5話:出発前日
ガタ。
ゴトン。
「……人って、変わるものね」
二階で旅の支度を進める娘の物音を聞きながら、クレナの母親はマグカップを机に置いた。
明日、クレナはトレーナー修行の旅に出る。
「ついこの前まで、憂鬱そうにしていたのに」
「ピィィ」
そんな彼女の脇に立つのは、「お代わりは如何ですか?」とばかりに、アイスコーヒー入りのポッドを両手に抱えるオーベムである。
「ありがとう、ジェントル。でも、コーヒーはもう良いわ」
「ピィイイイ」
オーベムはポッドを冷蔵庫へと戻し、一礼をしてクレナのいる二階へと上がって行った。
「あの子、ポケモンというよりは、ポケモンの皮を被った紳士ね」
ちらり、とクレナの母親は床を見る。
そこには、長い舌を器用に操り、細長い容器から液状ポケモンフーズを舐めとるクイタランの姿があった。
その姿はまさに動物であり、ポケモンである。
「くい太は……うん、ポケモンね。紛うことなきクイタランだわ」
己の名前を呼ばれたことに気がついたクイタランは、視線を上げるが、また直ぐにポケモンフーズへと興味を移してしまった。
「炎ポケモンは情熱的な性格の子が多いって聞いたけど、貴方もそうなのかしら?」
「…………」
「まぁ、無愛想な子には間違いないわね」
ぴちゃぴちゃ、とクイタランの舌の音が響く。
器用に舌を使う食事の姿は、人によっては生理的嫌悪を感じるであろうが、クレナの母親は好奇心を持ってその姿を見つめた。
「ねぇ、くい太」
母親はクイタランに呼びかけるが、クイタランは相変わらず食事にご執心である。
だが、それに構わず、母親はクイタランに囁いた。
「どうか、クレナを守ってあげて。お願いよ」
女の子の一人旅に、不安が無いと言えばそれは嘘になる。
トレーナー修行の旅の過程で、大怪我を負うどころか、帰らぬ人となってしまうトレーナーは決して少なくはない。
「……あの子は、私の大切な娘なの」
あの異様なまでに人間臭いオーベムは兎も角として、ポケモンであるクイタランに人間の言葉が伝わるとは思えない。
自分の行為に、思わず失笑した母親であったが、
「ぶも」
彼女は聴いた。
クイタランは、まるで返答するように。
クレナを守るという言葉を約束するかのように、鳴いたのである。
「……!」
母親が目を見開くが、同時に二階から降りてきたクレナが、母親に声をかけた。
「母さん、ちょっとトレーナー用品の買い物に行ってくるね!」
「……あっ」
「どうしたの?」
「い、いや。何でもないの……買い物に行くなら、玉ねぎと人参もついでに買ってきてくれない? お釣りはお小遣いにして良いから」
「わかったよ。あ、くい太も連れて行くね」
母親から多めにお金を渡されたクレナは、モンスターボールにクイタランを収納し、腰のボールホルダーにセットした。
「似合ってるじゃない」
「そう?」
新品のボールホルダーには、二つのボールがセットされている。
「いってらっしゃい。気をつけて」
「うん。直ぐに戻るよ。行ってきまーす」
クレナは手を振り玄関を出ていく。
「直ぐに戻る、か……でも明日には、あの子は旅に出ちゃうんだよね」
―あのクイタラン達がいるなら、きっとあの子は大丈夫。
―せめて、今日は腕によりをかけた料理を作ってあげよう。
―だけど。
「やっぱり、寂しいなぁ……!」
クレナの後ろ姿を見送りながら、母親はどこか滲む目を拭い、笑顔を作った。
―
「あぁ、これだ、これ」
トレーナー用品店に寄ったクレナが足を止めたのは、モンスターボール・コーデシールのコーナーである。
クレナは前々から不思議に思っていたのだ。
ポケモントレーナーはどのようにして、どのモンスターボールに、どのポケモンを入れているか判別しているのだろうかと。
「正解が「わかるわけないから印を付けよう!」だったとはね」
ボールホルダーのスロットで判断するという方法もあるが、同時に取り出した場合は混ぜこぜになってしまうし、入れ違いでセットしてしまった場合、公式戦で大変なことになる可能性もある。
泣きを見たトレーナーからの熱い要望に応えて誕生したこの製品は、モンスターボールを傷めない素材で出来たシールであり、その種類は多種多様。現在では「トレーナーの必需品」とまで呼ばれている品であった。
(中には、ポケモンを呼び出す際にエフェクトを追加させる機能を持ったものもあるが、こちらは値段が高く、主にポケモン・コンテストに参加するトレーナーが購入するものである)
「タイプシンボルのシールが良いかな。いや、でも同じタイプのポケモンを捕まえる可能性もあるし」
「うーん。こっちの可愛いのは……どう考えても合わないね」
「数字のマークもあるんだ」
「うわぁ、悩む。どうしようかなぁ」
種類の多いコーデシールを前に、クレナは一人悩んでいたが、
「コーデシールをお求めですか?」
「あっ」
そんな迷える彼女に、親切な店員が声をかけてきた。
「あの、その。種類が多くて、どれにしようか迷ってしまいまして……」
「やはり人気はタイプシンボルですね。シンプル・イズ・ベストということで、売れ筋商品ですよ」
「なるほど」
「当店としてオススメしたいのは、新商品のこちら。エースシンボルです」
「エースシンボル?」
店員が示したのは、Aのマークと輪が融合したような形のシールである。
「貴方のエースポケモンや、相棒ポケモンにオススメですよ」
「相棒ポケモンに……」
エースポケモン。
相棒ポケモン。
クレナの脳裏に過ぎったのは、クイタランの姿であった。
溝にハマっていたクイタラン。
レモーのアイアントに叩きのめされてしまったクイタラン。
クレナの声に応え、鬼火を撃ってくれたクイタラン。
無愛想で、可愛げが無いが、クレナにとっての初めてのポケモン……クイタラン。
「あ、あの。このエースシンボルと。エスパーシンボルにします」
クレナは店員に礼を言い、二つのコーデシールを手に取った。
クイタランにエースシンボルのデザインは少々格好良すぎるとクレナは感じていたが、……それでもそれは、彼女の「くい太」にとって、最も相応しいコーデシールであった。
「ねぇ、くい太。私達、きっとレモーに勝とうね」
レモーに完敗した日、彼女は泣いた。
負けたままでは嫌だ。強くなりたい、と。
「一緒に、頑張ろう」
だが、旅立ちを目前としたこの日、クレナは笑っていた。
不安も恐れもある。だがそれ以上に、トレーナーとしての勝利への執着、そして冒険への好奇心が、少女を旅へと誘っていた。