10.誰がために
シェーラは、ある扉の前で決意を秘めた表情をして立っていた。誰のためか。ハヤテのためだ。
時刻は夕暮れ時の終わり。日はおちかけ、遠い空はオレンジ色と藍色を混ぜ合わせた色で、見事なグラデーションを作っている。外ではコロボーシ達がしきりに鳴き交わす声が響いていた。
シェーラは扉を二回、コンコンとたたいた。
「ごめんください」
しばらく待っても、返事はない。相変わらず、扉はきっちりと閉ざされていて、入り込む隙間もなく立ちふさがっている。
シェーラはめげずにもう一度扉をたたいた。
「ごめんください」
すると、今度こそ扉がおっくうそうに開かれた。扉の向こうにいたのは、炎の色をした一体のポケモン。眠たげに目をこすりつつ、不機嫌な声をあげる。
「ったく。こんな時間に、一体何の用……」
言葉は、その視線がワニノコをとらえた瞬間、ぷつっと途切れた。そのリザードはわずかに目を大きくして、つぶやいた。
「…くそチビ?」
シェーラは、グレンにむかって言った。
「手伝ってほしいことが、あるの」
†
「シェーラ…僕のこと、怒ってただろう?」
トトが部屋に戻ってくるなり、ハヤテは不安そうな声を発した。そして、翼の中に体をうずめて、軽くうつむく。
(きっと、意気地なし、って思われた)
「…怒鳴る気はなかったんだ。あんな風に言われたことは、今までにも何度かあったし」
でも。
“ハヤテが飛べば万事解決じゃない”
シェーラがあまりにも簡単なことのように言うから。
つい、感情に流された。
シェーラの『散歩に行ってくる』なんて言葉は、絶対に嘘だ。あまりにも唐突すぎる発言だし、表情だって、気楽なものじゃなかった。間違いなく、ハヤテに怒ったのだ。ハヤテは心の中でそう、決めつけていた。
(あんな風に去っていかれるくらいなら、いっそひと思いに怒鳴られた方がマシだ)
なにも言われない方が、むしろ、辛い。
トトは目をぱちくりとさせて、まじまじとポッポを見つめた。予想もしていなかった物を見つけたような、そんな表情で。
やがて、ハヤテの言葉を飲み込んだトトは、そっと彼に歩み寄る。
「違うよ」
優しい表情とは裏腹に、トトはきっぱりと言い切った。
「シェーラは違う」
†
「悪いが断る」グレンは、シェーラの言葉を聞くなり、扉を閉めようとした。「俺は今、忙しいんだ」
「待って」
シェーラは急いで閉められかけた扉をつかんだ。今日のグレンは何故かとても不機嫌で、声も唸るような低さだった。
「…俺じゃなくて他の奴に頼めばいいだろっ。つか、扉から手を離せ!」
「無理!…あたし達は新入りだから、知り合いがほとんどいないの」
扉を開けまい、閉めさせまい、と攻防が続く。
「んなこと知るか。俺のことは放っておいてくれ!」
「だって…ギルドは助け合いが基本ってそう言ってくれたじゃない!」
「あ?」
そこで、グレンは扉から手を離し、記憶をたどるような表情をした。しばらくして、何か思い当たることがあったのか、顔をしかめる。
「あー…」
しかし、結局グレンは冷たく言い捨てた。
「悪いが、気が変わった」
「…え」
シェーラは、言葉を失った。
先輩ポケモンに頼れと。次からはそうしろと。そう言ってくれたのは心強いことだったのに。
こちらの内心の思いも知らず、グレンはわざとらしく外の景色をうかがうような真似をする。
「そろそろ夜だぜ。チビはチビらしく、帰ってぐーすかいびきをかきながら寝てることをオススメするが?」
(…なッ…!)
喧嘩を売られ、かっと頭に血がのぼった。そのまま、怒りにまかせて、シェーラは怒鳴ろうとしたーーその時。
『僕は空を飛べないんだ』
幻の声がよみがえり、一瞬で視界が晴れた。はっと目が覚め、頭が冷やされた。
まるで、大量の冷水を頭からぶっかけられたような気分だった。
(ああ、そうだったね)
「………?」
グレンは、何も言い返されないので不審に思い、ワニノコの出方をうかがった。
シェーラは固く口を引き結んだ。そして、扉から手をはなし、一歩後ろに下がって――
突如。
両の手のひらを、ばん!と音をたてて床につけ、体を折り、鼻先を地面にこすりつけるように頭をさげ、ワニノコにできるかぎりの平伏姿勢――土下座をしていた。
「……!?」
絶句するグレンにむかって、シェーラは叫ぶ。
「お願いしますッ!力を貸してください!」
(――どうせ)
自分は穴だらけの存在なのだ。
持っているものは、名前と、大切な友達と、探検隊バッジ…それと、馬鹿みたいなしつこさくらい。
記憶もない。経験もない。強さも全然足りない。誰かを励ますことができるような素敵な言葉も、心をときほぐすような優しい笑い方も知らない。
(それなら、恥もプライドもかなぐり捨ててしまえ)
自分に足りないものがあるなら、誰かに借りるしかないのだ。たとえ、頭をへこへこ下げて、相手を拝まなければならないとしても。
それを邪魔する傲慢さなんて、持っていても意味がない。
「飛べないあの子を、励ましてあげたいの」
視界いっぱいに広がる床。シェーラは祈るような気持ちで目を閉じる。すると、耳の奥にハヤテの言葉が呼び起こされた。
カトラ雲山に入る直前のハヤテの言葉。
『…たとえ僕がいなくても、君達のレベルじゃ絶対に不可能だ』
そして、先ほど聞いたばかりの声。
『もう、無理なんだよ。僕が飛ぶのは…不可能なんだ』
やってやろうじゃないの、と妙に挑戦的な気持ちが湧く。不可能を可能にしてやろう、と。
それは、シェーラなりの、ねえねえ本当に飛びたいと願うなら、何度でも何度でも諦めずに努力してみたらどうなのよ、というメッセージなのだ。
オオスバメのやっていることは間違ってはいない、とシェーラは思う。飛べない、という事実を受け止めて生活するのもひとつの幸福のカタチだから。
けれど、果たしてそれを真の幸福とよぶならば、どうしてハヤテは食い入るように空を見つめていたのだろう?
あるがままを受け止め、飛ばずに生活を続ける道もある。だが、現実から目をそむけ、いつか飛べると信じる辛い道もあるのだ。
オオスバメによって守られてきたハヤテに「後者の道もあるんだよ」と言い続けたポケモンは、きっと、いない。誰かがそうやって励まし続けてくれたなら、オオスバメによって、注意深く隠されてきた道――諦めずに生きる道――があることにも、気がつけるはずだから。
新しい道を知ったとき、進む道を選択するのはハヤテ自身だ。
悩みすぎて苦しむくらい、たくさんの選択肢があってほしい。シェーラは、そう思う。
「手に入れたいものがあるの」
だから、シェーラは言葉をつむぐ。
手に入れたいもの。道があることを指し示すもの。――自分の代わりに、ハヤテを励まし続けるものとなるように。
「あたしは弱い。欲しいものに手が届かない。だけど、」
シェーラは頭をさげたまま、拳をにぎりしめる。
誰のためか?もちろん、ハヤテのためだ。
「あなたは強いと聞いた。…だから、お願いします」
シェーラは顔をあげて、リザードを見つめる。
ぶれない視線に、グレンがわずかに動揺をみせる。
激流のような意志が、シェーラの瞳にやどっていた。
「どうか、あたしに力を貸して。カトラ雲山の山頂まで、あたしを連れていって」
しばらくの間、グレンは無言でシェーラの視線を受け止めていた。しかし、真っ向からのそれに耐えきれなくなり、根負けして、とうとう目をそらした。
だが、彼はまだ“力を貸す”と、言ってはいない。シェーラにとって、大事なのはその言葉だった。
「…しつこい奴だ」
グレンは顔をそむけたまま、どこかふてくされたように言う。シェーラは瞳のするどさを少しだけゆるめた。
「そうだね。ごめん」
「……それは、誰かの依頼なのか?」
グレンは毒気を抜かれたのか、低かった声をいつもの高さに戻していた。
質問に、シェーラが「違う」と、首を横に振ると、グレンは不可解なものを見たような表情をし「俺にはさっぱり理解できねーな」とつぶやいた。
そして、地面に伏したまま顔だけあげている状態のワニノコを、横目でちらりと見た。
「…お前、とりあえず立てよ」
そう言われても、頑として動く気はなかった。
「嫌。でかヅノがうなずくまで、あたしは動かない」
「変な噂でもたったら、どうしてくれる」
「あやまる。でも、今は動かない」
「…本っ当に、お前は、面倒くさい奴だな…」
そう言って、グレンは短いため息をつく。
そして、おもむろに、そっぽを向けていた顔を、きちんとシェーラに向けた。
シェーラは思わずまばたきをしてしまった。
彼の不機嫌な顔つきが、急に引き締まり、真剣なものになっていたからだ。
グレンははっきりとした声で告げる。
「ウェストタウン探検隊ギルド所属の探検隊員グレンが、同ギルドの探検隊員シェーラの頼みを、正式な依頼として引き受ける」
え、とシェーラが、間抜けな顔をした。
一方、グレンは下を向いて心底けだるそうに長いため息をついた。その顔があがったときには元の無愛想な表情に戻っていた。
「……これでいいんだろ。それとも、文句あるか?」
グレンの話し方はどこか投げやりだった。
シェーラはしどろもどろに返事をした。
「…あ、いえ、あの…感謝します」
「それなら、さっさと立て。…俺が落ち着かない」
グレンが無造作に手をさしのべた。
ほら、とせかすようにグレンが言うので、
「うん」
素直にその手をとり、シェーラは立ち上がる。
グレンは苦笑をうかべて、つぶやいた。
「お前のしつこさに、負けたよ」
†
「ハヤテさん、トト達もお散歩に行こう」と、トトが提案したのは、先刻のことだった。
その間にシェーラが戻ってきたらどうするんだろう?とハヤテは不安に思ったが、トトによって、なんとなく強引に外に連れ出されてしまった。
日は落ちて、辺りは暗くなっている。
ウェストタウンの商店街も、店がたたまれ、活気もほとんどない。こんな時間に、トトは一体どこへ行く気なのだろうか。
「とーちゃくっ!」
耳をすますと、ざざーん、という波の音がする。足下の地面も、細かい砂でしきつめられていた。
「…ここは、海岸?」
「そうなの!」
ハヤテは夜目がきかないので、どこまでが砂浜でどこまでが波打ち際なのか、よくわからなかった。砂浜も、遠く広がる海も、ほとんど真っ黒に見える。なので、下手に波をかぶらないよう、海に近づかず、その場で腰を落ち着けた。
トトもハヤテのとなりに座る。
「ここはトトのお気に入りの場所なの。どうですかー?」
「…海って、広いね。当たり前のことだけど」
「海、初めて見たの?」
「うん」
会話が途切れたので、ハヤテは自然と海の方に目を向けていた。暗い海と暗い空の境目が見つからず、両方がつながっているような、不思議な感覚をおぼえた。
「ハヤテさんは、お空をとびたい?」
ぽつりと、今更すぎる質問をうける。
「飛びたいよ」
「トトもね。お空を飛びたいって思ってたの」
「……え?」
驚いて隣に目を向けると、トトはじっと黒い水面を見つめていた。
波の打ち寄せる音が、妙に大きな音で響く。
「どうして?」
「トトのママは、お空を飛べて……でも、トトは飛べなくて、悲しかったの。悲しいのは嫌だったの。だから、飛びたかった」
その気持ちは、痛いほどよくわかる。
トトはゆっくりとハヤテに向き直り、翼に手をそえた。
「でも、トトが飛びたいと思ったのは、ママがいたから。一匹で飛びたいわけじゃなかった」
トトはゆっくりと言葉を続ける。
「ハヤテさんも、きっとそう。みんなと一緒に、飛びたいだけ」
「そう、なのかな」
「ハヤテさんが、はじめてお空を飛びたい時を思い出してみて」
「僕がはじめて…?」
そんなこと、考えたこともなかった。
初めて飛びたいと願ったのはいつだろう?
飛べない悔しさ、取り残される悲しみ。それを知ったのはいつだろう?
思うならば、それはきっと、今は亡き両親が楽しげに羽ばたく姿を見た時ではないだろうか。
そして、優しい叔母のオオスバメ。ちょっと心配性のオオスバメ。
思い浮かべた瞬間、ハヤテははっとする。
(…そうだよ)
(僕は一緒に空を飛びたいんだ)
(飛ぶ早さを競ったり、宙返りをして驚かせたり、翼をならべて、どこまでもどこまでも…)
ふいに、トトが微笑んだ。
「トトのママがよく言っていたこと、ハヤテさんにも教えてあげますね」
「……?」
トトは両方のまぶたを閉じ、遠い記憶をたぐり寄せた。胸にしまっていた大切な言葉。それを、口にだして、伝えるために。
「“この世界に生まれることは、全て、奇跡によって成されたこと。
神様のちょっとしたイタズラ。あなたも私も奇跡で生まれた存在。
だから、私達に不可能なことは何一つないわ。
そのことを、どうか忘れないで”」
ハヤテの諦めの感情に、疑問の火をともす言葉だった。
「奇跡…か」
「そう♪」トトはうなずき、確信に満ちた声で言う。
「きっと、それを、シェーラが証明してくれる。ちょっとだけ、時間がかかるかもしれないけど…」トトは、ハヤテを見つめた。「トトと一緒に待ちますか?」
証明する?一体何を?
――まさか、奇跡を?
訳が分からないよ、と思いつつも、何故かハヤテはこくりとうなずいていた。
「…それじゃあ、ここは冷えるから、ギルドに戻りましょう!」
トトは飛び跳ねるように立ち上がり、にこにこと笑った。
一体トトは何のために、自分をここに連れてきたのだろう?と、ハヤテは疑問に思った。ひょっとすると、この場所にくれば…自分の心向きが変わる、とでも思っているのだろうか。
(まさか…ね)
不思議なトゲピーだ、とハヤテは内心でひとりごちた。
ギルドに向かう帰り道の途中。ハヤテはトトの後ろを進みながら「そういえば、」ときりだした。
「カトラ雲山で、トトが歌ってたあの歌。…さっきから、頭の中をぐるぐるまわってるんだ」ハヤテはトトの後ろ姿をじっと見つめた。「聞いてもいいかな」
返事は、数歩進んでから、ようやくかえってきた。
「…それは、ママのお歌なんです」
ハヤテは素直に驚いた。
「トトのお母さんは…なんだか、素敵なポケモンなんだね」
「はい♪」
トトは振り返り、嬉しそうに言った。
「トトは世界で一番、ママが大好きです!」
ハヤテは小さい頃に親をなくしたから、どう言えばいいのかわからなかった。でも、それは、自分にとってのオオスバメみたいな存在なのだ。きっと。
「トト、歌いますね」
そう言って、トトがハミングを始めた。
まるで、記憶の糸を引っ張り出すかのように、最初はかすかな音だった。深まっていく闇の中、細くたよりなかったメロディーが、徐々に安定したものとなっていく。
トトは足をとめていた。ハヤテも立ち止まって、目を閉じ、耳をすます。
トトは、すうっと大きく息をすい、宵闇の空に向けて、歌い始めた。
どこまでも、自由への解放を願う曲。誰かに向けられたメッセージ。胸がしめつけられるような、切なく、どこか懐かしい調べ。
ママの歌――『とりかごのうた』を。
いつかあなたに教えたい
閉ざされた世界でも
私の心は自由なの
いつかあなたに尋ねたい
開かれた世界でも
あなたの心は自由なの?
空の向こうに行きたいの
私のつばさで
あなたと共に
地平の果てに行きたいの
手と手をつないで
あなたと共に
海の彼方に行きたいの
最後の口づけ
あなたにサヨナラ
歌が終わって、夜の闇に静寂が戻った。
叶わない望み。ここではない何処かへ行きたいと思う心。歌はそれを強く訴えていた。
深く、深く、ハヤテは共感する。
(飛びたいんだ。空の向こうへ。僕の、翼で)
(でも、…無理なんだよ)
(僕には無理なんだ)
諦めることは、あまりにもハヤテにとって慣れ親しんだ行為だった。
(やっぱり、僕は意気地なしだ)
そこで、トトが「あっ」と声をあげ、空の一点を指さした。つられて、ハヤテも空をあおぎ見る。
「一番星!」
夜目のきかないハヤテには、真っ黒な空が見えただけだった。
けれども、そこに星はあるのだと、祈るように信じたかった。