第二章 オレタツバサ
11.山頂に向かって
 †カトラ雲山・山頂への道†

 夜半過ぎの暗いダンジョンは、冷えきった空気がたちこめていて、訪れる者の緊張感を鋭くとがらせる。
 シェーラは、カトラ雲山のダンジョンを進みながら、足音をしのばせて歩いていた。致命的な一歩を踏み出さないように、慎重に、慎重に。それはひどく神経をすり減らす行為だったが、リンゴ三つ分の距離を離れて前を進むリザードに迷惑をかけたくない、という思いがある故の歩みだった。
 歩きながらシェーラは夜の闇を怯えたように見渡し、それから、少し恨みがましく目の前のものを見つめた。前方を照らす明かりーーグレンのしっぽの炎を。
 夜中にダンジョンにもぐろう、と提案したのはグレンだった。シェーラは提案を承諾したことに、早くも後悔し始めているのだった。


 †ゆうれいやしき・グレンの部屋†

 ――少しだけ、時はさかのぼる。

「さて、今から出発するか」

 依頼としてシェーラを頂上に連れていくと約束したグレンは、あらためて集合日時を尋ねようとしたシェーラに、そんなことを言った。

「…え?」

 シェーラは、日が昇ってから行くつもりだったのだが、グレンにそんな気は微塵もないようだった。
「ダンジョンの中で、お前がのろのろ歩いてたら、置いていくからな。覚悟しろよ」
「うん、わかってるけど――」
「時間もちょうどいい。必要な持ち物もそろってる。難点は少し眠いことだが、それは我慢するか」
 うんうん、とひとりでグレンが頷いている。

(時間もちょうどいい…って)

「今は夜よ。昼間に行けばいいじゃない」
「明かりの心配か?それなら俺の尻尾がある」
 グレンの尻尾の先で、炎が赤々と燃えている。確かにこれは、周りをよく照らしてくれそうだ。…それも、不必要なまでに。
 シェーラは不安げに言った。
「夜のダンジョンの中であんたの炎ってすごく目立つんじゃないの?すごく敵に見つかりそう」
 グレンは平然と答えた。

「いや、カトラ雲山にすんでいるポケモンは草タイプが多い。あいつらは、昼間に活動することを好んで、夜によく眠る。それに、目を覚ましても炎は好かないだろう?だから、あのダンジョンは夜中に進むのがベストだ」

「なるほど」
 すらすらと経験に基づいた知識を言われ、シェーラは納得させられてしまう。このリザードはプロの探検隊員なのだ、ということを改めて思い知る。
 シェーラは率直な驚きを口にした。
「本当に、物知りなのね」
「…知ってる奴は普通に知ってることだ。ところで、お前、こっそりスカーフ持ってるか?」
 シェーラはきょとんとした。
「なにそれ?」
 そうかお前ノーマルランクだったな、とグレンが面倒くさそうにぶつぶつつぶやく。しかし、律儀にも説明はきちんとしてくれた。
「こっそりスカーフを身につけると、だな。足音が軽くなって、眠っているポケモンをあまり刺激しないですむ」
「…つまり、眠っているポケモンが多い夜中には最適ってこと?」
「その通り。今回の探検にもってこいのアイテムだ。だから、こっそりスカーフは特別に貸してやる。あと冷えるだろうからマントも貸してやるよ。柄は不気味なんだが…」
「不気味……?」
「まあ探すから待っとけ」
 グレンは部屋のすみに置いてあるタンスの中をごそごそとあさり始めた。どうやらきちんと整理整頓がされていないようだ。

(ん…?)

 あらためて、室内を見回すとそこはかとなく散らかっている。
 意外な一面に、シェーラはぷっと吹き出した。

「あんた、掃除苦手なのね」
 すると、グレンはタンスにつっこんでいた顔をひょい、と抜いて、振り返った。何故か口元をにやり、とつり上げていた。

「それが男ってもんだ(どや顔)」

 グレンは、再びタンスの引き出しに頭をつっこんで、目当ての物を探し始める。その背中を、シェーラは呆気にとられて見つめた。


 †カトラ雲山・山頂への道 3F†

 こうしてシェーラ達は足音をしのばせて、夜中のダンジョンを進んでいるのだった。

 グレンの言ったとおり、夜中は冷えた。だが、首もとにこっそりスカーフを巻き、全身をマントで覆っているので、震えずにすんでいた。
 ちなみに、マントの柄はヒトデマンだ。大量の小さなヒトデマンがうじゃうじゃと刺繍されている。かわいい。超絶かわいい。(グレンはこの可愛さを理解してくれない。何故。)

 夜のダンジョンは、想像以上に暗かった。星や月の光さえも、山の岩肌がさえぎっているせいだろう。グレンの炎の光が届かないような遠くの暗闇は、何か恐ろしいものがそこに潜んでいるような、どうにもならない恐怖を呼び起こした。
 シェーラは落ちつきなく辺りを見ながら歩き続ける。
 ふいに、グレンの炎が、数歩離れた地点でぐっすりと眠り込んでいるロゼリアを照らした。
「…!」
 シェーラは息をのみ、さらに歩みを慎重なものにした。ダンジョンの中が静かな分、自分の足音が響いているような気がした。心臓もどきどきとうるさく鳴っていた。

 その時、ギシャアッ、と耳障りな声をあげて、天井から影が飛び込んできた。

 シェーラは叫びそうになり、あわてて口をおさえる。
 一方、先頭のグレンは冷静だった。飛び込んできた影に素早く反応し、シェーラの頭を地面におさえつけ、同時に彼自身も突っ伏す。
 鋭い風が頭の上すれすれを通り過ぎ、シェーラは肝が冷えた。

「…夜更かし野郎がやってきたな」

 くそチビは隠れてろ、と低くささやき、グレンは不敵な笑みを浮かべた。炎の光によって闇に浮かび上がったのは…なんと、三匹のゴルバット。
 しかし、グレンはひるむ様子もなく、行動を開始した。


 シェーラはグレンの様子を見守りつつ、じりじりと後方の岩に身を隠す。ようやく安堵の表情で、落ち着けた−−と、思った直後。
 キィィッという声が間近に聞こえた。左方に目をやると、ズバットがこちらに向かって大きく口を開いていた。

「……ッ!」

 でかかった悲鳴を、危ないところでおさえこむ。シェーラが横に転がると、ズバットは宙で口を閉じた。“きゅうけつ”をする気のようだ。
(このダンジョンって、強い敵ばっかりなんだよね…?)

 あせりが生じる。

(どうすればいい?…グレンは戦い中なのに…)
 冷や汗をかくシェーラに、にたりとズバットが不吉に笑う。そして、地面と平行に滑空し、こちらに噛みつこうと向かってきた。

(…ひるむな、シェーラ!)

 シェーラは自らを奮い立たせ、脇にとんだ。ズバットが背後を抜ける。シェーラは素早く振り向き、相手の長い足に手をのばした。
(届け…!)
 手が、相手の足を掴みとった。間髪入れず、シェーラは腕力にまかせ、相手を地面にたたきつける。
 ズバットがか細い声でうめいた。

(あれ、こいつまさか……弱い?)

 油断したすきに、ズバットの足が、手から抜けた。あ、と思ったすきに、ズバットの身体が空中でひるがえり、ワニノコの首に襲いかかった。

 “きゅうけつ”だ。

(意外と痛くない。…けど)

 猛烈な不快感が背筋をかけのぼる。
 シェーラはぽかぽかとズバットを殴った。しかし、しつこくズバットは噛みついたままだ。

(…このッ…!)

 シェーラは右腕の筋肉に力をこめた。そして、首筋に噛みついたままのズバットの顔面に向かって、容赦なく“かわらわり”を食らわせた。
 ごすっ、といい音がしたかと思うと、ズバットはへろへろと後ろの方に少しだけ飛び、そのまま墜落していった。
(あれ、弱い?)

「なんだそのズバットは」

 小声で話しかけられ、振り返ると、グレンが無傷で立っていた。シェーラはけげんな顔をした。
「…え、と…ゴルバット達は?」
「もう倒した」
 当たり前のようにグレンが言ってのける。見ると、彼の後ろにゴルバット三匹が地面に積み重なっていた。
「うそ…」
「嘘じゃない。…さっさと行くぞ」
 無傷。三対一。しかも、この短時間だ。一体何をどうすれば、こんなことができるのかシェーラには理解不能だった。

(本当に、強いのね)

 シェーラは、あの記憶のことを思い出さずにはいられなかった。記憶の中で、グレンとおぼしきヒトカゲは、シェーラの敵だったのだ。
 どんな関係性があったにせよ、シェーラか、グレンか、どちらかの記憶がよみがえった時、互いに傷つけあう可能性は高い。それを、忘れてはいけない。

(あたしも、強くならなきゃ)

 シェーラは前方で揺らめく炎についていった。

 その時、まだシェーラは知らなかった。
 夜は、すなわち、あのタイプのポケモンが出没しやすい、ということを。

 †カトラ雲山・山頂への道 11F†

「次の階で中継地点だ」グレンが足を止めずに言う。「だが、気を抜くなよ」
「うん」

 進んでいくうちに、だんだんと目が暗闇に慣れてきたのか、ダンジョン内もかなり遠くの方まで見えるようになった。
 最初は気がつかなかったのだが、ここのダンジョンは壁がごつごつしていて、とがった岩がいくつも突出している。さらに、天井にぶらさがって寝るゴルバットの群れや、一匹で悠然と眠りにつくトロピウスなど、様々なものが目につくようになった。

「止まれ」
 グレンが片手をあげて、シェーラの前進を止めた。
「…慎重に、行くぞ」
 どうしたんだろう、と思ってグレンの前方をのぞき見ると、ポポッコが集団でかたまって眠っていた。ざっと見て十数匹はいる。その向こう側に階段があった。

(一斉に“しびれごな”とか“どくのこな”とかをかけられたら、大変だ…)

 緊張がはりつめる。
 グレンもシェーラも、とにかくゆっくりと、確実に足を進ませた。
(慎重に、慎重に…)

 そんなシェーラの背後に、音もなくすべり寄る影があった。“そいつ”はワニノコの背を見つめ、くひひ、と心底楽しそうに笑みを浮かべる。
 そして“そいつ”は、とんとん、とワニノコの肩をたたいた。

 つい、反射的に振り返るシェーラ。

 その視線の先で、ムウマが、にんまりと笑っていた。
 炎の光によって、その顔は絶妙な具合で照らしだされ、不気味さが一層きわだって、闇の中に浮かび上がっていた。

 シェーラの全身が一瞬にして、石のように硬直した。一瞬の時が滑り落ちるかのごとく、緩慢に流れていき−−


「ぎゃああああああああああああああああああッ!!」


 幽霊が苦手なシェーラは、いささか雌としてあるまじき絶叫をあげた。

 考えてみればすぐにわかることなのだが、夜とはすなわち、ゴーストタイプが好む時間帯であるといことを、今まで彼女は知らなかった(というか知りたくもなかった)のだ。
「どうした!?」
 慌てて振り返るグレン。その目に、全力でムウマをぶん殴るシェーラの姿がうつる。

「……は?」

 火事場の馬鹿力的なもののせいで、見事に吹っ飛ばされるムウマ。それは、きれいな弧をえがいて、眠るポポッコのカタマリの上にぽてっと落ちた。
 そんな一連の出来事などつゆ知らず、シェーラは悲痛な顔で叫び声をあげる。
「あ、ああああたし…ゆ…ゆゆ幽霊…見ちゃった!」
 すでにその時、シェーラの念頭から、ポポッコの存在は綺麗さっぱり抜けていた。グレンもその場の雰囲気に流され、突っ込みを入れてしまう。
「いやしっかり殴っておきながらそれはないだろ!」
「…な…。…ゆ、幽霊を…殴った…あた…しが……」

 見る間にシェーラの顔が青ざめ、そのまま彼女は糸が切れたように気を失った。

「アホかこいつは」
 グレンは悪態をつきながら、体の向きを元に戻す。
 と、目の前で、ポポッコの集団が一斉に飛び上がった。

 シェーラの絶叫と吹っ飛ばされたムウマによって、安眠を邪魔されたポポッコ達は怒っていた。普段の温厚そうな顔は見る影もなかった。

「…あ?」

 事態があまりにも突拍子もないことすぎて、グレンは状況が把握できず、不思議そうに目の前の光景をながめる。ようやくグレンが我に返ったのは、吹っ飛ばされたムウマが、慌てて場から逃げ出した時だった。

「おい目ぇ覚ませくそチビッ!!」

 グレンの切迫した叫びに、シェーラははっととび起きる。
 目覚めた彼女の目の前で、ポポッコの群れが今にもとびかかろうと、身構えていた。
「…あ。」
 これはやばい。心に汗をだらだら流しつつ、助けを求めてグレンの方を見る。

 か、い、だ、ん。

 グレンの口元が動いた。瞬間、二匹は弓弦から弾き飛ばされた矢のように、すさまじい勢いで走り出していた。

 迫るポポッコ軍団。
 対する二匹はひたすら走る。とにかく走る。がむしゃらに走る。
 妙に部屋が広いせいで、階段までの距離がやけに遠かった。

 そして、両者必死の追いかけっこの末、数匹のポポッコ達が“わたほうし”を繰りだそうとした、まさにその時。
 シェーラとグレンは、なかば転がりこむようにして階段にたどり着き、間一髪、二匹はこの階から逃れていた。


 †カトラ雲山・山頂への道 中継地点†

 ようやく、といった感じで、シェーラとグレンは中継地点にたどり着いた。全力疾走したせいで、どちらもぜいぜいと息づかいが荒くなっている。
「…少しっ…休む、か?」
 グレンが尋ねる。シェーラは手を左右にふった。
「いや、…あたしはっ…全然大丈夫…」
 そういうあんたはどうなのよ、と睨んでやると、グレンは口の端をちょいとつりあげて「ふん」と鼻を鳴らし、まだ整っていない息で声を発した。
「俺は…大丈夫、だ…全然、眠く…ない…」
 あ、こいつ眠いんだ。と、シェーラは察した。手伝ってほしいと頼みに行った時、グレンが眠そうにしていたことが、彼女の頭をかすかによぎる。
 シェーラは腰をおろして、深呼吸をした。そうして息の調子をなおしてから、斜め上のグレンを見上げた。
「…意地の張り合いは、ちょっと中断するわ」あきらめて本音を伝える。「正直に言えば、あたしはちょっと疲れた」
 グレンは何とも言えない表情をした。
「…なら、休むか」
 実は俺も少し疲れてな、とぼそぼそ洩らされた声は、シェーラに肩をすくめさせただけだった。

 グレンは、シェーラから距離をおいた場所に座った。暇だったので、二匹はそれぞれバッグからリンゴをとりだし、かじる。だが、二人ともリンゴは大きいものではなかったので、食べ終わるまでに、そう多くの時間はかからなかった。
 リンゴがなくなると、代わりにそこに生まれたのは微妙なきまずさだった。
 黙って体力を回復すればいいのだが、どうにもシェーラは落ち着くことができない。
 おそらく自分は、黙っているのが苦手な性分なのだ。そう割り切って、シェーラは頑張って声をしぼりだした。
「こ、このマント…素敵よね」
 だが、グレンはその意見ををすぱっと切り捨てた。
「意味が分からん。それは間違いなく気持ち悪い」
 せっかくふりしぼった勇気を足蹴にされた気分だった。
 シェーラは肩を落として、マントをじっと見つめる。

(……むぅ)

 たくさんのヒトデマンが今にも踊り出しそうな、この躍動感!
 そして、このセンス!生地が緑色というのがなんとも素晴らしい。まるでヒトデマンが森の中に暮らしているようではないか!

「こんなに、…こんなに可愛いのに!」熱を帯びた声をあげてから、シェーラは不思議に思ってグレンを見た。「…でも、それならどうしてでかヅノがこれを持ってるの?」
「それは…俺の義理の親の趣味だ。あと、その呼び方やめろ。いいな、くそチビ」
 わざとらしく最後に付け足された四文字に、かちーんとくる。仲良く会話する気がないのかこのでかヅノ野郎!と、思っていると、グレンが思いっきりのびをして、つぶやいた。

「しかし、今日は疲れたな」

 シェーラは言葉を飲み込んで、ちょっとうつむいた。
(…あたしのせいだね)
 口に出してあやまったら、グレンは怒る気がしたので、心の中で頭をさげた。
(足を引っ張ってばかりで、ごめん)
 うつむいたワニノコを見て、グレンが少し困ったように言葉を探した。
「あー、いや…。疲れたっていう原因は、お前じゃなくてクソじじいのせいだから」
 シェーラは顔をあげた。
「クソじじい?」
「お前も覚えてるだろ?あの、東の森のギャラドスだ」
 うん、とシェーラは強ばった顔でうなずく。忘れられるわけがなかった。あの時の恐怖は今もなお痛む傷となって、心臓に刻まれている。
「あのギャラドスが、どうかしたの?」
 するとグレンは、その質問を待っていましたとばかりに語りだした。やけに饒舌だった。
「親方に頼まれて、俺がオレンの実を届けにいったんだが……その後、この前中断された勝負をすることになってな。戦ったんだ。俺も奴も本気で。それで、確かに俺が勝ちそうになったんだ。……だけどな」
 そこで、グレンの全身から濃い殺気がたちのぼった。

「あのクソじじい……途中でこっそりオレンの実を食いやがったんだ」

「……え…?」
 衝撃の事実、であるようなないような事を聞き、シェーラまじまじとグレンを見つめた。
 それで、グレンはあんな不機嫌だったのか。

(なんか、微妙に納得できない)

 そんなシェーラの内心も知らず、グレンが普段の無愛想さはどこへやら、怒りにまかせて熱く言う。
「だよな?クソちびも呆れるよな?」
 別にギャラドスに呆れたわけではない、と内心でつぶやく。
「だがな、あのクソじじいはどこまでもクソ野郎だった。ハイドロポンプをくらって瀕死寸前の俺に何て言ったと思う?」
 それがよほど腹に据えかねたらしく、グレンはたたきつけるように叫んだ。

「“ワシはやっぱり最強だな”だ。…アホかあああッ!」

 この場にいない相手に突っ込みをいれるグレン。シェーラはなんと声をかければいいのか、だいぶ困った。
「…ちょっと…お、落ちついて」
「これで落ち着けるかッ!あー、思い出すだけでイライラする」
 やり場のない怒りをもてあますように、グレンが同じ場所を何度も何度も往復し始めた。シェーラは呆れてグレンを見つめた。
「でかヅノって、すっごく負けず嫌いなのね」
「……あ?」
「ちょっと意外かも」
「……」
 グレンは立ち止まり、肩をすくめたが、否定はしなかった。彼は弁解をするようにぼそっとつぶやいた。
「義理の親は、負けず嫌いだった」
「それじゃあ似たのね。きっと」
「…知るか」
 短くそっけない言葉。だが、シェーラはふと笑いそうになってしまった。どことなく照れが感じられるのは、きっと、気のせいじゃない。
「……なんだ、その顔は」
「あ、別に笑ってるわけじゃ」
「阿呆。口がゆるんでるぞ」
「え、うそ?」
「本当だ」
 そのとき、グレンが微笑したような気さえした。
 なんとも穏やかな雰囲気だった。この二匹の間に流れているぎすぎすした空気や、絶えずあった緊張が、細やかな粒子となって、どこかに消え去っていくようだった。知らず、シェーラも微笑んでいた。

「……ところで、つかぬことを聞くが」
 しかし、そこで、グレンが言いにくそうに、言葉をきりだした。
「ん、何?」

「お前も記憶がないって、本当か?」

 シェーラの表情が強ばった。
 ささやかに築かれようとしていた何かが、今、音をたてて崩れていくのが、目に見えるようだった。

(そのことは…トトと、親方さんと、ユキメノコさんしか知らないはずなのに)

「どうしてあんたが、それを…」
「俺が親方に尋ねたんだ。俺の過去を、お前が知ってそうだったから。…あのワニノコは何者なんだ、と」

(そう、か)
(こいつだって記憶がないんだから、過去を知りたいのね)
(……だけど)

 グレンは歩いてシェーラの方に近づき、座った。しかし、リンゴ3つ分の距離は、相変わらず縮まることなく二匹の間にあった。
「…だが、聞いて余計に訳がわからなくなった。親方は、お前の記憶がない、ということしか教えてくれなかった」
 どうやら、シェーラがニンゲンだった、ということを親方は言わないでくれたらしい。
 グレンは推し量るようにシェーラを見た。
「記憶がないなら、どうしてお前は俺に噛みついた?お前は、本当に初めて俺と会ったのか?」
「……」
 シェーラの口が様々なかたちにさまよった。
(もしあの記憶を教えて、こいつが何かを思い出したら…)
(あたしは、どうすればいいんだろう)
 戦うことになるのだろうか?もしもそうなら、自分は死ぬのではないか?
 迷っている間も、グレンはじっとこちらを見つめている。そのまなざしに、ぞっとするような冷たさはなかった。少なくとも、シェーラはそう思った。
 やがて観念したように、シェーラはぽつりとつぶやく。
「本当は、少しだけ、ほんの少しだけ、記憶が戻ってるの。…だけど、それをあんたに話していいのかわからない」

 もしもグレンが、あの凍り付いた瞳のヒトカゲのようになってしまうのだとしたら…。

 シェーラの声が口からこぼれて地面に落ちた。
「あたしは、怖い」
 グレンは少し考え込んでから、気むずかしい顔できり出した。
「別に心から俺を信頼しろ、とは言わない。が、事実を知って、突然誰かに襲いかかるような真似は、絶対にしない」じっと、ワニノコを見つめる。「約束する」

 シェーラが口を開くまでに、少し間があった。

「……約束、やぶらないでね」
「ああ」

 覚悟をきめて、シェーラは記憶の断片をグレンに語った。


ハシドイ ( 2013/06/23(日) 18:21 )