28話:夜の湖
風を切る音、そしてハミング。
少女クレナは、綿雲の翼を持つ龍に乗り、空を舞っていた。
「お客さん、どうですか? チルタリスの乗り心地は!」
「え、ええ……素晴らしいです……」
「そうでしょう、そうでしょう! 我が社のポケモンフライトタクシーは、お客様の安全と興奮をお約束します!」
ポケモンフライトタクシー。
それは、ドラゴン使いやスカイトレーナーが操る、空を舞う大型ポケモンによって行われる運送事業である。
「どうです、直に風を纏うこの感覚。飛行機では到底味わえませんよ!」
ポケモンの背に乗り、大空を舞う。
これは「波乗り」同様に、ポケモントレーナーならば誰しもが夢見るというアコガレ行為である。
「(……あうう……)」
だが、折角の「空を飛ぶ」体験であるというのに、鞍に跨り、安全具を握りしめるクレナは風景を直視することができずにいた。
彼女は思い起こす。
昔に乗った遊園地の遊覧船アトラクションでも、同じような恐怖体験をしたのだと……
「キュウ、フゥン♪」
「お客さん運が良いですよ。カイリューやボーマンダは確かに速いですが、チルタリスには極上の羽毛、そして何と言っても、このハミングサービスがあるんですから!」
「そうですね。あ、ははは……」
ポケモンフライトタクシーは、旅人が気軽に利用できるほど安いサービスではない。
今回クレナは、スカイトレーナーから謝礼に貰ったタクシー回数券を用いて利用しているのだが、この回数券ではどのポケモンに乗れるか選べず、運次第である。
チルタリスは大型ドラゴンとしては「ゆったり」と飛ぶ種族であり、絶叫系が苦手なクレナにとって、当たりを引いたと言えるのだが……それでも、彼女の心は平静ではいられなかった。
「キュウウゥン♪」
「(「きゅううん」じゃないよ。こっちは「ぐえええ」「おええええ」だよぉ……!)」
「聴けばうっとり夢心地」と定評のあるチルタリスのハミングであるが、今のクレナにとってはもはや雑音である。
だがそんなグロッキー状態のクレナも、ドライバートレーナーが示した先の光景には、息をのんだ。
「良い眺めでしょう? あれがルネシティです。歴史が眠る、神秘の街ですよ」
巨大クレーター内部に形成された、水の街。
上空から覗く、街に広がる巨大な湖は……どこまでも広がる青空と、降下していくチルタリスの姿を映し出していた。
***
「う、うぅん。まだ少し、身体がぐらんぐらんするなぁ……」
『クレナ様、お気を確かに』
こうして、無事クレーターの街に降り立ったクレナであったが、彼女の気分はとても万全とは言えず……ポケモンセンターにて宿を確保し、ランク8ジム戦の予約をした後は、日が暮れるまで宿の個室に籠ることになってしまった。
「……あぁ。夜になっちゃったかぁ。何だか勿体なかったな」
『明日はどうなさるのですか?』
「ジム戦準備をしなくちゃだし、観光にも行きたいなぁ」
クレナは室内に備えられている観光ガイドマップを開く。
折角の授業免除期間、折角のトレーナー修行推進制度なのである。安く旅が出来る今だからこそ、楽しめるものは楽しんでおかねば損であった。
「ぶもぉ」
「ん?」
そんな中、クレナの傍で休んでいたクイタランが、ガイドマップを覗きこんだ。
「……んん?」
クレナがクイタランの長い顔の先を追うと、数時間前に上空から見下ろした、例の巨大な湖の写真があった。
そこには、ポケモンフライトタクシーで眺めた昼の眺めだけでなく、夜の眺めも掲載されている。
クイタランは、どうやらこの「湖の夜の姿」の写真を見ているらしい。
「へぇ。あの湖、晴れた夜だと、更に幻想的になるんだって……」
クレナは、窓の外を見る。
既に星が瞬く時刻となっているが、空は綺麗に晴れていた。
「そうだなぁ。ここから近いし……今から行ってみようか?」
『お身体の方は、大丈夫ですか?』
「うん。少し歩いた方が、調子が良くなる気がする」
身支度を整え、ボールホルダーを腰に装着したクレナは、ポケモンセンター職員に鍵を預けて夜の街路へと繰り出した。
近くの食料品店に寄って値下げ弁当と、ポケモン用のおやつを確保。
湖への行き先を示す看板の矢印に従って、夜道を歩くクレナであったが、彼女は道中、ふと立ち止まり……
「折角だから皆でのんびり歩いて行こうか? 夜のピクニックだ」
ストレス発散と夜道のボディガードを兼ねて、モンスターボールから全ての手持ちを解放した。
「ジィーッ!」
「ああ。ジーン怒らないで。昼間はフライトタクシーで、ちょっと気分悪くなっちゃってさぁ……」
「ジジィーッ!」
「ごめんって……」
街に来たとたんに、昼間寝込んでしまったクレナに呆れたのだろう。
テッカニンはやや不機嫌にクレナの周囲を旋回したが、彼女はやがて「やれやれ」と言わんばかりに、オムスターの殻の上に着地した。
「……おむ奈、重くない?」
クレナはテッカニンを殻に背負うオムスターに尋ねるが、彼女は「なぁに?」と触手をうねらせる。
「キキィ?」
「うーん、逞しくなったなぁ」
オムナイトだったころの彼女は、殻の重さに対して身体が非力すぎたのか、地上での移動速度はとても遅かった。テッカニンが背中に乗ろうものならば、まともに動けたものではなかっただろう。
だが、オムスターへの進化を遂げた今は、テッカニンを背負った状態でも、(のんびり歩いているとは言え)クレナ達に遅れることなく付いてくるほどの逞しさを獲得していた。
「リィイイン」
美しい鈴の音を鳴らすフリージオは、そんなオムスターを後方から見つめている。
オムナイトからオムスターへと進化を遂げ、外見も変わってしまったおむ奈であったが……フリージオは、ワイルドな姿を得た彼女が更に好きになったようであった。
「…………」
クレナはちらり、とサマヨールの様子を伺う。
傲慢で、テッカニンとはまた違った方向性で難のある性格をしているサマヨールであったが、ゴーストポケモンであるだけに、夜が好きなのだろうか。
夜道を歩く彼は、どこか上向きの気分である様子だった。
「……♪」
無意識であるのだろう。
よくよく耳を澄ませば、サマヨールは小声でハミングしている。
それはチルタリスが唄うような、美しいメロディでは無い。どこか寂しく、そして、穏やかな音であった。
「綺麗に晴れてるね」
『ええ。今日は月が明るく、夜歩きには持ってこいの日ですよ』
オーベムは指部を発光させてクレナの灯りとなっていたが、それが無くても困らないほど、月の光が明るい。
「……あっ。ここだ、ここだよ」
『おお。これは……!』
ガイドマップに載っていたスポット。
夜のピクニックの目的地に辿りつき、柵から湖を見下ろすクレナは満足気に息を吐いた。
「凄い。来て良かった」
眼下の巨大な湖に映し出されているのは、クレーターの壁に包まれた、宝石箱を引っ繰り返したような闇夜の星々。
感嘆するクレナ達の傍で、クイタランもまた湖から目が離せないでいた。
「…………」
湖に映し出される星々。
スケールは比べ物にならないとは言え、クイタランはこの光景に覚えがあった。
―ほら、一緒に見ましょう。綺麗でしょう?―
―お父ちゃん。見てみて、川にお星様が一杯で、綺麗だよ!―
水に映し出される夜空。
かつて、妻や娘に頻繁に誘われ、連れられたと言うのに、全く興味を持てなかった光景。
だが、クイタランは、今日この時……彼女たちが好んだ光景のその美しさに、ようやく共感することが出来たのだ。
「綺麗だね、くい太」
「ぶも……」
湖を眺めるクイタランに、クレナが話しかける。
「この場所、勧めてくれて、ありがとね」
「……?」
「私、くい太がガイドブックの湖の写真を眺めていたから、ここに来たんだよ」
クレナは傍のベンチへと腰を降ろし、がさがさと荷物を漁って包みを取り出す。
それは湖までの道中で買った、クレナの軽食であった。
「んふふふ。絶景を見ながら食べる、割引弁当……!」
「ぶもっ」
「いやぁ、オツだね。手元はちょっと暗いけどさ」
弁当の香りに気がついたポケモン達は、「抜け駆けはずるい」とばかりにぞろぞろとクレナの傍に集まってくる。
「ちゃんと皆の分も用意しているよ。さ、食べよ食べよ」
「花より団子」という言葉があるが、花を見ながら食べる団子は、より美味しく、楽しい気分になるものである。
「ぶもぉ」
それが花と団子でなく、星空を湛えた湖と、夜の割引弁当や安物ポロックであったとしても……