ポケダン妄想
一匹のヒトカゲが、森の中を彷徨い歩いていた。
木々が太陽の光を遮るため森の中は薄暗く、更に正体不明の鳴き声が不気味に響いており、それがヒトカゲの不安と恐怖を深刻化させ、そして彼の身体を小刻みに震わせた。
ヒトカゲはこの森で、見知らぬポケモン達に何回も襲われた。何故自分が襲われているのか。理由が分からないまま、ヒトカゲは彼らから逃げた。絶対に彼らと戦わなかった。彼は戦い方が分からないのだ。技の出し方を良く知らないのだ。
ヒトカゲは後悔した。話の流れが良く分からず、取り敢えず頷いてしまったことを後悔した。はっきりと断っておけば良かった。断っておけば、命の危険に晒される事も無かったのだ。
少し前の事だ。このヒトカゲは、ヒトカゲでは無かった。彼は人間だった。正真正銘の人間だった。けれども彼はある日突然、ヒトカゲとして姿を変え、この世界へとやって来て倒れていた。理由が全く分からない。何故ポケモンになったのか。何故この世界に来たのか。何一つ、分かる事がない。
ポケモンになる直前に、何かあったのだろうか。彼はそれすらも分からない。何故なら彼は不都合な事に、人間であった時の記憶を、全て忘れてしまったのだ。すなわち、記憶喪失になってしまった訳だ。
「君、どっからどう見てもヒトカゲだよ」
最初に出会ったゼニガメというポケモンに、こう言われた時の驚きは、極端を超えるものだった。すぐさま頬を抓り、夢かどうか調べた。近くの水面で自分の姿を何度も見た。頭部に髪の毛が生えているか確かめた。パニックになり、「えっ?」と何度も呟きながら、周りをぐるぐる歩き回った。暫くして彼はにやけ始めた。次に顔面を蒼白にして息を荒くした。最後に、彼は大声で叫んだ。この世が不条理である事に対して叫んだ。叫びながら、彼は新しい変化を期待した。しかし、もう何も起らなかった。何時までも体がヒトカゲのままだった。まだ何とかなるという薄ぼんやりとした期待は、ここで完全に消え去った。彼はポケモンになった事実を受け入れるしか無かった。
その後は、酷く速く展開が進んだ。バタフリーというポケモンが現れた。迷子になった子供のキャタピーを探して欲しいと言われた。ゼニガメは直ぐに任せて下さいと言った。まだ気持ちが落ち着いていないヒトカゲは、取り敢えずゼニガメの親切ぶりに感心しつつ、地べたにへたり込んでバタフリーの羽の動きを、何処を見たらいいか分からない目で眺めていた。そうしている間に、バタフリーと視線があった。あなたも探してもらえますかと聞かれた。そしてヒトカゲは、流れで思わず頷いてしまった。よし行こう、というゼニガメの元気な掛け声を聞いた時、彼は自らの委託の軽率ぶりを悔いた。今は誰かを手伝える精神状態ではとても無いのだ。
二匹はキャタピーを探すため、森の中に入っていった。入って直ぐに呻き声が聞こえ、ヒトカゲは体をビクッとさせた。それから数秒も経たない内に、彼の背後から一匹のポケモンが低く吠えながら襲ってきた。ヒトカゲはすぐさま逃げた。相手は長い間追いかけてきたが、彼の必死さが物凄かった事もあり、なんとか逃げ切る事が出来た。
しかし彼は不幸だった。彼は呼吸を荒くしながら周りを見回し、そして絶望した。独りで勝ってに逃げてきたので、ゼニガメとはぐれてしまったのだ。長い距離を走ったので、森の入り口が何処かも分からない。彼はまたしても悔いた。今度は自らの行動の狼狽えぶりを悔いた。
襲ってくるポケモンがさっきの奴だけでは無く、他のポケモン達も次から次えと襲ってくる事が分かると、彼は更に更に悔いた。彼はいよいよ絶望の淵に立っていた。怪しい光に照らされずして、ほとんど混乱状態となっていた。
なにしろ彼は、戦い方が分からない。この世界で最も情弱な彼は、口から火を吹く要領を知らない。だからひたすら逃げた。逃げる事しか出来なかった。一応、殴ったり蹴ったりは出来る。しかし、そんな事で相手を倒せるのか。十分なダメージを与える事が出来ず、反撃されたらどうする。そんな不安が、頭に何回も何回も過ぎり、彼の勇気ある行為を執拗に喰い止めた。彼はとにかく怖かった。攻撃を喰らう際の痛みに怯えていた。ポケモンになってまった時点で相当不安だったのに、そこにさらに、痛い思いをしたくないという不安が上乗せされた状況は、胸が焼き尽くされてしまう程辛かった。
しかし、逃げているだけでは、あらぬる状況に対応が出来ない。絶対に戦わなくてはいけない状況が、必ず訪れると言うものだ。進んだその先は行き止まり。こっちは駄目だと振り返る。するとそこには敵がいる。彼が進んだその道は、両端が木が塞がれている。こんな状況に出くわした。さて、彼は一体どうするのだろう。
その敵は、大地を切り裂く雷の如く、酷く鋭い視線を彼に向ける。訳不明の怒りに体が燃え、全身の毛を余す事無く逆立たせている。その様子を見た彼の恐怖が、ほとんど頂点に達していた事は言うまでも無い。
しかし人間というのは不思議なもので、一度恐怖が頂点に達してしまうと、「今以上の恐怖がこの先やってくるんじゃないか」という恐怖が無くなるので、むしろ気持ちが少し楽になる。矛盾しているようだが、彼の恐怖が極限になる事で、さっきより幾分恐怖が減った。もう仕方が無い。死んでもいいや。やれるだけやってみよう。彼は腹をくくり、戦う事を決意出来た。この心理を分かりやすく一言で言うと、ヤケクソと言う。
とりあえず、ヒトカゲは殴ってみた。敵の体に向かって、今の自分に出来る精一杯の力を込めて、握りしめた拳をぶつけてみた。こんなものは技では無い。こんな事でダメージを与えられるとは、とても思えない。が、どうやら敵は痛そうだ。殴られた箇所を触りながら体を丸め、辛そうに唸っている。完全に隙だらけだった。もういってしまえと、ヒトカゲは思った。相手に接近し、腹部を思い切り蹴り上げた。相手は宙に浮いた。そして仰向けになって倒れた。これはかなり効いたと、ヒトカゲは確信した。
その後、ヒトカゲは殴ったり蹴ったりを繰り返した。そして遂に、相手はピクリとも動かなくなった。もう死んでいるだろう。気が付けば、ヒトカゲの手と足は真っ赤に染まっていた。彼は夢中で気付かなかったが、敵の体の至る所から、血が噴き出していたのだ。
彼は戦える事を知った。技を使わなくても、敵を倒せる事を知った。しかし彼の顔は、未だに青白いままだった。真実の胸を揺らしてみれば、まだ不安の鈴が大量に音を鳴らした。不安の鈴は、少ししか減っていない。もっと減らすにはどうしたら良かったか、彼は胸中で自問した。そして結論を出した。さっきの敵から、一発かする程度に攻撃を喰らっておけば良かったのだ。ポケモンの攻撃はどの程度痛いのか分かれば、もっと不安が軽減されていた。もっとも、そんな事をする余裕がある訳が無かったけれども。
それから、直ぐにゼニガメと再会出来た。ヒトカゲが戦うのは、さっきの一回のみで済んだ。これから先は、ゼニガメに守ってもらえばいい。ここで、彼の不安は結構減った。少しだけ、肩の力も抜けた。
「どう、キャタピーちゃん見つかった?」
ゼニガメの体には、これと言って傷痕は無い。ダメージを与えられる前に敵を倒したのか。それともずっと逃げてきたのか。勿論、ヒトカゲは前者であることを願った。
「全く見つからない。この辺にはいないと思う」
「もう少し奥に進んでみようか」
二匹は少し急ぎ足で先に進んだ。今度は不意に襲われても絶対に逃げないと彼は心に誓った。
暫くして敵が一匹行く手を塞いだ。ゼニガメが水鉄砲で簡単に倒した。ゼニガメの手慣れた振る舞いを見て、彼は不安の鈴が順調に減っていくのを感じつつ、少し不思議に思う事があった。
いったい水鉄砲の、どこが痛いのだろう。ただ水が当たるだけでは、痛くも痒くも無いだろう。相当勢い良く水が発射されていれば、少しは水圧でダメージを受けるかもしれないが。それとも水圧は関係なくて、ポケモンはもともと水に弱いのか。それも今一つ納得がいかない。
ヒトカゲは思考を巡らしながら、ふと倒れている敵を見る。すると、考えている事とは無関係の、ある異変に気が付いた。倒された筈の敵の尻尾が、まだ微かに動いていたのだ。まだ敵は、死んでいないと言う事だ。それなのに、ゼニガメは止めを刺さない。気付いていないのだろうか。
「まだこいつ少し動いてるよ。倒さなくていいの?」
ヒトカゲは怪訝な顔をして質問した。ゼニガメも怪訝な顔をして回答した。
「何言ってるの。もう倒してるよ」
「だってまだ死んでないよ」
そして、ゼニガメは苦笑いをして、
「えっ。普通は殺さないよ」
ヒトカゲの体は凍り付いた。指先一つも動かす事が出来なくなった。
「ちょっと、もう一回言って」
「だから、普通は殺さないんだって」
「……そっち!?」
「そっちって何?」
衝撃で心が揺れに揺れ、後悔の津波に飲み込まれ、罪悪感の海に沈む。
「殺しちゃ駄目なの?」
「当たり前でしょ。同じポケモンだよ」
「だって敵だから」
「敵とか関係ないよ」
「気絶させるだけでいいの?」
「そうだよ。気絶か、もしくはグロッキーで十分。襲ってこさせなければいいんだから」
せっかく不安の鈴の音が減ってきたのに、今度は後悔の鈴が大音量で鳴り始め、彼の両耳の鼓膜を突き破り、そして胸に幾千の衝撃を与えた。
やってしまった。とんでもない事をやってしまった。
先入観。彼にはそれがあった。彼はこの世界の戦闘は、殺し合うものだと思っていた。倒す=殺すだと思っていた。
彼が見た世界が非常に恐々としていたのも、彼の誤解に拍車を駆けた。薄気味悪い森。不気味な鳴き声。襲ってくる彼らの凶暴性。この世界は恐ろしい世界だと思っていた。この世界は危険な世界だと思っていた。戦闘が気絶やグロッキーで終わるような、そんな生易しく平和な世界だとは考えられなかったのだ。
しかしどんな理由があるにせよ、彼はもう罪人だ。この世界に来て、いきなり大変な事になってしまった。運が悪かったのだろう。ゼニガメと逸れなければ、こんな事にはならなかったのかもしれない。とにかくもう取り返しがつかない。このまま後悔と罪悪感を引きずっていくしかない。
ヒトカゲとゼニガメは、キャタピーをようやく見つけた。無事にバタフリーの所へ返し、いくらかの報酬を得た。その後、ゼニガメはこんな提案をした。
「僕と救助隊やらない?」
今日のように困っているポケモンを助け、報酬を得て生活していこうと言うのであった。どこにも行く所が無いなら、暫くそうしてようと言った。この誘いを受けたヒトカゲは迷った。
彼が迷う理由が二つあった。一つは、殺した事に対する罪悪感。ポケモンを殺してしまった自分が、ポケモンを助けその報酬で生活する事は、果たして許されるのだろうか。もう一つは、攻撃を喰らう際に痛い事。殺し合う訳では無くても、やっぱりそこそこ痛いのだろう。救助隊をやるのであれば、今日みたいに敵と戦う事になる。もっと強い敵とも、戦うかもしれない。それを考えると、酷く辛かった。彼は出来るだけ、痛くないように生活したいのだ。
だがしかし、ここでゼニガメの誘いを断ってしまったら、これから何をすればいいのか分からない。この世界で最も情弱な彼は、生活していくための手段を知らない。それに、人間に戻れるようになるのは、何時になるか分からない。
「どうする、やる?」
ヒトカゲは頷いた。仕方がない。苦渋の決断だった。
「じゃあ明日から一緒に頑張ろう!」
「分かった。頑張ろう」
彼はポケモンにはなれなかった。結局彼は、人間のままだった。こんな体に変っても、中身までは変わらない。攻撃を喰らう際の痛みに恐れ戦き、自分の身を守るためだけを考える。ポケット”モンスター”として生き方が、彼には全く理解出来ない。いったい何のために、彼らは戦うのだろう。何故彼らは、痛みに臆さないのだろう。文字通り彼らは化け物だ。彼らの思考回路は、彼に分かる訳が無い。
本当に分からないことだらけだ。戦闘は殺しあわない。水鉄砲でダメージを喰らう。自分の中の先入観がまれであてにならない。この世界で最も情弱な自分が、この世界でちゃんと生きていけるだろうか。
彼の不安の鈴は、未だ消えること無く鳴り響く。