即興小説
3、飛べないワタッコ
 少々の霧に覆い被されつつも、山は幾多の深緑の木々を身に纏って、毅然と広汎にそびえ立っている。山麓から中程度離れた草原には、冬の難儀から解き放たれたタンポポの群れが、大地に根を張りしゃんと胸を張りながら、白いふわふわの綿毛を身に纏っている。
 広大な草原の一角に、私はぽつんと立っていた。空はどこまでも遠かった。透き通った青空が見渡す限りに広がり、中央でぷかぷかと浮かんでいる白く濁った雲が、私のことを冷やかな目で見降ろしている。
 不意に強い風が吹いた。その風の詳細な性質を、私は記載することが出来ない。
 私の種族であるワタッコは、風に乗って空を飛ぶ。遥か遠くの彼方へと旅経つ。行き着いた場所で、両腕に付いた綿奉仕を撒いて子孫を残す。そこで終了。ワタッコの義務は後何も無い。死ぬまで自由に生きて良くて、基本的に子育てはしない。
 ワタッコは飛行タイプでは無いが、風に乗って空を飛ぶことができる。風の軌道等を瞬時に感じ取って、宙を何時間も漂うことが可能になる。私にはできないけれど。
 そう、私にはそれができない。詳しい事情は分からない。あんたはそういう体質なんだとお母さんは言っていた。飛べないワタッコは極僅かだがいるようで、私は極僅かの内の一匹に、どうやら入ってしまったらしい。お母さんは空を飛べて、だから私は誕生していて、けれど私は飛べないから、子孫を残すことが出来無くて、家系を途絶えさせてしまうことになる。そのことに紛れもない罪悪を感じ、更に幾多の罵倒の声があちこちから聞こえてくるから、その感情が風船の如く膨れ上がり、ひどく辛い思いを味わい続けてきた。
 原因は努力不足か。あるいは生まれつきの能力の問題か。お母さんは後者だと言ったが、仲間達は前者だと言い放った。言い放ったその言葉は、大気をゆらゆらと漂うことも無く、私の体めがけて一直線。体内を疾風の如く駆け巡り、五臓六腑をしっちゃかめっちゃか。最終的に心底に沈み込んで、確かな懊悩の火種となって蓄積する。みんなはとっくに自由自在に飛ぶことが出来て、次から次へと旅立ってしまう。自分だけが置いてけぼり。私は誰よりもたくさん練習をした。崖から飛ぶという無茶をして大けがもした。しかしそれでも宙に浮かず、焦り苛立ち情けなさが募るばかり。
 そろそろ飛ばないと、時期的に子孫を残すことが不可能になる。今日私は、今までよりも更に集中力を高め風を待った。じっと耳を澄ませた。そして……
 駄目だった。やっぱり飛ぶことが出来なかった。空を見上げると、青空が更に遠くに広がっていた。雲は中央にやはりあって、冷やかな目で私を見下ろしている。辺りを見渡すと、草原はさっきより更に広大に見え、反してそこにいる自分がひどくちっぽけに思えてきた。
 子孫を残せないワタッコは、幸福になれないと言われている。私は幸せにはなれないのだろうか。
 とりあえず帰ろうと思い振り返った。すると不都合な事象が眼前にあり、最果ての驚愕に目を見開いた。逃げる暇も無く、即座に目の前が真っ暗になった。



 次に目が覚めたとき、私がいる何も無い球体の空間と、そこから見える一人の人間が歩いている様子を見て、いったい何が起きたのか、はっきりと理解することができた。私はトレーナーに捕まったのだ。当然の如くしまったと思った。当然の如く最初に抱いた感情は絶望だった。
「あ……気が付いた」
 取り乱して動き回っていたら、ボールがちょっと揺れたので、人間は私が起きたことに気付いた。人間はこっちに向かって、口元に若干の笑みを添えて、
「あと少しで回復させてやるからな。もうちょっと待ってて」
 などといかにも私善い人ですと、アピールしたげな口調で言ってきた
 私は人間が嫌いだった。ポケモンを戦わせ傷つける、そんな連中が大嫌いで際限なく憎かった。落ち込んでいたとはいえ、人間が近づく足音に全く気付かず、何の抵抗もできないまま捕まってしまう。そんな私は愚かで、後悔してももう遅くて、不幸の極限に立たされた思いをして、子孫を残せないワタッコは幸せになれないという迷信は、果たして現実のものとなろうとしていた。
 ポケモンセンターで回復を終えた。腹部にあった傷跡は跡形も無く消えていた。しかし心の傷は消えておらず、ボールの中から人間を思いきり睨んだ。人間はそれを気にも留めず、ポケットから何やら四角いものを取り出し、それに耳を当てて話始めていた。
『分かってるよ』
『別にいいだろう。トレーナ続けてたって』
『彼女とかは、一応いたけど、うん』
 私はこの間暇ができた。四角いものの正体も気になるが、ひとまず私を捕まえた人間の姿を観察した。全体的に顔がしっかりしており、口元に若干のひげを生やし、青年より少し上くらいの年齢に見えた。左目の下には引っ掻かれた古傷がある。靴を見るとひどくぼろぼろだった。トレーナーを長年やっているのだろうか。 
 人間は基本笑いながら何者かと話していたが、時折苛立ちの表情を挟んでいた。長かった対話を終えたとき、彼は深い溜息をひとつ付いた。建物の窓から見た空は雲量を増していた。
 その日から人間の元での生活が始まった。バトルのとき、私は漆黒の雲を常時心に浮かべていたが、しかし私は意外にも戦うのが上手かった。また、彼の指示も相当的確で、こなれている感じがした。私がバトルに勝つと、彼は必ず褒めて、私の頭を撫でてくれた。
 彼は非常に優しかった。私のことを常に気遣ってくれた。彼の魅力に徐々に引きこまれていった。心変わりは早々と訪れた。彼に対する棘が取れていくのが自分でも分かった。あれほど強大だった憎悪と猜疑の念は、既に遠くの彼方へと飛んで行った。代わりに空白になった心の中に、主人を大好きな気持ちが収まっていった。そして彼のことを睨んでいた昔の自分を恥じた。



 ある日のことだった。主人はとある崖の上を歩いていて、突如野生のポケモンが現れて、私をボールから出した。しかし私はそのポケモンの攻撃を受けて、誤まって崖から転落してしまった。私は空を飛べないので、落ちるよりなすすべなかった。私は大けがを負った。昔飛ぶ練習をして崖から落ちたときより更に痛く、傷口を見ると血が大量に溢れ出ていた。もはや死を覚悟した。そんな私を主人は急いで手当した。近くにポケモンセンターが無いというので、彼はたくさんの応急処置の道具の使った。絶対に死ぬなよ、と何回も声をかけてくれた。途中雨が滝のように強く降り、遠くの方で雷も声を轟かせていた。しかし彼は少しも手を休めずに、私の手当をしてくれた。しばらく私は眠った。目が覚めたとき、私は起き上がれるほどに元気になっていた。隣で主人が眠っていた。手が血で真っ赤になっていた。
 気が付くと雨も止んでいた。透き通った眩しい青空の中に、濁った雲はどこにもなかった。
 私は眠っている主人に向かって、にっこり笑ってありがとうと呟いた。
 この日私は、もう完全に確信した。彼は善い人であること。彼の元で暮らしている私は、幸せであるということ。
 子孫を残せないワタッコは幸せになれないという迷信は、紛れもない嘘であったこと。




 更に数日が経過して、あの四角いものの正体が、離れた人と話せる道具だということを、理解できるくらい人間界について熟知した私は、もうすっかりこの生活に慣れていた。
 回復を終え主人の元へと帰ったその時だった。ポケモンセンターにある大きなテレビから音が漏れてきた。何やらモニターには、一人の女性が中心で原稿を読み上げてきた。
 ――続いてのニュースです。近年話題となっている少子化問題ですが、今年更にその状態が悪化していることが統計により発覚していました。統計によりますと、結婚に興味が無いと答えた人は全体の、
 そこまで聞いて彼は少し悲し気な表情を見せた。
 主人のことが分かってきた。結婚しないといけないと思っていること。トレーナーとして旅をしてばかりで、全く彼女を作ろうとはしないこと。やたらとそれを親に言われていること。
 要するに、私と状況がほとんど同じだったのだ。
 ある時に、電話を終えた彼の表情はやはり曇天だった。一つ溜息を付いた後、「結婚しないと幸せになれないんだってさ」と俯きながら呟いた。彼はどれほど厳しく言われているのだろうか。
今日この日ほど、人間との意思疎通が不可能なことを、残念に思った日があるだろうか。別にそれでいいんだって伝えたい。結婚なんかしなくたって、子孫が残せなくたっていいって。だって私は、それでも幸せになっているから。両腕に付いたたくさんの綿奉仕は、いつまでもここから離れないで、もう生きることはできなくて、たまにそれを思い出し心に風穴が空くけれど、主人の優しさがその穴を埋めてくれるから、紛れもなく私は幸福に包まれている。 
 だからきっと、主人だって幸せになれるんだ。 
 主人ははっと我に帰った。回復し終えた私と目を合わせた。暗い表情を見せまいと眩しい笑顔に戻った。私の頭を柔らかい手で優しく撫でた。

 私にはここが青空なのだから――


逆行 ( 2013/10/11(金) 21:34 )