始まり。
無謀で、平凡な 3-1




「……、……。……キ。ロキ?」

 落ち着き払った呼び声でロキは目が覚ました。白く染まった世界から転じて、ベッドから身を乗り出し、ロキの顔を覗き込む黒美の顔が視界に映る。夢見が悪くて微かに憂鬱だった気分は、安静にしててくれよと、頭を抑えたくなる気分になった。
 布団から抜け出して、現実味を帯びた風景を見渡して、そこまでしてやっとロキは「嗚呼、夢か……」と悟る。
 久しぶりに見た夢だった。
 もう見る事はないと思っていた映像。もはやロキの心にしか残っていない言葉。
「……ロキ、大丈夫?」
 “夢の最後に聞こえた声と全く同じ声質”で、黒美が問う。けれど、心配そうな色が映るその目には“光が伴っていなかった”。
 それは、死んだ魚のような濁った目と言うより、“仮面”のごとき感情の無い目。だからこそ、“私は貴方を心配している”という黒美の意思表示は、ペテン師みたいな“偽物”に見えるのだ。
 きっと、一度違和感に気付いてしまったなら、その人間は黒美を一生信用することが出来ないだろう。黒美の顔に映るのは、酷く薄っぺらなガラクタの感情だけだから。
 見ているだけで辛くなってくるその目から視線を逸らして、ロキは「大丈夫。なんでもないよ」と、月並みの返答をした。本当は大丈夫でもなんでもないわけでも無かったし、気分も最悪だったが。けれど、そう言わないと何かに負けてしまうような気がしたし、……何より、黒美に心配を掛けさせたくなかった。
 けれど、そんなロキの無理を知ってか知らずしてか、黒美は不思議そうに言う。

「じゃあ、どうしてロキは泣いているの?」

「……は?」
 間の抜けた声。
「泣く? 僕が? そんなわけ……」
 何かの冗談だろ。ロキが返して、黄色くて丸い手で自ら頬に触れる。
 ――伝った雫のしっとりした感触に、ロキは言葉を紡げなくなった。
「じゃあどうして? ロキはそんなに悲しそうなの?」
 悲しくない。
 今のロキにはそんな反論も出来なかった。
「……どうしてロキは、そんなに寂しそうなの?」
 心底不思議そうに、黒美は残酷な質問を投げかけた。
 ……そんなことを聞かれても、ロキには答える言葉を持たないと言うのに。
 答えることなんて、出来ないと言うのに。
「――気のせいだよ。目にゴミが入っただけさ」
 だから、一瞬の間をおいてロキは再度嘘を吐いた。
 狼狽もせず、淀みなく、何時もの仏頂面で。
「……そっか」
 そして黒美は、「気にしていない風」な微笑をロキに見せた。
 ロキが嘘を吐きたいことぐらい、彼女は察することが出来たから。
 憂いと寂しさに帯びた黒美の顔はやはり綺麗過ぎて、そして人形のようだった。
「「…………」」
 お互い気まずそうに目を逸らして、二人して言葉を失くした。
 沈黙の帳が下りた部屋には、朝の訪れを歌う小鳥の鳴き声が響く。窓から差し込む日差しは嫌味なぐらい暖かで、目を覚ますには理想的な雰囲気だった。こんな最悪な気分さえなければ最高の朝だな、とロキは皮肉げに笑う。
 不意に、黙り込んだ黒美の表情を再度覗き込んでみる。
 仮面のよう「それ」からは、何も読み取ることが出来ない。何を考えているか窺い知れない。一瞬、本当に生きているのかどうかを疑ってしまってロキはぞっとした。死人の顔みたいに、黒美の表情には「感情」が備わっていない。
 真っ白とか、透明とか、綺麗な色で形容できるような綺麗な代物ではなく、いわばそれは「底知れない闇」。目を合わせればそのまま吸い込まれてしまいそうな、不気味で神秘的な代物。美しいが、それ以上におぞましい。
(……あー、くっそ)
 一瞬でも黒美を不気味だと思った自己嫌悪と、定期的に沸いて出てくる死にたくなるほどの無力感に苛まれ、ロキは黒美に気付かれないように歯を食い縛った。
(あの時、僕がもっと強ければ)
 無駄だと分かっていても、黒美の姿を見てしまうと、後悔と自責を止められない。
(あの時、『奴ら』を纏めて倒せるぐらいの力さえあれば……)
 こんなことにはなっていなかったかもしれないのに。
 不意に、止まらなくなるロキの思考を断ち切るように、ばたんと若干乱暴にドアが開いた。
 条件反射で変化したロキの胡乱気な視線と、慌ててベッドに戻った黒美の驚いた視線がそこに集中する。

「……なんですか。この痴話喧嘩した後のカップルみたいな気まずい空気は」

 呆れたような語調の落ち着いた声が、細い眼で“闖入者”睨むロキと硬直する黒美の間にあった沈黙を破った。
 やたら大人びた雰囲気の、料理の入った皿の乗っているトレイを持った紫髪の少女だ。その例えはどうなんだよ、と思わず突っ込みたくなるロキだが、面倒なので無視することにする。
(大体、『喋る』と色々面倒くさいんだよなあ)
 本来ポケモンは、人の言葉を喋ることが出来ないらしいから。いちいちどうやって覚えたのかとかそんなことを追求されても面倒だ。
 そんなことを思いながらクッションの上で丸くなっているロキの横を通って、少女は黒美の寝るベッドに近づく。
「お腹が空いたのではないかと思いましたので、とりあえず食事を持ってきました。どこか置く場所ありますか?」
「……あ、そこまでしてくれること無いのに……」
 思わず恐縮する黒美を少女は手で静止して、トレイを置きながら仏頂面で答える。
「……今まで栄養失調でバッタリ倒れていた人間をベッドから動かすのは本意じゃありませんので、動かないで貰えますか?」
 テキパキとご飯の用意をしながら素直じゃない物言いをする少女に、初対面にも関わらず噴出しそうになるロキ。
 噴出するマグマラシなんて気味悪がられるに決まっているので、すんでのところで堪えたが、この少女への印象が一瞬で変わってしまった。
 それは黒美も同じだったようで、若干寝惚けた眼を白黒させながらも硬直してしまっている。
(まあ、“人というものに慣れていない”から当たり前といえば当たり前なのだけども。外も人も、久しぶりだから)
 そういうロキも外に出たのは相当久しぶりなのだ。人間なんてものは「無表情で仕事を淡々とこなす、気味の悪い機械のような代物」しか見ていない。だから、黒美以外のこういう「人間らしい仕草をする人間」というのを見るのが、ロキも黒美も相当久しいのだ。
「……? なんですか? そんなに見つめられても何も出ません」
 不思議そうに見つめる二人(一人と一匹)の視線に気付いたのか、紫髪の少女はその仏頂面の上に更に訝しげな表情を浮かべた。
 「……ううん、なんでもない」といいつつ、歳を取れば更に美人になるだろう少女の顔に、黒美はへらっと笑いかけた。一応黒美の方が年上のはずだが、表情や仕草のせいで、「……そうですか」と興味無さそうに作業に戻った少女の方がずっと大人びて見える。
 ませているのではなく、大人びているのだ。身長差が結構あるので、流石に少女が黒美より年上に見えることはないが。
「お口に合わなかったら言ってくださいね。すぐに取り替えますから」
 料理は得意ではないので、と付け足しながらも作業を進めていく少女。黒美の目の前に料理が置かれるだけでなく、何時の間にベッドのシーツも取り替えられていた。年齢の割には、かなり家事に慣れている風がある。
「ああ、後、冷めてしまうと良くないので、早めに食べてください」
「……え、あ。うん」
 どこかへ飛んでいってしまっていた意識を引き戻して、目の前に置かれた更に目をやる。玉葱、にんじん、アスパラガス等の野菜がふんだんに使われた、体に良さそうなトマトスープのリゾットと、リンゴジュース。ほとんど病院食に近い代物だ。
「とりあえずこんな簡単なものですけど、物足りなかったりしたら言ってくださいね。そこのマグマラシは……、ポケモンフーズでいいのでしょうか?」
 少女の疑問の声に、ロキは黙って頷く。わざわざ自分の料理まで作らせて面倒をかけることもないし、かなり衰弱している今の状態なら、栄養価の高いポケモンフーズを食べたほうがいいと判断した上での、その動作だった。
「分かりました。それじゃあ持ってきますね」
 そう言って、ドアノブに手をかける少女の後姿に、「あ、あのっ……!」と、今まで黙り込んでいた黒美が話しかけた。
「はい? なんでしょうか」
 岩のように動かない仏頂面の割には、冷たい響きのしない柔らかい声で少女が振り返る。
「えーと、その」
 料理ありがとうね、とか、どうして何も聞かないの? とか、聞きたいことが山ほどあるせいか、黒美は言葉に詰まる。
「……名前」
「名前?」
「名前、なんていうの?」
 そこまで言われて、ああ、とリナリアが掌に拳をぶつけて言った。今更思いついたというよりは、“どうでもよかったので気付いてなかった”と言わんばかりの仕草だった。
「そういえば名乗っていませんでしたね。失礼しました」
 自分の非を認めてから、上品に会釈。

「私、アージェント家の娘、リナリア・アージェントと申します。短い間ですが、よろしくお願いします」

 そう名乗って、少女はにっこり微笑んだ。
 トマトの酸味の利いた香りが、部屋を漂い始めた。



鳩平欠片 ( 2011/12/18(日) 02:23 )