無謀で、平凡な 3-3
結局、ご飯を(たらふく)食べて落ち着いたのか、黒美は再び眠りに就いてしまった。まるで赤ん坊のようですね、とリナリアは微笑ましそうに笑ったが、その一方でロキは仏頂面を崩さなかった。
その後、料理を作りすぎて疲れたのか、リナリアも別の部屋で休むと言って居なくなってしまった。こうなるとロキも暇でしかない。何か暇つぶしを探そうとして、……いや、その必要も無くなったようだ。
彼もあの戦いのせいでかなり疲労が溜まっているのだろう、黒美の寝ているベッドに潜り込むと、すぐに静かになってしまう。
仏頂面も、既に安心した寝顔だ。といっても、何か物音がしたらすっと目を開いて、しばらく辺りを見回して、再び眠りに就く。というのを繰り返している。安心した顔とは裏腹に、常に警戒心を怠らず、それでもって黒美の傍から離れようとはしない。
彼は気にした風も、気負った風も無くそんなことをやっているが、例え人間が好きなポケモンでもここまですることはほとんどない。
そんなことを十数回繰り返して、ふー、と小さく息を吐いて、ロキは今度こそ本当の休みを取った。
「しんどいなあ」
そんなことを、無感情な声で呟いて。
けれどその呟きが誰かに聞きとめられることは、なかった。
この時も、きっとこれからも。
*
「……リナリア君」
「はい」
既に白髪の浮いた初老の男性、オーキド博士は、印象的な紫髪を持つ少女の肩に手を置いた。歳相応に無邪気笑うことなどほとんどなく、無愛想とも言えるほど礼儀正しい、少なくとも教師には好かれないタイプの美しい少女。リナリア・アージェントだ。
「そして黒美君」
「……はい」
そして、こっちでにへら、と情けなさそうに笑ったのは、そのリナリアよりも3歳ほど年上の少女だ。
一週間ほど前には扱けていた頬も既に柔らかなものとなり、全体的に肉つきが良くなっていた。手入れがされて枝毛処理も完璧に済んだ黒髪は更に美しくなっており、重苦しいとも言える長髪は、それでも彼女のほのぼのとした雰囲気を殺すことはない。
“黒美”と名乗るその少女は、微笑みのような、苦笑のような、そんな不思議な笑みを顔に貼り付けながら、オーキドに向けて書類を差し出している。
「……これは何かね?」
「えーと、……なんだっけリナリアちゃん」
黒美の気の抜けた発言に、身構えていたオーキドと腕組していたリナリアがほぼ同時にずっこけかける。
「……、住民票と、新規“トレーナー”登録用の書類、ですよ」
「そ、そう! それです。それを書いて欲しくて」
「ちょっと待とうかの。黒美君にリナリア君」
リナリアのお嬢さんに何を吹き込まれたんだ黒美は、と頭を抱えたくなる気持ちを抑えて書類を受け取る。
……今までまともな生活を送っていないはずなのに、黒美の字は綺麗な女の子のそれだった。どうやら識字とある程度の教養は備わっているらしい。
と、突っ込むところはそこではない。
「住民票は構わん。それはわしのお節介だからの」
「しかしのう」そこで一旦区切って、一息吐くオーキド。
「リナリア君、君は分かっているとは思うが」
「はい」
「トレーナーになるためには、二年間程度、トレーナーズハイスクールで教育を受けねばならんのじゃよ」
トレーナーズハイスクール。
所謂人とポケモンが関わり、一緒に住んで一生を過ごす上で大切なことを一通り学ぶことの出来る、トレーナー育成の学校のこと。
そこで二年ほどトレーナーとしての教養やポケモンの知識を蓄え、「トレーナー認定試験」を受け、合格した場合、やっと一人前のトレーナーとして、ポケモンと一緒に旅に出ることが出来る。
一般的にも有名で、通う学生も多い。
だが実際はかなり狭い門戸で、毎年の合格者はかなり少ない。一応10歳から試験を受けることが出来るものの、実際の合格者の通学年数は6年ほどだ。それぐらい通わないと合格できない、厳しい学校なのである。
「だから黒美君は、ここである程度のトレーナーとしての授業を受けなければ……」
「でも、そういう授業に受けられない子がトレーナーになるために試験とか、許可証とか、“推薦書”とか、ありますよね? オーキド博士の推薦だったら、間違いなく通ると思うのですけど」
無論、例外はある。
トレーナーハイスクールとは別に推薦の制度があって、ある程度の名の通ったトレーナーに師事して、推薦書を書いてもらってしまえば、スクールに通うことなく認定試験を受けることが出来るのだ。
と言っても、その推薦書自体がかなりの確立で通らなかったり、認定試験に受かっても合格者の上限のオーバーによって切り落とされたりするので(スクールに通っている生徒の合格者が優先される)、現実的な策とは言えないのだが。
しかし、そんな推薦制度にすら例外はある。
推薦者が、ポケモン界の圧倒的権威だったり、師事したトレーナーが「四天王」の一人だったりする場合だ。
この場合、下手したら認定試験を受けずにトレーナー試験を合格してしまうことさえある。この推薦書を装った詐欺も最近は流行っているらしいのが、嫌なところである。
だがしかし、リナリアと黒美の目の前にいるのは、ポケモンをポケモンと定義した第一人者にて、世界最高のポケモン博士である“オーキド・ユキナリ”だ。推薦書さえもらえれば、認定試験などせずにトレーナーの資格が貰えることは間違いなしのはずだ。
「……そうかもしれんがな。流石に黒美君を一人で旅させるわけには行かぬよ。ある程度回復したとは言え、体力も並の女の子ぐらいあるとは思えんしのう」
「ああ、それは問題ありません。私が黒美さんの旅に付き添いますから」
「なんじゃと?」「え?」
リナリアの口から出た言葉に、オーキドと黒美が目を合わせる。
「……、心外です。そこまで驚かれるとは」
「だってのう……。お主、基本的に単独行動を好むタイプの可愛くない人間じゃろう?」
「失礼ですね!?」
ただでさえ愛想の無さそうなリナリアの顔が、余計にむすっとしたものに変わる。
「あ、いやいや性格の問題じゃよ。見栄えは文句なしじゃ」
「フォローになっていませんし恥ずかしいです!」
……こう怒ると、やっぱり歳相応の女の子なんだなあ、と黒美は一人で頷いた。
「と、とにかく! 黒美ちゃんは私が責任を持って預かり、ま、す……?」
「……よ、よく分からないけどその言い方はおかしいんじゃないかな……」
黒美にまで突っ込みを食らい、リナリアが赤面したまま一瞬硬直する。
慣れないことをしているからか、混乱しているらしい。
そんな彼女の様子を見て、オーキドはくっくっくっと笑いを押し殺していた。
当の黒美はというと、普段は大人っぽいはずの彼女のそんな雰囲気を見たことが無かったのか、ちょっと戸惑った表情を見せている。
「……、あーもうっ! いいですよね!? 大丈夫ですよねロキさん!?」
「そうだねえ。僕も黒美一人に旅させるのはまずいと思ってたし、助かるかな」
「そ、そうですよね……! よかった……」
今まで黙ってことの成り行きを見守っているロキ(よく見ると肩が震えているのだが)さらりとした言葉に、リナリアは安堵の吐息を零した。
「迷惑がられてるのかと思った……」と自信無さげに小さく呟く彼女の姿に、黒美は思わずくすりと笑う。
「……ありがとね。リナリアちゃん」
「あ、なっ、いえ! 私のお節介ですから! そんなに畏まらないでください!」
「これからよろしくお願いします」
「あ、はいっ。よろしくお願いします!」
ぺこりと礼儀正しくお辞儀をする黒美に、リナリアも慌ててお辞儀を返す。……こういう戸惑ったリナリアを見ると、普段の彼女が背伸びしているおしゃまな女の子に見えてくるから不思議だ。
「おっほん」とそんな二人に、一度咳払いしてからオーキドが話を続ける。
「とにかく、リナリア君が付くからと言って黒美ちゃんにはまだ旅はさせられんよ。もうちょっとこの家で落ち着いて行きなさい。どうせギンガ団に特定されても問題はあるまい」
「頑固爺さん。……まあ、この要塞に住んでいれば安全なのは分かりますけどね」
「要塞言うな要塞」
「でも、黒美さんにも一応理由はあるのですよ? 旅をするだけの理由」
「……ほう? このようさ、……家から出るという危険を冒すほどの理由がのう?」
「自分で間違えてどうするのですか」
リナリアの小さな突込みも、オーキドは無視。
そんな頑固爺さんの姿にため息を吐きながら(どっちか子供かこれじゃあ分からない)、リナリアは続ける。
「でも、私も黒美さんが旅をする理由は分かりません。話してもらっていませんからね。……恐らく、話すのにはもうちょっと時間のいる内容だとも理解していますし、彼女の状況を鑑みるに、どう考えてもこの家に居た方が安全なのは分かります」
「そりゃそうじゃな」
「でも、彼女が旅をしたいと言うなら、私はそれに従おうと思います。私の本来の目的とは別に、彼女の手助けもしたいのです」
その透き通った薄紫の瞳には、確固たる決意が滲んでいる。梃子でも動かない、といった風だった。
「……、何故、そこまでするのじゃ?」
「え?」
オーキドの問いに、リナリアが動きを止める。
それは、普通に考えればごく普通の疑問だった。
「確かに、お主と黒美には仲良くしてもらいと思っとる。一緒に旅してもらえれば最高だと思っておった。じゃが、お主と黒美はまだ会って一週間程度の仲じゃ。そこまでお主が黒美に気に掛ける理由が、わしには分からんのじゃよ」
「……、そっか。確かにそうですよね」
未だに黙り込んでいるリナリアを見て、黒美もその言葉に納得する。
「……それを言ったら、オーキド博士だって同じじゃないですか」
「ほう? そりゃ、わしがどういう人間か分かっているお主の発言じゃないのう。論点ずらしは無駄じゃよ、リナリア君」
「……」
苦し紛れに放ったリナリアの言葉も綺麗に切り返されて、再度リナリアが黙り込む。
「……あのね。リナリアちゃん」
言葉を無くしたリナリアに、黒美が柔らかい声色で言う。
「私は、こうしてリナリアちゃんが私と話してくれるだけでも嬉しいんだよ?」
その微笑みには、どこか自虐的な色。
「確かに、一緒に外の世界で旅出来れば楽しいな、とは思ってる。でも、リナリアちゃんだって、その歳で一人旅する理由がちゃんとあるんでしょ? だったら、無理して私の旅に付き合う必要なんて……」
「無理してなんていません!!」
「……!」
張り裂けるような声。
彼女らしくない大声に、黒美もオーキドも、そしてリナリア自身も驚いていた。
「……く、黒美さんと仲良くなりたいと思っているのは本当です。嘘じゃありません。嘘じゃないんです。力になりたいと思っているのも、手助けしたいと思ってるのも、全部嘘じゃないんです……。でも」
「うん、それは分かってる。こんな私と一緒に旅しようなんていってくれるのは、きっとリナリアちゃんぐらい――」
「『こんな私と』だなんて、言わないでください!!」
「……リナリアちゃん」
「お願いですから、そんな悲しいことは、言わないでください……」
一瞬泣きそうな表情をして、でもぐっと歯を食い縛って、俯いて、リナリアが続ける。
「……でも、ごめんなさい。確かに私が黒美さんと旅をするのに、感情以外の理由があります」
過剰な自己嫌悪からか、リナリアは強く手を握り締める。
爪が食い込んで、傷が付きかねない程に。
「……言ってしまえば、私が黒美さんと関わろうと思ったのもそれが理由です。最初は仲良くなろうとか、親切にしようだとか、そんなことは全く思っていませんでした。私は私の理由に黒美さんを利用しようとしました。だから、『そんな私と』なんて発言は、本来私のものなんです」
「……白状するの、随分と早かったね」
ちょっと呆れたように言う黒美に、リナリアも自分に嘲笑する。
「……もちろん、赦してもらおうだなんて思っていません。こんなことは喋らずいれば良いことも分かっています」
「んー、私は全然構わないんだよ? 別に利用されたって」
「……私が、私を赦せないんです」
「そっか。それじゃあ私はどうしようもないねー」
ふふふ、とどこか場違いに笑った黒美は、「でもね」と言葉を続ける。
「私は、もうリナリアちゃんを信頼しちゃったから。別にいいの」
「でもっ」
「いいの。私だって、喋ってないこと、あるし」
そう言って、黒美は今まで静かにこの成り行きを見守っていたロキの方に向く。
「ロキ、……話しても、いい?」
「黒美が決めて。僕は話さないで欲しいけど」
無愛想に返して、「でも、」とロキがそこで小休止。
それはまるで、覚悟を決めたかのような仕草だった。
「黒美が信頼するなら、僕も“信用”しよう」
「……分かった。ありがとうロキ」
それが、人を信用し切れないポケモンの、最大限の妥協策だった。
無理をしているとも言えるロキに小さく微笑んで、黒美はオーキドとリナリア方に顔を向け直す。
「……私には」
――記憶が無いんだ。
息を吐くように、その言葉は放たれた。