐る恐る頭を上げるリナリアと黒美に、オーキドは老人とは思えない無邪気な笑顔を見せた。
「……、まあ、ちょっと待ちなさい。せっかくのトレーナーカードじゃ。写真は綺麗に撮りたいものじゃろう?」
「……! はい!」
「いい返事じゃ」と笑顔を輝かせた黒美と、安堵の表情を浮かべたリナリアを見て苦笑を零しながら、
「わしが知ってる中で一番腕の立つカメラマン、……じゃのうて、カメラウーマンがここに到着するはずじゃ。だから、服装を整えてからまたここに来なさい」
あっちいけ、と言わんばかりに手を振るオーキド。確かに、病院で着るような病的に真っ白な今の黒美の服装では、写真映りもあまり良くないだろう。
「え、でも私、服なんて持ってない。お金も無いし……」
「お金ならありますから。そんな心配も遠慮もいりません」
何時の間に落ち着いた声色でそう言って、リナリアは黒美の手を握る。
黒美の細い手よりも小さな手だったが、力強さがあった。
「貴女ぐらいの歳の女の子がお洒落しないでどうするのですか! 行きましょう! ハクタイは最近デパートみたいな大きな建物も増えたから、探せば気に入る服もあると思いますよ!」
「え、あ、ちょっと待ってよリナリアちゃん! 手が痛いよ!」
「……、おーい。二人とも、あまり突っ走らないように」
お淑やかな雰囲気とは裏腹に行動的なリナリアに引っ張られ、黒美は玄関の方に消えていった。その二人を追うように、少しだけ忘れ去られていたロキが慌てて付いていく。
「全く、最近の子供は……」
今後の彼女たちを行く末を表したかのような光景に、オーキドも楽しそうに笑った。
「――重いものを背負いすぎている、ですか?
……全く、相変わらずの過保護っぷりですね。自分の娘でもないのに」
そして、そんな彼女たちと入れ違いで誰かが入ってきた。
黒いキャスケット帽。底の厚い膝までの長さのロングブーツに、デニム生地のホットパンツ。プリント入りの白いTシャツの上に、レザージャケットという、寒い気候のシンオウ地方にしてはあまりにラフな格好の、快活そうで大人っぽい雰囲気を纏った少女だ。
そして、そのラフな格好には少しだけ不似合いな、大きめのバッグを持っている。
「おお! “雪”君! 思いの外早かったのう」
「オーキド博士から呼び出されたら、誰だって急いで来ますよ……。で、御用は? お仕事ですか?」
本当に急いできたのか、ポニーテールに纏めた水色の髪は若干乱れ、快活そうな服装とは裏腹に白い肌には、汗の後が残っている。けれど、愛想の良さそうな笑顔はほとんど崩れない。
仕事、と自分で言った瞬間に、その笑顔はわくわくとした感情を隠せない子供っぽいものに変わったのだが。
「ふむ、トレーナーカードの写真を取って欲しいのじゃよ」というオーキドの言葉に、「どっちの娘ですか? 紫髪の娘? 黒髪の娘?」とカバンからカメラを出して弄り始めた雪が返す。一眼レフの、女性が持つには大きすぎるカメラだ。
「黒髪の方の娘じゃよ。黒美君という」
「……そっか」
ちょっと落胆したような、雪の声色。
「……、どうした? 不満かね?」
「え? いえいえ! 被写体としては文句なしですよ! 可愛いし綺麗ですし! そうじゃなくて、……あー、いえ、こっちの話です」
「ふむ?」
一瞬疑問に思ったものの、それ以上追求はしない。
別に、彼女の仕事の内容とは関わりのない話だ。
それからしばらく仕事の内容をオーキドが雪に使えて、雪はそれをメモする、というストイックな時間が続いた。
不意に彼女のメモ帳を覗くと、そこにはしっかりと仕事の内容が記載されていた。この娘なら記者辺りも向いてそうじゃな、とオーキドは思う。
「とりあえず、仕事の内容は理解しました。でも、ちょっと時間が掛かるかもしれませんけど、大丈夫ですか?」
「何故かね?」
「ちょっと、あの娘――黒美ちゃんの表情は不思議なので、いい笑顔を撮るのに苦労するかもしれません」
それは、普段自信満々で写真を撮っている雪にしては、珍しい提案だった。
「不思議、と言うと?」
「……こういう表現は違うかもしれないんですけど、その、彼女の表情って『ピエロ』みたいじゃないですか」
思いも寄らない言葉に、オーキドが黙り込む。
「いや! 違うんです。黒美ちゃんが良い娘だっていうのは雰囲気とか仕草で分かります。私だってそこまで疑心暗鬼がありませんから」
「じゃあ、何故そう思うのかね?」
「……なんか、気のせいかもしれないんですけど」
“彼女の表情は、表面的に変わっているだけで、感情はほとんど表に出ていないのではないか?”
“というより、彼女の感情は、表情を変える『色』として、表面に出ていないのではないか?”
「なんか、モノクロの写真を見るときの寂しさに、似てますね」
少しだけ悲しそうに、雪は言う。
「私は写真家なので、人の写真もやっぱり撮りますよ。なので、人の表情にはそれなりに聡いつもりです。でも彼女の表情には、感情という名の『色』が無いように感じるんです。だから、それを出すために少しだけ苦労するかもしれない、と。そういうことです」
「なるほど、のう」
16歳のそれとは思えない、今一瞬黒美を見かけただけに過ぎないはずの雪の観察眼に、オーキドは恐ろしさすら感じた。
確かに、オーキドも黒美の表情に対しては違和感があった。だが、人やポケモンの表情を捉える仕事をしている雪は、それを感じる“モノ”が違う。
13歳にしてポケモンリーグの頂上まで近寄りながら、とある事故で地獄まで転落した少女。黒羽 雪(くろば ゆき)と言えばその名前を知るトレーナーもかなりの数居るだろう。
その最高峰に近づいた道を簡単に切り捨て、たった三年で世界に知られるカメラウーマンになった雪の研鑽力と集中力と観察眼は、常人のそれを遥かに超えていた。
「んで、リナリアちゃんと黒美ちゃんはどこに向かったんですか?」
「服を買いに、じゃよ。あの服装で写真に映らせるわけにも、行くまい?」
「あ、そういうことだったら、私も付いていけば良かったなぁ……」
「友達に成りかけの二人ショッピングの邪魔するのかね? 雪君は」
「私も友達になれるので、無問題です」
そう言って雪は、そこらの男を骨抜きに出来そうな悪戯っぽい微笑みを見せる。
男である以上、こいつに敵う奴なんてほとんどおらんじゃろうなあ、とオーキドは苦笑してしまった。
「……お主が言うと、本当にそうなりそうだから困るのう」
「お褒めに預かり光栄です。あ、で、写真はどこで撮ったらいいですか? というかどっか広いスペースあります?」
「おお、それならこっちの部屋に……、とそういや、お主は何故この付近におったのかね?」
「え? だって私もともとここに来る予定でしたから。ほら、やっぱり、アレじゃないですか」
「アレ?」
「お祭り楽しんでる人の表情って、カメラに収めがいがあるじゃないですか」
重量感のあるカメラを構えて、雪は楽しそうに笑った。
*
「わぁ……」
開口一番。黒美は惚けたように歓声を上げた。
「そういや、そんな季節でしたね。タイミングが良いです」
何時も通りのリナリアの落ち着いた声も、どこか高揚しているような響きだった。幾ら大人びているとは言え、彼女もまだ子供。お祭りの楽しげな雰囲気を感じ取ったら、自分もそこに混ざりたいと思うのが普通なのだろう。
黒美が一度見た一週間前のハクタイは、静かで厳かな空気がどこか漂う街だったのだが、今はその状況が一変している。
二人が見つめている商店街には、桃色と透明の宝石の形をした灯りと、カラフルなプレートの飾りが並べられている。
道の端には、チョコバナナ、たこ焼き、わたあめ、フランクフルト、焼きそば、と言った“定番”の料理の出店や、スーパーボールすくい、ヨーヨーすくい、射撃、くじ引き、と言ったこれまた定番の娯楽のお店が並んでいる。
溢れる人々は皆楽しそうな表情で、それを見ているだけで黒美はなんだか嬉しくなってきてしまう。
人々の苦労を労うために町全体で行う行事、お祭りだ。その人々に紛れて、黒美とリナリアも並んで歩き始めた。
「この街には、伝説が残っているのですよ」
真面目そうながら、ちょっとだけ楽しそうに語るリナリアに、「伝説?」と黒美が聞き返す。
「はい。空間の神様と、時間の神様のお話ですね。この世界を生み出したポケモン、とも言われています」
「へぇー……」
「ここハクタイシティはその神様を祀る像があって、その神様に感謝するための行事がこのお祭りなんですよ。数百年続いている、歴史ある行事みたいですね。シンオウ地方でもそれなりに有名なので、この祭りに来るためにここに来る観光客も居るみたいですよ」
「そっかー。それでこんなに人が多いんだ」
混雑する人々が目に新しいのか、あっちこっち世話しなく見回しながら、時たまスキップしたり鼻歌を歌ったりしながら、はしゃいでいる。
人にぶつかりそうになっても、自然と向こうが退いて微笑んでくれるような、不思議と周りにも迷惑がられない彼女の仕草と動き。
「あまり先まで行かないでくださいね。見失うと困りますので」
「分かってるー!」
そう言いながらも黒美は人ごみをするすると、それこそダンスでもするように抜けていく。病み上がりにしては軽快すぎる彼女に若干苦笑しながらも、リナリアもその後を付いて行く。
本来逆に微笑ましがられる年齢のはずのリナリアが、黒美に向けて微笑みを向けているのも変な話だ。
(なんか、世界から乖離しているみたい)
リナリアが最初に黒美に抱いたその印象は、未だほとんど変わらない。可愛いし性格もいいし、綺麗なんだけど、どこか違和感がある。目の前にあるのに触れない、水面の月に触れるような、少しの楽しさと、酷い寂しさ。そういうものを、リナリアは黒美に感じることがある。
(まあ、そんなことが仲良くなることの障害になるとは思いませんけど)
少し離れすぎている黒美の姿を見て、そうだ、と思いつく。
せっかくのお祭りだ。プレゼントする服はアレに決めた。
「黒美さん!」
「なぁーにー?」
リナリアが大声で呼ぶと、黒美も大声で返してくる。
反応したまま歩くのを止めた黒美に走って追いつき、少しだけの息切れのしたリナリアが言う。
「ちょっと私は買い物をしてくるので、ロキさんと一緒にしばらくお祭りを楽しんでてもらえませんか?」
「え……。何を買ってくるの?」
「それは、秘密です」
悪戯っぽく笑ったリナリアの意図にちょっと気付いたのか、黒美がはっとする。
「……分かった。んじゃこの近くで遊んでるね」
「すいません。一人にしてしまって……」
「ううん! 全然いいよ! いってらっしゃ……。あれ?」
「いってきま、……どうかしましたか?」
二人して呆けた声を出して、「あ」と顔を見合わせて気付く。
なんで今まで気付かなかったんだろう。幾ら不機嫌だったとは言え、人前では喋れないとは言え、……“彼”は少し静か過ぎた。
「……ロキ、どこに行ったんだろう?」
困った、と言わんばかりの顔で、黒美が呟いた。
「……はっ」
鼻で笑う、容赦の無い声。
「はははは! ……烏合の衆ってこういうことかあ。ギンガビルの方に連絡もさせてやれないで、ごめんね」
地面に転がっている無線通信機を踏み砕き、血で濡れた手を“ギンガ団団員”の服で拭き取りながら、ロキは嘲笑う。憎悪と嫌悪と、この世の暗い感情を全部詰め込んだような、おぞましい笑い声だった。
「二度とあそこに、僕も黒美を戻させはしないよ。そうわけだから痛い目見てもらったんだ。ごめんね」
といってももう聞こえていないだろうけどね、とロキが誰に言うでもなく呟く。一度、死にたくなるような痛みを味わわせてやってから、全員気絶させてやった。意識の無い奴らが、どうやって彼の言葉を聞きとめるというのか。
「……ちっ、クソ共が」
不意に苦々しげな顔になりながらも、ロキはその場を後にする。どうせその内こいつらも他の団員から救助させられるだろう。
救助(そっち)に人員を割く事になれば、探索の人間が必然的に減る。そうすれば、黒美とリナリアが祭りを楽しむことの出来る時間が延びる。万が一は、逃げるための時間も稼げる。誰も困ることのない最高の展開じゃないか、とロキは笑った。
――私もロキも、本当に酷い目にあったんだって。
きっと私は、それを思い出したくないから忘れたんだろうな、ってことは、心のどこかで知ってるんだ。……私自身が何者かなんてことに、執着は無いんだけど――
黒美の言葉を思い出し、ぎりっとロキが歯軋りをする。
三日月型の口が歪んだそれは、笑っているのか、泣いているのか、痛がっているのか、まるで分からない表情だった。
「……そんな、そんな甘い話じゃ、ないんだよ。『 』」
本当に小さく、ロキがぼやく。
その顔には一瞬、恐怖のようなものが垣間見えた。