始まりの始まり
世界は、冷え切った銀色で染まっていた。澄んだ大気はマイナス30°を下回り、吐く息は白い。氷タイプ以外のポケモンは生存するために栄養を蓄え、休眠する程の寒さだ。
雪は止む気配を見せず、誰かが付けた足跡を隠すようにしっとり厚塗りされていく。自然の鋭い冷たさを感じさせる、美しい光景だ。
ここはキッサキシティの西側に位置する217番道路。
夏だろうが冬だろうが雪が降り続く豪雪地域で、エイチ湖と呼ばれる美しい湖がある。出来立てのガラスよりも透明な水で満たされたその湖には、人の決意を後押しする力があるらしい。
伝説に登場するポケモンも生息しているらしいが、鼻で笑われるような噂でしかない。というのも、こんな極北の地域に観光に来るような人間など、今では随分少なくなった旅人トレーナーぐらいのものだからだ。
そんな物好き以外歩かないような地に、まだ年端も行かない少女が居た。漆塗りされたような黒髪に引っ付いた雪を振り払おうともせず、トボトボと歩いている。
表情は影になって見えないが、その顔にはひどく落胆した感情を浮かべているのだろう。顔は見せずとも、彼女が纏う雰囲気がそう語っている。
「さっきまで、あんなに天気よかったのになぁ……」
名残惜しげに黒髪の少女が言うように、極寒の地で知られる此処キッサキシティには、さっきまで美しい碧空が広がっていた。
珍しいどころの話ではない、実に七年ぶりの晴天だ。
小さい頃に見て、おぼろげに記憶している蒼空に少女は心を躍らせ、ドアを蹴破る勢いで外に出掛けたのだった。
散歩というにはいささか慌しすぎる気もしたが、洗濯物を干したり、同じように外に出かけたりする人々の少女への視線が、とても柔らかいものだったのは間違いない。青空に浮かぶ太陽のような笑顔を浮かべてはしゃぐ少女の姿は、周りの人の心を和ませるには十二分な力があった。
――けれども意地悪な天気の神様は、そんな少女の小さな楽しみも簡単に奪い去ってしまった。
印象的な黒髪を持つ彼女が、野生のポケモンたちと雪合戦や雪だるま作りで遊んでいると(少女の優しき心は人よりポケモンに伝わりやすいらしい)、不意に空を大きな雲が覆っていった。
粉雪ぐらいならまだ遊んでいられると勘ぐった少女を嘲笑うように、辺りは一気に猛烈な吹雪に包まれていった。
一旦その吹雪は落ち着いたものの、先程の吹雪を見てここに居残ろうとするほど少女は愚かではない。大体、雪だるまが倒されたり、爽やかな空が灰色の雲に隠れてしまったりしたことで、完全に遊ぶ気力が失くしてしまった。
「このままだとまたふぶきが強くなりそうだし、早く帰らないと」
幸い、視界が真っ白になるほどの雪の量ではなく、町への帰り道もはっきり分かる。
遊びに向かった少女自身のせわしない足跡もまだ綺麗に残っているため、間違っても道に迷うことは無いだろう。
「……うーん」
家に帰ってから何しようか。ポケモンについての本でも読み直そうかな? それとも冬休みの宿題を終わらしてしまおうか。それともそれともテレビを見ながら暖炉の前でゴロゴロしようか。いっそのこと、昼寝でもしてしまおうか。
「でも、家にある本はほとんど読み終わっちゃったし、冬休みが終わるまで時間あるよね。この時間おもしろい番組やってないし、あたたかくないのに昼寝はやだなー」
そうやって自ら浮かばせた暇潰し案を全部消去していくうちに、何も残らなくなって、少女は拗ねたように唇を尖らせた。
彼女にとっての長期休暇とは、単に暇な期間のことだ。特に冬休みは吹雪が酷い日が多く、町の中すら歩けない天気になることも多々ある。そうなると必然的に家に篭ることになるのだが、アウトドアな性分である少女にはそれが退屈すぎてしょうがないのだ。
その上、少女は家に帰っても、ひとりだ。家族どころか、少女以外の人間は誰一人として家には居ないから。
(……あまり考えないようにしてたけど、わたしのお父さんとお母さんは)
どんなことをしていた、どんな人だったんだろう? 少女が、今まで必死で無視してきた疑問だ。
情報はほとんど無い。
ただ一度だけ「お母さんに似てきたね」と言われたことがあるが、写真ですら顔を見たことがない母親に似ていると言われても、どう反応したら良いのだろう。しかも、その言葉を放った本人は、一瞬の間の後、気まずそうな顔をして逃げていってしまった。
(……どうして?)
そんな奇妙な出来事が何度もあったからか、自分の両親のことが気になってしまい、お隣さんや学校の先生に尋ねたりもした。だが、皆一様にお茶を濁らせるばかりで、誰もまともな回答をしてくれない。
――そのときの彼らの表情は、まるで少女を憐れんでいるかのようで。
(そんなに、わたしってかわいそうに見えるのかな)
不思議なことに、毎日笑いを絶やさない少女の姿は、周りの人から見れば「無理をしているように見える」らしい。
ただ、毎日が楽しいというだけの話なのに。
所謂「人の不幸は蜜の味」という奴だろうか。人のことを勝手に不幸と決め付けて同情するのは偽善者の所業だ。
かわいそうかわいそうと可愛がられるのも、薄幸の美少女として扱われるのも、少女にとってはあまり面白くない話だ。
「んー……」
考えても考えても、自分がかわいそうな子として扱われている意味が分からなくて、少女は可愛らしく首を傾げた。黒髪に引っ付いた雪が、微かに零れ落ちる。
こんなに良くしてもらって。困った時は世話までしてもらって。
同年代の子とは仲良くしているし、野生のポケモンたちとも雪合戦なんかして遊んでいる。
学校の先生も優しいし、ポケモンの勉強もとても楽しい。
幸せすぎて、謝りたくなってしまうぐらいなのに。
だがそれでも、二人が少女をおいてどこかに行ってしまったのは事実。それも、彼女に対するメッセージ、情報一つ残さずに。
だけど。
もし私を一人にしてる両親が、私に対して申し訳ない気持ちを抱いているのだとしたら、許すつもりで居た。
あの一人寂しく不必要なぐらいに広い家で、「おかえり」って言って、歓迎するように両腕を広げ、満面の微笑みを浮かべながら迎え入れるぐらいの用意はあるというのに。
二人がどんなことをしてどうして私を置いて行ったのか、聞かないで我慢するぐらいの覚悟はあるというのに。
少女を「娘」として扱ってくれる人は、未だドアをノックしてくれなかった。